- ダウィドの詠『相続者の事』。
一。 前以て此相続者の受くべき遺産は如何なるものなるか、及び此遺産相続は吾人にも関するものなるかを観察して、次に此遺産は如何なる場合に於て賜はらるるかを示さん。遺命によりて相続権の吾人に拒絶されし場合に於て、自己に属する財産を慮るが如くに遺産を穿鑿し、或は其證書を尋求め、或は之が為に金銭を費し或は法律を参考し、法規の謄写をなす等所有労力を盡くすは、眞に無智なりしならん、又爰に既に霊的遺命のあるあり、吾人の前には凡べての文書開かれ、而も非物質的遺産の横はるに際して、之を不注意等閑に附するは眞に無智たりしならん。然れば吾人は近づきて文書を開き、其中に録されし事を熟知して、此遺産は如何なる規約にて吾人の前に置かれしか、又其相続権の本義は如何なるものなるかを観察せん。主は徒に遺産を吾人に遺さずして、或規約の下に於てせり。然らば如何なる規約の下に遺したるか。主曰へり『我を愛せば我が誡を守らん』〔イオアン福音十四の二十一、二十三〕と、又曰へり『己の十字架を負ひて我に従はざる者は我に宜しからず』〔マトフェイ福音十の三十八〕と、其他聖書には尚ほ多くの規約あり。吾人は斯る遺産を受くべき時をも研究せん。此時は現在にあらずして未来にあり、或は之を正確に言ひ顕せば、現在にてもあり、未来にてもあるなり、主曰へり『惟神の国を求めよ、然らば此れ皆爾等に加はらん』〔ルカ福音十二の三十一〕と、然れども完く遺産を相続するは彼の時に在りとす。現世の生命は速かに過去り、且つ吾人は爰に尚不完全の状態にあるが故に、世の律法者が既に成年に達したる相続者に父の財産を譲與するが如く、神も亦斯の如く吾人になし給ふなり。吾人が成全の人となり、円満に成長して不朽の生命に移る時は、神も亦此遺産を吾人に譲與し給ふなり。然れど神は爰にも同じく信憑となるべき文書を吾人に遺して、吾人が遺産を受け、又相続権を失はず奪はれざる様為すべきことを語げたり。若し吾人の尚未だ不完全なるが為に或人を恐れしめ、又我が語げし所にして疑を起さば、現世及び来世に就きて談話しつつ『我童子たりし時、童子の如く言ひ、童子の如く思ひ、童子の如く謀れり、人となりて後は、童子の事を息めたり』〔コリンフ前書十三の十一〕と云ひ、又『成全の人と為り、全き成長の量に至るに迨ぶ』〔エフェス書四の十三〕と云ふ所のパウェルに聴くべし。彼謂らく、吾人は現世に在りて此世を以て養はるること、恰も乳母に養はるるに等しきも、主の殿に入らんとするや、朽つべき衣を棄て、朽ちざる衣を衣て他の生命に移るなり。多くの人々の相続権を剥奪さるるは成文の規約に照らして、其遺産相続に不適当なる時にありとす。吾人は今此遺産の如何なるものなるかを観察せん。此遺産は『目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ入らざる』所なり〔コリンフ前書二の九〕。吾人の理解し得ざる事を、如何で吾人は現世に於て利用し得んや。故に此遺産は吾人の為に来世に保存せらるるなり。又視よ、神の大なる照管を、彼が現世に於て艱難を定めたるは、是れ其重荷の暫時にして軽くせられん為なり、又来世の為に幸福を保存せるは、是れ老いざる生命に於て報償の永く続かん為なり。神は此生命をも国と名づく。縦ひ、其言を以て顕されざるも、神が来世の状態を今我が言ひし如く、或は国と名づけ、或は婚姻と名づけ、或は主権と名づけ、及び吾人が用ふる光明なる名称を以て吾人に来世を会得せしめつつ、或は永遠の光榮不死の幸福、何ものも比較し得ざるハリストスと偕にする生命と名づけて像りしことのみは聴くことを得たり。教會の規約即ち相続の規約は如何なるものなるか。此規約は毫も困難なるものにあらず。主曰へり『人の爾等に行はんと欲する者は、爾等も是くの如く之を人に行へ』〔マトフェイ福音七の十二〕と。爾は神が何の不思議なることをも命ぜずして、天性の要求する所を命ぜしを見るか。主曰へり、爾人の爾に行はんことを欲するが如く、自らも行へと。爾人々の爾を讃んことを欲せば自ら人を讃めよ。