来る卯年は明和の御蔭参りより六十一年に当れば、又々御蔭参りなりとて、十年も前より人々噂せしが、今の世にかゝる事あらんとは思ひ寄らざりしに、卯の年をも待たで寅の三月中旬に至り、阿波の国にて種々の奇瑞ありて、処々に御祓を降らし、六七歳の子供等、いひ合せ抜参りせしが、【六歳の小児の抜参り】中にも六歳の小児頻りに家を抜け出づるにぞ、其親大いに叱り制すれども、是を聞かざる故、其家の柱にいたく括り付け置きしに、知らぬ間に其子は抜出でて、柱には御祓のくゝり付けてありしとて、其親も子の跡を追ひ連立つて参宮し、又八歳の児ふと家出して行方の知れざりしに、程経て帰り来りぬるゆゑ。「如何せし」と其親尋ねしに、「余所の伯父様に連れられ、白馬に乗りて伊勢参りせし」といへるゆゑ、「其伯父様は何れに居らるゝ」と尋ねしに、「伯父様は門口迄送り来て、これが其方の内なれば一人帰れとて別れぬ。馬は垣に繋ぎ置きぬ」といへるゆゑ、不思議なる事に思ひ行きて見れば、大神宮の御祓垣にかかりありしにぞ、この噂高くなりて、一国動き立ちて、笠に国処・名前・御蔭参り大神宮と記し、手毎に杓を持ち抜出づるにぞ、処にての福裕の者共、身分相応の施行をなし、金銭・飯・渡し船等を出しぬるより、之に次で紀州・泉州動き立ちて、廿七日の頃より浪華へ群集し来り、数万の人数に及びしが、浪華にても閏三月二日・三日頃には、処々に御祓降りぬるにぞ、【御祓降る】人々浮立つて施行・宿施行の物、何によらず思付きし物を持出して之を施しぬ。かくて老も若きも子や孫を引連れ、中には家を閉ぢて抜参りする者多く、下女は走元の仕舞も打捨て、井戸の端にて米を
此節御抜参宮と唱へ、主人・親・夫等へ不㆑断、又は独身者借家を明け、夫々随意に其宅を罷出、極老幼少之者も残置有㆑之様に相聞候、若信心にて致㆓参詣㆒候事に候得ば、急度差留候筋には無㆑之候得共、余り法外乱雑の至、自ら火之元其外不用心にて如何に候間、参詣の者は親・夫又は家主へ相断可㆓罷出㆒候様可㆑致候。
一、右に付、種々奇瑞有㆑之由にて異説を申触し、町々騒敷相聞え如何之事に候。自然大体の儀取拵へ申触し候者有㆑之、其段相顕候はゞ、急度可㆑令㆓沙汰㆒候。
右之様三郷町中不㆑洩様篤と可㆓申聞㆒候。
寅壬三月七日
右の通に御触町々年寄へ総年寄より申渡し、又口達にて参詣に事寄せ、速中泊等にて不埒なる儀之あるに於ては、吟味の上厳科に処せらるゝ旨申渡されたりしとぞ。右の御触にて少し大坂の人は見合はす人もある様子なれども、世間愈〻騒々しく、予も余り評判高ければ、其有様見んと思ひて、安堂寺町筋に到りしに、東西一面に抜参り打続き、往来もむつかしく、堺筋の角には好事の者かこひ置きしにや、明和の時の道知るべの木、方八寸長一間半計りなるを〈明和八年四月とあり。〉立て、其側に、新に当年の道知るべ、紙張にて拵へ、奈良・伊勢と記す。右の外町毎にこれを出し、銭三文・五文づつつなぎて施行するあれば、【施行】豆・茶・烟草・昆布・麦粉・紙袋・干魚等を施すもあり。群集の中を押分けて、玉造・出口・二軒茶屋の東なる堤の上に立止りて見渡せば、誠に目を驚かす計りなり、中には女の下駄はきながら、何一つ旅の用意もなくて、道にて施行の紙【 NDLJP:129】袋を貰ひ、これを持ちながら浮かれ行く有様は、さながら夢中の様に見ゆるに、四十計りなる女の幼きを懐にし、三歳計りなるを背ひ七歳計りなる子の帯に紐付けて、己が帯に括付けて行けるあり。此等は尤も危き業のやうに思はるれども、二十六七より四十余の女の、大体子を連れざるは少く腰二重なる老人の浮かれ行くさま、誠に興がる事なりしか。明る七日には、弁当の用意をなし、家内其外出入の者引連れて、玉造・稲荷へ行き、舞台よりしばし東の方を眺めしが、夫より二軒茶屋の出口なる堤の上にて弁当を開き、申の下刻に至り、森の宮へまはり、城の馬場に出で帰りぬ。堂島にては渡辺橋筋少し西へ入る処に、加島屋久知蔵のありぬるを借りて、一統持寄つて施行宿をなし、百二十人計りの人夫を雇ひて、其世話をなすに始めの程は七八軒の泊なりしが、追々播州より出で来り、千に余るやうになりぬるにぞ、後には三戸前の蔵に居余り、天道船四五艘浜に繋ぎ、これに泊めしが、これにても足らざる故、家々に引き行きて宿らしむ。其外松江町・安堂町・日本橋辺・堀江、処々に施行宿あり。浪華は此の如くなれども、闇峠より先にては、奈良に少々施行する人あれども、これは聊の事にて、利を貪る輩多く、旅宿代三百文、草鞋一足四十八文、これに准じて万事高直なる故、御蔭なりとて聊の貯へなくて家を抜け出でし者、詮方なくて、途中より引返し帰りぬるも多かりしとぞ。かくて大坂よりは、御役人衆、闇峠・長谷等へ大勢出張にて、「路銀聊も持たず抜参りは、是より先にては施行なく、難儀する事なれば、此処より帰るべし」とて、御世話ありて、姦悪の者を捕へらる。奈良にては【奈良奉行の参詣者保護】御奉行公事訴訟御休にて、与力・同心札の辻其外処々に出張し、往来の者の難儀せざるやう御世話ありて、宿料を貪り物を高直に商ひし者共、厳しく咎を蒙りぬ。凡て道筋公領・私領共夫々に御手当ありて、宿料百五十文、草鞋十四文より高く売るべからずとて、物の価悉く定まりて、処々に小屋掛をなし、往来より二十丁も脇までも、施行宿致しぬるとぞ。〈〔頭注〕駕籠人足一里百文、馬一里五十文、右宿毎に書附有りと云ふ。〉此の如くなれ共、多くの人々小児を連れて、一様に打続き、行きもきらざるにぞ、迷子多く出来ぬる故、南都にては札の辻、道筋にても処々に集むる所ありて、其処の役人是を世話して、尋ぬる人もはぐれし人も、奈良にては札の辻、長谷にてはどこそことて、処々に張札ある事と【 NDLJP:130】ぞ。かくても宿を取りかねて難儀する者多く、宿々はいふに及ばず、一統旅人を止めぬれども、【宿屋の雑踏】座敷より庭一面に詰まり、蒲団一畳二人へ渡せるは最上の事にて、四五人に一畳、又施行宿にては何れも蒲団なしにて、雨露に濡れざる迄の由。子持の女、朝、子を背に括り付けぬれば、往来群集ゆゑ、昼仕度迄はおろす事も成難きにぞ、子は日々此の如くに括り付けらるゝ事なれば、紐の跡悉く喰ひ入りて、痛みぬるとひだるきに堪へ難くて、皆々負はれたる子は泣き通しにて、漸く昼仕度の節に子を下しぬれども、何れも二便たれ散らし、
中川立徳なる者夫婦に七歳の小児を連れ、其余家内連三組の連を申合せ、【目印の幟】
尾崎屋長兵衛といふ者の手代、金二歩持ちて参宮せしかば、親の内にては、今日は宮巡りする日なりとて、祝ひ事して居たりしに、処々疵を蒙り、宿送りにて連参る。此者道にて施行駕籠に乗りしが、脇道へかたげ行き、路用を奪はれ、かゝる事に逢ひしとなり。「凡て道筋人馬の賃銭、上より厳しく仰出され、定法の立札処々にこれあれども、定まり通りにては頓と乗する事なく、内分にて酒手を取り、若し尋ぬる人あれば、定法通りに云ふべしなどいひて、酒手遣らねば乗する事なきにぞ、足を痛めぬるは拠なくも其約定にて乗る事なり」と、大和屋林蔵の語りぬ。
