越後長尾氏系図
 
オープンアクセス NDLJP:57
 
太祖一代軍記
 

 近藤高忠編集

 

長尾氏は桓武天皇より四代の後胤村岡五郎良兼の末葉なり。

桓武天皇───葛原親王​賜輦車​​──────​​一品式部卿​高見王​無官無位​​──────​​ ​高望​上総介従五位下​​────────​​始賜平姓良兼​上総介​​────​​ ​
                                           │
 ┌─────────────────────────────────────────┘
 │
 └公雅​上総介​​─────​​ ​致頼​左衛門尉​​──────​​ ​┬忠通​鎮守府将軍​​───────​​村岡五郎​┬景成​鎌倉権守​​─────​​ ​景正​鎌倉権五郎​​──────​​御霊明神​
                 │         │               │
                 ├景通​鎌倉権太夫​​     ​​ ​  └為通​三浦祖​​     ​​ ​        │
                 │         ┌───────────────┘
                 │         │
                 └景村​鎌倉四郎​​─────​​ ​┐ └景経​権八郎​​─────​​ ​┬景忠​大庭太郎​​─────​​ ​
                         │         │       │
オープンアクセス NDLJP:58 ┌───────────────────────┘         └景長┐    │
 │                                 ┌──┘    │
 └景明​太郎​​───​​ ​┬景宗​大庭権守​​    ​​ ​ ┌為景​長尾新五郎​​     ​​ ​            └景清​梶原五郎​​    ​​ ​ │
       │       │                   ┌───────┘
       └景弘─────┴定景​長尾新六​​─────​​ ​┬景基​長尾新左​​     ​​衛門尉​    ├景義​徳島平権守​​     ​​ ​
                       │           │
 ┌─────────────────────┘           ├景親​大庭三郎​​     ​​ ​
 │                                 │
 ├景茂​平内左衛門​​     ​​ ​      上杉家説曰、尊氏外戚上杉越前守頼成子四人也。以三男藤明・四男藤景長尾氏左衛門尉藤明・長尾兵庫頭藤景是也。   ├景久​股野五郎​​     ​​ ​
 │                                 │
 ├胤景​次郎左衛門​​──────​​ ​基景​長尾次郎兵衛尉​​────────​​ ​藤明​長尾左衛門尉​​─────────​​実上杉越前守頼成子​┐   └景時​梶原平三​​     ​​ ​
 │                             │
 ├光景​三郎左衛門​​     ​​ ​  ┌───────────────────┘
 │         │
 └為景​次郎兵衛​​     ​​ ​  └景忠​軍功見太平記。上杉氏成弟。長尾左衛門尉。法名教阿弥。此人長尾​​─────────────────────────────​​藤明子。為上杉民部大輔憲顕旗本、初称家人。​
           ┌───────────────────────────────┘
           │
           └景仲​長尾弾正左衛門。法名春阿弥。為上杉​​─────────────────────────────​​代官越後府内数年帰関東。​
 ┌─────────────────────────────────────────┘
 │
 ├景雄​信濃守。一説云景雄は​​───────────​​長尾高景子なり。​景広 帯刀左衛門尉。一説云、景広は頼景父なりと。
 │
 ├高景​長尾筑前守。長男中興名将忠功​​────────────​​義節達大明。法名魯山。​─────┬邦景長尾上野守。法名徳岩性景。越後三条祖。
 │                   │
 └豊景教公以赤達之輿故豊景副上杉憲実法方而長尾因幡守於結城戦場軍功多其時公方義攻結城々検春王泰王天子叡感賜綸旨  └頼景​関東陣軍功允多。大明元年己丑九月朔日卒八十歳。​​───────────────────​​長尾左衛門尉信濃守。法名意徳院通窓存永。​
 ┌─────────────────────────────────────────┘
 │
 └重景​長尾信濃守。軍功人。応仁元年丁亥十月廿五日​​──────────────────​​卒五十八歳。法名林泉寺実渓正真。​能景​長尾信濃守。於関東陣軍功尤多。法名天徳院高​​───────────────────​​岳正統。明応七年戊午九月十九日卒四十八歳。​
 ┌─────────────────────────────────────────┘
 │
 ├為景​長尾六郎。信濃守。天文七年四月十一日於越中国千壇野​──────────────────────​​討死。法名大龍寺紋竹庵主譲恕道七。​──┬晴景 長尾弥六郎。弾正左衛門尉。童名道一丸。天文十六年四月十七日於後国府内自害。行年四十五。
 │                          │
 └為重​長尾新三郎。​​─────​​越後長岡城主​景速​長尾小平次弾正忠。法名謙忠。上州既橋​​───────────────​​城主。永禄五年五月十日為謙信誅​┐ ├景康 天文十二年三月十三日、於府内黒田和泉守秀忠弑。歳三十六、童名笑干代。
 ┌────────────────────────┘ │
 └景孝​長尾新二郎。​​      ​​ ​                  ├女子四人 一人上杉定実室。一人加持安芸守春綱室。一人長尾政景室。一人高梨政頼室
                            │
                            ├景房童名猿千代。長尾左平次。兄景康。同時生害十八歳。
                            │
                            └輝虎関東管領。童名虎千代。初景虎・政虎。上杉弾正大弼従五位下。天正六年三月十三日逝、四十九歳。不識院心光謙信。

○太祖謙信公は、長尾信濃守為景八番目の御子なり。後奈良院享禄三年庚寅正月廿一日、府内城にて誕生。初め御母儀受胎の砌、夢幻ともなく、八尺計りの男、金色の甲冑を帯し、戟を杖き、光明赫奕たる珠を持ち、我は是れ毘沙門天王なり。此珠は明星なりとて、母儀の懐にオープンアクセス NDLJP:59抛入れ給ふと見て懐妊あり。十箇月の中、様々の奇瑞多し。占に甚だ吉なり、本卦は天沢屐の六三に当る。其文曰、履虎尾咥入凶也、武人成大君。此故に幼名虎千代と号す。

○天文五年丙申正月、太祖七歳、春日山林泉寺天宝和尚の許にて、文芸を学び給ふ。始めの程は、蛍雪のつとめを専とし給ひしが、天性勇猛にして、竹林を裁つて武器となし、明暮軍事の勝負を決す。老士之を見るに、軍配自然と規に叶ふ。後は大功をなすべきの量と、一国の沙汰に及ぶ。和尚も、出家遂ぐべき人にあらずとて、父為景の方へ返さる。為景、命に随はざるの旨を憤りて、切諫し給ふ。其歳秋八月元服。長尾平三景虎と号す。

○天文六年丁酉、八歳、景虎勇猛にして、兄三人を凌ぐにより、折節下越後の領主加地安芸守春綱に、実子なき故、景虎を養子と定む。景虎に、此家督を継ぐべき旨、為景直に申聞けらるれども、景虎会て悦ばず、領掌なかりければ、為景怒りて、屋形定実へ訟へて、諸老と談じ、景虎を下越後へ追下す。府内を出で、米山を越す。傅の金津新兵衛を始め、四五人の供なり。此米山は、上り四里下り四里、峠に薬師堂あり。米山寺といふ。此堂より見下せぼ、越後国中目の下に見ゆ。此堂の縁に休み居て、景虎にも樏子わりごを進む。景虎八歳なれども、歳頃よりは少し。堂の縁を遊び廻りて、金津新兵衛に向つて、此度の無念を晴らし、本望を達せば、此山能き陣所なれば、此筋にて合戦すべし。頸城・古志・府内の城を、目の下に見下し、能き陣場なりと宣ふ。新兵衛感涙を流し、其辞忘れ給ふな、頼もしく候と悦ぶ。果して十一年目、天文十六年丁未五月、兄晴景と一戦、大利を得られ、越後を切取られ候時、此米山、合戦場なり。

○天文七年戊戌、九歳、文亀年中、胎田常陸介といふ者、代々越前の住人たりしが、朝倉英林勘気を受け、越後へ来り、為景に奉公。其嫡子久三郎・次男久五郎も、為景召仕ふ。兄久三郎、容貌美麗なるにより、為景小性にして寵愛す。父常陸介は、三条の内にて所領を与へ、兄久三郎は五十嵐の闕所、弟久五郎には、頸城郡の内を宛行ひて、威勢尤も甚し。越後の名家黒田長門守・金津外記、去る永正六年九月、猿馬場合戦に忠死して、家督なきにより、彼寵愛の胎田久三郎を、黒田長門守が遺跡とし、黒田和泉守秀忠と改め、本領八千貫の上に、黒田が領を加へ給ふ。弟久五郎をば、金津外記が遺跡とし、金津伊豆守と号す、本領三千貫に、金津の保を加へ給はる。両人、為景に出頭して、我意を振ひ、剰へ為景越中退治の費に乗つて、逆心を発し、却て為景を攻む。此時神保良衡・江波五郎・松岡等八千にて、千壇野といふ原に、陥穽をオープンアクセス NDLJP:60数箇所構へ、其上に芝を伏せ待懸くる。四月十一日、為景之をば知らず、乗り立てゝ懸りけるに、越後方陥穽に落入るを、神保方切懸り、遂に為景を討取る。

為景二八の頃、父能景に随ひ、始めて関東へ出陣。信濃・越後・越中に於て戦功多し。積年の戦功に依つて、天文四年六月十三日、後奈良院、綸旨並に御旗を賜はる。凡そ為景一生の間、百余度の戦と云々。此時の旗、今に至つて、上杉家の重宝として相伝ふ。為景にも、歌人にて一巻を奏覧す。其中に、

 蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙なくなり

此一首、叡感ありしと云々。

○天文十一年壬寅十三歳、為景嫡子道一丸は、弥六郎定景と号す。今年三十三歳になりしが、公方万松院義晴公の一字を申請け晴景と号す。五年、為景討死。晴景家督を継ぐ。然れ共、長尾平六俊景、三条に籠城し、逆心を発し、定実の命に随はず。天文十一年春、平六旗を挙げ、定実より晴景を大将にて、平六を退治せしむ。時に為景の出頭人胎田常陸介・嫡子黒田和泉守・次男金津伊豆守、俄に逆心し、府内の城へ攻入る。晴景叶はず、頸城郡へ引退く。黒田和泉守、本丸へ攻入り、為景の次男平蔵景康を、和泉自身切臥せ、左平次景房、返し合せ戦死す。其間に喜平次景虎をば、二の丸番士小島勘左衛門・山岸大助居合せ、板敷の下に隠し、夜に入り、春日山林泉寺へ落し奉る。黒田・金津之を知らず、橡尾の浄安寺の僧門察和尚同道にて、橡尾の本庄美作守慶秀が許に隠居る。琵琶島城主宇佐美駿河守定行を引付け、定行、景虎の識量を感じて、甥の宇佐美藤内行孝を人質として、起請文を添へ、景虎に献り、是より無二の味方となる。又景虎は、駿河守を、軍道の師と仰ぎ給ふ。さて逆徒長尾・黒田・金津は、景康・景房をば討果しけるが、晴景・景虎を打洩らしけるに、晴景は、定実と牒じ合せ、府内へ帰住あり。景虎は行方知らずなりしが、慶秀方に匿し、定行と倶に謀を運らす由、長井牢人茶売又七といふ商人、訴へに出づ。逆徒等評定していふ、晴景は、四十歳に近けれども、病者といひ其性愚にして、物の用に立つべからず。只幼少にても、後の禍となるべきは景虎なり。殊に本庄は謀深し。宇佐美は勇猛世に超え、彼等が一味せし上は、以の外大事なりとて、様々籌を運らしけるとなり。

○天文十二年癸卯十四歳、此年の春、益翁といふ廻国の僧と伴ひ、本庄美作守が館を忍び出オープンアクセス NDLJP:61で、廻国修行と称し、先づ府内に到り、兄晴景に密に対面し、之をめて曰く、御父為景、千壇野にて討死。越中は父の仇の国なり。倶に天を戴くべからず。国中黒田和泉守は、舎弟二人の仇なり。何ぞ之を誅せざるや。然るに為景討死より、今年まで六箇年、景康・景房生害より両年に至りて、義兵を挙げて、先考為景並に舎弟二人の仇を報ぜんとも思ひ給はず、御歳四十一歳にて、安然と年月を送り給ふ事、甚だ不覚なり。先づ国中、黒田・金津・胎田を討平げ、夫より越中へ攻め入り、父の御弔合戦あるべき旨、申達せられ、夫より景虎は、越中へ入り、父の討死の場所千壇野の古戦場の迹に到り落涙し、念仏読経終りて、頓て大軍にて、当国へ攻め入り、怨敵を打平げ、亡魂を安んじ奉るべき旨、心中に約諾し、加賀・能登・越前迄打廻り、大軍を引率して、働くべき道筋、人の凡俗、城郭の険易、山川・林叢・野原・里村を絵図に記し、甲斐・信濃・奥州・出羽まで打廻り、十月末に、橡尾に帰り給ふ。巡見の様子、委しく語り給へば、慶秀弥〻是を感じ、此人は、名を天下に発する良将となり給はんとて、感悦浅からざりしとなり。

○天文十三年甲辰、十五歳正月廿三日、長尾平六・黒田和泉・金津伊豆大将にて、一万二千にて橡尾へ攻め来る。大手へは、長尾平六七千にて向ひ、搦手へは黒田和泉六千にて向ひ、一戦に安否を決せんとす。大手口は晴景にて、平六を防がれ、搦手は景虎にて、黒田が勢を防がる。已に黒田が勢、蔵王堂の前より、鉦・太鼓を打つて、川を渡らんとす。本庄・宇佐美軍士を出して、安否を一戦に決せんと下知す。景虎是を聞き給ひ、各〻老功の勇士たりと雖も、未だ武術に達せざるか、兵士を出す時節に非ず。暫く敵の盛気をたゆませて、突いて出づべしとあり。本庄・宇佐美あざ笑ふ気色ありて、景虎の聡明、世に逾えたりと雖も、歳未だ十五歳なれば、敵の猛勢を見て、臆し給ふかと思ふ体、顔色に浮ぶ。景虎見て大に憤り怒りければ、慶秀・定行是に随ふ。果して敵の旗色変り乱る。景虎団扇を執りて、兵士を指揮さしまねき、之れ一戦の時なり、早々進めと下知せらる。本庄・宇佐美急度見て、士卒を勇め、先登に進んで、一文字に突いて懸かる。敵軍半ば川にあり、半ばは渡る、半ばは未だ渡らず。城方の軍兵勇み進んで之を撃つ。厳寒に川を渡り、手足凍え、一戦に及ばず、悉く敗軍す。慶秀・定行是に利を得、追駈けつゝ、屈強の兵共数百人討取り、川を渡り、上りたる先陣、残り少く討れしかば、川向の同勢総敗軍になりて、三条へ引退く。本庄美作・宇佐美駿河を始め、諸軍勢に至るまで、オープンアクセス NDLJP:62景虎の下知の宜しき事を感ず、時に纔に十五歳。老功の本庄・宇佐美が下知を用ひずして、自身軍議を廻らし、目前の大敵を易々と討取り、勝利を得られ、搦手の敵悉く敗北す。大手は平六俊景を大将にて、風間・五十嵐・八条等七千余にて、晴景の先手大熊備前守朝秀・庄新左衛門尉実為と、挑み戦ひて見えし所へ、景虎軍兵を左右に随へ、真黒に押向けらるゝに依つて、寄手の大敵、引色になり戦ひ、数刻に及びて、敵大に敗北す。平六も勢尽きて討死す。宇佐美駿河守家人塚田加右衛門といふ者、平六が首を取る。晴景・景虎、此一戦に大利を得、合戦の始絡、軍忠の輩、委細に記して、府内へ註進申さる。屋形上杉兵庫頭定実大に悦び、忠功の面面に、感状を給はりける。此年四月廿日に、後奈良院より、御宸筆の心経を、越府に賜はる。是は国中の乱、静謐御祈念の為なり。勅使勧修寺大納言尚顕入道来府。十月に、上杉定実の下知にて、晴景・景虎諸臣と僉議して、忠功の輩に賞禄を給ふ。安田治部少輔順易に堀越・金沢の保両所、本庄美作守慶秀に橡尾領、宇佐美駿河守定満に監沢、松山家其外諸士何れも、恩賞莫大なり。