爾人が爾の所有を竊取ることを欲せずば自ら竊取る勿れ。爾尊敬されんことを欲せば自ら人を尊敬すべし。爾慈憐を得んことを欲せば自ら慈憐を顕せ。爾愛せられんことを欲せば自ら人を愛すべし。爾自己の悪事を聴かざらんことを欲せば自ら人の悪事を云ふ勿れ。又主の表言の如何に正確なるを認めよ。彼は『人の爾等に行ふことを欲せざる者は爾等も斯くの如く之を人に行ふ勿れ』とは云はずして 『欲する者』はと曰へり。善行をなすに二道あり、一は悪癖を遠ざかること、一は善行を行ふことなり、故に神は明かに後者を以て前者をも示しつつ、後者を吾人に示せり。神は『爾自ら嫉む所のことを人に行ふ勿れ』〔トウィト書四の十五[1]〕と言ひて、前者の方法を示し、又『人の爾等に行はんと欲する者は爾等も是くの如く之を人に行へ』と云ひて、明かに後者の方法を示せり。
二。 又他の規約あり。其規約とは如何なるものなるか。己を愛するが如く人を愛することなり。何ものか之より容易なるものあらん。嫉むことは困難にして不安と結合せらるるも、愛することは容易にして便利なればなり。主もし吾人に、人々よ、爾等猛獣を愛せよと云ひたらんには、之を行ふや誠に困難なりしならん、然れども彼は人々に種族により、出所により、相愛の精神によりて愛し易き人々を愛すべきことを誡められたり、之を行ふに何の困難かあらん。此天性の類似が互に相愛せしむることは、独り人類にありて然るのみならず、獅子又は狼にありても然るなり。是に由りて吾人が獅子を制し、之を馴らすに際して、吾人と同族の人々を愛せずんば将た如何なる弁解を為すべけんや。爾等は多くの人々が遺産を相続せんが為に、自らは強壮の青年なるに、老人の為に苦役せられ、老人を看護し、常に老人の左右に侍して、老年と伴ふ所の脚痛・癱瘋・其他老人の疾病より来る凡ての不快を忍受くるを見ざるか。然れど彼処には唯富を得んと欲する一の希望、而も不忠実なる希望あるのみなるも、爰には天あり、又天の前に神の仁慈あり。聖詠の表題には『相続者の事』と云はれたり。此相続者は何人なるか。教會及び其全會員なり、パウェルは教會に就きて『我爾等を一の夫に聘定せり、浄き処女としてハリストスに献げん為なり』〔コリンフ後書十一の二〕と曰ひ、又イオアンは『新婦ある者は新娶者なり』〔イオアン福音三の二十九〕と曰へり。然れども通例の新娶者にありては、婚姻の後数日にして其愛情弱まるも、吾人の新娶者は断えず吾人を愛し、且つ断えず己が愛を強む。イオアンは吾人の新娶者の愛の特に強きを顕しつつ之を新娶者と名づく。又イオアンが教會を新婦と名づけたるは、啻に之のみならず、吾人衆人に善行と愛とによりて一の体、一の霊たらんことを希望するによりてなり。而して新婦は新娶者を悦ばすが為に凡てをなすが如く、吾人も亦生涯斯くせざるべからず。新婦は婚姻の宮殿に移りし其日より、唯如何にして新娶者を悦ばすべきかを慮るが如く、吾人も亦現世の一生涯に於て、如何にして此新娶者を悦ばすべき、又新婦の善良なる性質を保守すべきことのみを慮らざるべからず。此新婦に就きてはダウィドも『皇后は爾の右に立ち、妝ふに金を以てし、其衣は金を繍とす』〔聖詠四十四の十、十四(詩篇四十五の十、十四)〕と言ひて記憶す。爾は其靴をも見んと欲せんか。新娶者の友なるパウェルの言ふ所を聞け、曰く『和平を福音する預備を以て足に履はけ』〔エフェス書六の十五〕と。其義より織成せる帯をも見んと欲せんか。パウェル又爾に教ふ、曰く『真実を爾等の腰に束ねよ』〔同上六の十四〕と。彼の美を見んと欲せんか。此れ亦パウェルより知ることを得ん、曰く『汚或は皺を有たず』〔同上五の二十七〕と。之に就きて睿智者(ソロモン)の言ふ所を聞け、曰く『我が佳耦よ、爾は悉く麗しくして少しの疵もなし』〔雅歌四の七〕と。彼の足をも見んと欲せんか。使徒の『平安を福音し、善事を福音する者の足は美しき哉』〔ロマ書十の十五〕と曰へるを聞け。而して彼が斯くの如く新婦を飾りて、自らは其悉くの光榮を顕して来らざりしは誠に奇異にして驚くべし、是れ己の豊なる美を以て新婦を驚かさざるが為なり、乃ち新婦にある所の同じ衣服を着け、即ち彼にある『同一の肉と血とを受けて』〔エウレイ書二の十四〕来れり、又彼は新婦を天に呼ばず、新娶者の新婦に来る作法を守りて自ら上より彼の処に来れり。