予が家に出入する駕籠の者、堺屋熊右衛門が妻、阿州より大勢の抜参り始まりし頃よりも、参宮頻りにしたく、主に色々いひぬれども、昨年熊右衛門が父〈熊右衛門養子なり、〉死して未だ服ありとて、許さゞりしにぞ、愈〻参りたく思ひ、現のやうになりて、手業聊も手に付かで、其事のみ思ひ立ちぬるにぞ、子もこれを止めぬれども、聞き入るる事なく、今は夫の意に逆ひ家を追出さるゝとも、服ある身故神罰を蒙り道にて死するとも、苦しからずとて、鉄石心になりぬる故、夫熊右衛門も詮方なく、金子一両二歩路用に与へぬる故、飛立つばかり喜びて、四五人の連を誘ひて、浮かれ出でし【 NDLJP:134】が、閏月廿九日に帰り来りしゆゑ、伊勢より道筋の事ども尋ねしに、道中筋施行も処々にありて、不自由なれ共、大抵未の刻頃に宿を取れば、野宿するの憂もなく、道々食物を商ふ者多くありて、面白く浮かれ行かれしが群集にて笠と〳〵行当り、直に笠冠る事はならざりしが、宮川の一里半計り手前に泊りて、明くる日宮川の渡し場に至りしに、両日の雨天にて水増さりしに、昨日京・摂の人々乗りし船一艘覆りて人多く死に、又一艘はかゝりしかども、人二人死して、其余は辛うじて助かりしとぞ。かゝる有様なれば、昨日より渡し留りしかば、河原へ詰めかけし人幾万といへる数知れず。其中には、早く渡せとて頻に船を促し、或は脇差抜きて振廻はしなどして、大に騒動せしが、馬士など大勢にてこれを叩き伏せぬ。かくて川明きて、船に乗らんと思へども、皆々待設けたる事なれば、船の磯へ付くをも待たで、川へ飛入つて船に乗りぬるにぞ、磯に著ける間とてはなき事なる故、銘々川中へ入りぬるに、男女共腰の上まで尻引まくりて飛込める有様、目も当られぬ姿なれども、己れ一に乗らんとて、これを恥づる者なかりしが、船中にて押合うて、川中へ小児をば落し、女も一人落入りしが、二人共漸くと引揚げて、別条はなかりしかども、此等の有様を見るに付きては、如何して参宮せし事やらん、早く帰りたしと、家の事頻に思ひ出せしが、爰迄参りて無駄に帰るも本意なき事に思ぬるにぞ、心を取直し参りしに、大火にて一面に焼けぬる中に、大神宮の宮居恙なく立たせ給ふを見ては、有り難く信心を増しぬ。人込の中にて死人・怪我人一人もなかりしは、誠に不思議なる事なりし。かくて帰路に赴きぬれば、又宮川の案じられしが、これも無難にて渡りしかば、これにて心落付きぬ。参詣の婦人、大勢の中にて
一、去る十九日亥の刻より新在家町宇治橋焼落つ。其外やり町残らず。廿日午の刻に鎮まる。参詣人は怪我なし、
伊勢出火の様子一、当聞三月十九日亥刻より、宇治橋一丁半程西之方法楽社裏町岩崎太夫より出火。折節西風あらぶき、即刻に表町へ焼出し、宇治橋焼失。向不㆑残。前之大鳥居も焼け、館町不㆑残焼失。御馬殿総末社も不㆑残焼失。併乍ら御本宮様は少も御別条無㆑之、昨年新に御造営無㆑之古殿・宝殿は類焼仕候。神楽殿、並に雨之宮、高之宮は、御別条無㆓御座㆒候、御山之大木へ火移り、火鎮まり不㆑申候。御本宮様百六十年已来は類焼無㆓御座㆒候。今年は御蔭にて群集申。扠々参宮人は火の中を群集申候も御座候、怪我人は聊も無㆓御座㆒、扠々難㆑有事に御座候、伊勢よりの早便に風聞御座候、委敷は跡より可㆓申上㆒候。
十九日亥の上刻より廿日午の刻迄。
閏月廿日巳の刻の早使の写なり。
本町心斎橋筋中屋善衛門養子、
【 NDLJP:136】町内大和屋林蔵手代定七弟、十九日先方にて御師の家に泊り居りしが、出火ゆゑ諸道具片付くる手伝をなしたる由。これが咄しも同様の事なりしが、本社の辺の杉伐倒せしも少々はあり。【社人火消役御鎮まり下さるべし〳〵と云ふ】然れども火は少しも消す者なく、火消役の者大勢詰めぬるが、「御鎮まり下さるべし〳〵〳〵」と云ふのみの事にて、其余は、大勢の人々参宮人を世話して、勝手よき道筋々々を教へ、これを逃すの手当のみなりしとぞ。御本社と共に廿一年目には、末社も御普請ある事なるに、昨年其事なかりし故、其祟りにやとの噂なるとぞ。〈末社の内一社、昨年普請にて建替りてあり。これも焼けざりしこと不思議なりといふべし。社人は幣を取り、本社の前にて始めより火鎮まるまで、「御尤でござります、御鎮まり下さるべし、御尤でござります、御鎮まり下さりませ」、と計りいひて、祈りし事なりしにぞ、参詣の者共これを聞さて帰り来りしが、浪華にては流行の詞となりて、人皆これをいへるも可笑かりき。定七が弟の、不自由なる旅をなして四十里を行き、火事の手伝に行きしまでにて、何も面白き事なかりしといへるも、又をかしかりき。〉
伊勢別宮類焼に付、廿六日より四月朔日迄、天子御斎にて御停止仰出さる。これは京師計りにて、外に御構ひはあらざりし。
阿波座の女、懐姙して七月なるに抜参りせしが、途中にて流産し、宿送りにて帰り来り、三日目に死せるあり。又女三四人連にて、乳子を懐にして、抜参りせしが、途中にて小児急驚にて死し、詮方なくて連になりし者共迄、すご〳〵帰り来れるもあり。又
【 NDLJP:137】阿波一統に動き立て、【門徒寺参宮を制す】抜参り・御蔭参りと参詣しぬる様を見て、兵庫・灘辺も浮かれ立ち、少々抜出づるにぞ、灘は門徒宗計りの処ゆゑ、檀那寺より、兼ねて家の内に神棚を設けて祭る事など、
堂島中町正念寺も、神棚の事を厳しく云ひて、取払はせんとて、種々に檀家をいじりしに、此度御蔭参りの噂ありて、世間騒々しくなるや否や、此寺の伴僧・下女等申合せ、一番に抜参りせしも
順慶町せん元の筋辺より、親子連れにて参宮せしに、其親大津にて頓死す。又大工何某なる者の妻抜参りせしが、急病にて六軒にて死す。両人共大和屋清助が能く知れる人なりとて語りぬ。
処々にて施行駕籠・施行馬十挺も十疋も打続き、縮緬・天鵞絨
櫂屋町にて或る家の
京師にては閏月十日頃より浮かれ出だし、【京と大阪と人情の相異】一統に参宮し、施行をなす事も大坂より多し。【○ぞめきは騒ぎ遊ぶヿ】大坂にては処々にて施むし宿しねれども、多く
阿波一統に動き出し、淡路・紀州・泉州これに次ぎ、夫より浪華大浮かれに浮れ立ち、【 NDLJP:139】摂州一統に騒出し、予州・讃州の抜参りも少々ありしが、是は格別の事にてもなく、次に播州動立ちて仰山に出来る。姫路辺も十二三日の頃御祓降り、其外奇瑞ありしとて、【姫路藩の参宮人に対する態度】君侯よりも、「領中の者共植付の構ひにならざるやう、勝手次第に参宮せよ」とて、御触あり。米千俵を出して、宿する家々に割付け、百五十文の宿料は百になし、百文は五十文に減じ、銭なきは只泊めよとて、宿家毎に役人を付けらる。上より此の如くなれば、一統に施行する者多きとぞ。
備後・長門・芸州の辺も、大抵同じ頃に御祓降りしと云ひ、参宮少々はありしか共、格別の事なし。安堂寺町筋も三月廿七八日の頃より大に群集をなし、閏三月六日頃迄大いに目を驚かす程なりしが、其後は至つて大勢なる日と、少し減ずる日とありて、一様ならざりしが、廿日過に至りては、参詣よりも下向の人多くなりて、人気も大に静まりぬ。四月二日伊勢より帰りし人の噂を聞くに、此頃は山城・大和、