○天文十四年乙巳十六歳、此春国中逆徒黒田和泉守金津伊豆守・野本大膳・篠塚伊賀守・同宗左衛門等を退治の為め、群臣相議して、神余越前守昌綱を京都に遣はし、国中逆臣退治仕るべきの旨、綸旨を賜はる。九月廿九日の宣命なり。広橋大納言兼秀の執奏なり。権中納言国光勅を承りて、兼秀卿に宣命を伝ふ。

敵追罰悉被聞食了。早可所存旨、可知平晴景者。依天気言上如件。国光誠恐謹言。

  天文十四年九月廿七日 権中納言奉

    進上 新大納言殿

広橋大納言兼秀卿も、綸旨相添へて書を贈らる。

私敵治罰綸旨之事所望之由候条、申調進入之候。弥〻可本意次第候。猶家頼可申候也謹言。

  九月廿九日 兼秀

    長尾弥六郎殿

此綸旨添状を写し、国中へ触れられける。

オープンアクセス NDLJP:63○天文十五年丙午、十七歳、秋九月六日、柿崎弥次郎回忠にて、屋形定実へ降参し、胎田将監を討取り、頸城郡荒井・針村・猿毛・米山・町田・笠島・山東郡迄、大半切取り、晴景・景虎に力を併す。此時に胎田常陸介は、三条を根城とし、黒田和泉守は、七千にて上田へ発向し、長尾越前守房景と対陣し、金津伊豆守は一万にて橡尾へ差向ひて、景虎と対陣す。然れども景虎天性の英雄にて、毎度金津打負け、黒滝城に引籠り、城外へ出づる事能はざるなり。逆徒等、景虎を恐るゝ事虎の如し。国中の味方の兵共・民百姓迄も、景虎を尊敬する事、日々に増れり。兄晴景四十四歳なれども、何の軍功なく、昼夜女色に溺れ、殊に多病にして、国家を治むべき器量にあらず。政道皆逆にして、国中疎み恨む。屋形上杉定実も、心を景虎に寄せ、廃立の気顕れたる故、上下弥〻景虎を尊む。

○天文十六年丁未、十八歳、景虎自然と英雄にして、仁徳備はり、世人普く随ひ靡く。願は晴景を廃し、景虎に家督を継がしめ、長尾の家を中興せん。嘗て聞く、世治る時は嫡長を先にし、世乱るゝ時は功あるを先とすと、已に大義を行はんと、僉議する程に、其説晴景に聞え、景虎を退治せんと軍兵を召集む。此事橡尾に聞え、景虎落涙し、父為景は悪逆に行のて、主君顕定・房能を弑し奉り、其報にて其身越中にて討死。子供二人は、寵臣黒田和泉守が為に亡ぼされ、汚名を末代に伝へん事心憂しに、我れ亦兄晴景に向つて弓矢を取らん事、末世の恥辱之に過ぎず。所詮出家隠通の身とならんと申されけるを、宇佐美古き例を以て、大に諫め何の憚る所かあらんとて、本庄と評定し、橡尾の城郭を堅固に拵へ、旗を揚げられけり。已に兄晴景と不和に付、国中三つに破る。〈請景方、景虎方、金津黒田方。〉動乱弥〻甚し。晴景先づ五千余を指向けて、橡尾城へ取詰むる。其夜に入り、景虎曰く、寄手は今夜引取るべし、其除口を追討たんといふ。宇佐美駿河守定行、聞いて堅く諫止めて、勿体なしといふ。景虎、用ひずして、夜半に人数を出す所に、案の如く、寄手は大半引取り、其除口へ追懸ける故、寄手総敗軍し、景虎は、直に府内勢を追立て、攻上るに付、定行も本庄慶秀・大熊庄・金津も、皆継で出で、追討にして、大利を得たり。皆々景虎に向ひて、府内勢の、其夜引取るべしと積りたるは、如何なる事にて候と尋ねければ、昼より矢倉に上りて寄手を見るに、軍兵のみにて、小荷駄・兵糧の続きなし。今夜必定引取るべしと積りたりと宣ひければ、宇佐美を始め、皆舌を慄ひて感じける。晴景、又一万余を卒して、米山を逾えて柿崎の下浜に陣取る。景虎は六千余にて、下浜に押オープンアクセス NDLJP:64寄する。城織部正資瓶〈後信玄に仕へ意安斎を号す。〉・吉江織部・鬼小島弥太郎先登に進み、槍を合す。本庄美作は三千余、山手を廻り切つて懸る。景虎旗本にて、浜手波打涯を廻し、晴景の左備を切崩し、逃ぐるを逐ひて進まれけるを、宇佐美駿河守定行、団扇を振つて二千余、晴景の段々に備へたる中筋へ切つて懸り切崩しゝかば、府内勢一万余、総敗軍となり、米山かゝりに、府内指して敗軍なり。景虎・定行・慶秀勝に乗つて、米山坂下迄打詰めたる時、景虎は人数を押止め、殊外草臥れたり。少時寝て休息せんとて、小家に入りて休まれける時、宇佐美駿河守馳せ来り、此勝利の勢を抜かさず、米山を打越え候はゞ、頸城へ打出で、府内を乗取らん事、破竹の勢失ふべからず。早々打立たんと意見すれども、景虎は冑を枕にして、高放射して臥し申され候故、皆々了簡もなし、運の極りなりと悔む。さて晴景の人数三分二程、米山峠を越すと思ふ時分に、景虎起上り、早貝を吹かせ急に打立て、米山寺に著きければ、晴景峠より下りに赴きたると聞き、嵩より鬨を挙げ切つて懸りしに、府内の勢は、米山坂下より、景虎追上り候はゞ、坂中にて引返し、嵩より追返さんと巧みしに、思の外坂下より、景虎勢慕はざりしかば、上下心を安んじて、心静に米山を登り越え、下り坂に赴きしに、峠より景虎急に追来りしかば、府内勢遽に騒いで、人馬弥が上に崩懸りける。此山中に、亀破坂といふ大切所あり。数千丈の発にて、下は漫々たる大海なり。北国に隠れなき切所なるに、府内勢追立られ、彼磯より海に落つる人馬、数を知らず。晴景も漸くに落ち遁げて、府内勢と共に城へ取籠りけるを、宇佐美定行・本庄慶秀追詰めて、府内城を取囲みしかば、晴景叶はずして、其歳四十五にて切腹なり。屋形上杉定実も、元来景虎と内通故、事故無く静謐す。然れども景虎は、長尾の家督を辞して、政務を定実に任せ、其身は橡尾に引籠り、下郡の黒田・金津退治の行のみなり。

○天文十七年戊申、十九歳、景虎橡尾にありて、黒滝・新山・三条へ度々発向、合戦度々に及ぶ。毎度本庄美作守慶秀・宇佐美駿河守定行、粉骨軍忠勝げて計ふべからず。柿崎和泉守景家・新津彦次郎・直江神五郎実網・本庄弥次郎繁長・新発田尾張守長敦・大熊備前守朝秀斎藤下野守朝綱・竹股参河守春朝等、軍功甚だ多く、就中青木城主山村右京亮繁信、軍功勝れたるにより、八月十五日に、屋形定実へ景虎申上ぐ。軍忠の輩に加恩あり。殊に山村右京には、上郡新井・留田・三省・箱井を給はる。

此山村先祖は、累世久しく越後にあり。先祖正信は、元徳元年に生れ、勇力人に超えたり。オープンアクセス NDLJP:65常に思ひけるは、武士の具は太刀に如くはなし。斯様の重宝、自身造作せずんばあるべからずとて、延文年中に、信国を京都より召下し、師匠とし、刀を鍛ひて信国と銘す。其子孫五代迄続きて、刀を打つ故に、今に至りて、世に山村信国と号し、無類なる大業者なり。

○天文十八年己酉、二十歳、五月に屋形定実は、下郡の軍兵に命じて、景虎並に本庄弥次郎繁長・宇佐美駿河守定行等と評定し、五月七日に、菅名・安田両城を攻め取り、同十日に、村松の要害を攻め落す。初より差向けらるゝ諸将、皆若武者なる故に、此度は新発田尾張守長敦を大将として、菅名・村松・安田の要害を攻め取り、野本大膳・篠塚宗左衛門を討取り、下郡の通路自由となる。此度村松にて、小越平左衛門尉軍忠あるにより、定実より感状を給はる。逆心黒田・金津が武威日を追ひて衰へ、漸く働き出づる事叶はず、唯残党を集め、新山・黒滝の二城に楯籠る。其秋、定実は直江入道酒椿・只見次郎左衛門・大熊備前守・庄新左衛門を使にして、橡尾へ遣し、景虎を召して、長尾の家督に立てん事を仰遣さる。諸臣兼ねて願ふ所、是れ仏神三宝の加護、長尾再興の時到りぬと是を悦び、一同に然るべき旨を相議し、一決し、時日を移さず橡尾に到り、景虎へ申渡しけるに、景虎中々許容なし。予若輩にして、国家の器に応ぜず。中々御請に及ばざる旨返答ありけるを、定実より再三の請待あり。諸人も頻に諫め勧めければ、景虎も辞する所なく、さ候はゞ、御旗を預り、国中の逆徒を退治し、国家の政務に於ては、巨細に依らず、屋形の御下知を受け、是を勤むべき旨領掌し、八月に府内に参著し、定実の前にて景虎、長尾の家督になり給ふ。是より諸士皆景虎に随順す。

○天文十九年庚戌、廿一歳、国中の諸士年頭の祝儀を申上げ、礼法尤も厳なり。二月朔日に、景虎府内を御立ち、古志郡へ出馬、三条城を攻め落す。逆臣胎田常陸介を誅し、其外長尾平六が余党、黒田和泉が一門等三千余を討取り給ふ。黒田和泉守秀忠は、力を落し、新山城を保つて纔に残りける。金津伊豆守は黒滝に引籠る。直ちに是を攻めらるべき所に、屋形上杉兵庫頭定実、御病気に付、景虎帰府。二月廿六日に逝去。永徳院殿天中玄清大居士と号す。景虎の姉壻といひ代々の主君なれば、景虎愁傷し、国中の驚歎少からず。実定子なし。舎弟二人あり。上条山城守景義・其弟惣五郎頼房なり。景義家督、後に少胤入道といふ。実子無きにより、後に謙信下知にて、畠山弥五郎義春を養子とし、上条殿といふ。則ち畠山入庵是なり。景虎、定実の逝去より、威勢日々に盛なり。軍功天下に隠れなかりし故、同年四月十オープンアクセス NDLJP:66七日申の刻に、京都より将軍義藤公御内書。越後府内へ到著す。景虎軍功上聞に達し、白き傘袋・毛氈の鞍覆を免許し給ふ。其節大覚寺御門主義俊僧正の御書、並に大館左衛門佐晴光書札あり。景虎の威光弥〻増しゝかば、管領上杉兵部大輔憲政も、景虎へ懇誠浅からず。七月に景虎橡尾常安寺建立、門察尚和を開山とす。寺領数箇所寄附す。此節、江州屋形佐々木六角弾正少弼定頼より、太刀一腰・矛鷹一居贈進。景虎より、兼定の刀鞍覆を贈答。

○天文二十年辛亥、廿二歳、正月朔日に、景虎の部将高梨源三郎貞頼、手勢を以て新山の城を攻め取り、逆心黒田和泉守秀忠を誅戮、残党二千余人打果す。 〈是は城中の武藤・山田・宮川と、高梨が郎等妻我孫兵衛・吉原大炊・伊藤七左衛門を親類たるに依りて、彼等廻忠にて引入となり。〉此和泉守は、為景寵愛の小性立にて、大身に取立つる所に、為景討死の後逆心し、為景次男平蔵景康・三男左平次景房を殺し、十年以来逆威を振ひたる故に、景虎、和泉が頸を実検し、甚だ感悦して、高梨に感状を給はる。同五月廿六日、宇佐美駿河守定行三千にて黒滝城を攻落し、逆心金津伊豆守を討取る。爰に至りて国中初て一統す。新山・黒滝落城せしかば、本庄美作守慶秀・宇佐美駿河守定行を始めとして、軍功の諸士に新恩の所領を給はる。去年より上田の領主長尾越前守房景・同五郎政景父子、景虎に対し逆意の風聞あるに付き、景虎、上田へ出張あるべき旨、陣触あり。雪村消えせば、打立つべき由下知ありしに、此春に至りて、房景・政景、頻に陳謝ある故、出張を止められけるに、同七月迄、出仕もなかりしかば、上田の隠謀疑なしとて、七月廿三日に、上田退治の陣触ありて、八月朔日に、景虎発向に極りけるに、房景・政景大に恐懼して、重ねて起請文を調へ、詫言あるにより、景虎和睦ありて、景虎の姉君を政景へ嫁し、婚姻を結ばれ、是にて静謚す。

○天文廿一年壬子、廿三歳、景虎は、上田の長尾越前守政景へ書札を残し、髪をり、謙信と名を改め、出家隠遁の為め、高野山へと志し、府内城を出で、関の山・妙高山迄出らる政景を始め、一家諸士大に驚き、相伴に景虎を追懸け、関の山にて引留め、様々諫め、意見して、漸く許容して曰く、我已に隠遁に極たりと雖も、面々の意見に随ひ、遁世を思ひ止り、永く国家を安ぜんと存ず。此儀若し違背の心あらば、日本大小の神祇の御罰を蒙るべしと、自ら起請を書きて、政景へ渡されける。政景を始め、国衆も家来も安堵の思をなし、列座一同に、喜悦の眉を開きけるに、景虎は、各〻の懇望に付、出家遁世の志を思止り、誓約をなし候上は、以来共に又、我が下知を平くまじくと、何れも起請文を書き候へとありしかば、政景を始め、国衆以オープンアクセス NDLJP:67下も一同に甘心し、一紙連判の誓紙を書き、弥〻忠心義志を変ずべからずと、約諾ありしかば、景虎も関の山より、府内へ帰城せられける。扨て国中の諸臣、人質・証人を奉る。同五月に、景虎弾正少弼従五位下に任じ給ふ。則ち御礼として、神余隼人佐を差上せ、禁裏へも、御劒・黄金・巻絹献上あり。将軍家へは、御太刀一腰〈長光〉・御馬一匹〈瓦毛〉・蒼鷹一連・青銅二千疋進上あり。将軍義藤公よりは、御内書並に備前国宗の太刀を下さる。遂に越後の国主に定まりける。扨前方不義ありし輩、又は野心がましく頭をあげる大身の者共十六人、林泉寺にて切腹申付けらる。〈其所を今に至りて生害谷といふ。〉然れども、起請文の上に証人ある故に、余人誰とても一言を申す者なし。夫より景虎の威勢、日々に重くなり、国中忽ち静謐す。七月、管領上杉憲政の召により、越後勢三千にて、関東発向。宇佐美駿河守定行大将にて、武州滝山城を攻め落し、大将遠山甲斐守を始め、千余討果しければ、憲政より宇佐美に、感状を給はりける。