此事に就きてはモイセイも『是故に人は其父母を離れて其妻に好合へ』〔創世記二の二十四〕と云ひ、パウェルも『此の奥義は大なり、我ハリストスと教會とに於て之を言ふ』〔エフェス書五の三十二〕と云へり。新娶者は新婦の住居に来り、其血に塗れたる不潔なる裸体を見て之を洗ひ、油を塗り、充分に飲食せしめ、衣服を着せて見違へん許にせり。新娶者は自ら新婦の為に衣服となり、斯くして彼を取りて己の処に導く。是れ相続に準備へられたる者なり。預言者は新婦に就きて何ことを言ひしや。彼は多くのことを言へり。預言者は新婦の保護者なり、而して新婦の前に立つものの中より新娶者・婚姻・彼の受くべき幸福に関して多くのことを彼に預言し、又預告せり。彼は又爰にも新婦に就きて曰ふなり、彼は裁判に於ける弁論家の如く、最初に其相続者に就きて公平なる弁論をなすことを述ぶ。相続する所の新婦は何事を願ふか。吾人は聞かん。『主よ。我が言を聴け』〔二節〕。新婦は新娶者を主と名づく、是れ賢しき新婦に適当なる言なり。実際同一の天性を有する吾人の間に在りても、妻は夫を己の主人と称ふ、况て教會と元来主宰たるハリストスとの間に於てはハリストスを主と名づくるは當然たる也。視よ、何によりて教會は爰にハリストスを主と名づくるを、啻に新娶者としてのみならず、主宰として称ふるにて、且つ新婦の願を聞かしめん為なり。新婦の前には相続権(を受くること)あり、而して此相続は新婦が唯誡られたる所を正しく行ふ場合に於て受くるが故に、新婦は約されたる幸福を受け及び相続権を奪はれざるが為に其佑助者たらんことを彼に請求懇願するなり。是に由りて新婦は『主よ。我が言を聴け』と言ひ、且つ彼は新娶者が彼に賜はんと欲するものを願ふが故に敢て之を言ふも、賜ふ所の者に適はざることを願ふ者は、斯くの如くに仁慈を願ひ得ざりしならん。誰か仇、或は己に悪を為す人々に悪しかれと願ふ時は、是れ人の言にあらずして悪魔の言なり。実際に若し悪魔の詛が主の言の如く『此に過ぐる者は悪よりす』〔マトフェイ福音五の三十七〕る時は仇に対する祈祷も亦悪魔よりす。然れば爾が『我が言を聴け』と云ふ時は温柔慈憐にして悪魔の何ことをも有せざる人に適当なるが如くに言へ。
三。 『我が呼ぶ聲を悟れよ』爰に預言者が『呼ぶ聲』といへるは、声の音響にあらずして霊の状態なり。然ればモイセイは黙し居たれども、主は之に『爾何ぞ我に呼はるや』〔出埃及記十四の十五〕と言へり。主が爾我に何事を禱るやと云はずして、爾何ぞ我に呼はるやと云へるは、是れモイセイが熱切なる心を以て神に近づけるによる。而して預言者は爰にも神の叫のことを云へるにあらず、乃ち心の状態及び熱心にして神に向ふべきことを言へるなるを爾に見せしめんとて、爾我が呼ぶを聞けとは云はざりしなり。然らば何と云ひしか。彼は『悟れよ』といへり、即ち知れよの意なり。斯く預言者は普通の言を用ひたるも、此言に於て恰も彼は将に言はんと欲する所を顕すが如し。『我が祈願の聲を聴き納れ給へ』〔三節〕。彼は再び内心の声を悟らしむ。アンナ[2]も斯く呼べり〔第一列王記十の十三〔ママ〕[3]〕。預言者は単、我が祈祷の声を聴容れ給へと云はずして『我が祈願の』聲をと云へり、何となれば禱る者は外部の状態のみならず、内部の傾向によりても、謙遜たるべければなり。祈願ふ者は誣告者の如き言を用ひず、敵の不幸を禱る者は祈願者と云はんよりは、寧ろ訴訟者なり。爾は預言者が如何に祈祷を整へて其祈祷を受くるに堪ふるものとなししを見るか。然れば吾人も祈祷して聴容れられんと欲せば、前以て吾人の祈祷が祈祷となりて、聖詠者の示ししが如く誣告とならざる様にすべし、斯くて吾人は祈祷を神に献ぐることを得ん。『我が王我が神や』。是れ預言者の数々用ひし言なれども、最も多く之を言ふの特権を有ししはアウラアムなり、パウェルは彼に就きて『神は彼等を耻とせずして、己を彼等の神と称ふ』〔エウレイ書十一の十六〕と云へり。