備前・美作は、閏月下旬迄は未だ御祓降らず。されども御祓の評判を聞きて、少々は抜参りする者もありといふ。折々途中にて少々は見受くる事あり。備中も少々は出づるを折々は見当りぬ。閏月下旬よりは、丹波・丹後・美濃・尾張・越前等一円に出で、道筋大いに群集のよし。
大和屋林蔵の咄しに、此間矢橋にて船一艘覆り、人多く死す。又
予が隣家なる広島屋四郎兵衛が親類妊娠なるが、月満つるに参詣し、帰路伏見にて【 NDLJP:141】子を産む。此等は大胆の業なりしが、幸にして無事に帰る事を得しとて語りぬ。横田川の渡し船覆り、小児両人死すといふ。
上にいへる如く、灘辺は門徒多き処にて、参宮につき本願寺の使僧迄通帰る程の事なるに、大石計りは参宮する者一人もなく、施行は世間並の事にして、殊に福者の多き処なれば、【大石には施行の家一軒もなし】これをなさんとせし者もありしに、檀那寺より、「参宮人へ施行せんより其金を本山へ上納すべし」と、これを止め廻りしにぞ、其の事も止みぬ。斯くて参宮人数万往来するに、大石計り施行の家一軒もあらざるにぞ、「此処は大家も多き処なるに、施行する家一軒もなきは、穢多か癩病か」など、口々に悪口して行過ぐる者多かりしが、頼み寺の住持昼寐して起きざる故、家内これを起さんとせしに、いつの間に死にしにや、頓死して家内もこれを知らざりし由。これは参宮を止め施行も為さで、「本山へ金上げよ」など云ひて妨げせし事なれば、神罰を蒙りて斯かる死様なりしとて、人の語りぬとて、加島屋孫兵衛に聞きぬ。
道具屋五郎衛門
天満船大工町毛利孝安が忰も、近所の子供・女など召連れ参宮せしが、宮川にて川留に逢ひ、船三艘引くりかへり、人三人流れ失せしを以て、悲しくなり、道より頻に帰りたくなりしが、此処まで来りて帰るも本意なしと、胆を出し参詣せしが、「大神宮・雨宮・風宮等火の真中にあつて、恙なく在すを拝せしと、京都に帰り、廿七日午の刻に、【 NDLJP:142】日月星の三光を拝せしとは、有り難かりしが、道中の難儀思ひ出られて、参宮に懲り果てぬ」とて語りぬ。
月 星
○ ○
日
○ 此の如くに顕はれ、衆人これを拝みしとぞ。浪華にては心付かざりしにや、其沙汰を聞かず。
四月上旬の頃には、備後安芸・備中・備前・肥後等ちら〳〵と参詣す。市物屋久兵衛姉、参宮して十日頃帰り来りしが、道中筋尾張・江戸・備後等別けて多かりしとぞ。
松屋宇八〈江戸堀一丁目、〉子供・女等引連れ参宮せしが、其節には、尾州・勢州〈勢州は同じき国なれば、何日にても参詣すべき事なるに、人気の立てる奇なりといふべし。〉丹波・丹後・但馬等多かりしといふ。此者云へるに、「二見より六軒へ渡る船一艘覆り、人多く死すと、併し御本宮の火の只中に立ちて焼失せざるを見奉るに、神徳の有り難き事、言語にも述べ難き有様なり」と云へり。
浪華より野里の渡しを経て、尼ケ崎へ出る道筋に、へじまといふ処あり。此村総べて男は女の姿になり、女は男の姿になり、緋縮緬の襦袢にて、参宮人を駕籠へ乗せ舁き廻り、大なる幟二本、御蔭参り施行の印を付け、駕籠々々の前後に大勢の者共伊勢音頭にて囃し立て、大浮れに浮れぬる由。此度の御蔭に付き、是に限らず、道中筋処々にて、女の出でて駕籠を舁きぬる由。勢州津にては家中より大勢出で、侍共大小をさしながら、旅人を担げ廻りしとぞ。此等は最も甚しき事に思はる。
海老口村百姓何某の云へるには、此者閏月七日立にて参宮せしが、四日立にて当所より御役人衆出張ありて、宿賃・人馬・駕籠・物の価等定りて、家毎に張札ありて、何事も厳重なりし故、少しも不自由の事なかりしとぞ。海老口にて宝永の御蔭参りに、高八十石持ちし百姓一人参宮する事なく、召遣ひ迄厳しく制して参らせざりしが、此者の田地計り大いに日やけして、米一粒も取れざりしが、夫れより次第々々に家衰へ、今にては浅間敷有様になりぬ。へじまにても此類多かりし故、此度は一人も参【 NDLJP:143】宮せざる家なく、此者十二日に帰り来りしが、其頃よりも十三日立にて参詣せし人の噂には、「道筋も大いに群集なりしが、其よりも亦其次に参宮せし頃は、雨天・川支等にて目を驚かせし事なり」と、参宮せし者共の云ひしとて語りぬ。総べて此度参宮人等の、不自由の事なくて程よく参りぬるは、至つて面白くして有り難かりしといふ。道中にて不自由の目に遇ひ、宿をも取りかね、飢ゑ労れぬるは、参宮に懲り果てしといふ。其人々の幸・不幸と、何かの取廻はし宜しきと、立廻り至つて鈍なると、心強きと、心弱き人とにて、斯かる有様なりし事と思はる。
「伊勢にて或る家に米を施行せしを、【神罰】参詣する人の其米を貰ひし上に、側に積める俵にもたれ懸り居て、人の隙を考へて、少し計りの米を盗み取りしが、其手を突き、もたれ懸りし米俵の、体にひつ付きて離れざるにぞ、外より人集りて、俵の中なる米を出しやりしかど、其俵猶ひつ付きて取れざりしを、予が隣町なる大和屋八兵衛母の親しき人其側にあつて、其様を見、共々に藁を取つてやりしが、不思議なる事なりし」とて語りしを、予に又語りぬ。此等は怪しむべき事なれども、大和屋の母は正直にして、詞を飾れる人にあらざれば、之を記しぬ。
播州より三十人組とて参詣せし中に、六十計りの親父、息子の妻を連れて参りしが、道にてこれを犯せしに、交接離るゝ事なし。神明の罰を蒙りしなるべし。かくて詮方なければ、連の者共これを宿に預け置き参詣をなし、帰路両人を戸板に乗せ、銘銘にかはり合ひてこれをかたげ帰りしといふ。又当所籠屋町には、子供を出家させしが、此坊主「頻に参宮せん」といへるにぞ、母親と二人連立ちて参りしが、も宿屋にて骨肉の親子淫事をなし、離るゝ事なくて、人中にて恥を曝し、宿送りにて帰りしといへり。六十の親爺、息子の
六軒にては、【狂女】狂女と見えて、若き女の国処も知れざるが、人々御蔭参りに施行をなせども、我は施す者なし、〈○頭注淫婦の狂人となりしにや、又卓見ありて此間を非とするにや、施行と云へる詞にをかしき処あるにぞ之をもかい付けぬ〉故にこれを施行すとて、□□を出して有りぬる故、処の役人これを制すれども聞入るゝ事なく、其処を動く事なくありしとぞ
天満にて三歳の小児連れし女の抜参りせしが、宿屋にて側に臥しぬる女の、去年生れしを連れしが、乳少なくして困りぬる故、見兼ねつゝ、其子に乳を与へぬ。夜明けて三歳の小児これを拒みて呑ませざる故、これを暫し守りてよとて、其人に渡し置きしに、其女何地へ行きしにや、之を尋ぬれども、其行末知れざれば、拠なくて、其子を連れ帰りぬれども、其素姓も知れず、されども之を捨つる事も成り難く、日夜泣き暮らせる事なりとぞ。
高麗橋筋・渡辺筋・角銭屋勘兵衛忰の参宮せしが、道にて連れになりし人の、宮川より向ふへ行かれざりしが、「遥々参宮を志して来れるに、帰るも口惜し」とて、
淀屋橋筋伏見町北へ入る政富喜兵衛といへる菓子屋の裏にも、【御祓降る】御祓の降りしにぞ、此者夫婦連にて、両人の子供連れて参宮す。伊勢焼失の跡に、神明の本社の火の中【 NDLJP:145】に在つて焼けざりしを見て、有り難き事なりしとて語りぬ。予も降りしといへる御祓を見しに、檜木にて