○天文廿二年癸丑、廿四歳、閏二月、景虎上洛。

伝云、此時公方義輝公宣ふは、景虎は、若年より弓箭を取りて、其武名世に知らざる者なし。折節土佐の長曽我部元親が献上せし猛き猿あり。世に稀なる猛獣にて、檻に入れ、鉄を以て檻を包みたり。景虎出仕の砌、是を檻より出し、路次に縛ぎ置き、景虎が勇を試みんとあり。此猿、行路人を見ては、必ず牙を鳴らして躍上り、叫声凄じき事なり。此猿を以て景虎を試し給ふべき事、洛中に聞えければ、世の人皆、景虎出仕の日を待ちて見物す。景虎は、洛中に間謀を置きければ、此事早く聞付け、近習の士鬼小島弥太郎といふ大力の兵に下知して、順礼の形に変へさせ、猿の餌食を持たせ、彼檻の涯へ遣すに、鬼小島、往来の人に交り、番所に近付き、番士に語寄り、件の猿に近付くに、鬼小島を見付けて、牙を鳴らし喚き叫ぶ所を、鬼小島餌食を出し、是を与ふに猿悦んで、是を食ふ事三度にて、猿事の外静まりける時、又餌食を檻の外に置く所に、猿見て、格子より手を出し、食を取らんとす。鬼小島は、無双の大力にて、去年越府往下の橋を修理せしに、三十人持の大木を、軽々と挙げたる故、世の人鬼小島といふ。此の如くの大力故、猿の手をむずと捕へ、格子の角木に押当てゝ、しばしが程擦付けけるに、大力に痛められ、猿は涙を流し苦悩す。鬼小島は手を放さず、半時計り痛めたるに、猿弱りて、地に臥して啼く。其時鬼小島は、旅宿に還る。翌日、景虎出仕の時、鬼小島側に供する。洛中の貴賤、景虎が猿に逢ひたる剛臆を見んとて群聚す。公方家の諸士も、景虎出仕オープンアクセス NDLJP:68の体、又は猿の有様見んとて、皆々伺候す。景虎は、猿の前を徐々と通るに、猿は鬼小島を見知りて、恐怖したる有様にて、地に臥したり。鬼小島は、猿を睨んで通りけるに、猿頭を垂れて平伏す。公方も管領も三好一門も、奇特の思ひをなし、御前首尾よく退出し帰られけるに、公方を始め奉り、細川右京大夫氏綱・三好筑前守長慶以下も、景虎は、若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀をば知るべからずと思ひしに、出仕の体、神妙なりと称美ありと云々。則ち公方義藤将軍家へ御目見え、御太刀・御馬・越後瀑布・黄金・小袖等進上あり。夫より勅命に依つて、景虎参内。昇殿を許され、玉顔を拝謁し奉り、天盃を頂戴す。主上忝くも、景虎を懇に馳走沙汰すべき由、勾当内侍叡慮の趣を、広橋権中納言に仰出され、国光承りて、饗応頗る美を尽す。次に禁中残らず拝見ありて退出。日を経て、又綸旨を下され、広橋大納言是を伝ふ。

平景虎、於住国並隣国、挟敵心輩、所治罰〈[#底本では直前の返り点「一」なし]〉。伝威名子孫、施勇徳万代、弥〻決勝於千里。宣、尽忠於一期之由、可知景虎者、依天気言上如件。

  四月十二日 権中納言奉

    進上広橋大納言殿

京都首尾よく相勤め、五月に至りて、景虎帰国。同六月廿八日に、使者を比叡山の執行東谷の正覚坊重盛法印の許に遣し、黄金数百枚を贈り、山門・講堂造営を致さる。是は当春、景虎在京の時分、先住道空法印に対面し、講堂破壊に付、修理復致すべき旨、約諾あるに依りてなり。同年の秋の初め、景虎と甲州武田晴信入道信玄と、弓矢の取合起る。是は累年、信州へ出馬し、過半手に入れ、既に彼国一遍に随はんとの企に付、村上左衛門佐義清・井上九郎光員・高梨摂津守政頼・須田相模守親満・島津左京進規久〈後月下斎と号し、歌人なり〉・栗田淡路守国時等、隣国の好を以て、強ひて景虎へ加勢を乞ふ。就中高梨政頼、父政盛以来縁者たるにより、見除なり難くして、此の如く十一月廿八日に、信玄と、信州川中島下米宮大合戦。信玄敗軍、甲州勢を討取る事八千余なり。此年の春、能登屋形畠山義則より和談。舎弟弥五郎義春を謙信へ証人に差越さるゝなり。

○天文廿三年甲寅、廿五歳、此春管領上杉憲政より、自筆の書到来。上杉氏並に管領職を譲るべき旨、懇切の望にて、父子の約あり。憲政の一字を贈らる。景虎、此頃より政虎と号す。此秋八月十八日に、武田信玄と川中島にて大合戦。信玄と政虎と直の太刀打、信玄を二太刀オープンアクセス NDLJP:69斬付け、信玄舎弟武田典厩信繁を、政虎直に討取り、甲州方を三千余討取る。上杉方にては、高梨源五郎頼治討死。今年二月十二日、公方義藤公一字を改め、義輝と号す。

○弘治元年乙卯、廿六歳、三月、政虎八千にて、関の山越えて信州へ出馬。旭の城に向ひて、向城新地を取立て之を攻む。信玄二万余にて出張。然れども、要害に陣して兵を出さず。駿河今川義元扱にて、無事の議あり。信玄より、誓詞並に条数を以て、懇に申越され、其上今川義元より、岡部五郎兵衛尉令綱を使者として、越後の陣所へ来るに付、政虎水引ありて、旭の城破却し帰陣。然る処に、信玄表裏ありて、越後の村山美作守を語らひ引付くる。此事顕れて、府内にて村山美作守誅伐。信玄の書状尽く露顕に付、越・甲の和議破れて、又取合起る。

○弘治二年丙辰、廿七歳、三月廿日に、政虎一万五千にて、川中島にて武田信玄と対陣。同廿五夜に、政虎夜合戦に取懸り、信玄敗軍。板垣駿河守・小笠原若狭守・一条六郎を始め数百人討取る。翌廿六日迄合戦、都合七度なり。信玄退散、政虎帰陣。〈此合戦記別録にあり。〉

○弘治三年丁巳、廿八歳、三月に政虎所存ありて、政虎を改め、復た景虎と称す。四月に信州高井郡出馬。五月十日、小菅山元隆寺へ参詣。五月下旬に、上郡にて武田信玄と対陣。 〈此時の記録別にあり。〉互にてだてありと雖も合戦なく、両方帰陣。八月廿三日に景虎、又川中島へ出張。同廿六日に、上野原にて合戦、両方数百討死。同廿七日に両方帰陣。宇佐美駿河守・南雲治郎左衛門・安田掃部、其外感状を給はる。今日長尾越前守政景手にて、一番合戦先登たるに依りて、自分の感状を、下平弥七郎・大橋弥次郎を始め、十余人に之を出す。

○永禄元年戊午、廿九歳、三月、景虎越中へ出陣。富山・増山・放生津・太船辺放火。神保安芸守長衡、宮崎江波を攻められ、数百討取らる。越中衆皆々居城へ引籠るに付、耕作麦田を刈り、在々里村を放火して、五月帰陣。九月、公方義輝公より御内書来府。越・甲和睦仕るべき旨仰下さる。〈異説〉近衛関白前嗣公、越府へ御下著。当職の執柄他国に居ること、関白始まりてより此度を初とす。同月、関東菅領上杉兵部大輔憲政、累年北条と取合ひ、次第に勢衰へ、其上家臣大方逆心に付、平井城を没落して、越後に来る。景虎馳走大方ならず。館の城に入置き奉る。管領御在城に付、国中御館といふ。憲政、上杉の苗字家伝の紋の旗を譲らると雖も、景虎固辞して受けず。但し本意を達するの後に、其旨に随ふべしとの志なり。十月、景虎二万八千にて越後を打立ち、関東へ発向。上州厩橋・沼田・名和・平井・白井等の諸城を攻め落し、オープンアクセス NDLJP:70北条孫次郎・真田薩摩守が要害を攻め落す。景虎、平井城に在城。極月に越後へ帰陣。

○永禄二年己未、三十歳、四月上旬、景虎上洛。同月廿日に、坂本大津に著ある。廿一日に、公方義輝公より、上使大館左衛門佐輝氏御内書持参。其外三好修理大夫長慶よりも使者進物。同廿七日に、景虎入洛。義輝公に拝謁して、坂本の旅館に帰る。五月朔日に、景虎参内、龍顔拝し奉り、天盃を賜はる。其上に五虎といふ宝劒を下さる。粟田口吉光の作なり。此時、管領職並に網代興、並に輝の一字を、公方より下さると雖も、景虎固辞して受けず。今日参内の刻、近衛関白前嗣公、景虎に懇志浅からざるに依り、夫より無二の交りたりと云々。同六月に至りて、節々公方へ出仕。三好長慶忌み憚る事少なからず。同月、景虎腫物を煩はれ、上使大館輝氏、坂本へ見舞ふ。即ち外科本道の医師数人参向、治療懇切なり。程なく腫物平癒。同廿六日に、上使大館左衛門佐輝氏御内書持参にて、景虎文の裏書、並に塗興朱柄傘御免。屋形号並に輝の字を下さる。斯波・細川・畠山の三管領に准ずと云々。景虎拝受。則ち御礼として入洛。是より景虎を改め、輝虎と号す。其節途中に於て、三好が家来の士と松永弾正少弼久秀が家人、馬上にて行逢ひ、無礼なるにより、輝虎怒りて従士に下知して、即ち討捨て頭を刎ねらる。其近年三好・松永が威勢強く、誰にても対揚する者なかりしに、輝虎斯くの如くの所為にて、貴賤・上下、輝虎を懼るゝ事斜ならず。三好・松永一言をいふこと能はず。七月は、洛外の名所・旧跡・神社・仏閣残りなく見物、禁裏より種々御恩賜。公方より御馳走。八月は、大坂・天王寺・住吉・堺津見物。〈世伝、堺津にて、旅宿の主人草蹈皮をはき、目見に出で、其体無礼なりとて、輝虎、其宿主を手討。堺の人数十人起りて、輝虎旅宿を囲み、輝虎則ち家に火を懸け切って出で、迫散して後、静に帰洛。其火延いて堺津数千軒焼失。〉

九月に、比叡山日吉山王へ参詣。此時、江州守山住人川田九郎左衛門が子岩鶴丸を召抱へらる。後、川田豊前守長親是なり。越中魚津城主となし、六万貫を給はる。其後父九郎左衛門も越後に来り、伊豆守入道禅忠と号す。同十月、輝虎帰国の御暇乞の為め、公方家へ拝謁。密に申上候は、夏の初より、在京にて見及び候に、三好・松永が奢甚だ以て無礼なり。行くは、公方を蔑如にし、若しくは謀叛・逆心仕るべき相有之候間、若し違変の気色見え候はゞ、早々御内書を下さるべく候。早々上洛仕り、三好・松永以下追罰仕るべき旨、御約束申上ぐる。公方家、御悦喜限りなく、密々の御約諾ありて、御手づから藤林国綱の御太刀一腰・玉潤平砂落雁の御掛物を下さる。輝虎頂戴して、洛中を発す。江州屋形六角定頼・越前朝倉孝景等、輝虎を道中にて馳走。同廿六日に越後に帰著。

オープンアクセス NDLJP:71○永禄三年庚申、三十一歳、二月、輝虎、信州野尻に出張。武田信玄、塩崎に陣取り、市村・綱島にて、武田衆と宇佐美駿河守定行一手にて迫合せりあふ。三月初め、輝虎、屋代・土口・下米宮放火し、地蔵峠にかゝり帰陣。五月に輝虎、上州へ出馬。和田城を攻められ候。和田一家の者に、和田喜兵衛幼少の時分、小膳と申し越後へ来り、此者才覚にて、和田城を調議にて取り申すべき旨、煉虎、小性小野伝助を以て申達し候処に、てだて相逢にて、和田城より遁出され候に付、烏川にて、輝虎自分和田喜兵衛を討捨つる。小野伝助も手討。夫より総軍押寄せ、和田城を攻め申候。輝虎自身槍を取申候に付、越後の士共一命を捨て、吾劣らじと稼ぎ申候。甘糟近江守景持・大関阿波守親益・黒金治部丞安則・長井丹後守尚光・松木内匠助・畠山弥五郎義春、槍を合せ、数度の働あり。三の丸迄攻破り、放火して引払ひ、厩橋の城へ馬を入れらる。此時分、長尾政景は武州深谷へ働き、宇佐美駿河守定行は熊谷へ働き迫合之あり。方々放火して、厩橋へ帰る。輝虎は、六月下旬に越後へ帰陣。七月、信玄方栗田淡路守国時と宇佐美造酒助定勝と、信州野尻口にて度々迫合ふ。同十日、牟礼荒町合戦。宇佐美造酒助、打勝ちて栗田を追込め、善光寺へ押入れ、如来を分捕にして帰る。栗田、色々懇望して、八百貫の知行と如来を替へ、再び善光寺に安置す。九月、近衛関白前嗣公、京都より御下著。照高院道澄・知恩寺百万遍上人、同じく来府。当職の執柄皇城を出で、他国に居給ふ事、先例なし。三人共至徳寺に寄宿なり。同月、輝虎二万にて上野国へ発向、石白の泉福寺口にて、北条氏康と一戦。本庄弥次郎繁長、諸手に抽で、手勢を以て一番合戦。北条方大道寺手を突き崩し候。山本寺伊予守為常・同庄蔵孝長・片貝式部丞房忠・大国修理亮為季・鉄上野介安盛五頭にて、北条方左備七段切崩し追討つ。本庄美作守慶秀は、幻庵・福島備を追崩し、宇佐美駿河守定行は、松田・笠原を切崩す。輝虎旗本は、中筋へ懸り、上倉治部丞信綱は、氏康旗本を切崩す故、北条総敗軍二千八百余討死。〈上倉治部、白四半に木賊に月を画きたる旗の事。別巻にあり、〉謙信、此捷軍註進に付、十月に上杉憲政、越後より上州に還り、厩橋本城に居り給ふ。二の丸に、輝虎居住、厩橋にて越年。

