聖金口イオアン教訓下/第42講話

第42講話

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<<あなどりゆるすべし>>


近者きんしゃつみをゆるして、かれためいのるべし。おのれと同等どうとうぼくよりひゃく「デナリ」のはらひ督促とくそくしたるものは、その同僕どうぼくにはがいこうむらしめず、かへつおのれと同等どうとうぼくよりきちやうめんなる督促とくそくをなしたるがために、みづからは十千「タラント」のおひめゆるさるべきをうしなひて、定数ていすう鞭撻むちをうけたりき、これと相反あひはんして、近者きんしゃつみゆるものこれによりてみずから来世らいせいおいこたへざるべからざるせめきびしきをゆるむるのみならず、つみゆるすこといよ〳〵おほければいよ〳〵おほ寛宥かんゆうをうけん。さりながらちがひ数量すうりょううえにあるにあらざるなり、ようするにかれはたゞよくぼくのあらはすことをるだけのあはれみをあらはすのみなれども、恩賞おんしょう主宰しゅさいあたふるをくするところのものをうけん。しかれどもわれにいふなかれ、なんぢはづかしめたるものよう々々つみおかせりといふなかれ。なんぢのいふごとかれあやまちはます〳〵おもければ、なんぢかれ寛宥かんゆうをあらはすの緊要きんようなることもまたます〳〵あきらかなり、けだしかくのごとくなれば来世らいせいおいおのれにあはれみることもます〳〵おほいなればなり。おのれいかりてよ、健全けんぜんなるかんがへもつおのれこころしづめよ、これもつかみへのまつりにさゝげよ……。近者きんしゃにほどこすところぜんつみをきよむるおほいなる献祭けんさいなり、いはく『もしひとつみゆるさば、なんぢてんなんぢにゆるしたまはん』〔マトフェイ六の十四〕。