阿波より犬を連れて参宮せしが、【犬の参宮】御蔭参りする犬なりとて、道々にて食物を与へぬるにぞ、大いに食に飽きて、其度毎には食ふ事なし。外より参れる犬は、其処々の犬これを嚙み伏せぬるものなるに、其犬にはとんとかまへる犬一疋もなし。これぞ不思議と云ふべし。犬の当所経て参宮せしも三四疋ありしと云へり。
難波橋筋南久宝寺町丁子屋武兵衛なる者、伊勢出火の節に、六里手前にて止まり、明くる日参詣せしが、これも本宮の残れる様を見て、信心肝にこたへぬと云へり。これが云へるには、火事の節外へ逃げし人々は、少しも怪我なかりしが、本宮の方へ走りしは、多くは怪我せしかども、死せる人は一人も無かりしと云へり。
閏月二日、大坂より峠を経て南都へ出でし者九万千数百人にて、奈良にて宿りし者三万四千余にて、其余は宿しぬる家なぐて、皆夜道を歩みしとぞ。南都にて日暮前には右の人数行詰まりて、こちらより向の家迄も行く事ならざりしとて、大和屋利兵衛と云へる南都生れの人の予に語りぬ。
四月十六日、津山林田町の者なりとて、予が知らざる人の出来りて、「此度十人計り連立つて伊勢へ参りて、江戸を見物に行きしが、路用を使ひ切らしぬ。こゝに西川の銀札あり、これを換へて給はれ」と云へるにぞ、「西川の札は四五年も跡に潰れて、通用する事なければ、替へて遣り難し」と云ひしかば、言下に詞をかへ、とぼけたる様にて、「我等は五年前に江戸へ行きて、今帰りがけなる故、斯かる事を知らず、これより津山へ帰るには、六七百ありぬれば帰らるゝ事なり」とて、尚も吾をかたら【 NDLJP:146】んとす。西川札の潰れし事は、則ち大黒屋の親類西山簾兵衛に聞きぬ。これが忰を加茂丹後が、ざこばなる阿波屋藤兵衛が養子に遣せしに、差縺れ出来て、加茂も西山も困じ果てぬるが、三人共に予が知人なるにぞ、加茂より予を頼みぬる故、程よくこれを取納め遣りぬ。斯かるにて礼のつぶれし訳をも精しく知りぬるに、役にも立たぬ銀札を以て予をかたらんとせしは、胆太く侍る。跡にて聞けば、「町内にて此町に作州より来て住居する人は無きや」とて、予が事を聞き合はせ参りしとぞ。作州は予が生れし国にはあれど、人気の宜しからざるを、召遣へる者にさへ恥づかしく思ひぬ。
白子裏町播磨屋喜衛門・尼崎屋孫兵衛妻等、何れも小児引連れ、二十人計りにて、閏月十二日立にて参宮し、伊勢にて火事に逢ひしが、火元より余程間ありし故、河原に逃れ出でありしが、火飛廻り処々焼けぬる様、恐しき事なりしが、処より大勢提灯
七十に余れる老女の、連にはぐれしとて、町内の橋の上にさまよふあり。撞木橋の上には、同じ年頃の老女病臥して苦しめるあれば、宿駕籠釣台に乗せて宿送りに病者を送れる様、哀れなる事にてありぬ。
鴻池・加島屋等は、【訛言】当所にても富める人故、其名何国迄も通れるに、此度御蔭参りに付、一人へ二朱
御蔭参りに浮かれ行きしも、【御蔭参りやゝ減ず】心そゞろにして狂人の如く、下向しぬるは大いに労れ果てゝ、阿呆の如く、何れも飲食を節せず、夜をこめて雨露に打たれ、山嵐の気に当てらるゝ事なれば、時疫病みて悩める人多し。四月半ばまでは、往来減じながらも絶ゆる事なかりしが、月末に至りては、偶〻に参詣の人を見受くる様になりぬ。
此度御蔭参りに付きて、【御蔭参り新道を開く】大和路より伊勢への近道を開く。山路の嶮しきに、沼の中など歩みぬる事にて、六里の間に柚人の家二軒ならではなくて、勝手知らでこれを行きしは、大いに困じぬるよし。安堂寺には、「必ず近道を行く事勿れ」とて、処々に張札を出す。
河内にて、【河内の門徒寺に御祓降る】或門徒寺へ御祓降りしかば、小僧これを拾ひ取つて内へ入りぬ。我宗門にてかやうの物取扱ふ事なしとて、其儘是を取て火に投じて焼き捨てしかば、小蛇二疋出で来りて、之が咽に纏ひ付きて離るゝ事なく、浅ましき様なりと言へり。米俵の体に引付きしと同日の談にして、怪しむべし。同国松原より半丁計り隔たる村の庄屋、其外池田・伊丹等にも、交接離れざるの噂専らなり。是等も甚しき邪婬をなして、其悪名離れざるなるべし。乳呑子連れて浮かれ出でしが、驚風・外邪・痘瘡 〈此年春より痘瘡流行す〉等にて、途中にて死せるを、行李に入れて其死骸持帰るも数ありし事となん。
京都東洞院三条にて、【京都東洞院三条の者御蔭参りの途中溺死す】或る大家の息子幼年より虚弱なるにぞ、主の甥両人を後見の積りにて、兼ねて是を引取り置きしが、此度御蔭参り始まりしかば、右の三人の者共荷持一人召連れて参宮し、帰路二見より船に乗りしが、其船覆り、十七人乗の中【 NDLJP:148】にて七人死にしに、四人は此者共なりしを、漸く荷持計り引上げて、其の処を尋ねしに、「東洞院三条」とかすかに聞えて、其儘息絶えぬる故、所にても詮方なく、証拠の為にこれが著物を脱がせ取り、直に京都へ飛脚を出し、東洞院三条に著きて、「此辺より伊勢参りせし家ありや」と尋ぬるに、其辺一軒も参詣せざる家とては無きにぞ、「男計り四人連なるを」とて尋ねて、
御幸町六角の辺にて、或る家の丁児十三歳になれる者両人、十二歳なる一人と、三人連立ちて抜参りせしが、十二歳の者は足を痛めぬる故、両人連立つて途中より先へ参宮し、帰路同じ町内に住める婦人の二歳なる小児を
京都にて、或る家の丁児抜参りせんとせしを、主人大いに叱りぬれども、聞入れざる様子なれば、火の見の柱へ
大宮通丹波口にては、握飯一つ宛施行せしに、日々米二石余り入りしと云へり。久宝寺町金屋平兵衛、幼年の娘両人相具して、四月六日立にて参宮し、廿日に帰り来る。今にては京都・江州・若州・尾州等より、身元宜しき者計り大勢連立て参宮し、道筋も
堂島裏町桜橋筋東へ入る処にて、中沢右兵衛といへる寺子屋の妻、五十計りなるが、疾病にて、鼻落ち口破れて常に悩みぬるが、十三になれる娘一人召連れて、浮かれ行きしに、気の転ぜしにや、其日より気分宜しく、途中も無難にて、矢橋・二見等にても船に乗りしが、至つて都合宜しく、帰り来つて後も至つて健かになりしとて、神明の御蔭を喜びぬ。是が云へるに、「或る家の小児
西宮にても、【白鷺金幣を衝はふ】白鷺の金幣を街へて空を舞ひしが、処々にて下らんとするにぞ、人多く出て是を受止めんとせしに、其処へは下りで、蛭子社の隣なる門徒寺の杉木に止まりて、此処へ落しぬ。此寺の住持、大石其外処々に門徒寺の変に遇ひしを聞きて、恐れぬるにや、又信心に出でしにや、直に参宮せしと云へり、
予が隣家播磨屋季助といへる者の忰、十一歳なるが、昨年の冬より丁児奉公に出でありしが、子供の心得違ひを咎めて、此家の妻是を叱りしかば、其儘に主家を立出て、帰らざるにぞ、其由宿元へ申来る。内にても母親これを案じて、種々心を労せしに、其子は主家を出で、宿の知るべの方へ行き、鳥目百文借りて、是にて笠商ふ家に到り、「笠を買はん」と云へるにぞ、笠屋の主人「抜参りするや」と尋ねしかば、「