○永禄四年辛酉、三十二歳、正月関東諸士厩橋城出仕、年頭の礼あり。同月廿三日、輝虎二万にて、義氏御所古河城を攻め、放火。関宿を攻落し、川越・葛西・岩槻・忍辺を巡見。三月中旬に、相州小田原へ押寄する。此節、輝虎長尾を改めつゝ、初めて上杉と号す。先手は太田美濃守資政入道三楽・小幡参河守憲重・長尾新五郎忠景・由良信濃守義綱・成田下総守長泰等なオープンアクセス NDLJP:72り。輝虎は高麗寺の麓、山下に陣取る。〈此時北条方の忍波多野治部・当麻平四郎を遣して輝虎を狙はしめば、輝虎見付て、波多野を生捕ると雖も、放して追放なり。〉小田原城中四門蓮池迄乱れ入り、城中よりも突いて出で、迫合数度。敵・味方勝負、手負・死人、其数を知らず。輝虎は白布にて頭をつつみ、月毛の馬に乗り、朱采麾〈公方義輝公より拝領〉を執り、乗廻し、下知するに、関東の諸大将、輝虎の猛威に恐れ、且は末を危ぶむ者多し。宇佐美駿河守定行諫めて、輝虎、小田原表を引揚ぐる。新発田尾張守長敦が弟因幡守治長、若年にて、達て申請けて後殿をする。北条氏康、城より出でて跡を慕はれざる故、輝虎事故なく引取る。近衛関白前嗣公を公方と称し、昔、鎌倉御所の召されたる古き小八葉の車を求出し、是に乗せ奉り、輝虎は、管領になりて供奉せらる。上杉の家老小幡・白倉・見田・大石以下を側近く召連れ、宇佐美駿河守定行・柿崎和泉守景家・甘糟近江景持・川田対馬守清永以下譜代の家人、猶ほ其傍を堅むる。小幡参河守憲村には、輝虎是に太刀を持たす。竹股右衛門尉朝綱・色部修理亮長実・石川備後守房明・山吉孫次郎親章・毛利上総介広俊・大関阿波守親益・杉原壱岐守・加地但馬守・松川大隅守・平賀志摩守・鳥山因幡守等、供奉の内なり。此時、鶴ケ岡八幡宮の御前にて、輝虎拝賀ありけるに、千葉介国胤と小山大丞政朝と、家の系図を相論し、座席を争ふ。輝虎捌きて曰く、千葉は関東八州の士の上たるべし、小山は、関東八州の下になすべからずと申渡さるる故、事済みたり。始め社参の砌、成田下総守長泰事、往古の例に任せ、成田の家の作法を立て、総門に馬を立て乗乍ら、輝虎の来らるを待つ。是は先祖式部大輔助高、武蔵の国司にて、幡羅郡に住し、幡羅の大殿といふ。此助高の妹は、河内守頼信の室にて、伊予守頼義の母なり。頼義、貞任・宗任退治の砌、武州を通り、幡羅へ立寄らるゝに、国人皆出迎ふ。助高も頼義迎に出で、途中にて行逢ふ。両方下馬して、対面の先例にて、公方家・管領家へも馬上にて参向し、下馬して礼あり。時に謙信、大に怒り、古の成田助高は、頼義の外戚をぢなれば、互の礼儀にて、馬上にて礼もありつらん。今、我と成田は君臣なり。馬上にて待つ事、不敬無礼なりとて、手廻の勇士三俣式部・鹿島喜兵衛・江口宗八・石野藤蔵に申付け、成田長泰を馬より引落し、打擲するに付、長泰烏帽子を打落され、散々の体なり。成田大に怒りて、一族別府・玉川・奈良・酒巻等千余別心して、鎌倉を引払ひ、忍へ帰る。武州滝山戸倉城主大石源左衛門尉定重入道も逆心故、関東の諸大将過半引払ひ、輝虎に暇乞に及ばず、居城へ引入る。輝虎も甘縄に、北条常陸介綱成籠りたるを攻落さんと、内々存ぜられ候へば、成田・大石逆心故、輝虎二オープンアクセス NDLJP:73万計りにて鎌倉を立ち、上州へ帰られ、太田三楽・長尾政景先陣に打たせ、武州府中へ著き給ふ。六所明神へ参詣あり。忍より成田長泰一族共、二三千余にて打つて出で、輝虎跡を慕ひ、小田原方中条出羽介・毛呂太郎以下、成田に加はりしかば、彼是馳せ加はり、一万五千になり、輝虎の跡を付く。柿崎和泉守景家、小荷駄奉行にて押しけるを切崩し、数百人討取る。柿崎取つて返し、防ぎ戦ひけるを、輝虎下知して、糧米・財宝を引散らし、道々に棄てさせければ、追来る敵軍共、夫を奪合ひて次第に立止りけるを、宇佐美駿河守定行・斎藤下野守朝信両手にて返し合せ、小田原方を追散らし、首数多討取りける。柿崎和泉守も手勢にて返し合せ、忍の成田を追返しける。謙信は府中に馬を立て、近辺を乱妨・追捕し、兵糧莫大に取つて、上州平井へ帰陣なり。則ち木戸監物入道玄斎を大将にて、皿尾といふ所に向城を構へて、成田を攻めらる。数年、合戦止まず。輝虎は、憲政を平井に帰城させ参らせ、四月末に、越後へ帰陣。北条氏康は、輝虎退散して後、武州へ打つて出で、方々へ手遣ひ候。輝虎にすむき候関東の諸大将、皆氏康に附き、平井領へ攻め入るに付、憲政平井を出で、又越後へ没落なり。輝虎は六月朔日、越後を発し、三国が岳を越え援師を通り、相間田に馬を立つる。宇佐美駿河守定行は、後勢を引具し、石白の泉福寺に陣取る。同八日に輝虎陣へ著く。九日に沼田城へ取詰め、十日の夜攻め落す。城主見田蔵人を生捕り申候。北条氏康は、兼ね輝虎出馬の由風聞に候へども、越後より長途といひ、切所なれば、六月末に、輝虎は此表に著陣たるべきと油断の所へ、六月十二日の曙に、吾妻川目の橋といふ所迄は、輝虎人数、旗・指物をしぼり、忍びに駈付け、明六つ半時に、旗・指物を張立て、押懸け申候とて、白井の叢林寺の東西二十箇所焼立て、朝霧の中より紺地日の丸の旗押出し候故、氏康先手、一刃も合せず崩れ申候内に、北条・幻庵・芳賀・山角・志水・笠原彼是七頭にて、取合せ防ぎ戦ひ候。上杉方長尾政景・唐崎左馬助・村田与十郎・宇佐美駿河守・新発田尾張守五頭にて押出し、合戦始まり申候。宇佐美駿河守一番合戦。其内より抽で五六町突崩し、首数百五十余討捕り申候処に、北条方二の先甘縄の福島、上総備にて槍を入れ、又味方敗軍致し、六七十討れ申候。駿河守取つて戻し、福島備を突返し、北ぐるを追ひて進み申候。長尾政景は、幻庵・芳賀手を切崩し、村田与十郎は、山角・志水手を切崩し申候。輝虎旗本にて脇へ廻し、氏康本陣へ切懸る時、本庄美作守慶秀手は、山吉孫次郎・大崎筑前守手にて、跡へ廻すを見て、氏康総敗軍にて、早々退散。白井城をば、長オープンアクセス NDLJP:74尾政景攻落す。平井城をば、輝虎自身に寄懸り攻落す。角淵より鉢形迄、焼働し、厩橋城由良信濃を降参させ、七月下旬に、輝虎越府に帰陣なり。八月上旬、輝虎一万三千にて、信州へ出張、西条山に陣取る。其下に赤坂といふ所あり、赤坂の下西条山の後より水の流れあるを堰き上げて、堀の如く広く掘り、貝津勢、若し西条山を攻めん時の、防ぐ便りに仕り候。信玄は廿六日に、下米宮に著。西条山の下迄陣取り相詰め候。越後勢は前後に敵を受け居り候。輝虎は、夜合戦のてだて色々有之候。同廿九日に、信玄は下米宮を引払ひ、貝津城へ移り、九月九日迄対陣。但し八月廿六日より、九月九日迄小迫り合八ケ度之あり、九月九日夜半過に、信玄八千にて、潜に筑摩川を越え、川中島へ移る。輝虎も密に川中島へ移り、村上左衛門佐義清・高梨摂津守政頼・井上播磨守清正・須田相模守親満・島津左京進親久二千は、西条山に陣取らせ、輝虎は両先手にて、左は斎藤下野守朝信、右は長尾政景・柿崎和泉守。二の陣は北条丹後守。右手は本庄美作守、左手脇備は、長尾遠江守藤景。右脇は山吉孫次郎親章、其次輝虎旗本、右へ四町程披きて宇佐美駿河守定行、後備は中条梅坡斎なり。直江大和守実綱は、五町計り引下り控へ候。若し川中島にて合戦の内に、貝津より川を渡し、横槍あるべしとの事にて、筑摩川鬐に、貝津圧の手本庄孫次郎繁長・新発田尾張守長敦・色部修理亮長実・鮎川摂津守・下条薩摩守・大川駿河守、以上二千計りにて控へ候。十日の曙に、越後より斬懸り候に、信玄思ひ寄らざる事なれば、数度合戦に輝虎勝利。甲州方三千計り討死。信玄は倉品といふ所へ敗軍。初鹿源五郎・諸角豊後守・山本勘介討死。〈但一説には、弘治二年三月廿五日夜に、此輩討死と云々。〉越後方には、志田源四郎義時討死。其夜、輝虎は川中島に野陣。十一日の朝、下米宮に備を立て、西条山の陣屋を焼払ふ。其後、善光寺へ陣取り、三日逗留し、越後へ馬入なり。十一月、信玄、西上州へ発向、上杉領分の城々を攻むる。北条氏康も発向に付、輝虎、上州へ発向。信玄・氏康退散により、輝虎も帰陣。

○永禄五年壬戌、三十三歳、正月、江州屋形六角義賢入道承禎より、目賀田摂津守を使者にて、舜挙が筆花鳥の一軸を贈らる。二月、北条安房守氏邦二万計りにて、上州厩橋・都村迄出張。厩橋城に、長尾弾正忠景連〈若名小次郎、法名謙忠。是は為景弟長尾新次郎辞重が子なり。為重は、越後長岡の城主なり。〉在城。其砌、宇佐美駿河守定行入道・嫡子造酒介定勝・次男民部少輔勝行、三千にて厩橋に之あり。北条氏邦、大軍にて打出づるを見て、宇佐美造酒介定勝十七歳、手勢計りにて利根川を越えて一戦、勝利を得。北条オープンアクセス NDLJP:75衆百騎計り討取る。氏邦敗軍。翌日、宇佐美駿河守父子三人、手勢三千にて岐西城へ働き、迫合あり。三月、信玄・氏康両大将にて、武州松山城を攻落し、城主上杉左衛門大夫憲勝、降参して城を渡し没落。〈上杉憲勝は、上杉民部大輔憲顕の三男陸奥憲英、其子左馬助憲光、其子蔵人憲長、其子六郎憲武、其子は則ち左衛門大夫憲勝なり。馬の上手、一流の師と云々。〉輝虎、落城を知らずして、松山後詰として厩橋に来り、松山落城を怒り、憲勝が人質二人を手討にし、五月初に、私市城を力攻にして乗取り、城主小田助三郎朝真を始め、男女三千余撫切なり。志田山城守春義を私市城に籠置き、厩橋へ馬入。但し初め私市城へ赴く時に、利根川に船橋を架け、渡り畢つて橋を切流し、信玄・氏康両陣の前を押通り、私市城を攻落し、又元の道へ懸かり通るとて、信玄・氏康へ、小田が首を持たせ遣し、御旗下の者、此の如くに討果し候由断りて、又利根川に船橋を架けさせ、渡りて厩橋に入り申され候。此時厩橋の城主長尾謙忠を召寄せ、輝虎手討、其家人二千計り討果し、厩橋には、北条丹後守を置き、帰陣なり。其刻、北条氏邦・山角上野介・芳賀伯耆守一万八千にて、埼玉・行田へ出張の由、館林城主長尾但馬守景長註進に付、柿崎和泉守景家・甘糟備後守清長・山本庄蔵孝長・七寸五分くつはた監物・色部修理亮長実・上倉治部丞高治・中条梅坡斎に、宇佐美駿河守定行が嫡子造酒介定勝を加へ、手遣ひ候。行田鴻巣・桶川・上尾へ働き、北条方と迫り合ひ勝負数度あり。宇佐美造酒介定勝討死。北条衆退散に付、越後勢も引取る。此迫合、七月十日の事なり。輝虎は六月に越府へ帰城。七月は、越後の国分寺五智如来堂再興供養。導師は高野山無量寿院清胤法印、勅使は勧修寺中納言晴秀卿なり。輝虎参詣。十二月五日に、公方義輝公御内書を持ち、上使大和兵部少輔晴長来府関東の管領職を輝虎に賜はる。四ヶ年前永禄二年、管領職に任ぜらると雖、固く辞して受けず。此時に至りて、重ねて上使にて仰下さる。是より管領と号す。〈一説に、公方より輝の字を下さる。〉此時、初て輝虎と号す。此迄は政虎と名乗ると云々。此年、越中の神保方より、高木左伝次といふ小性を、浪人に作り立て、越後府内へ差越す。此子容色美麗なれば、謙信小性に召抱ふべし、近付きて謙信を刺殺すべし。然らば、其身は討たるゝとも、父高木五兵衛を大身に取立つべしとて、左伝次を越後へ差越したるを、謙信一度見て、唯者にあらずと推察して、柿崎に預け、遂に左伝次を誅しけるとなり。

○永禄六年癸亥、三十四歳、正月十一日、輝虎は一族譜代の家老・坊主を召集め、申されけるは、道七居士八男にして、誠に麁流なりと雖も、世間の転変により、不思議に長尾の家督を継オープンアクセス NDLJP:76ぎ、総領職となる所なり。然れども、我嘗て本意の事と思はず。其仔細は、春秋左氏を始め、異国歴代の事迹を考へ、又は本朝の書伝を見るに、簒奪の汚名・廃立の慚徳・賢明の討論、万世の筆誅遁るべからず。今更申すも恥しき事なれども、紋竹庵主一旦の恨を以て、主君房能を弑し奉り、又、管領顕定を討ち参らせ、逆威を振ひ候処に、天鑑昧からず。遂に越中にて命をおとされ、我も亦、屋形定実公の命とは申しながら、兄晴景を討つ事、千載の悪名なり。然れども、国家の為めに大義を行ひ、身のそしりを顧みず。此故に、一生妻子を置かざるを以て、世の人に謝す。此上は、弥〻持戒清浄の出家となるべしとありて、不識院心光謙信法印と号す。高野山無量寿院清胤法印を戒師とし、真言金・胎両部の秘密〔因カ〕明を受け、灌頂を遂げられ、大覚寺御門主義俊大僧正執奏にて、大阿闍梨号を給はり、弥〻戒律堅固なり。但し輝虎は、十二年前天文廿一年三月に、廿三歳にて剃髪。入道して謙信と号す。女色は禁戒せらるれども、魚肉は絶えられず。此故に書状にも、景虎・政虎・輝虎、或は謙信、或は心光などと書かれ候。是は入道薙髪にて、未だ精進・戒律なき故なり。此度灌頂を遂げ候て、精進潔斎・持律・戒悪の出家となり給ふ。春日山毘沙門堂の近所に、不識院を建立し、古より、越国の将士忠死・義死の輩の位牌を立て、謙信、日夜香花料具を備へ、其凶霊を祭り給ふ。朝暮に、謙信自身護摩を修せられ、総じて廿三歳より、林泉寺・大義寺・安国寺・長福寺・雲洞庵の諸刹に到りて、参禅怠らず。已に破参に至り、禅林の宗風日々に盛なり。又、専柳斎といふ。儒者を尊敬し、四書・六経の学問、昼夜につとめられ、国家の風俗を匡レ、仁恵を施す事おこたらず。二月、飛騨国白谷筑前守降参、証人を献ず。三月、謙信上州へ出馬、伊勢崎城を攻落す。此節、北条氏邦・芳賀伯耆守二万にて出張、沼田表へ働き、謙信より宇佐美駿河守定満〈去年永禄五年十月、宇佐美駿河守定行仔細ありて、定行を改め定満と号す、〉・其子民部少輔勝行三千を向けられ候処に、一戦、宇佐美父子勝利を得、北条方敗軍。四月、謙信、下総国へ攻入り、原上総介が籠り候臼井城を攻められ、北条方と合戦。五月に、越後へ馬入。八月中旬、謙信、一万五千にて越中へ発向、松倉城・小出城を攻取り、首数四千余。夫より放生津表へ働き、神保長衡・椎名泰種・江波参河守と一戦、謙信打勝ち、越中衆敗軍。江波一類十六人討捕らる。是は廿六年前、天文元年三月十一日に為景を討取りし族なり。則ち江波一門の首十六を以て、為景討死の師場千壇野へ懸並べて、亡父の追考に備へらる。九月に至りて、方々の仕置ありて、松倉・堺川辺砦ども普請ありて、九月下旬に越府へ帰陣。