相続する所の教會も同様の表言を用ひたれども、愛によりて之を用ひたり。教會は単王と云はず己の愛を顕しつつ『我が王我が神や』と云へり。次に教會は神が教會に聴容るる様願ふ所の理由をも述ぶ。此理由は如何なるものか。『主よ、我爾に禱ればなり』と。然れども爾は云はん、誰か神に禱らざるかと。多くの者は神に禱る者の如く見ゆるも、其祈るや人々に示さん為なり。教會は斯くの如く行はず、一切人のことを忘れて、単神に向ふのみ。『晨に我が聲を聴き給へ』〔四節〕。爾は熱心と霊的痛悔とを見るか。預言者曰く、我の此事をなすや日の始に於てす、然れば多くの業務を営みて然る後祈祷に近づく者は之を聞くべしと。教會は斯くの如く行はず、乃ち一日の始に於て其日の初物を神に献ぐ。睿智者曰へり『太陽に先んじて爾に感謝す、光の東たる爾に向ふべきことの知られん為なり』〔ソロモンの智慧書十六の二十八〕と。爾は己より身分卑き者の爾に先んじて王に叩拝するを許さざりしならん、然るに太陽の已に神を拝する時に際りて、爾は尚寝ね、造物の首長権を之に譲り、爾の為に造られたる諸造物に先んじて神に感謝せず、乃ち面と手とを洗ふも、己の霊をば不潔なる者として止む。爾は水を以て体の浄めらるるが如く、祈祷を以て霊の浄めらるることを知らざるか。然れば体よりも先づ己が霊を洗へ。多くの悪癖は汚点の如く霊に粘着したれば、吾人は祈祷を以て之を洗はん。吾人もし斯くの如くして己が口を保護せば、日々の業務に善良なる基を置かん。『我晨に爾の前に立ちて待たん』。言ふ意は、我場所を變へず、乃ち行を以て爾の前に立たん。斯くの如き人は神に近からん、而して神に近きと遠きとは人自らに関す、何となれば神は何処にも在せばなり。『我爾の前に立ちて待たん、盖爾は不法を喜ばざる神なり』〔五節〕。他の訳者は『我は爾が不法を喜ばざる神なるを見る』〔不明の訳者〕となす。爰に預言者は偶像を指示せるなり、何となれば異教の諸神は斯る人々及び凡ての不法と凡ての悪事とを喜べばなり。『悪人は爾に居るを得ず』彼は爾神に愛されず、爾に近づかざればなり。『不虔の者は爾が目の前に止まらざらん』〔六節〕。爰に預言者は神の悪を悪むことを示し且つ神に近づかんと欲する者に、神の如く悪を嫉むべきことを教ふ、何となれば然せずしては神に近づくことを得ざればなり。己が気質の善人と異る者にして善人に近づくことを得ずんば、况て神に近づくことをや。又悪人の善人に近づき得ざることに就きては、悪人等が義人に就きて言ふ所を聞け、曰く『我等は義人を見るに堪へず』〔ソロモン智慧書二の十五〕と。然ればイオアンは牢獄に在りて何人の前にも顕れず、而もイロデァダ[4]はイオアンより遠き処にありしも、彼の婦の為には堪へられざりき、且つイオアンは死後にも当時圧制者たりし者の良心を苦めたり。然れば縦ひ悪人に攻撃さるるとも、善を行ふ者は何人も害を蒙りたりと思ふ勿れ、害を受くるは悪を行ふ所の者なり。『爾は凡そ不法を行ふ者を憎む、爾は謊を言ふ者を亡さん、残忍詭譎の者は主之を悪む』〔七節〕。聖詠者の之を言ふや、啻吾人に之を聞かしめん為にあらず、数々之を聴きて新娶者の気質に適ひ、彼に近き者となることを学ばしめん為なり。然らずんば吾人は上よりの佑助を奪はれん、之に勝る悪しきことなきなり。
四。 預言者曰く其者の縦し奴隷たり、自由の者たり、王たり、否何人たらんも『爾は凡そ不法を行ふ者を憎む』何となれば神は常に外部の価値によらず、善行によりて己の友を選めばなり。然れども多くの不遜なる人々は神何事をも悪まずと思ふが故に、預言者は罰の畏をも附加へ、最も愚なる罪人に説話を向けつつ。『爾は謊を言ふ者を滅さん』と言へり。罰は唯神の憎悪に限らず、縦ひ神の憎悪は云ふべからざる罰なれども、神が凡そ謊を言ふ者を滅し給ふは畏るべき罰なり。憎悪は畏るべくして、神に憎悪まるるは地獄にあるより畏るべしとす、然れども、預言者は理解し得る者の為に之を言へるも、最も愚なる人々の為に罰の畏をも附加へたるなり。