予が家に召使へる僕は、備前の者なるが、此が近村より三人連にて抜参りせしが、帰路京都にて一人連れにはぐれしが、此者病んで漸うと当地迄来りて、中の島備前屋敷門前にて倒れ伏して、一歩もなり難く、大いに苦しめるにぞ、屋敷より早々飛脚立て、【備前無届の抜参りを禁ず】親類直に登り来りしに、折節予が僕途中に逢ひぬ。備前は、上へ届くる事なくて抜出づる事は、厳しく法度なるに、斯かる有様なれば、大に騒動せしと云ふ。
四月廿日過ぎ、久資寺町金屋平兵衛が門を通りしに、主人手共衛
五月七日堂島川に架かれる田簑橋の上に、十二三なる伊勢参りの女子行倒れ死す。是等は一人にて参宮すべき事には思はれねば、定めて連れにはぐれ、飢に労れ病死せる事と思はる。
【 NDLJP:152】同中旬、備中新見飛脚来り、親類よりの書状を持参せしが、伊勢参りの老幼、病にて宿送りになりぬるを、大勢見受けしが、哀なる有様なりしとて語りぬ。
同中旬、日向
伊東も素姓正しき家にあらず。【伊東家の復興】昔彼家の入道、大友をせばめ、九州に勢を振ひ、鐘の銘より事起り、薩州と合戦に及びしに、其勢当り難く、薩州勢打負けて、終に鹿児島の本城迄攻詰められ、城を捨て奔去りぬ。此の如くなれば、跡なる河原迄引取り、大に勝誇り、甲冑を解き、油断して、其備なき処へ、薩州の敗兵、窮鼠猫を【 NDLJP:153】食むの勢にて、思ひ寄らず切込みしかば、大敗に及び、吾一に落行き、恥ある者は手を空うして討たれ、腹切などして相果てぬ。入道も今は詮方なく、腹切つて失せぬるにぞ、【○大義ハ忠義】足軽に一人大義の者有りて、敵に首を渡すまじと、入道が首を討落し、懐中なる家の系図を取出し、これと首とを腰に括り付け、海中へ飛入り、辛うじて命を全うし、日向に帰り、人知れず其首を葬り、何卒して家を起さんと思へども、血筋の人々も皆討死して更になければ、詮方なく上方に出来り、御治世になりて、いかなる人の子とも分き難き小児一人
当所伊東屋敷の側に、伏見屋間右衛門といへる寺子屋あり。【日向の奇風】此者狂歌を詠みて一家をなし、桃李園と云ふ。此者屋敷へも立入りぬ。此度供せし家老、同人方へ出で来り、迷子連れ来りし噂をなし、子が先祖も迷子にて、日向へ売られし者なれども、追々立身して、先代より家老職をつとむ。日向へ連れ帰りしとて、憂目見する事にては更に無し。暫く足軽に使ひ算筆を能くする者は、間なく勘定役勝手方などへ出で、追ひ〳〵立身する事にて、かゝる類、家中に多き由。又何一つ取得なき者共は、百姓になし、山野の働を為さしむる由。彼国領内広く、人至て少き故、他国の者を買入る事なる由。元来彼国の土風にて、子一両人を育て、其余はまび〳〵と称へ、堕胎せしめ、生み落しても、是を殺しぬ。子供多く育つれば、親の世話多し。家を続ぐ者さへ有れば、夫にて事足りぬ。家業は成人せし他国者を買取つて、是になさしむれば、苦労する事無しとて金銀・田畠多く持てる者迄も、【 NDLJP:154】此の如しと云へり。此節君侯の著ありしに、迎へ船未だ来らず。中旬より、今に屋敷へ滞留あり。〈廿二日なり。〉供の士一人死するに、「当所にて死にしは、大なる仕合なり」と、何れも口々に云へるにぞ、「何れにて死するも、死によきといふ事はあるまじ」と、宿の主の難ぜしに、飫肥領内城下迄の内に、至て難所有り、馬・駕籠も通り難き所有り。前々より其所にて人死する事あれば、海の中へ投込む事なりとぞ。総て下国と見えて、当所屋敷にても、台所に大なる囲炉裏を切りて、鍋をかけ、此鍋にて飯も汁も何に寄らずたきぬるに、月代の湯をも是にて沸し、鍋の中にて
四月下旬より五月さし入迄は、伊勢参りも至て稀なる事なりしに、十日頃より、予州・備前・備中・中国・九州・雲伯等より出来り、最初の如くには非れども、市中を大勢徘徊す。
五月上旬雲州より、【奇瑞】母・娘両人の抜参りせし者有りしが、其母病に臥して、大和路にて死す。娘願によりて、其所に葬りやりし由。御代官よりして、当所出雲屋敷へ其届あり。
大和国下市なる西法寺〈曹洞宗なり。〉の住持が咄には、国々も一統に伊勢参りせざるものなく、種々の奇瑞あり。予が知れる川上と云へる所に住める富家の娘、年十三、幼きより
順慶町 家内近辺心易き女同士相語らひ、【女の入水】参宮せんとて内を抜け出でしが、道中にて連にはぐれ、此女一人になりぬ。元来此者癎症の
五月の末江州水口の人来りて咄せるを聞くに、【渡銭】道中筋、「最初人の出盛りし時の如くにはあらねども、今に参詣群集す」と云へり。此度御蔭参りに付、道中筋の宿屋々々は申すに及ばず、総べて商人・働人まで、仰山に金儲けせし事なりとぞ。鈴鹿山の麓【 NDLJP:156】なる田村川の橋、一人前三文宛にて渡しぬるが、此度御蔭に付き、多くの人を雇ひ附け置きて、右の如く渡し銭を取りしが、上の運上、又人足雇ひ賃など相払ひ、纔の間に、三百金残りしと云ふ。
右の橋上の処は、十ケ年の受負にて、又十ケ年の内、一ケ年づつ下にて分ち、十人して之を持つと云ふ。纔か人の出盛りし間に、日雇賃金五十両相払ひ、運上・諸雑費をも済して、三百金残る程なれば、夫より後も追々参詣の絶ゆる間も無ければ、いか程儲けぬる事とも計り難し。これにて宿屋・諸商人・働人等の金儲け、思ひ遣るべし。併し近来は宿々悉く病臥して、病み人ならざるはなしと云ふ。昼夜の差別なく、大勢の人を宿らせて、身体の続きぬる迄働きし事なれば、さも有るべき事なり。
始めの程は米も相応に貯へしが、【米の騰貴】後には宿々に米を切らし、四斗俵一俵金二歩三朱になり、夫より次第に騰り、金一両迄に至りしと云ふ。江州の内にても、日野・八幡等は、至つて福者多き処なれば、米穀沢山に貯へぬれば、此処に至りて、米を求むれば、何時にても無き事なしと雖も、人夫は悉く道中筋の働をなし、百姓も牛馬を牽きて、是をなして、銭儲け多き事なれば、米運びに雇ふ人なく、拠なく宿屋々々より手人にて運取り、大いに混雑せし事なりと云へり。又参宮人
米屋町三丁目伊勢屋久兵衛とて、【疫癘】伊勢の太夫宿する者あり。当地にて是が親しくする者、此度伊勢へ到り、商ひせんとて、種々の物多く仕込みて、彼地へ到りしに、山田一面疫癘にて、悉く病み臥し、参詣せし者共も、同様に病み臥しぬ。此日国々参詣人大病の分、宿送りにて送り出せる者、四十三人あり。日々四五十人の宿送り絶ゆる事無しと云ふ。折角商ひをなさんとて、物多く仕入れ、態々到りぬれども、此有様を見て、大いに恐れ、一夜の宿りを明かしかね、早々逃げ帰りしと云ふ。道中と雖も、皆病み臥しぬる事にて、扨々恐ろしき事なりしとて語れりと云ふ。こは六月【 NDLJP:157】上旬の事なりとぞ。
四月下旬より五月前後迄は、参宮人の往来も、至つて少なかりしが、十日過より伊予・因幡・安芸等より大勢参宮し、肥前・天草・石見などよりも、追々出で来る。日向よりも同様なり。
淀屋橋辺には、毎々参宮人の病に苦しみて、行倒れぬる者絶えざる故、皆々家に取込み養生為さしむと云ふ。長町等も定めて同様の事なるべし。
