<<恐るべき審判の日に益を與ふるものは何なるか>>
世の富貴顕栄は恐るべき審判の日に於て、我等に何の益も與へざらん、たゞ正しき教を守ると共に誡命にしたがふは我等に助けん。霎時も此を忘るゝことなかれ、我等衆人の呼吸は神の手にあり、されば、神は欲する所に随ひて、一者には生命の年を増加するも、他者にはこれを短縮するを疑なく知りて、神をおそるゝの心を己が霊より抜去ることなかれ。主いふ『殺すことゝ、生かすことゝは我これを為す……我の手より救ひ得る者あらず』〔復傳律令十の三十一〕[1]。我等人類は皆塵なり、灰なり、花なり、草なり、細末なり、影なり、烟なり、幻影なり、されば生命を有たずして生存するなり、けだし『汝は地なれば地に帰るべし』〔創世記三の十九〕てふ宣言を我等全族に下されしや、其瞬間より我等皆共に死と腐敗とを衣たり、さればたとへ一は今日死し、他は明日死すといへども、最早皆総て死に服したるなり。我等は地より生じ、若干の時を経て再び地に帰らん、王も平民も首長も属下も皆同じ……。善を行ひし者は、生時にも死後にも讃美せらるべし、さらば報酬の日には生命に至るの復活を得んが為に出来らん、されども悪を為したる者は、此世に於ては衆人より常に詛と罵詈とをまき散らさるゝが如く、起きて復活するも、最早生命に至るの復活にはあらずして、審判に至るの復活ならん〔イオアン五の廿九〕。
- ↑ 投稿者註:復傳律令は申命記に同じ。十の三十一となっているのは三十二の三十九の誤りだと思われる。