然れば人よ、或人々の謊を云ひ、人のものを掠奪し、貪に陥りて毫も害を受けざるを見て心を乱す勿れ、不安なる勿れ、神の語げし所は必ず應ぜん、何となれば神の天性は悪を忌み、常に之を嫉み、之を容さざればなり、預言者の爰に『謊を言ふ者』といへるは、悪しき生活をなし、不義を行ひ、快楽・不節制・貪慾に耽る者のことなり、彼は此等の凡てを常に不義と名つけたり。『残忍詭譎の者は主之を悪む』。爰に口には斯く言へども、心には他のことを思ひ、外部には温柔の状態を装ひども実際に於ては狼の性質を顕す所の殺人・詭譎・狡猾に傾ける人に就きて云ふなり、何ものも之に勝る悪しきことあるを得ざるなり。公然たる敵を預防するは難からざるも、己が奸計を隠して悪意を為す者は、容易に捕へられずして、多くの悪事を行ふことを得。視よ、ハリストスも亦何によりて斯る人々の顕れし時に勇むべきことを命じたるを、盖し斯る人々は『羊の衣にて爾等に来れども、内は殘き狼なればなり』〔マトフェイ福音七の十五〕『唯我爾が憐の多きに倚りて爾の家に入らん』〔八節〕。教會の中には異邦人・妖術者・殺人者・蠱惑者・詭譎者・偽善者も亦入り、而して教會は神彼等を嫉み之を嫌忌すと言ひしが故に、教會は彼等が己の権利によらず、己の善行によらず、神の仁慈によりて此等の悪事より救はれ、神の内部の安息に入れられたることを示さんと欲して『唯我爾が憐の多きに倚りて爾の家に入らん』と附加へたり。何人か爾はそれとそれとをなして如何で救を得しやと云はざるが為に、教會は如何様にして救を得たるか、即ち教會は神の大なる慈愛と其得も言はれざる仁善によりて救はれたることを示すなり。然れども癒すべからざる程に慈憐をも受けざる病者あり、例令ばイウデヤ人の如き是なり。恩寵は恩寵たり、慈憐は慈憐たり、然れども唯之を希望する者のみ救はるるも、頑固にして此賜を受くることを望まざる者は救はれず、イウデヤ人の如きは其救はれざる者なりき、パウェルも此事に就きて『彼等は神の義を識らず、己の義を立てんことを図りて神の義に服せざりき』〔ロマ書十の三〕と言へり。教會は神に属することに就きて言ひつつ、次に教會に属することに就きても言へり。『爾を畏れて爾が聖堂に伏拜せん』〔八節〕。言ふ意は我は恩寵を受くる時自ら当然なることを顕し、爾に左の如き祭を献ぜん、即ち『爾を畏れて爾が聖堂に伏拜せん』――多くの祈祷者が、此時に身体を掻き、欠伸し、仮睡するが如きにあらず、乃ち恐懼戦慄を以て云ふとなり。斯くの如くにして禱る者は凡ての悪を止め、凡その善行に向ひて神の慈惠を受く。『主よ我が敵の爲に我を爾の義に導き給へ』〔九節〕。教會は神の光榮の為に神の悪を嫉むこと、神は慈愛にして吾人を照管すること――己が救贖のこと、教會は如何様にして救はれしか――教會が救を得たる後に為しゝこと、即ち教會が悪を嫌忌ひて善行に恋着したりしことを述べ――悪しき生活をなす者に対しては、彼等若し己が悪を矯正せんと欲せば、仁慈を受くべしとの善望を與へて、然る後己が談話を願に向けて『主よ、我を爾の義に導き給へ』と曰へり。之を以て教會は先づ讃詞を神に捧げ、神の仁慈を受けたるが為に之を感謝すべきを聴者に教へ、次に望む所を願ひて、其受けしことの為に復び感謝すべきを教ふ。然れども吾人は教會が何事を願ふかを観察せん。其願ふ所は世俗の事にはあらざるか。暫時のことにはあらざるか。速かに過去ることにはあらざるか。彼の云ふは富のことにあらずや。榮誉のことにはあらずや。権柄のことにあらずや。教會の敵に復讐することにあらずや。教會は毫も斯くの如きことを願はず。然らば其願ふ所は何事なるか。『主よ、我が敵の爲に我を爾の義に導き給へ』是なり。爾は教會が毫も暫時のことを願はず、又如何に高尚なる佑助を願ふを見るか。爾の知れるが如く、斯る途を歩む者は、特に此佑助を要す。茲に『義』と名つけらるるは、総じて善行を云ふなり。又教會が『爾の義』と云へるや宜し、何となれば人の義は外部の律法による義なるも、完全と円満とを有せず、人の想像に基せらるる所の差程重からざる義なればなり。而して預言者の言ふ意は、我は爾(神)より降り、又天に昇らしむる所の爾の義を願ひ、且つ此義を得るに助けんことを願ふとなり。