京都或る大家の息子、【難船】伊勢参りせんと云へるにぞ、手代両人荷持一人召連れぬるが、夫計りにては、道中の程も心許無しとて、出入の角力取一人差添へて、此節、道も群集する折なれば、「何かと心を付けて、怪我などせざる様に計らへ」と云付けて遣りぬるに、横田川にて渡船覆り、主人は流れ亡せて、四人の者共は皆助かりて、すご〳〵と帰り来りしと云ふ。両親の道の程を案じつゝ、斯く迄心を添へたるも、斯かる災に遇ひぬ。恐るべし。〈和泉屋善兵衛の咄なり。〉
六月中旬、【雑沓】伊予国吉田家中何某なる者、江戸より帰り来り、よき序なれば、伊勢参宮を為さんと、兼ねて思ひしかども、関東筋一様に、御蔭とて動き立ち、箱根御関所も、参宮人は切手なくて御通しある程の事なれば、道中筋大群集にて、殊に伊勢路に掛りては、西国よりの参詣も多く、中々参詣など出来ぬる様子に非りし故、其儘にして参らざりしとて、加島屋勝助へ語りしとなり。西国にては日向尤も多かりしと云へりとぞ。
西国筋より、追々参詣の者
七月二日京都大地震。加賀国より三人連の御蔭参り、清水へ参詣し、石灯籠の側に休らひ居たりしが、右の大地震にて、石灯籠倒れ、是に打たれて、三人共即死すと【 NDLJP:158】云ふ。
同中旬、湊川とやらんの渡にて、御蔭参り五人連れにて、人込みの渡船へ乗込みしが、五人共水に溺れしに、三人は辛うじて助かり、二人は流れ失せしとなり。こは予が知れる者の眼前に見しと云へり。京都地震有りてより、其噂ばかりにて、御蔭参りの沙汰も止みぬ。されども、西国筋の抜参りは、絶えず之有り。途中にて日々是を見受けぬるが、七月の末より八月に至りては、只さへ施行する者なきに、京都より伏見其外にても、右の地震にて、頓と取あへる者なきと見えて、何れもやつれはて、門毎に立てるに、銭を乞へるは絶えて無く、昨日より食をたべず、今朝より何も喰はざれば、「何にてもたべる物給はれ」とて、食を乞はざるはなく、皆々浅ましき有様になりぬ。
七月廿七日、亀山家中小川庄太夫、江戸より帰り来り、是が咄には、「此節関東筋御蔭参り益〻盛にて、道中も殊の外群集をなし、施行処々に在り。其外施行馬・施行駕籠など、毛氈・縮緬等にて飾りを為し、男女の差別なく相応に畏服を飾りて、人を
米屋町伊勢屋久兵衛、伊勢へ行き、九月朔日帰り来りしが、此節にては参詣も
当春伊勢焼失前の事なりしが、丹後元伊勢の神主、或る夜の夢に、大神宮枕上に立たせ給ひ、「此処へ今より帰り来るべし」との神の御告ありしにぞ、不思議の事に思ひしに、夜明けぬれば、大神宮の御帰りありしとて、諸方より参詣群集せしとなり。是御祓・御幣等の降りしと同日の談なるべし。然るに同国江尻村といへる処にマニ【 NDLJP:159】フ大明神といへるを、【マニフ大明神】土人之を皇大神宮と称し「此大神は此処にて誕生ましませしにぞ、伊勢の根本此処なり」と、いかに心得違へるにや、専ら斯様に思ひ込みぬる由。七月さし入りよりして、此宮へ参詣する者夥しき事なりとて、彼地より或る方へ詳しく申来りしとて、予に語りぬ。人気の立ちぬる事、理を以て論じ難し。併し
九月十六日君侯江戸御発駕にて、御初入部あるにぞ、同苗音之丞御迎に罷越し、帰路子が方へ立寄りしが、遠州辺末だに御蔭参りの多く有りしと云へり。
下関より夫婦連にて、老母を伴ひ、相応の身元の者の由なるが、伊勢・西国を兼ねて出で来りしが、奈良へ著くと其男病に臥し、三十日計りの煩にて死す。路用金八両持ち出でし由なるが、其金悉く宿払・医者の礼等に取られ、夫にても足らねば、二人共裸にせんと云へるにぞ、折節其婦人姙娠にて、臨月なる故、種々にこれを歎き、老母のみ裸になりて、衣服を与へ、襦袢一つになりて、宿屋を追出さる。是迄に国元へ金子申遣らば、何程にても登す身元なるに、主の死なんとは思はず、程無く好からんと思ひ、うか〳〵日を送る内、主は死に失せて、途方に暮れしと云ふ。御蔭参りなりとて、浮気ながらも施行する者も有る中に、斯かる不仁の奴も有りぬ。こは十月始めの事にて、其女予が知れる方にて、一飯の施しを受け、其事を話しぬる故、哀れに思ひしかば、三百文遣はせしと云ふ。
九月の末の事なりしが、【乱心】阿波座の大工の忰、近所の友を誘ひ、二人連にて参宮をなせしが、此者途中にて乱心せしやらん、狐の付きしやらん、俄にあばれ出し、山中に駈け込み、脇差を抜きて、振廻しなどせし故、其連と云へるも、
高槻にては、足軽共三人申合せ、抜参りを為し、忽ち足をあげられて、流浪の身となりしとぞ。
日向
当年は御蔭参りより引続き、京都地震、諸国風水の変有りしかども、少しも稲作の関ひにはあらざりしと云ふ。尤も奥州は少々不作なりと云ふ。されども、これ式の事にて、米払底と云ふには非るに、新穀処々より登りぬるに、米価至つて尊く白米一升百五六文もするやうになりぬるにぞ、玉水町加島屋久左衛門門口、呉服町にては、あき家の門口等へ張紙をなす。「新米沢山に積登るに、米価此の如くに尊き謂はれなし。【○引当ハ抵宮也】こは全く持てる者共の諸屋敷の米切手を引当に取りて、金を貸しぬる故なり。已来其事止めば、米価下落すべし、若し此後切手引当に金を貸しぬるに於ては、其【 NDLJP:161】家々を打砕くべし」と書きて、下に困窮人共とこれ有りし由、加島屋勝助が咄しぬるを聞きぬ。実に当年米価高き謂はれなし。これも彼の堂島の悪徒等が、利を貪れる事なるべし。
又六七月の頃より、【浮説】上総・常陸等にては、寺々の石碑を乱暴狼藉し、人数五六七人掛りても、持運ひ兼ぬる程の石塔を、夜の間に何の音をも為さで、遥なる外へ持運び、又は三四尺も土台の石共に地中へ押込み、又は法名に朱なるは墨を入れ、墨なるは朱を入れなどするにぞ、地頭よりも厳しき手当あつて、墓所毎に多くの番人を付け置き、怪しき者を見出し、これを捕ふべしとて、厳しき手当有れ共、其者共いかに思ひても、眠りを生じて、堪忍び難く、驚きて目を開きぬれば、其辺狼藉してあり。漸くにして其者の形を見るに、女なれば直に是を捕へんとするに、其姿は
大和・河内其外諸国御蔭参りにつきて、道中筋に於て、男女邪淫の行限りなく、これに依つて、大和の男子阿波へ行きて養子となり、紀州の娘大和へ走りて妻となりし類、限りなき事と云ふ。一人娘・一人息子など、他国へ走りて、親々の困じぬる多しと云ふ。
大和・河内は当年殊の外豊年にして、【御蔭踊】別て紅花など、近年にこれ無き豊作なりしにぞ、京都は吝嗇にして、御蔭参りに施行も少なかりしかば、右の如く大地震あり、「こは神の罰なるべし。大和・河内は参宮人の世話をよくなせし故、これ全く神の恵みを蒙りしなるべし。躍るべし」とて、誰云ふ共なく、大いに浮かれ立つて、三十・五十の人人、一と群れに成りて躍り廻りしに、国中一面になりて大いに騒動し、昼とも夜とも分ちなく、老も若きも一様にて、二日も三日も処々泊りがけに躍り歩くやうになりぬ。躍りの手は願人坊主手を付けて、願人躍りの如く、三味線・太鼓・すりがね等にて囃し、傘をさし、住吉躍りの如しと云ふ。大和内里といへるは、八幡より二里計り南なるが、此処の庄屋南周助といへるは、予が知れる人なり。其村よりも七百人計り村人一人も残れる者なく、二百五十文にて金の幣を拵へ、これを先に押立て、雑し立て躍り歩行き、年貢等も少しも