オープンアクセス NDLJP:77○永禄七年甲子、三十五歳、常州小田中務大輔氏治は、先年より味方なり。去年冬、別心にて小田原北条氏康に申通ずる由に付、正月朔日、謙信越府を打立ち、深雪を凌ぎ館林にかゝり、古河城近辺焼働して、常州へ発向。小田が館を攻め落し、正月下旬に、厩橋迄帰陣。二月上旬に、那須修理大夫資胤を先陣にて、上州佐野小太郎昌綱が城を攻めらる。本庄越前守繁長・須賀但馬守・川田対馬守・大国主水・柏崎日向守・宇佐美駿河守・神藤出羽介・松本大学、八頭を遣し、熊谷・鴻巣・栗橋・薩〔幸イ〕・関宿・小山・壬生迄、手を分け働き、方々にて勝負あり。五日、北条氏康・同氏政、四万にて古河城に著。先手十二頭、祇蘭城に到る。謙信急に発向、一戦、北条方敗軍二千余り討死。氏康父子、重ねて戦ふ事を得ず、関宿迄引入られ候に付、佐野昌綱降参。北条より加勢に籠候松田孫六郎秀政・志水小太郎正信・遠山藤五郎実盈・笠原越前守康朝等は、搦手より夜中に落行きけるを、直江大和守実綱・飯森摂津守・鳥山因幡守・本庄美作守追駈けしかども、早々引除きしにより、雑人の遅れたるを四五十人、追討に討止めて帰る。 〈桔梗の紋・巴の紋・矢筈の紋・下緒の紋の旗幕を、分捕にして帰りけると云々。〉佐野昌綱が証人を召連れ、謙信は厩橋迄引入られける所に、越後より早飛脚来る。公方義輝公より上使、伊勢左京亮貞一御内書を持ち、五月十三日に、越後に到著の由申来るに付、謙信は、同月下旬に厩橋を立ち、越後へ馬入。但し御内書は近年、上杉・北条・武田の三家闘戦に及び、関東貴賤迷惑仕る旨、叡聞に達し上聴に及び候。禁裏にも将軍家にも、歎き思召され候間、向後合戦を止め、越・相・甲和睦仕るべしと、仰下され候。尤も甲州・小田原へも御内書上使あり。謙信と、信玄・氏康次第に御請け申上ぐべき言上なり。上使馳走、三日の猿楽。引出物は馬・鷹・小袖・巻物・金銀等、其品厳重なり。其頃より、上田の長尾政景の事に付、直江大和守実綱・斎藤下野守朝信・色部修理亮長実等、謙信前にて密議数度。何故を知らず。信州野尻城主宇佐美駿河守定満、信州より越府に来る。謙信、宇佐美を召し、深密の相談宵より暁に及び、翌日、宇佐美駿河守は府内を立ちて、居城琵琶島へ帰り、五日逗留して、又信州野尻城に赴く。其後、上田へ飛脚を遣し、野房池にて川狩を催す。例年の事故、長尾越前守政景、其旨に応じ、来る七月上旬に、野尻の城へ行くべきの旨約諾あり。七月五日、宇佐美駿河守定満、船遊・川狩を興行し、長尾越前守政景同船にて、籾ケ崎より野尻の池に出づる。兼ねて船底に穴を明け、ほぞをさし置き、池の内にて、枘を抜くに付、水忽ちに船中に沸入り船沈む。政景を定満とらへて、倶に水中に沈死す。残る輩は、遽に騒ぎて、罅権にオープンアクセス NDLJP:78取付ぎ游ぎ上るもあり、助船に乗るもあり。政景と駿河守は、倶に水中に死す。政景三十九歳、宇佐美定満七十六歳なり。政景は、龍厳寺に葬る。法名窗徳院匠山道宗と号す。定満は、雲洞庵に葬る。法名養勇庵主良勝俊公と号す。政景の家人等大に起つて、定満が家人共に打つて懸かる。両方立分け二つになり、既に弓箭になり候を、宇佐美家老戸俣主膳、手早き者にて、政景同道の子息右京亮義景・次男喜平次景勝十歳にて、伴ひ来りしを人質に取り、野尻城内に籠り候故、上田衆も為方なく、此旨府内へ早馬にて註進。信濃衆芋川縫殿介・島津左京進・岩井備中・高梨政頼等駈著けて、宇佐美人数と政景人数と、両方の間を取切り、警固仕候。駿河守書置の文一通有之候を、越府へ差越すには、謙信より、新発田因幡守・内藤主殿助を早々差越す。政景仕合了簡なく候。右京亮・同喜平次、並に娘両人は、皆甥姪の事なれば、少も疎略に存ぜず候。何れも養子に仕るべく候間、家中騒ぐべからずとて、義景・景勝兄弟をば上田へ帰入。家臣宮島参河守・栗林次郎左衛門、後見として守立つる。新発田因幡守は、宇佐美駿河守・家老塚田・曽根・泉沢・戸俣を呼寄せ、此度の仕合了簡に及ばず候。本城並に琵琶島の城は、定めて定満子の民部に遣はさるべく候間、此城をば渡し候へとて、野尻城をば因幡守請取りて、松川大隅守・山岸宮内を入置き、駿河守定満嫡子宇佐美民部少輔勝行をば、府内の城へ召寄す。新発田道寿斎を使にて、謙信より申渡され候は、定満、此度の仕方不届に候間、琵琶島城並に本領〈世伝今高五万石余〉共に召上げられ候とて、民部十五歳にて浪人なり。

伝曰、後光厳院御宇応安元年戊申に、上杉龍命丸を、家老長尾筑前守高景供して越後入部の砌、鎌倉御所足利氏満の命を受け、宇佐美左馬允祐益、伊豆国の軍兵を率して龍命丸を守護し、越後の琵琶島城に入りし以来、代々越後の国士となり、上杉家の臣下となる。後土御門院御宇文正元年に、宇佐美伊豆守定秀病死、男子之なきに付、伊豆国嫡家宇佐美能登守定興が子越中守孝忠を呼越しつゝ、定秀が跡目となす。其子駿河守定満に至りて、大身にて武勇の名を顕す。此年永禄七年に至りて本領断絶。応安元年より百七十一年にて、越後宇佐美の家絶ゆる。宇佐美に五流あり、伊豆宇佐美・越後宇佐美・尾張宇佐美・伊勢宇佐美・河内宇佐美なり。皆頼朝の御代、宇佐美左衛門尉祐茂が末なり。斯くて上杉家の浪人井上三郎兵衛・落合清右衛門と長尻喜左衛門物語〔〈脱字アルカ〉〕曰、此時、宇佐美駿河守定満、書置の状あり。其文に曰、政景に腹を御切らせなされ候ては、謙信公末代の悪名逃るべからず。其上に、上田庄オープンアクセス NDLJP:79皆敵になり、国中の大乱に罷成るべく候。然れども謙信公御承引無之、是非政景を御討ありて、其上に上田も治まり候様の手段てだて仕るべき旨御申附候。さ候へば政景を討果し、上田も無為に治まり候仕方は、是より外は御座なく候。故に此の如くになり果て申候間、左様に御心得御心安く思召すべく候。此上は定満、叛逆の心か、又は遺恨の意趣打にて、政景を打果候段、不届千万に候と被仰出、定満本領御取上げ、跡目を御くづし、一子民部少輔勝行をば御暇被下、可御追放候。定満跡目被御立候はゞ、上田衆意趣のこり、始終堪忍不仕、以来は大乱の基と存候間、必ず国の為に候条、定満跡目御立不成候て、罪科をば、皆定満に御仰せ候へ、是れ国の治まり候仕方にて候由、書置き申候。謙信、此書置を内見ありて、駿河守事、古今稀なる忠臣・義士にてあるべく候。吾等分別浅く、仮初に駿河守に此事を申談じ、忠功の老将を殺候段、後悔少なからず候。我等浪人にて、橡尾にありし時、十三歳の秋より、駿河守懇情を蒙り、彼者と本庄美作守が力にて、家運を開き候。数十年の馴染と軍功と、此度の忠節、言語に及ばざる事なりと、落涙数日の中絶えざりけるとなり。伝へ聞く人々迄も、古今に之なく、駿河守が忠死なり、昔より軍の陣へ出で、身命を抛つ事、忠義と子孫後栄の為なり。此度の駿河守仕方は、逆心の不義の名を身に被り、扨跡目を潰し、一子民部浪人となる様に致しなし、其上に謙信、外聞宜しき様に致し候段は、遂に聞かざる忠義なりといふ。謙信も事の外後悔にて、宇佐美民部には、内意にて合力・扶持せられけるとなり。此時景勝、十蔵にて候へども、能く伝へ聞き候故、父政景の仇の子なりとて、宇佐美民部を終に目見免されず候ひつるとなり。此故にて、上杉家中にては、此一事をば堅く取沙汰禁制にて、今に宇佐美駿河守定満をば病死と、上杉家にては申候由。

此度、宇佐美駿河守定満不慮の企にて、長尾越前守政景生害あり。嫡子義景・次男景勝幼少なり。上田庄は、信濃・上州の境目なれば、此弊に乗じ、武田・北条よりの手立も心元なき事なりとて、鉄上野介安朝を、上田庄の軍代と定め、宮島参河守・栗林次郎左衛門と同じく在城す。先日公方義輝公より甲斐・越後・相州和睦の上使・御内書到来に付、和談調へり。領分境目の定め、又、宇佐美駿河守生害に付、信州仕置の為め、七月廿六日に、謙信、川中島へ出馬。信玄も出馬。互に使者を遣し、此度、公方上意にて候上は、弓箭を止め申すべく候間、境目の定め仕るべしとの事なり。八月十日の朝、信玄申され候は、互の運の試なり、両方より大力の剛兵オープンアクセス NDLJP:80を、一人づつ出し合せ組討をさせ、其勝負次第に、川中島を何方へも納むべしとて、甲州方第一の大力安馬彦六を選出し、則ち此者を使者として、謙信へ申入れらる。即ち直江大和守実綱、取次を申達する。謙信尤にて候。此方よりも出し、其勝負次第に川中島を納め申すべく候とて、上杉方よりは、斎藤下野守朝信が家人長谷川与五左衛門を選出し、八月十一日午の刻に、両陣の間に乗出す。謙信も井楼に登り、信玄も床櫓に登り、諸軍残らず出でて、両方より見物なり。安馬彦六と長谷川与五左衛門、馬上にて乗違ひ、むずと組みて落つ。初は彦六上になり、与五左衛門を組伏せ候時、甲州方は声を揚げ勇み悦ぶ所に、組みほぐれ与五左衛門上になり、安馬を組敷き彦六が首を取り立上りて、首を差上げ、是御覧候へ。上杉殿の御方長谷川与五左衛門組打の勝利、高名御覧ぜよと呼ばはり候。越後方一万五千の輩、覚えずして、長谷川仕たりやと、一同に感じどよみ申候。甲州方は無念に思ひ、百騎計り甲を並べ馬を進め、木戸を開き、既に切つて出でんと犇き候を、信玄見給ひ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に容易に組取られ候仕合は、味方の運は知られたり。兼ねてより、組打の勝利次第を約束の上は、違変の合戦は士の名折、又は公方上意の恐あり。川中島四郡〈高井・水内・埴科・更科。〉今より謙信支配との事にて、翌日、信玄人数を引入られ候。是により中郡・下郡、越後の領分になり、村上義清・高梨政頼、川中島へ帰住、本意なり。是より信玄・謙信の取合止み申候。謙信は、川中島四郡仕置ありて、八月下旬に越後へ帰陣。九月、上州厩橋より宇野好松軒〈俗名与四郎政広〉 其子民部丞越府に来り奉公。軍配奇妙の者なりと云々。

○永禄八年乙丑、三十六歳、正月、本庄越前守繁長に申付け、老曽の城主長尾遠江守藤景・同右衛門尉景治を誅さる。本庄自身之を討つ。但し此罪科は、永禄四年九月十日の川中島合戦、信玄敗軍にて、倉科迄除き申され候。其後、越後勢川中島に休み居、腰兵糧取出し、少し油断の所へ、武田太郎義信八百計りにて、腰指をも取隠して、越後勢旗本油断の中へ御取懸る。謙信旗本取合せ兼ね、少々先手にて防戦ひ候へ共、備四途路しどろになり、多くは馬に放れ敗軍仕候。越後方志田源四郎義時討死。謙信も、上杉重代の重実五挺槍の中、第三の鍔槍にて働き、数人突落し、後には上杉の什物波平行安の長刀にて、自身働かれ候処に、貝津圧本庄繁長・新発田長敦・色部長実・鮎川・下条・大川二千にて駈著け、防戦ひ候内に、謙信旗本返合せ、武田義信を筑摩川広瀬迄追討に致候。其節、本庄弥次郎繁長、精兵六百余りにて切懸り、自身オープンアクセス NDLJP:81に重代の国俊の太刀にて敵三騎斬落し、手疵を蒙り防戦ひ義信を追崩し候。謙信は其日の合戦に打勝ち、大利を得候へ共、後度の軍に若武者の義信に仕付けられ、勿論盛返し広瀬迄追付き候へ共、一度の敗軍を無念に思ひ候。是は謙信が油断せし故なりと、申され候を、本庄繁長・長尾遠江守藤景、是を可笑しく思ひ、若気にて誹り候故に、謙信大に怒り、穿鑿ありしに、遠江守藤景が申したるに極り候故に、此の如くに申付けられ候。五月十九日、京都に於て三好左京大夫義継・松永右衛門佐久道、逆心にて公方義輝公御生害。畿内大に乱れ、公方御弟一乗院覚慶、南都を落ちて江州矢島に到り、公方再興の行にて還俗、義昭と号す。七月、謙信二万にて越府を立ち越中へ入り、直に進みて加賀国へ攻入り、若林長門守・蕪木右衛門尉・石黒・宮崎・南保・高楯・入善等を攻らる。此後、長尾兵衛尉景盛・島山因幡守両使を江州矢島へ遣し、義昭公へ御兄公方光源院殿の御弔を申上げられ、此度三好義継逆心にて、公方義輝公を弑し奉る事は、七箇年以前、永禄二年の夏、謙信上洛在京にて、十月に至る。其砌三好長慶を始め、一門並に松永・岩成・松山党、奢侈甚だしくして、公方を蔑如に致し候様子を謙信見届け、畢竟は三好逆心の相ありと察して、京を立ち越後へ帰られ候砌、御暇乞申上げ、密々言上候は、三好一家無礼にして、終には叛逆の相御座候。若し左様の様子も候はゞ、早々仰下さるべく候。馳上り退治仕るべき旨、申置かれ候。公方義輝公、御悦喜斜ならず、御手づから藤林といふ名物の国綱の御太刀を下され、必ず御頼あるべき旨、懇に御堅約あり。去年子七月四日、三好修理大夫長慶病死。一門・家人秘して喪礼を致さず、病中と申沙汰致候由、密々公方上聴に達し、不審に思召候内に、反逆の様子ほゞ顕れ候故に、大和兵部少輔を御使にて、越後へ下され、早々謙信上洛仕るべき旨、密々御内書を下され候を聞付け、謙信上洛せば、中々叶ふべからず。其以前に取懸かるべしとて、遽に思立ち逆心し、公方を弑し奉ると云々。十月、謙信は加州松任・金沢・小松辺焼働して、中旬に越後へ帰陣。

