<<我等が祈祷の必しも成らざるは何故か>>
神は時として與ふれども、時として與へざることあり、然れども彼も此も共に利益のために為すなり、故に汝はうくるといへども、又は受けずといへども、其の受けざるに於ても汝はこれをうくるなり、汝は望むところを達すといへども、又は達せずといへども、其の達せざるに於ても汝はこれを達するなり。けだし願ふところを受けざるは、うくるより有益なること屡これあればなり。もし願ふところをうけざるは我等の為に屡益あらずんば、神は必ずいつも與へ給ふならん、然れども益あるが為にうけざるならば、これ即願ふところを達すといふべきなり。故に神は賜を遷延して我等を苦しめんことを欲せざるも、其の延期により常に易らずして堅固なる注意を我等に教へんとして、我等の願を成すを猶予すること屡これあり。けだし我等は願ふところをうけて、其後祈祷に於る熱心を弱むることしば〳〵これあるにより、祈祷に於る我等の熱心を強めんと欲して彼は賜を遷延するなり。慈愛なる父母も此の如く行為するなり、懶惰にして嬉戯に耽る所の子に許多の賜を約束して、これを己の側に止むること屡これあり、故に時としては賜を延引することあり、時としては全く與へざることも亦これあり、我等は己の為に何か有害なるものをも願ふことなきにあらず、さりながら神は我等の為に有益なるものを我等より尚善く知るが故に、我等の為に有益なるものを我等に知らしめずして計り、我等の祈求を遂げしめざるなり……。されば我等は己の心を立つること左の如くせん、神は願ふところのものを與へんか、或は與へざらんか、彼と此との為に等しく神に感謝せん。けだし彼と此との場合に於て神は我等の為に益あることをなせばなり。それ與ふるは彼の権にあらば、與ふる時に何を與へんも又は與へざらんも彼の権にあるべし。汝は自ら己の為に益あるものを神の知る如く善く知らざるなり。汝は無益なるもの、又は有害なるものをも願ふこと屡これあり、然れども彼は汝の救の事を多く慮り、汝の願を見ずして、却てこれに先だちて汝の為に常に益を見んとす。それ肉身の父母が願ふところの子に悉く與へざるは、彼に注意せざるが為にあらずして、彼の為に大に慮るによる、況や我等を大に愛し、大に益あることを知るの神は此の如く行為せんとす。さらばたゞに日中のみならず、夜間に於ても、断えず祈祷を練習せん……祈祷は大なる武器なり、祈祷は大なる飾りなり、防禦なり、湊なり、万善の宝蔵にして奪ふべからざる富なり。