五。 教會が『導き給へ』と云へるも亦善し、何となれば現今の生活は高尚なる教導を要する途なればなり。吾人の或市に入る時は指導者を要す、况て天に入らんとするに際りては一層吾人に途を示し、吾人を固め吾人を導く所の高尚なる幇助を要す、何となれば多くの十字街ありて路を迷はしむればなり。然れば吾人は神の右手を持せざるべからず。『我が敵の爲に』とは多くの敵が我を此途より岐路に誘ひ、迷しめんと欲して起つを云ふ。敵の斯る悪謀を懐きて誘惑する時爾自ら我を導けよ、我は爾の佑助を要すればなり。然れど導くは神の所為なるも、神の右手の指導に堪ふるは吾人の熱心の所為たるなり。もし爾自ら不浄ならんか、神の右手爾を保たざらん、例令ば、爾に貪慾あり、或は他の不潔ある時の如き是なり。『我が前に爾の道を平にせよ』とは之を便利にして平坦なる途となせとなり〔シムマフ〕。他の訳者曰く『我が前に爾の道を平にせよ』とは、之を我が為に著しきもの、明なるもの、知らるるもの、直なるものとなせとなり。『盖彼等の口には眞實なく、彼等の心は悪逆』〔十節〕。思ふに教會は爰に諸善を遠ざかれる口と心とを審定しつつ、迷の中にある者、又悪しき生活をなす者に就きて云ふなり。『彼等の喉は開けし柩』とは、或は彼等の喉が殺人に傾き、或は人を殺す所の教と悪臭ある教を発することなり。而して穢しき言語を発する所の口を以て開ける柩と名つくる者も亦誤たず、何となれば腐敗せる霊より出づる此悪臭は感覚的悪臭より一層悪しければなり。毫も道理に適へることを云はず、唯殺人掠奪をのみ是れ言ふ所の貪慾者の口も亦開ける柩なり。然れば爾の口は柩たらずして宝蔵たるべし。宝蔵と柩との甚しく異なるは、後者は収容する所のものを腐朽せしむると、前者は之を保存するとにあり。是によりて爾も亦常に其口に豊富なる睿智を存して悪臭と腐敗とを存せしむる勿れ。而して尚教會が単『柩』と云はずして『開ける』柩と云へるは、一層其厭ふべきことを顕さん為なり。斯る言語は隠すべきものなるに、彼等は之を発し、斯くして一層己が疾病を露すなり。屍は地中に埋むべく、悪言は之を心底に隠して圧すべし、然るに彼等は公然悪言を発ちて多くの者に害を蒙らしむ。我は爾等に勧む、吾人は斯る人々を遠けん。吾人もし死体を市外に葬むらんに、况て死の言・悪臭ある言を発ちて之を隠すことを望まざる者をば遠き極に放逐するを必要なりとす、何となれば斯くの如き口は全市に傳染する害毒なればなり。『其舌にて媚諂ふ』。視よ、悪の他の状態を。或者は諂言を発して己が霊の詭譎を隠し、又或者の言は己の悪念を暗まし、奸計と欺騙とを構造する程悪し。『神よ、彼等の罪を定め、彼等をして其謀を以て自ら敗れしめ給へ』〔十一節〕。爰にも祈祷の穏かなるを認めよ。教會は罰せよと云はずして『彼等の罪を定めよ』彼等の悪念を鎮めよ、彼等の奸計をして進歩なからしめよといへり。而して彼等の悪事の成功せざらんことを祈るは、彼等の利益の為に祈ることを意味するなり。『主よ、彼等が不虔の甚しきに依て之を逐ひ給へ、彼等爾に逆へばなり』〔十一節〕即ち我は我と偕に行はるることに就きて毫も慮らず、只爾(神)に関はることに就きて悲む。実に己を辱しむることの為に復讐せず、神を辱しむることに対して強く起つは智なる霊に當然なり。然るに多くの者は神に関はることを等閑に附し、己の為には大なる勢力を以て復讐しつつ反対に行ふなり。聖人等は斯くせざりき、彼等は神に関はる凌辱に対しては強く起ちしも、己に関はることに至りては等閑に附せり。