○永禄九年丙寅、三十七歳、五月、謙信越後を打立ち、越中へ攻め入らる。神保越中守長氏が籠り候増山城を攻められ、上杉弥五郎義春を遣し、小出城揖美庄助五郎を攻め落され候。国中方々働き、砦共仕置ありて、七月に謙信、越後へ帰陣。十月、大覚寺門主義俊大僧正、越後へ御下向。是は禁裏並に江州矢島の義昭より密議を仰下され、謙信上洛ありて、義昭を京都〔〈脱字アルカ〉〕御本意の術なり。同月、上田の領主長尾越前守政景嫡子右京亮義景早世、政景次男景オープンアクセス NDLJP:82勝家督。此年村上義清病死、子息源五郎国清家督。

○永禄十年丁卯、三十八歳、三月、江州矢島御所義昭より、御内書にて謙信御頼み、城都御本意御入洛の行を仰下され、四月、謙信越後を立ち、上州に入り、新田城主由良信濃守を攻めらる。是は佐野昌綱と、領分境目の儀に付き違乱。謙信より、館林城主長尾但馬守景長を以て扱ふ所に、一往事済む上にて、由良約束を違ひ候に付、此の如く信濃守領内麦作を薙ぎ、在々放火して、五月帰陣。

○永禄十一年戊辰、三十九歳、正月五日に、謙信越後を出馬、常州小田氏治を攻めらる。是は五年前、小田降参する所に、前年より、里見義尭心を通じ逆心。則ち是を攻めらるゝ所に、里見義尭一万にて、村田川へ押出し候。謙信押向ひて一戦、里見敗軍。三月上旬に、厩橋へ馬入。中旬に越後へ帰陣。四月、本庄越前守繁長逆心、本庄城に引籠る。是は永禄四年の川中島合戦に、謙信の噂を長尾遠江と誹りたる由聞え、謙信、色々穿鑿ありしに、遠江守罪科極り、本庄繁長に申付けられ誅せられしなり。其後も謙信心解けず、繁長を憎まれ候故に、堪兼ね逆心して、楯籠り候。下越後騒ぎ乱れ申候処、謙信大に怒つて、自身馬を向けられ、先手は上条の上杉弥五郎義春。二の〔陣イ〕は、新発田因幡守治長。三の手は、上田の景勝・軍代栗林肥前守・黒金上野介なり。本庄繁長下知して、人数を川中へ打入れ懸候を、上杉弥五郎人数も、同じく川中へ乗込み、合戦始まり候。互に剛者共、川中にて槍合せ、弥五郎家来毛蓑与十郎覚の物主なるが、大将弥五郎と両手先に馬を立て下知する。腰長浸りての事なれば、互に引く事もならず、啗合ひて勝負付かず、牛時計り戦ひ、手負・死人算を乱す。其時三の備、景勝なりしが、軍代栗林・黒金両大将、上田衆を下知して、新発田が跡を詰めしが、先手弥五郎備陥合ひて勝負付兼ね候を見て、脇へ廻り槍を堅持にして、夫なりに川へ乗込むや、其備振見事なる事いふべからず。横合を受ける故、本庄方敗軍。さり乍ら大将越前守繁長、指揮さいはいを振つて乗廻し乗廻し、真丸になりて城へ引取り、謙信先手本庄を追つて川を越す。其中に上杉弥五郎真先に乗付け、本庄に言を懸くる。越前乗返し、高き処に馬を立て、弥五郎殿年若く候へども、見事に候。御手柄見え候間、最早御引取り候へ。しだるく長追はせぬ者に候。長追めされ候はゞ、越度あるべき由申す故、弥五郎も夫れより、指揮を振りて味方を打上ぐる。直に攻落さるべく候へども、謙信所存ありて、四方に附城を構へ、謙信は馬入。

オープンアクセス NDLJP:83伝曰、本庄越前守が年齢に異説多し。川中島合戦に十九歳といひ、天文廿三年八月十八日の合戦の時十九歳なれば、天文五年丙申の出生にて、今年永禄十一年は、越前守三十三歳なり。上杉家川中島合戦聞書に載するには、永禄四年、越前守十九歳と云々。然れば此年永禄十一年は、廿六歳なり。入庵に向つて、弥五郎殿、年若く候へども見事に候との言は、相違なり。入庵、此合戦は廿八歳の由直談なり。本庄年長の入庵に向ひて、年若く候へども見事なりといふべき様なし。天文廿三年、十九歳ならんか。

五月七日、謙信御母堂逝去、法名青岩院天甫輝清大姉と号す。七月、信州深志代々の城主小笠原大膳大夫長時、京都より越府に来り、謙信を恃まる。是は天文の晩年、武田信玄に打負け、深志を没落候て、細川右京大夫晴元を頼み、摂州芥川へ越され候。されども、三好修理大夫長慶逆心にて、細川晴元牢籠に付、長持も京都へ上さる。京都も連年大乱、安堵なきにより、河内国高屋へ来り、住む事十五年なり。当秋義昭を供奉にて、織田弾正忠信長上洛あるべきにて、五畿内騒動。長時も、京都の乱を避けて越後に来る。謙信より厚く馳走あり。長時は嫡子次郎貞慶〈後右近大夫即兵部大輔秀政と号す。父右近大夫患政が祖父〉同道なり。是は村上義清・高梨摂津守政頼等の信州衆、謙信を頼み多年扶助を受け、永々下風に随ひてありしが、謙信弓箭の威光を以て、六年以前永禄七年に、更科・埴科・高井・水内四郡手に入り、村上義清・高梨政頼本領帰住を聞き、長時も謙信を恃み、深志帰城ありたしとの事にて、越後へ参られ候。

伝曰、長時は、嫡男右馬助貞隆・二男右近大夫貞慶・三男小次郎貞次・四男孫次郎長隆なり。天正六年三月、謙信逝去の後、会津の蘆名盛重諸侍にて、長時は越後を出で、会津へ赴くとて、越・奥の境伊奈領主河原田治部大輔盛継の許に、一年逗留。子息貞慶をば伊奈に留置き、長時ばかり会津へ赴きて、星味庵が宅に寄宿。家人坂西と長時の妾、心を合せ長時を弑す。同家人三崎といふ者、彼坂西を誅す。初め長時、深志没落の砌、信玄より、長時弟信貞を深志城主とす。勝頼滅亡の後、長時子息貞慶、深志へ帰住。其子兵部大輔秀政は、家康公御嫡子岡崎参河守信康の御息女に嫁し、信濃守忠修・右近大夫忠政を生む。今豊前小倉中津の城主是なり。岡崎信康の御娘一人は、本多美濃守忠政に嫁し、中書忠刻・甲斐守政勝・能登守忠義を生めり。

八月、謙信川中島へ出馬、領分巡見。其刻戸隠山へ参詣。諸国より祈請の願書数百通之あり。オープンアクセス NDLJP:84其内武田信玄より、謙信調伏の願書あり。弓箭にて叶はずして、輝虎を咒咀する事、一身の大慶なりと、謙信嘲笑さる。総じて信玄は、大威徳明王を尊崇し、弘法大師自筆の画像を安置し、謙信を咒咀せらるゝと云々。調伏咒咀の表白の文と大威徳明王の尊像、今に高野山成慶院に之あり。

大威徳明王表白文曰、謹敬白総体・別体・三宝、特者ことには人魔降伏大成徳明王等、而言方今信玄家名武功、自修大威徳之密供者夫れば信玄幡荷才雖隣国、相・越跨于南北、為吾運。然而双方是鼓瑟也、発于厥悲鳴吾手之所_撃焉。矧令〔此カ〕明王聴人魔之願力。卒爾勤修二家之衰亡、進而祷于輝虎消滅、豈不快乎。仰願本尊、聖者怨者折伏之大望速令成就円満給。

右の通に、謙信を咒咀調伏せらるゝ信玄自筆の願文、今に高野成慶院にあり。

○永禄十二年己巳、四十歳、武州忍の城向城皿尾の砦は、九ヶ年以前、成田長泰別心の時取立てられ、謙信より木戸玄斎を差置かれ、数年合戦止む時なし。長泰隠居の後、子息下総守氏長より、様々に木戸玄斎を語らひ、玄斎娘を氏長が内室として和睦調りしかば、合戦初て止み、上下悦ぶ。此由越後へ聞え、正月初に、謙信越府を立ち、残雪を凌ぎ厩橋に著き、忍城へ取詰められ、松枝・安中・本条・深谷の城々の番兵馳せ加はり、一万五千にて熊谷に到る。是より成田領分なる故焼立て、箱田・久下・奈良・四法寺・戸手・平戸迄在々残らず放火して、池上・川上両村より、池守の大道筋を押して皿尾城へ押寄する。越後方先手直江大和守実網手より、三十目の大鉄炮を打懸け、塀・櫓を打破りしかば、木戸玄斎も堪兼ね、砦を捨てゝ忍の城へ逃入る。謙信下知して、皿尾砦を焼払ひ、直に忍の城へ取懸り給ひければ、西北の間細畷三町計りにて、左右大沼なり。北南も大沼、広三町或は二町なり。東方大手行田口も、道細く堀沼多く、大軍通るべき様なし。謙信は長野村を放火し、埼玉村に赴き、丸墓山地蔵堂に登り、忍の城を見下し、此城は容易に落すべからず。日数を経ば、北条大軍にて後詰すべし。所詮城近辺を焼払ひて、成田に迷惑させよとて、諸大将に下知して、城の四辺へ働き、下忍・持田・前谷・埼玉・渡柳・川面の村々を放火し、其勢を併せて、武州羽生城へ押寄せ候。是は木戸伊豆守籠り候を、謙信先手一万余、四方より攻め寄せ、終日攻めて大手をば押破り、伊豆守夜に入り、城の後なる沼を渡りて逃失せしに、翌朝謙信先手攻め入りて見れば、一人もなし。残りオープンアクセス NDLJP:85止まる女童をば、城より出払ひて、さて城を放火し、須賀城へ押寄するに、是も聞北きゝにげしたりければ、城を焼払ふ。夫より酒巻・中条・北河原・上中条を放火し、熊谷へ懸かり上州迄打入り、山上藤九郎・朝原式部が籠り候山上城を攻落し、沼田へ懸かり越後へ帰陣あり。八月、謙信越後を立ち越中へ発向。神保安芸守長純を攻めらる。此時分、能州の国主畠山修理大夫義則其家老遊佐美作守・同弾正左衛門・長対馬守・同九郎左衛門・温井備中守・平三郎左衛門・誉田淡路守叛逆して、義則の馬責に出され候跡にて、七尾城に火を懸くる故、義則は城へも帰らず、直に越中へ落行き、弟の神保長純方に浪人にて居られ候。能州国中大に騒ぎ乱れ候に付、謙信越中より、直に能登の七尾へ出馬候。能登畠山義則は、天文廿二年、謙信上洛の前より越後と和睦にて、舎弟弥五郎義春十三歳になるを、証人に差越候。此故に、十七箇年以来入魂なりしが、此歳、家老共逆心にて、義則没落。能州乱れ候と聞き、謙信発向候処に、家老遊佐・三宅・温井相談にて、義則子息次郎義隆、十五歳になり候を跡目に立て候故、謙信も和平にし、義隆の伯父上杉弥五郎義春を遣し、仕置して越後へ帰陣なり。

○元亀元年庚午、四十一歳、正月、上杉旗本佐野又太郎昌綱が一族共、昌綱と争論の事出来て、飯盛の城に楯籠り、昌綱と取合ひ、小田原へ註進し、加勢を請ふに付、北条氏政、四万計りにて出張し、佐野城を攻められ候。此旨越後へ註進に付、謙信八千にて、正月十一日に越府を立ち、夜を日に継いで後巻の為め佐野へ押著けられ候。氏政は、越後勢後詰候はゞ、旗本組を以て謙信を圧へ、大道寺・松田・笠原・依田以下一万余にて、一時乗に佐野城を攻くづすべき旨風聞に付、謙信聞かれ候て、譬へ氏政を切崩すとも、佐野落城しては其詮なき事に候間、城へは謙信駈込み、丈夫に持申すべく候間、直江大和守実綱・山本寺勝蔵孝長・柿崎和泉守景家・色部修理亮長実・芋川縫殿助・島津左京進・大崎筑前守以下は、上杉弥五郎を大将分にして後巻仕るべきにて、上道五里此方より、謙信唯十三騎にて、氏政陣取の前を徐々と乗通り、何の滞なく十九日の黎明に、佐野城へ乗入れ申され候。謙信と見及び候に付、氏政方にはかに騒ぎ攻口をくつろげ候処へ、越後の同勢駈著け候故、城中より謙信突いて出で、氏政を目懸け、大軍の中へ切懸け候。氏政総敗軍にて、討たるゝ者千三百七十余なり。氏政退散に付、謙信は飯盛の城へ取懸り、二日の中に攻め落し、逆心の佐野一族八百余人撫斬にして、夫より下野国壬生・小山・宇都宮・鬼怒川筋を働き、下総古河・栗橋・熊谷迄押廻し、厩橋へ馬を入れ申候。関東オープンアクセス NDLJP:86の諸城共、木戸を打つて一人も出合はず、唯謙信の旗を望み見て、皆恐れて働かず候。氏政敗軍と聞き、父氏康二万にて川越迄出張。正月末より二月中旬迄、謙信方と日々迫合之あり。北条氏康父子より謙信へ使者。富田の大中寺虎谿和尚参陣、様々の扱ありて和睦相済む。即ち大中寺へ謙信陣を移され候。金湯山早雲寺洞雲和尚と大中寺と、両僧の取扱にて、氏康父子同道、大中寺へ出仕と号し参られ候。謙信対面、和睦盃酒の祝儀ありて、則ち氏康より、人質証人進らすべしとの約束にて、氏康父子は小田原に帰られ、謙信は越後に帰陣。其月に氏康七男北条三郎を、人質として越後へ差越され、家老遠山左衛門尉・近藤治部左衛門・神田右衛門尉・上山又六なり。四月、謙信、我れ若年の名景虎を以て、北条三郎に授け養子となし、景勝妹を以て三郎に嫁し、上杉三郎景虎と号す。関東初て兵を停の、上下悦ぶ。三郎、春日山二の丸に住す。〈上杉家人木戸玄斎、初め成田圧に皿尾に在城。成田所縁になり、謙信に乖く。此時隆参詫言にて、玄斎帰参。十月北条氏康逝去。〉

