<<いかなる祈祷は力を有するか>>
『主や我れ深き処より汝に呼ぶ、主や我が声をきゝ給へ』〔聖詠百廿九の一〕。深き処よりとは何の意ぞや。単に口を以てせず、単に舌を以てせず、〈けだし思念がまよふ時も、言は流れ出づればなり〉大なる勉励と熱心とを以て心の深き処より、霊の奥底よりとの義なり。深憂に在る者の霊はかくの如し、彼等は大に傷み悲みて神を呼び、中心に於て全くふるひをのゝくなり、故に其祈祷は聴かれん。かくの如き祈祷は、たとへ魔鬼の大なる狂妄を極めて攻撃するありとも、放心せざるべく、又揺動することもあらざるべくして、大なる力を有せん。地中に甚深く根を放ちて、地心にわだかまり、牢として抜く可らざる樹は、いかなる暴風にも抵抗すれども、地の表面にたもたるゝ樹は、風の小しく噓くにも揺動し、根こそぎ掘出されて、地上に仆れん、霊の内部より出で、心の深き処に根を托する祈祷も実にかくの如し、たとへ無数の思念と魔鬼の全隊とを以て攻寄するありといへども、堅く立ちて撓まず、又動揺せざるなり。然れども口頭又は舌端より出でて霊の深き処より生じ来らざる祈祷は、祷る者の怠慢により、神に登ることさへ能はざらん、何となればトンヽヽと叩く最微なる響も彼の心を攪乱すべく、又すべての騒しきは彼を祈祷より引離すべくして、彼は口にて音を発すれども、心は虚にして、智識は奪はるればなり。
薫物は固より自ら美にして香ばしけれども、これを火上に置く時は、特に芳香を発せん、祈祷もかくの如し、固より自ら美なれども、熱心にて燃ゆる霊よりさゝげられ、霊が香炉となりて、自ら強き火を燃す時は、更にいよ〳〵善く、更にいよ〳〵香ばしかるべし。炭が火となり、真紅とならざる先きには薫物をこれに置かざらん。汝も霊を亦此の如くならしむべし、まづ熱心にてこれを燃して、既に燃えたる時に、祈祷をこれに置くべし。預言者は其の祈祷の薫の如くならんことゝ、其手を挙るは暮の祭の如くならんことを願ふ、けだし彼も此も神によくうけらるればなり。何ぞや。彼も此も〈舌も手も〉潔められ、彼も此も玷されざるときは、即此は貪欲と掠奪とより潔められて、彼は悪言より免るゝを得るときは、神によくうけられんとなり。香炉には何の不潔なるものもあるなうして、たゞ火と薫物とのみなるべきが如く、口も一の汚れたる言をも発すべからず、聖なることゝ、讃美とにみちみたさるゝ言を発すべし。さてこれと同じく手も香炉の如くなるべし……。これを施済と、仁慈と、窮乏の者に助くるとを以て潔めて其後これを祈祷にひろぐべし。もし汝は洗はざる手を以てさへ祈祷に就くを自ら許さずんば、況てこれを罪を以て汚すべけんや。もし汝は小なるものを畏るゝならば、況て大なるものは、恐れ且をののかざるべけんや。洗はざる手を以て祈祷するは、左程の不都合といふにもあらざらん、されども罪の多きを以て汚されたる手をひろぐるは、これ神の大なる怒を招くなり。我等は口と舌とに関しても亦此の如く思ふべし、これを守りて、悪の為に近づき難からしめ、此の如くしてこれを祈祷に用ふべきなり。それ純金の器物を有する者は、其の貴きが故に、決してこれを卑しく流用することをゆるさずんば、況て我等は金と真珠とよりも更に貴き口を有して、これを無耻なる、汚穢なる、讒謗罵詈の言を以て汚すべけんや。汝は薫物をさゝぐるに銅造の壇に於てせず、又純金の壇にも於てせずして、これよりも更に貴重なる壇に於てす、即霊神上の殿に於てするなり。彼処には不霊の物体あれども、汝には神は住み給ふ、即汝はハリストスの肢なり。
清潔の霊と不眠の心とをあらはし、放心せずして祷る時は、神は特に汝の願ふ所を汝に與へ給はん、多くの者の為す所は如何なるか、彼等が舌はしば〳〵祈祷の言を発すれども、其霊は家や、市場や、又は道路にも彷徨ふにあらずや。皆是れ魔鬼の狡計なり。祈祷の時に於て我等が罪のゆるしをうくべきことは、魔鬼の知る所なり、故に我等の為に祈祷の湊を塞がんと欲し、我等が思念を其発する所の言より引誘せんとして、此の時に我等を襲ふなり、よりて我等は益をうけず、却て害をうけて退かんとす。人よ、汝此を知りて神に就く時は、汝は誰に就くを熟思せよ、こは汝をして恩寵を汝に賜はんとする者の確実なるに注意せしむる充分の縁由とならん。汝は天を仰ぎ観て、其言を誰に向はしむるを熟思せよ。すべて人は、仮令甚だ等閑なる者なりとも、人爵の己より少しく高き人と会見せんとするときは、必ず己の容儀を整ひ、己の霊を儆醒せん、況て我等は神使の主宰と談話せんとするを熟思する時は、此によりて己の為に注意すべき充分の縁由をうけん。汝は又放心を避け得べき他の方法をもあらはさんことを要するか、我れこれをつげん、我等は祈祷を終へし後、言ひし所を何も聞くあらずして退くこと屡これあらん、此を認めば、我等は直ちに新に祈祷を復せん、されどもし更に同じきことあらんには、三次も四次もこれを復してすべての祈祷を注意と共に言ひ得るに至る迄は、これに先だちて祈祷をやめざらん。さらば魔鬼は我等が熱心と注意とを以て言ひ得るに至る迄は、これに先だちて、祈祷をやめざるを認むるときは、其の狡計を徒に我等をして屡同祈祷を復せしむるのみなるを見て、終に其の狡計を棄てんとす。