『凡そ爾を頼む者は喜び』〔十二節〕。是れ祈祷の果なり、即ち或者は最も善良なる者となりて悪癖より離れ、或者は自己の変化を見て大なる満足を得、善事に向ひ、着々として矯正す。彼等は『永く楽み、爾は彼等を庇護らん』。是れ最も不変の喜なり。他の喜は顕るるや否や直に消滅しつつ毫も水の流に如ざるも、神によるの喜は永く続きて堅固に、希望ありて變らず、如何なる事情の生ずとも之が為に破らるることなく、障害によりて一層高めらるるなり。然れば使徒等は鞭扑に遇ひて喜べり〔使徒行實五の四十〕、パウェルは悲哀を忍びて楽み、死に準備し、人を招きて己の喜に與からしめて曰く『若し我爾等の信の祭と奉事との上に灌奠とせらるとも、我喜び、且我等衆と偕に喜ぶ。此の事爾等も亦喜び、且我と偕に喜べ』〔フィリップ書二の十七、十八〕と。神は斯くの如くにして悦ぶ者と偕に在し給ふなり。視よ、何によりて教會が『永く楽み、爾は彼等を庇護らん』と云へるかを。ハリストスも亦己が喜の變らざるを示さんと欲し『我復爾等を見ん、而して爾等の心は喜ばん、且其喜を爾等より奪ふ者なし』〔イオアン福音十六の二十二〕と云ひて、同一のことを言ひ顕せり。パウェルも亦曰へり『常に喜べ、輟めずして祈れ』〔フェサロニカ前書五の十六、十七〕と。『爾の名を愛する者は爾を以て自ら誇らんとす』。唯之を以て誇ることを得、唯之に対して喜ぶことを得、唯之を以て楽むことを得。而して世の事物を誇る者は、夢裡に於て楽む人々と毫も異らざるなり。
六。 人の為す事にして眞に誇るに足るべきことあらば、乞ふ之を我に告げよ。体力なるか。体力は吾人の自由に之を得べきものならず、故に吾人は体力を以て誇るを得ず、而も体力は速かに衰弱消失し、且つ体力ある者も当然に之を利用せざれば己を害すること稀なりとせざるなり。美麗と美貌、富と権威、奢侈及び其他世の諸事物に就きても亦同様に云はざるべからず。然れども神よりの称讃及び神に対する愛は凡てのものに勝る装飾なり、之を受くるに堪へし者は、縦ひ桎梏にて縛らるるとも千百の冠に優る。此装飾は疾病の為にも、情慾の為にも、事情の変化の為にも、不遇によりても、死其物によりても減少せずして、一層赫々たる光明を發つに至る。『盖爾は義人に福を降せり』〔十三節〕。斯る傾向を有する多くの者、特に善行に渡されたる者もし罪に定められ及び嘲笑に服するとも、或最も弱き者の元気を喪はざらんが為に、預言者は如何に彼の霊をを固むるかを見よ、曰く『盖爾は義人に福を降せり』と。天使の主宰もし彼を頌揚讃美したらんには、人々及び全世界の之を軽蔑すとも何ぞ意に介するに足らん。斯くの如く陸と海とに居住する凡ての人々に讃美せらるる主に祝讃せられずんば、人々の称讃を受くるとも將た何の益あらんや。是に由りて吾人は常に神をして吾人を称讃せしめ、吾人に榮冠を與へしむる様努めん。斯くの如くんば假令吾人は貧からんも、疾病の中にあらんも、極めて困難なる事情の中にあらんも、凡ての人々の上に立たん。然れば福たるイオフは、不潔なるものの上に坐し、全身は傷より流れ出づる膿と数ふべからざる程の蟲にて蔽はれ、奴僕に軽蔑せられ、己の敵のみならず、己が妻と友とに辱しめられ、貧窮に陥いり、饑渇に迫り、療されざる疾病に罹りて耐え難き苦を受けしも、尚凡ての人々よりも幸福なりき。何故に然るか。神は『其人と為完全く、かつ正くして神を畏れ、悪に遠ざかる』〔イオフ書一の一〕と云ひて彼を祝讃したればなり――『主よ爾は惠を以て盾の如くに之を環らし衛ればなり』。預言者は終結に於て感謝の讃詞を捧げて復び神に感謝を献ず。惠を以て盾の如くすとは何の意なるか。盾とは秀たる盾、神の心に従ふの盾、最も希望ある盾なり。言ふ意は、爾は最も善き佑助を以て吾人を衛れりとなり。他の訳者は『之を環らし衛る』を義人にかけつつ、爾は義人なる彼を環らし衛る、即ち爾の仁慈は盾、而も秀でたる盾の代りに彼に務むといひ、或は爾は最も善き佑助を以て義人を衛るが故に、剛勇も彼の安全を奪はず、安全も彼の光榮を奪はずといへり。誰か至上者の右手にて守らるる人より眞に強き者あらん、誰か之より剛勇なる者あらん。ダウィド自ら他の個所に於て『憐と惠とを爾に冠らし』〔聖詠百二の四(詩篇百三の四)〕と云へる如く、此冠は慈憐より編まる。又此冠はパウェルが『今より後義の冕は我の為に備へらる』〔テモフェイ後書四の八〕と云へる如く、義よりも編まるるなり。此冠は他の記者の『榮の冠辯を汝に予へん』〔箴言四の九〕と云へる如く、恩寵の冠なり。此冠はイサイヤが『榮のかんむりとなる』〔イサイヤ書二十八の五〕と云へる如く、榮の冠なり。此冠は其中に仁愛をも、恩寵をも、光榮をも、亦美麗をも有す、此は種々なる恩寵を齎らす所の神の賜なり。