大和八木といへる処にては、羅紗にて大幟を拵へ、縮緬にて揃の衣裳をなさんとて、大坂に求めしに、大坂にては、大層の事故拵へがたく、京都にてこれを調へ、又大坂より芸を付くる者を呼び迎へ、これに躍りの手を付けさせ、鼓・三味線・太鼓・鐘等にて囃し立て、躍りながら伊勢へ参宮。此の如くなれば、一統に之に負けまじとて、天鵞絨・緞子等にて、大幟を拵へ、衣裳をも種々の物好をなし、至つて華美を尽し、参宮する事なりと云ふ。【○名張ハ伊賀ノ地名】又名張にても仰山なる事をなし、躍りぬる故、かくては何かの差支になるべしとて、地頭〈藤堂和泉守なり〉より厳しくこれを制し、懲しめの為めにとて、頭立ちし者共三人を召捕り、座敷牢に押込めて、是を糺明す。然るにこれに関りし役人の家々、何れも出火にて丸焼となりぬるにぞ、「こは伊勢の御神為し給へる業にして、【 NDLJP:164】かゝる躍りの流行ぬる事なるべし。これを制する事の神慮に叶はざるなるべし」とて、是を制する事止みしかば、愈々盛に躍るやうになりぬ。何れも芸者共の振付なれば、思ひ付次第とは雖も、舞の手拍子なりと云ふ。
福島碇屋吉衛門といへる者、森口の上にて、一つ家といへる処の親類を訪ひしに、其村に、大和に縁類ある者ありぬるが、大和より其家を目指して、三百人計り御蔭躍り出来る。其様猩々緋の大幟に、金糸にて大神宮と縫付けしを押立て、男女打混じ、男の分は維紗・猩々緋等の陣羽織を著し、浮れ立つて躍れる様、「軍といへるも此の如き者ならんと思ひし」と云へり。此者共の弁当を仕入れし長持、十棹計りも有りしと云ふ。又予が方へ出入する熊右衛門といへる者、人に雇はれて、尾張へ行きしに、参りかけ森口にて二百人計り躍りぬるに、又橋本にても、三百五十人計り躍れるを見る。其様猩々緋の大幟七本立て、七戸包の長持七棹に、御蔭躍といへる札を立て、寒中なるに、之を舁ける人足は裸にて、雲助の様に仕立て、総人数御蔭躍と染込みし手拭を持ち、男女共唐更紗の
又大坂吉田の蔵屋敷より、大和小泉の家中なる親類の方へ到りし者あり。大いに躍りはずめるにぞ、「何故此の如くに浮かれぬるや」と尋ねしに、「総て作物例年に倍し、別して綿は常に倍して多く得し上に、当年諸国不作にて、直段高かりし故、倍々の利を得たり。御蔭に非ずして、此の如き事あるべからず、躍らずに居らるべきかは」と答へしと云へり。又俵本は織田の領分なるが、「御蔭躍すべからず。若これをなさば、発頭人を召捕り、厳科に行ふべし」となりしかば、一統に起り立ち、毎家に残らず出で大いに躍りをなし、「領中残らず厳科に行はるべし。一人も残るべからず」とて、大いに躍り廻り、地頭詮術無しと云ふ。又柳生には、「御蔭躍の事なれば、随分躍るべし。さりながら、家毎に一人宛ならでは、出づる事勿れ」と触ありしに、是をもよく守りしと云ふ。
【 NDLJP:165】御蔭参りせし子供等
此度豊後飫肥、人買船有之候人数申上候。駕籠にて一昨日当地通り申候。御地へも参著仕候。委敷御覧可㆑被㆑下候。
江戸神田お玉ケ池但馬屋源蔵忰富吉、十二歳、
江戸堺町通松島丁米吉、十三歳、
京堀川船橋大工孝七忰卯之助、十歳、
右同断弁蔵忰寅吉、十三歳、
江戸牛込山里町加賀屋茂兵衛忰増五郎、当年十三歳、
江戸麻布一本松福岡屋金蔵忰万吉、十四歳、
大坂上新町近江屋弥七忰常吉、十歳、
河内みくりや村 ゑひ、十四歳、
相州箱根 友吉、十三歳、
摂津尼ケ崎西川小林村忠兵衛忰勝五郎、十二歳、
大坂江戸堀四丁目神田屋寅之助、十歳、
江戸本所大島房州屋吉五郎、十三歳、
中尾道忠兵衛忰与吉、十歳、
右之通数十三人、日向油津浦千四百石積模稜丸船頭文吉。水主弥惣次、富高浦にて船上り仕候。寅十二月二日書
右の者共十二月廿日、大坂著。人数十三人と有れども、十五歳の者両人ありて、都合十五人の由。右の船日向の人売払候地へ二里計りに成りしに、俄かに大風にて吹戻され、拠なく富高浦へ船繋せしかば、十五歳の者両人云合せ、密に陸へ上り、人家へ駈込み、始末を咄し、助を乞ひしかば、直に地頭へ訴へ、直に船頭を召捕りぬ。十五人の子供等寒中なるに、単物或は襦袢などにて慄ひ居りしとなり。地頭より【 NDLJP:166】一統へ紺飛白の綿入を給ひて、大坂へ駕籠にて送り来りぬ。是等は運よくして帰り来りぬれども、斯様なる類尚多く候て、所々へ売渡されて、苦しめる者も多かるべしと思はる。已に此度召捕られし者にも、同類三十人計り有ると云へり。
代国分峠より十町計り側らに、ひるめと云へる所有り。【御神体】此処の高山の絶頂に水神の社有りて、麓よりは五十町の登りなり。毎年一度づつ神事有りて、其節には地頭より役人参り、其扉を開く事にて、神事終れば、これを閉ぢて、錠をおろし、鍵をば役人持帰りて、平日にはこれを開く事なきに、其神体側に打捨て、中に大神宮の神体入り代り、社前にも、劒先の御祓降り有りしとて、大勢参詣をなし、一日に三十貫余の賽銭をあげぬるにぞ、社辺に小屋掛をなして、商人多く集りぬ。間もなく内宮建ての勧請せしと云ふ。これも姦人のなせる業なりなどとて、種々の風説有りし。
牧方の側ら、中尾村と云へるは、人家百三十軒余ある村なるが、近村お蔭躍り流行にて、出で躍りぬるに、誰云ふともなく、【躍りて借銭を踏み倒す】「躍らざる者は、一族共病に死し、又は其家焼け失せぬる」など云へるにぞ、さらば躍れとて、一人前二十文づつの持出しにて、緋紋羽のぶつさき羽織の揃ひにて、明七つ時、氏神の社にて、太鼓を打ち、一統是を相図に飯を焚き、二度目の太鼓にて勢揃へをなし、未明より三番目の太鼓にて、躍り出で、凡そ三十人計り躍り廻り、年貢皆済の時節に至り、「之を一石に付きて、三斗減ぜよ」とて、喧しく云募りて、遂に一石に付き一斗宛を減ぜしむ。されども何れも躍りに浮かれ廻り、過分の金〈一人前に十二両余り物入と云ふ。〉を使ひ捨てし上なれば、何れも借金して漸く是を納めしが、暮の払をなす手当とては、一銭も無き者多き故、「当節季は一統払すべからず、若し一人にても掛払ひ致しぬる者あるに於ては、一村の払、其者一人より
堂島浜三十目加島屋久右衛門蔵に於て伊勢参宮人宿致候人数書左の通。
【 NDLJP:167】閨三月三日、四百八十九人 四日、七百十八人 五日、八百五十人 六日、八百九十三人 七日、七百四十人 八日、六百人 九日、千八十七人 十日、千七十人 十一日、九百六十二人 十二日、千三十七人 十三日、千三百十四人 十四日、千廿二人 十五日、千四十三人 十六日、千百十五人 十七日、千百九十九人 十八日、千二百八十人 十九日、九百七人 廿日、千八百三十八人
〆一万八千百六十四人
