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聖金口イオアン教訓下 第6講話
<<誰(たれ)か信者(しんじゃ)と名(な)づけらるゝを得(う)るか>>
すべてを信(しん)ずる者(もの)は信者(しんじゃ)にあらざるなり、されど神(かみ)を信(しん)ずる者(もの)はこれたゞ信者(しんじゃ)と名(な)づけらるべし。穿鑿(せんさく)をやめて信仰(しんこう)をうけよ。信仰(しんこう)はすべてを照(てら)し、信仰(しんこう)はすべてを聖(せい)にし、信仰(しんこう)は人(ひと)を聖神(せいしん)をうくるに堪(た)ふる者(もの)と為(な)す。聖書(せいしょ)に言(い)ふ『ステファン信仰(しんこう)と能力(のうりょく)を充(み)てり』〔行傳六の八〕。もし此(こ)の聖人(せいじん)に先(ま)づ信仰(しんこう)の照(てら)さゞりしならば、随(したが)つて能力(のうりょく)も生(しょう)ぜざりしならん。信仰(しんこう)のある処(ところ)には能力(のうりょく)もあるべし、されど不(ふ)信(しん)のある処(ところ)には劣弱(れつじゃく)あらん。信仰(しんこう)は諸善(しょぜん)の始(はじめ)なり、信仰(しんこう)は諸善(しょぜん)の泉(いづみ)なり。汝(なんぢ)此(こ)の救(すくひ)の武器(ぶき)を獲(え)よ。