此はパウェルが『彼等は壊れ易き冕を受けん為、我等は壊れざる冕の為なり』〔コリンフ前書九の二十五〕と云へる如く、壊れざる冠なり。斯く引用されたる言の意味は左の如し、曰く、爾は安全と光榮とを以て吾人を囲繞む是なり。神の賜は斯くの如く固く、斯くの如く麗はしく、その榮冠や斯くの如し。然れど人々に在りては然らず、光榮の中にある者も完き安全の中に在らず、安全の中にある者も常に必しも光榮の中にあらず、此二者は彼等の中に容易に合せらるることなし、若し合せらるる時は速かに破壊せらるるなり。例令ば権威ある人々、著名なる人々、名誉ある人々は安全の中にあらざるも己が名誉の威厳によりて特に危険なる場所に立ち人に擯斥され軽蔑さるる人々は、己の顕れざるにより、安全の中にありて名誉を受けざるも、特に安全の中にあるによりて名誉を有せざるなり。然れど神にありては然らず、安全と光榮とは至て高き程度に於て合せらるるなり。是に由りて吾人は此等の幸福の威厳何ものよりも先づ大なるなる幸福は神に喜ばれ、盾も光榮も、安全も、他の多くの幸福も此中に含蓄することを顕しつつ吾人の前に在る苦行を忍耐し、常に元気を失墜すなく盾なくして止まざらん。斯る戦に於ては軍人は盾を遺ること能はず、唯観物の終る時に至りて始めて其勤労終り、而して観物は霊が体より離るる時に終るなり。然れば此世にある間は家に坐し、市場に出で、病中にも、健康の時にも、飲食しながらも常に吾人は戦はんことを要す。疾病の時さへも特に此戦の時たることあり、即ち疾病の感覚が諸方より霊を煩はす時、悲哀が霊を攻囲み、悪魔が立ちて或不善の言を話すべきを慫慂する時是なり。斯る時は己を安全に持ち、甲冑・盾・及びその他の武器を以て防御し、且つ断えず神に感謝せんことを要す。是れ悪魔の為に畏るべき矢なり、是れ悪鬼の為に致命の打撃なり、光明なる榮冠は特に之が為に賜はらる。然れば福たるイオフは誘惑疾病および艱難の時に於て變らざる霊と動かすべからざる心とを顕し、又神に此霊的献祭なる感謝の讃詞を献じたるが為に特に光榮なる者となり、之が為に著しき者となり、之が為に榮冠を受くるに堪へたり。彼が『主與へ主取り給ふなり(斯くあらんことは主の喜び給ふ所なり)主の御名は讃むべきかな』〔イオフ記一の二十一〕と云ひし其言は即ち是れ献祭なりき。然れば吾人も亦誘惑の中にあり、艱難の中にあり、憤懣の中にありても断えず神を讃美頌揚せん、盖光榮は世々に神に帰すべきものなればなり。アミン。
- ↑ 投稿者注:一般にはトビト書。
- ↑ 投稿者注:一般にはハンナ。
- ↑ 投稿者注:「第一列王記」は正教会での呼び方。一般には「サムエル前書」。原文は第一列王記十の十三となっているが明らかに第一列王記一の十三の誤りなので誤植と思われる。原文のまま訂正していない。
- ↑ 投稿者注:一般にはヘロデヤまたはヘロディア。
第五聖詠
- 1 伶長に簫を以て之を和せしむ。ダワィドの詠。
- 2 主よ、我が言を聴き、我が思を悟れ。
- 3 我が王我が神よ、我が呼ぶ声を聴き納れ給へ、我爾に祈ればなり。
- 4 主よ、晨に我が声を聴き給へ、我晨に爾の前に立ちて待たん。
- 5 蓋し爾は不法を喜ばざる神なり、悪人は爾に居るを得ず、
- 6 不虔の者は爾が目の前に止らざらん、爾は凡そ不法を行ふ者を憎む、
- 7 爾は謊を言ふ者を滅さん、残忍詭譎の者は主之を悪む。
- 8 惟我爾が憐の多きに倚りて爾の家に入り、爾を畏れて爾が聖殿に伏拜せん。
- 9 主よ、我が敵の爲に我を爾の義に導き、我が前に爾の道を平にせよ。
- 10 蓋彼等の口には眞實なく、彼等の心は悪逆、彼等の喉は開けたる柩、其の舌にて媚び諂ふ。
- 11 神よ彼等の罪を定め、彼等に其の謀を以て自ら敗れしめ、彼等が不虔の甚しきに依りて之を逐い給へ、彼等爾に逆らへばなり。
- 12 凡そ爾を頼む者は喜びて永く楽しみ、爾は彼等を庇い護らん、爾の名を愛する者は爾を以て自ら詡らんとす。
- 13 蓋主よ爾は義人に福を降し、惠を以て盾の如く之を環らし衛ればなり。