○元亀二年辛未、四十二歳。川田軍兵衛を遣し、武州羽生城に入る。木戸玄斎、上杉家へ帰参。玄斎と川田と羽生在城。玄斎が子木戸監物は、越府勤仕。三月、謙信二万八千にて越中へ発向。椎名肥前守泰種が居る所の魚津城を攻め破り、泰種没落。其遣領六万貫並に魚津城を以て、寵臣川田豊前守長親に給はる。八月、謙信再び越中へ発向。栂尾城を攻落し、小出城には長尾小四郎景隆を入置かる。川田軍兵衛をば召連れ、中旬に越後へ帰陣。同月、徳川家康公より、秋葉山権現堂叶坊と熊谷小次郎直包を御使にて、霊社の起請文に直判に血書を加へ、謙信へ遣さる。向後無二に御味方申すべく候。御入魂御頼み入候旨なり。謙信も悦にて、尽未来じんみらい無沙汰あるまじく候。向後兄弟の契約仕るべしとて、起請文にて返答。但し此時家康公よりは、韓のかしら二頭進入、謙信よりも返報あり。松平左近将監家来植村出羽介家時・石川日向守家成よりも書状あり。謙信よりも、三臣へ返簡あり。川田豊前守長親・村上源五郎国清よりも、石川日向・松平左近へ書状あり。但し五ヶ年前より、秋葉山叶坊を以て、家康公より謙信へ、懇誠の御手入あり。

○元亀三年壬申、四十三歳。去々年元亀元年三月、謙信と北条氏康・同氏政と和平。謙信は富田大中寺にあり。氏康父子大中寺へ来会。氏康子息三郎を人質に献ず。其年十月、氏康逝去。子息氏政は、武田信玄へ申合せ候に付、北条と上杉と又睦じからず。然れ共人質三郎越後にある故、別条なし。其上公方義昭公より、関東・北国へ御内書を下され、諸家取合を停めオープンアクセス NDLJP:87申すべき旨仰下さる。殊に謙信・信玄・氏政・信長へは、堅く私の弓箭を停止仕るべき旨、上意に付、謙信と氏政は無事の体なり。されども領分境目等、互に用心斜ならず。 〈此秋、家康公と武田信玄和談破れ、遠州・参州の内にて、合戦数度なり。〉此秋越中に於て、魚津・小出・増山等の諸浪人、数千人相催して富山城に楯籠る。是は椎名・神保等の一族なり。其外七箇所案を構ふる。十月、謙信三万にて越中発向。砦七箇所を乗取り、富山城を取巻き攻めらる。城中も一万に及ぶに付、日夜の防戦、互に勝負あり。〈此冬、信玄、遠州乱入。箕形原〔味方ケ原イ〕合戦。保玄、刑部にて在陣、越年。〉謙信、越中在陣より、長与一郎を使者にて、信長へ申し通ぜらる。信長より返簡。極月、謙信富山城を攻め落し、二千余討果され、右信長よりは、家康と信玄、遠州口にて取合ひ候間、謙信は越中を差置き、信州へ働き、信玄が留守を攻められ候はゞ、表裏に敵を受け、信玄、遠州より引入るべしとの申合なり。此年、能登国主畠山修理大夫義隆病死。十八歳にて嗣目なし。是は家老遊佐謀叛にて、義隆を毒殺しけるに、家老長対馬守・同九郎左衛門・遊佐美作守・同弾正左衛門・温井備中守・三宅備後守以下、七尾城に楯籠り申候。

○天正元年癸酉、四十四歳。二月、家康公より、植村与三郎を使者にて仰越され候は、去冬極月廿二日、遠州口箕方原〔味方ケ原イ〕合戦勝利なきに付、信玄勝に乗つて、東参河へ発向仕候間、謙信は信州へ働き、甲州迄も御攻入候へとの事にて、書状あり。並に備前守家もりいへの刀を御進入、異名は徳用と号す。謙信よりも音物贈答。信玄、参州岡崎の城へ攻詰め申候は、謙信は信州より、甲州へ取懸り申すべき旨、約諾之あり。其頃に信玄は、東参河へ攻入り、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正が籠り候野田城を攻め落し、両大将を生捕る。其砌、鉄炮烈しくて、信玄大事の所に、鉄炮手を負ひ、疵癱になり、気分次第に快からず。四月十二日に、参州・信州の境波合にて逝去。秘して喪を発せず。病気の由にて死骸を守護し、甲州勢残らず退散。其夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者にて、信玄死去の由越府へ註進。

伝曰、氏政口上を、本庄清七郎取次にて披露する時に、謙信膳に向ひて飲食の節なり。信玄死去の左右を聞き、箸を捨て手を拍つて、合戦の能き相手を失ひ、扨も力を落したり。其上信玄は、世に稀なる英雄名将なりしに、残多くなさけなきことなりとて、落涙数行なりと。

其秋、古河の義氏公御家老簗田中書逆心、宇都宮貞林と申合せ、関宿の城に楯籠り候に付、北条氏政四万にて出張。関宿の城を攻められ候。宇都宮より、佐竹義重へ加勢を乞ふに付、義重小山迄出張。其砌、謙信は北武蔵松山・鉢形宿・成田・深谷の城下焼払ひ、川内へ引越し、横オープンアクセス NDLJP:88瀬上野介が居城金山に向つて陣取申され候処へ、義重より註進に付、金山の〔〈脱字アルカ〉〕足利・佐野数ヶ所を働き候て押通り、小山に著、義重と対面あり。氏政は陣城を構へ、塀門丈夫なるに付、申合せ利根川を越え、氏政を攻討つべき旨、頻に勧められ候へ共、義重同心之なきに付、謙信無興致し、さ候はゞ、義重と輝虎は引分れ、各〻別の弓箭に仕るべしとて、小山を引払ひ、古河・栗橋・館林の城下を攻め通り、利根川を越え、奇別・菖蒲・岩槻の城下を残らず焼払ひ、前後四十日余、四方を働候へども、氏政方皆城々に引籠り、謙信旗先を怖れて出合はず。下総境羽生城には、木戸玄斎・川田軍兵衛数年差置かれ候へども、是を引取り、新田に向つて城を取立て入置かれ候。霜月十九日に厩橋迄馬入候。佐竹義重相叶はず、早々退散なり。謙信は霜月下旬に越府へ帰陣なり。関宿城簗田は、降参し静謐。此歳信長の妹を以て、越中の神保安芸守長純に嫁す。是は、謙信姪壻上杉弥五郎義春が兄なり。倶に畠山修理大夫義則が弟なり。信長は、謙信へは入魂の体を顕すと雖も、内には野心を挟み、神保長純を妹壻とし、越中へ手入あるに付、謙信腹立して、越中・加賀・越前迄も手遣あり。

○天正二年甲戌、四十五歳。三月、信長公より両使を以て、洛中・洛外の図の屏風一双・源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳筆、極彩色なり。是を謙信へ進入、殊の外の懇志なり。然れども色々行を以て、上杉領内へ手遣あるに付、謙信書札を遣し、信長表裏ある事を責め、手切の旨申遣さる。信長は、誰人か讒言にて之あるべき旨、様々陳謝あり。謙信用ひず。七月、謙信三万にて越府を立ち、越中へ打入り、神保安芸守長純が籠る所の木船城を攻め落し、今山喜いまき・森本を焼働して、若林能登守勝盛が籠り候小山城〈今金沢と号す〉を攻め申され候。大手・搦手より捫合ひ、五箇日に攻め落す。城中撫切に致され候。夫より松任・小松へ取懸らるべき所に、能州の国守畠山修理大夫義隆、去々年毒害にて子なし。家老遊佐・長・温井・三宅等七尾城にありし所、内々に信長より手入あり。今年七月下旬に、信長方として謙信に敵対致候に付、能登は大半信長へ附き申候。謙信は小山にて是を聞き、幸の事なり。上杉弥五郎義春は、畠山義忠の三男にて義則の弟義隆の伯父なれば、能登を取つてくれ、屋形にして取立つべしとて、小山より寺松へかゝり、八月二日に、能登の七尾へ取懸候処に、遊佐・長・温井等より切つて出で、鳩場といふ所にて押立て合戦之あり。謙信先備北条丹後守長国・上杉弥五郎義春・直江大和守実綱・中条越前守景資、切懸り追崩し、頸六百計り討取り、残る敵を七尾城へ追込み申候。オープンアクセス NDLJP:89〈是を能登の鳩切後度の合戦と申候。〉則ち七尾城を取巻き攻め申候。城地堅固にして能く怺へ、日夜戦ひ申候。上杉弥五郎先手にて働き、其上、行にて城中遊佐美作守時教を回忠させ、九月十一日に七尾落城中に、長対馬守・同九郎左衛門、各〻侍大将十一人討死仕候。此時七尾より、信長に加勢を乞ひ候へ共、尾州長島一揆蜂起し、信長父子共に長島を攻めらる。七月より九月下旬迄、彼表本陣にて後巻之なく、七尾落城仕候。四十日籠城持怺へ申候。七尾落城に付、弥五郎働を謙信褒美あり。能州は本国なれば、帰任の本意あるべきにて、畠山諸代の士共三千余、弥五郎手に馳付け申候。義則浪人、義隆早世にて、上下力を落し候処に、上杉弥五郎、能登帰国せられば、我々も世に出づべしと、悦ぶ事斜ならず。謙信は七尾城を、九月十一日に乗取り、直に此城へ入り、両日人馬を休め、十三夜は名月なれば、諸大将を集め、和漢の会あり。謙信も絶句の詩並に和歌一首を賦はる。十四日に七尾を立ち、柴山に陣を取られ、国中仕置き之あり。爰にて諸軍勢の押前馬・武具見物あるべしとて、柴山の峠に、謙信床儿に腰を懸け居らる。上杉弥五郎は側に畏り居る。能登勢、奇麗なる人数にて押通る。謙信是を尋問はるゝに、弥五郎人数といふ。其次に通るも亦通るも、弥五郎人数といふ。事々しく多勢に見ゆる。其時謙信、機嫌悪しくなり、何とも物を言はず。やゝ暫時ありて申さるゝは、三好宗三は上方にて、弓箭功者の名将なり。宗三常に曰、人数は使はれぬ者なり。三百より上の勢は、使はれぬ者なりと謂ひし、とばかりいはれて、其後は言なく、俄に弥五郎をば、荒山城といふ越中境目の附城を守らせ、七尾には有坂備中守・同清助・村田与十郎・七寸五分くつはた監物・長沢信濃守・其外屈強の兵五千計り入置き申候。初め七尾城よりの註進、尾州長島表に到来に付、加勢として信長より、柴田修理亮勝家・羽柴藤吉郎秀吉・前田又左衛門尉利家・佐々内蔵助成政・金森五郎八長近一万八千にて、九月十八日に加州御幸塚迄押来り候へ共、七尾落城を聞き、早々引取り申候。謙信も越後へ帰陣なり。

○天正三年乙亥、四十六歳。二月、本庄越前守繁長降参。去る永禄十一年より逆心にて、本庄城に籠り、当年迄八箇年相支へ楯突き候へども、謙信の威勇に、始終叶ふべき様無之候て降参仕り、法体黒衣にて雲林斎と改め、春日山府内の城へ出仕致候。雲林斎と申す名、謙信の気に乖きて、又雨順斎と申候。代々忠節の名臣、殊に繁長の忠戦・大功、当時双びなく候。其上老功の家臣共、次第に残り少くなり候に付、謙信も其罪科を赦免し、本領安堵申付けらオープンアクセス NDLJP:90れ候。〈一説、謙信一代は降参仕らず、景勝代に降参す云々。〉八月、謙信三万五千にて越府を立ち、越中を打過ぎ加賀国へ発向。蕪木右衛門尉高秀が籠り候松任城を攻め申され候。是は信長旗本にて候。此時、越前朝倉義景が残党下間しもま和泉守・同筑後守・阿波賀三郎・若林長門守・三宅権之丞等蜂起して、数箇所の城に籠り候。信長父子、五万余にて敦賀に陣取り、諸軍を分けて諸城を攻められ候。羽柴藤吉郎秀吉、風雨に乗じて若林長門が居城河野新城を攻め落すに付、数ヶ所の城共落去し、越前平均、信長に附。謙信松任城を攻められ候に付、城主蕪木右衛門方より、信長へ後巻を乞ひ候。折節信長は、越前の一衆に陣取居られ候に付、五万余にて松任城後詰として、大聖寺へ懸り御幸塚に陣取る。先手は三道浅井・小松・本郷辺に充満ちて陣取り申候。八月廿七日に、謙信は松任城を攻落し、城主蕪木右衛門が頭を取る。夏目軍八を使者にて、蕪木が頭を信長へ持遣し、此表後詰として相公近陣、輝虎に於て大慶仕候。定めて蕪木が弔の一戦あるべく候。明朝其陣へ押寄せ申すべく候間、左様に心得らるべき旨申遣し、其宵に、諸軍支度下知致され候。信長は謙信使者に対面し、明朝待受け申す由返答にて、其夜の亥の刻より陣払し五万余の人数を引連れ、越前細呂木迄引取り申され候。是をば知らず、廿八日の暁に、謙信三万にて信長陣へ押寄せられ候に、陣小屋計りにて一人もなく候。所の百姓・郷人共申候は、夜前夜半前より、信長は前後一つになり、我れ一と引取られ候と申候。柿崎和泉守・本庄美作守・新津丹波守・長尾権四郎などは、信長を追駈け、追討に仕るべしと勇み候を、謙信堅く制止し、信長程の者が、謙信に懼れて唯逝めんとげ〈[#底本のまま]〉申すべく候哉、行先の道々のつまりに、屈強の兵共を伏置き、謙信追来り候はゞ、伏の内へ引込み、前後より取包みて打果すべしとの行、鏡に写る如くなり。斯様の段を料らずして、追駈けて越度を取るべき事、不覚の至りなりと、中に追討つ事、仕るべからずとて、謙信は本郷より松任へ引取られ候。後聞は案の如く、信長八所に軍兵を構へさせ、謙信を待懸け候ひつる由、両将の智計を、天下にて感じ候。此秋甲州武田四郎勝頼より、両使を以て越府へ差越し、向後謙信と和談仕り、信長を両方より打果し申すべき由申越され候。謙信は尤に候間、さ候はゞ、人質を越府へ差越され然るべき旨に付、勝頼合点無之候。

○天正四年丙子、四十七歳。正月、謙信請待に付、高野山より無量〔寿イ〕光院清胤法印、越後の府内宝憧寺に来る。三月、謙信越府を立ちて越中へ発向。椎名泰種が籠る所の蓮沼城を攻め落オープンアクセス NDLJP:91し、泰種自害。夫より謙信は、飛騨国へ打入り、白屋筑前守先手にて、江島常陸介を攻めらる。是皆信玄以来、武田の旗本なり。勝頼は、椎名・江馬が謙信に取詰めらるゝを聞きて、後詰して謙信と一戦あるべしと陣触有之候を、家老共勝頼を諫め、只今信長・家康と合戦最中にて候に、又謙信と取合になり候はゞ、武田は即時に滅亡なさるべき旨、意見申すに付、勝頼出でずして、椎名・江馬滅亡するなり。江馬常陸介切腹にて、飛騨は謙信手に入り、国司姉小路宰相頼纜も謙信へ降参。仕置等ありて、直に加州へ打入る。此国小松城には、信長より、戸沢右近を差置かれ候に付、早々越前の柴田勝家・前田利家へ申遣候。利家を大将にて、柴田伊賀守勝豊・佐久間玄蕃允盛政・金森五郎八長近・原彦次郎師頼八千にて、加州宮腰迄出張仕候。謙信先手竹股参河守朝綱・安田治部少輔順易・甘糟備後守清長・平賀志摩守頼経・山岸宮内少輔、五備にて取懸り合戦あり。利家を始め、総敗軍に罷成り候て、先の内上倉治部少輔浅葱四半に銀にて月を書き、下に木賊を紋に書きたる旗幟はたじるしにて先陣致し、信長方を突崩し、手柄を仕に付、謙信感悦し、古歌を上倉が旗に、自筆にて書付けらる。

   木賊かるそのはら山の麓よりみがかれ出づる有明の月

此上倉は、隠なき大剛の侍大将、数度の覚の兵なり。〈此時、越後方武耳与二兵衛は、柴田勝家が供毛屋又八を討取り、宇佐美民部勝行も、佐久間半助を討取る。柴田方溝口半之丞と鑓を合せ、勝負なく物分れ仕る。此半之丞は、後に亀田大隅と号す。〉

○天正五年丁丑、四十八歳。正月、大和国多門・志貴両城主松永弾正少弼久秀、信長に怨多し。去年より大坂門跡連如上人光佐を攻めん為め、天王寺に附城を、信長より取立てられ、佐久間右衛門尉信盛父子・進藤山城守・筒井順慶と同じく、松永も天王寺に罷有候が、越後へ両使を以て内通仕候は、天王寺附城を引払ひ和州へ引籠り申すべく候間、謙信公は北国通を越前へ御働きなさるべく候。毛利右馬頭輝元へも申合せ候。東西南北牒じ合せ、京都へ攻め入るべき旨、誓紙を以て申入れ候に付、謙信も返状遣し申され候。五月に、越府春日山城槿の間にて、毛利名左衛門と直江大和守実綱と、意趣ありて闘諍。直江大和守を毛利名左衛門斬殺し、傍に儒者専柳斎罷有候をも、名左衛門斬臥せ、其上に謙信を心懸け、奥へ斬込み候。城中以の外騒動仕候処に、登坂・角田出合せ、名左衛門を討止めて静り申候。是は名左衛門知行の事に付、直江大和守並に専柳斎出頭に任せ、謙信へ讒言したると聞きて、大和守を討果し、専柳斎をも斬殺し候。大和守男子なし。此直江大和守は、代々越後直江城主久しき家にて、オープンアクセス NDLJP:92殊に大和守父入道酒椿は、謙信幼少より忠勤他に異なりしに、其上大和守未だ神五郎と申せし時分、飯沼頼勝逆心せしを、謙信下知にて、人数を連れて馳向ひ、一戦に切勝ち、頼清を討取り、手柄を顕し候より、以来謙信左右に在りて度々の事に合ひ候。川田豊前守長親・吉江紀四郎定治と直江大和守実綱は、謙信の寵臣出頭人にて候に、不慮に打果て子なきに付、謙信小性出頭人樋口与六郎兼続〈越後国与板城主樋口与宗右衛門尉が子なり。木曽義仲四天王樋口次郎兼光が後胤なり。〉を直江大和守が壻養子にして、一跡を申付け、直江与六郎と改名仕り、後に直江山城守と号し、三十二万石を領知仕候。但し樋口与六幼少の時は、謙信姉仙挑院殿に小扈従にて奉公仕候。七月に、佐渡国侍下尾佐渡守・本間山城守逆心、水畑城に籠り候を、黒川備前守・山吉孫次郎・本庄美作守・色部修理・新発田因幡守を遣し攻め平らげ、即ち静謐。佐渡国侍沢根・潟上・羽茂・佐原田四人は、元より謙信味方にて候。羽茂参河守高信は、長尾為景姪壻なり。九月、謙信は松永手合にて越後を打立ち、越中を通り、能州穴水城を攻め落し、長九郎左衛門父子四人を打取り、加州へ乱入。小松城・安宅城・山道山城を攻め申され候。松永弾正は、天王寺附城を立除き、和州信貴城に楯籠り候に付、是へは信長公嫡子城介信忠を差向け、信長は安土を立ち越前へ打出で、加賀国へ入り、謙信に差向ひ申候。謙信は小松・安宅・〔三イ〕道山の城を攻落し、直に石動橋に陣取申され候。信長公は、柴田勝家・徳山五兵衛・原彦次郎金森五郎八・滝川左近・前田又左衛門・丹羽五郎左衛門・不破彦三郎四万八千にて、謙信陣所より、一里半近所の川を越え陣取り申候。此時信長は、殿馳おくればせに来る侍大将の真似して、其夜中に川を越えて、先手へ加はり申され候。信長向ふと知らせては、曳口大事と考ふる故なり。功者の大将と後日に褒め申候。謙信より鬼小島弥太郎を使者にて信長方へ遣し、明日卯の刻の一戦と定められ候。信長公は其夜に、陣払し引取申され候て、越前の金津迄馬を納申され候。此段謙信聞きて大に笑ひ、流石の信長かな、其儘居候はゞ、悉く蹴散して川へ切入るべき者を、一段功者なりと称美せられ、夫より信長の跡を追ひて、越前の内迄働き、丸岡の城下焼働せられけるに、信長は長浜迄引取り、謙信に構ひ申さず候。然る所に、十月十日に信貴城落ちて、松永弾正父子討死の由聞え候に付、謙信は、此上は詮なし、其上次第に陰寒強く、雪も降積り候故、謙信より新谷源助を使者にて、信長へ申入れられ候は、来春三月十五日に、必ず越後を出で上洛仕るべく候間、其時分、信長も安土を出でられ差向けらるべし。両家興亡の合戦致すべしとの旨なり。信長公は、謙信の使者オープンアクセス NDLJP:93に対面し、返答には、武辺は誰も致す事なれども、謙信の御弓箭は、摩利支天の所変の業にて、日本一州にたけを双ぶべき者覚え申さず候。来春謙信御上洛に付いては、路次迄出迎へ、扇一本腰に差し一騎乗込み、信長にて候降参仕ると申し、夫より都へ案内者致さば、流石の謙信も、信長粉骨して治め取り候天下を、召上らるゝ事有まじく候間、さ候はゞ、信長は西国、謙信は東国を治められ、両旗にて禁裏を守護仕るべき旨、構はざる返事なり。謙信は、十月廿三日に越後へ帰陣なり。同月、上杉弥五郎義春を、上条城主上杉山城守景義〈上杉少胤入道〉の家督とし、上条民部大輔と号す。但し上条は、上杉兵庫頭清方、其子孫代々上杉殿といふ。景義兄は上杉兵庫頭定実、則ち謙信姉壻なり。同月廿五日に、上杉領分越後・佐渡・飛騨越中・能登・加賀・上野・出羽・信濃へ陣触。来年三月十五日に、謙信上洛の首途と定め候なり。十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人伏誅。是は三年前に、良馬を京都へ売りに遣候。信長公手を拍つて大に悦び、上杉君臣を離間する手段之にありとて、則ち馬代十層倍に買取り、即ち信長公自筆を以て、此度差上さるゝ所の馬、近頃の駿足にて、大悦不之候。伝へ聞き候に、北国は鷹の逸物有之由に候間、巣鷹を所望に存候間、必ず調へ候て給ふべき旨、書簡到来せしかば、柿崎之を実と思ひ、度々に鷹を買調へ、信長へ進上せしかば、此事顕れて、信長と内通逆心とある事にて、平賀宗右衛門・吉江中務・本庄越前守七千にて取巻き候処に、柿崎和泉守並に男子三人、手の者七百計り切つて出で、二時計り戦ひ、屋形へ引籠候。討手の人数数十人討たれ、手負数を知らず。其後遂に寄手乱入り、柿崎父子四人討たれ申候。柿崎は越後の国侍、久しき家に罷在候。〈上杉家論時源右衛門是なり。〉

○天正六年戊寅、四十九歳。正月より謙信上洛の用意、弥〻以て頻なり。加賀・能登・越中の軍兵は、謙信上洛の砌、路次にて待付け供仕るべし。飛騨の人数は、越中黒川にて、謙信出馬に参会仕るべし。上野・佐渡・庄内・信濃四箇国の軍兵は、越後春日山へ、三月五日前後に参著仕るべしとの触にて、二月下旬より馳参る人数、勝げて計ふべからず。然る所に、三月九日 〈一説十一日に厠より腹痛を煩由、〉昼より、謙信卒中風を煩付かれ、色々医療致し候へども、次第に重り候。直江山城守兼続・本庄越前守繁長・長尾権四郎景路を始め、老臣共内談して、謙信御逝去ある時、兎角他家へ取られんよりは、甥といひ同姓といひ、又子分に約束せられたる事なればとて、上田喜平次景勝へ上条民部少輔義春を遣し、内証をいひ入れ迎に遣す故、景勝潜に本丸へ入り、上オープンアクセス NDLJP:94田の者黒金上野介・宮島参河守・栗林肥前守を、本丸の大手・搦手門々の番に置き、上杉三郎景虎を本丸へ寄付けず候。但し三郎も景勝妹壻にて、然も謙信養子に定め候へども、上杉家の仇敵北条氏康の子なる故、越後の侍共、上下之を主君とせん事を悦ばず。家臣も上条民部も、喜平次景勝を謙信家督に立てんと志して、相壻の三郎を忌み申候は、三郎越後の家督とならば、小田原の氏政貪欲不義の人にて、頓て越後を北条領分にせられん事、目のあたりなりとの了簡なり。此の如くなる故、景勝本丸へ入りたる事は三郎は知らず。謙信の病気伺ひの為め、本丸に附置きたる山中兵部をも、上条民部指図にて二の丸へ出す。同月十三日に謙信逝去。不識院殿権大僧都法印謙信心光宗真大阿闍梨と号す。辞世に云、

   四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒 嗚呼柳緑花紅

其後葬送の儀あり。追善万部の法華経、種々の作善あり。遺骸をば瓶に入れ、塩を以て之を詰め棺に納む。五月三日は五十日の忌明に付、三郎景虎は、隠居管領上杉憲政入道立山と相議し、謙信在世の中より、家督約束の事なれば、早々本丸へ移り候はんと申され候。上杉家臣共同心せぬもあり。又三郎を家督にと思ふ族もあり。衆議区々にして、越後中も府内城も騒立ち、景勝方と三郎方二つに国中割れて、馬・物具と犇く程に、早や景勝は、本丸に謙信の紺地の日の丸の大四半の旗を立て、二の丸を見下し大鉄炮を放懸くるに付、三郎景虎怺へ兼ね、内室並に道万丸といふ八歳の子息引連れ、前管領上杉憲政入道の御入候御館城へ志し、五月十三日に、春日山二の丸を落ちて、上道一里半之ある御館城へ取除き申され候。是より憲政も、上杉十郎憲景・北条丹後守長国・本庄美作守慶秀・手塚主水・長尾播磨守以下、屈強の軍兵共一万余、皆三郎方へ馳加はる。春日山本丸は、鉢峯といふ城を引廻し大きなる池あり。一方に愛宕山あり、此山高くして、二の丸・三の丸を見下す。此愛宕山を取らんと、三郎方より心懸くるを察して、上条民部少輔義春、此山に砦を構へ防ぎ守る。三郎方よりは、愛宕山の麓、坂戸城に番勢を置き、愛宕山を取らんとす。上条之と日夜の合戦止事なし。却て越後国中の闘諍斜ならず。三郎と景勝と手切になり候て、既に合戦始むべしと之ある時、景勝母儀仙挑院は、上田より早々春日山城に来り、一族家臣末々の侍共迄、春日山本城水門へ呼び、簾を高く巻かせ、直に対面し申され候は、景勝は越前守殿子と申しながら、謙信の猶子なり。先祖長尾左衛門尉景忠より今謙信に至る迄、八代年数二百十余年、越後の執権として貴賤共オープンアクセス NDLJP:95に其因浅からず。誰か旧功を忘るべきや。殊更先考紋竹庵主、越中千壇野にて討死し給ひ、国中大乱に及びしを、謙信十四歳より謀を運し、十五歳の春に宿敵長尾平六を討亡し、夫より八箇年の間に、越後国中の凶賊を打平げ、上下枕を泰山の安きに置く事、皆謙信の恩なり。何れも心を一にして、味方の義戦を佐け、中興の謀を運すべきなり。構へて卑怯の振舞、二心を挿み、又は戦場にて押付を敵に見せ候はゞ、口惜き事なり。何れも頼み入候間、謙信の遺跡を景勝に知らせ候へとて、家老より末々の軍兵共迄、残らず盃を擬申され候へば、上下皆女儀の勇気に励され、感涙を流し畏り入候。忠功を励む所更に疎むべからずと、一同に肯ひ候。三郎方より小田原へ註進し、加勢を乞ひ申候へども、上野と越後の間、大切所多く候故、之を危ぶみ人数を出す事延引す。六月十八日に軍評議の為め、上条義春、春日山本城へ罷越候留守へ、三郎方本庄美作守・其子清七郎・上杉十郎取懸り、愛宕山の砦を攻め取り申候。義春は春日山に罷有り、右の旨聞くや等しく、其儘乗懸り散々攻戦ひ、其日に愛宕山を乗反し、三郎方の人数々百人討取り申候。此日の合戦、敵・味方、手負・死人数を知らず候。上条義春が手柄比類なく候。三郎方には、本庄美作老功の兵にて智謀尤も深し。北条丹後大剛の兵にて、合戦に馴れたる功者なり。毎度の合戦、多くは三郎方打勝ち候故、三郎方は日を逐ひて勢強く、景勝方は勢蹙り、既に一里半阻りたる御館よりは、春日山城下の町へ万事買得に来れども、城中より、城下の町へ出づる事は心に任せず、本庄越前守繁長・新発田因幡守治長・山本寺庄蔵・斎藤下野守を始め、景勝方へ見続ぎ申候へども、自分の領分皆三郎方と入接り、在々所々にて取合ひ申候故、春日山へ思ふ儘に加勢する事叶はず。三郎は小田原へ数度飛脚を遣し、此方毎度勝利を得申候間、御加勢を給はり候へ。景勝を退治し、越後を討平げ候はんと申遣すに付、氏政より遠山丹波守・富永三郎左衛門・中条出羽介・恒岡美作守・太田大膳・北条治部都合一万八千余、小田原を立ち、氏政より妹壻武田勝頼へも申合され候故、三郎加勢として、勝頼も一万余、川中島通り越後の老津迄出馬にて、小田原陣の著の一左右を聞きて、春日山城へ取懸るべしと待申され候。景勝方には小田原の加勢著陣し、勝頼信濃口より攻入らば、表裏に敵を受け敗軍疑なし。上杉家老斎藤下野守朝信之を聞き、早々居城赤田より馳参り、景勝へ諫言を申して、勝頼は出頭人長坂入道釣閑・阿刀部大炊入道々印、次第に万事致さるゝ由なれば行行るべしとて、勝頼へ黄金一万両に出頭へ二千両宛進物とし、芋オープンアクセス NDLJP:96川縫殿助・島津月下斎を勝頼へ遣し、東上野を勝頼へ進上仕候間、向後御旗本に罷成候。其上勝頼妹を景勝内室にと申越されければ、勝頼も長坂・阿刀部も、景勝使者に対面し、和談相調ひ、互に誓詞を取換はし、勝頼妹壻に景勝約束ありて、勝頼は老津より甲州へ帰陣あり。小田原加勢の北条衆も猿が京迄押来り候へども、勝頼別心にて、景勝一味と聞き、越後へ入る事叶はず、猿が京より小田原へ引返し、三郎方力を落し候へども、本庄美作守・其子清七郎・北条丹後守其外屈強の兵共荷担一味致し候故、少しもひるまず、合戦日夜の勝負にて候。其歳は極月迄取合ひ歳も暮れ申候。此度斎藤下野守朝信てだてにて、大事を通れ連を開かれ候故、朝信が恩と未来迄忘るべからず。子孫に至つて疎略あるべからざる旨、景勝誓紙を朝信に遣はされけるなり。

 
太祖一代軍記 大尾
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。