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此内国分ケ部播州男四千九百八十九人、女五千六百八人、〆一万五百九十七人、 摂州男千二百五十人、女千四百三十五人、〆ニ千六百八十五人、 阿州男千五十九人、女九百四十三人、〆二千二人、 和泉男三百六十人、女四百六十四人、〆八百三十一人、 紀州男二百三人、女二百廿五人、〆四百廿八人、 河内男十六人、女十五人、〆三十一人、 備前男四十一人女三十九人、〆八十人、 備中男四十四人、女四十人、〆八十四人、 備後男百四十八人、女百十人、〆二百五十八人、 安芸男百六人、女八十二人、〆百八十八人、 讃岐男百廿八人、女九十五人、〆二百廿三人、 伊予男三十五人、女十七人、〆五十二人、 土佐男一人、 肥前男十一人、女廿八人、〆三十九人、 肥後男四百廿二人、女四十一人、〆四百六十三人、 筑前男四人、女三人、〆七人、 筑後男五人、 豊前男十二人、女十六人、〆廿八人、 豊後男十五人、女十六人、〆三十一人、 丹波男七十一人、女七十一人、〆百四十二人、 因幡男九人、女廿人、〆廿九人、 伯耆男六人、女二人、〆八人、 美作男十八人、女五人、〆廿三人、 但馬男四十六人、女三十六任、〆八十二人、 石見男廿一人、女廿一人、〆四十二人、 周防男三人、 長門男二人、女一人、 出雲男七人、女六人、 尾張男一人、女四人、 南部男二人、 越後男二人、女三人、 出羽山形男三人、 越中男一人、 小田原男二人、 奥州男三人、 加賀男五人、女十人、 参河男二人、女五人、 木島男一人、女三人、 上州男一人、 江戸男十四人、 京都男十二人、女九人、 小豆島男十人、女十四人、
女 九千三百八十七人、
〆一万八千八十五人、
外に 七十九人
又凡 一万人、 浜納家々々にて泊り候人、
又九百人 朝飯・中飯出す。
【(頭書註)西行が山家集にはかたじけなさと有り後人是事を弁へざるに似たりと云へづは古言に非ず】〈[#図は省略]〉
西 すぐ
いせさんぐうみち
北 伊勢両皇大神宮
何事のおはしますかはしらねども ありがたさにぞなみだこぼるゝ
東 すぐ さいこく海道、
南 使㆘参宮人安㆗一夜寝食㆖又毎㆑人与㆓銭紙㆒
文政十三年寅閏三月 米仲買中
御代安らけきしるしとて、天照らすおほん神に、お蔭と云ひて詣づる事あり。宝永乙酉と、明和辛卯と、此頃となり。かゝる
さては宿取る頃ならねばとて、行過ぐる人には、「塵に交る神の恵を仰ぎね」とて、塵紙一折を与へ、六銅の銭は、六根清浄といふ心にて、伊勢のおほん神に詣づる人の心を助くる料にとて贈るなり。贈るも惜しと覚えず、受くる人も何心なく、唯有り難き御代の御蔭なりけりとて、互に喜ぶは、畏くも例なく覚ゆ。宿せし人の数は、廿日の内に三万にも及び、あしと紙とを与へしは、廿万に過ぎたり。有難き御代なれば、年を経ずして、又かゝる美事あるべしと覚ゆ。されば其時も亦此頃の如く、人々心を合せて、斯く計らひなば、掛けまくも畏き神の御心をすゞしめ、畏こくも有り難き御代に生れ逢ひたる嬉しさに、日本魂の真心も顕はれて、自ら市場繁昌となるべし。げに昨日迄は此の習ひを忘れたる様なる若人達も、神の守の
文政十三年庚寅四月 加賀屋藤七といふ浜方両替なり 堂島市隠網利漁叟誌㆑之
御蔭参りをよめる 読人しれず
鶏が鳴く吾妻の果ても知らぬ火の筑紫も動く伊勢の神風
抜参りする人を見て
【 NDLJP:170】留むる親も留めらるゝ子も跡やさき行くも帰るも同じ道筋
主親のせく
善悪を見つゝも聞かで猿松の云ふな
数知れず参る乙女子名は優し杓振るさまを見てはあさまし
施行の宿に泊りて、
美濃近江寐物語にものせんと施行のやどり狙ふ曲者
戯れに御蔭参りの様を云へる後附のしやれごと、
御蔭の始め寅の春、春過夏来秋迄も、でも仰由なる伊勢参り、参る手毎に笠と杓、癪も疝気も厭ひなく、泣く子を
文政寅は御蔭年、人一番に飛んで出る、出る始まりは阿波・淡路、千尋の海を一と跨ぎ、紀州・
○辛働ハ疲労也持つ、つゞく菅笠
善悪を見聞きせざれの戒をきかぬ耳目の憎まれぞする
御伊勢参りと、都も鄙も浮かれ立ち、出て行く人の限りなく、萱笠・蓙著て杓を持ち、御蔭でな、ぬけたとせ。
御蔭参りと、抜け行く人を見れば、下駄で行く有り跣足有り、前垂・手襁も其儘に、わたしもな、ぬけたぞへ。
立つ子
堂島施行宿の入用、凡銀十三貫目、尤も塩・味噌・炭・薪等外よりも加入する者有りて、堂島計りにてせしにも非ず。【堂島の施行宿】斯かる施行の中へ、彼の高名なる加島屋久左衛門より、銭十貫文・香物一樽贈りしと云ふ。人夫百人余を以てして、泊る人の世話をなさしめ、其国処をも詳に記さしむるに、其人夫共一両日にて、大いに労れ果てぬる故、毎事代り合つてこれを勤む。され共火の用心悪しく、余りに混雑すればとて、町内の年寄より、閏月廿日迄にて、之を止む、又塵紙十枚・鳥目六文づつ米相場の浜に於て、五十日の間施しぬ。これも処々よりの持寄にして、堂島ばかりにも非ず。此入用凡【 NDLJP:172】そ二十五貫目なりと云ふ。されども堂島の施行は、其名を四方に知らしめて、己を利せんと欲する名利の心に出で、聊も仁慈あるに非ず。
閏月廿一日より、御霊社内芝居小屋に於て、施行宿をなし泊めし人数左の如し。
廿一日、五百二十三人、 廿二日、九百六十三人、 廿三日、千二百七十八人、 廿四日、千五百七十三人、
是も火の用心悪しきとて、四日に相止めぬ。廿五日には、右の余り物を以て、一度の食を施し、行届かざるは白米にて一合
右の外、道修町より二百貫目、安土町三丁目・塩町一丁目、其外処々より二百貫文・三百貫
高槻にては施行駕籠多く、芥川迄出し、大勢の人を乗せ歩行きしとなり。
朝熊の万金丹屋にては、日々、七八百より、千人余の施行宿せしと云ふ。大坂大川町加島屋作兵衛、十七八人召連れ、夫婦共参宮せしが、折節雨天続きにて、一日天気よき事なかりしかば、山田にても宿屋に肴無くて、至つて不自由の事なりしに、朝熊へ登り万金丹屋にて宿を乞ひしに、【朝熊万金丹の大施行】其日も至つて大雨にて、八百人計り施行宿為しぬるにぞ、これを断りしが、加島屋作兵衛なる由を聞きて、これに面会せし事は無しと雖も、紀州の縁者に続きぬる廻縁の由なるにぞ、之を泊め、「斯かる有様なれば、聊も御馳走とては為し難し。麁末の出来合を参らすべし」とて、之を泊め、座敷二間を明け渡し、直に膳を出せしに、本膳にて、かゝる
施行の人目に立ちぬるは、東海道見附の宿なりと云へり。橋の左右へ掛出しを為し、【東海道の施行】往来道を異にして、混雑せざる様に為し、処々にて枇杷葉湯を煎じ、双方の詰には、風呂を多く据ゑ、髪結床を構へ、参宮人に沐浴せしめ、食物を与へ、又施行宿も多かりしと云ふ。又尾州にては、一々本膳にて施行宿為せしと云ふ。大和の内にても、本膳にて宿らせし家一軒ありと云へり。又参宮の華麗なりしは駿河府中にて、【豪奢なる参宮】二軒町と云へる青楼の老父、七十余歳なるが、美事なる駕籠に、上をば毛氈にて包み、四方を縮緬にて巻き、絹蒲団を重ね敷き、屋根の四方へ造花の桜をさし、抱への遊女二十人計り、一様の衣裳にて駕籠の左右に附添ひ、荷持・駕籠の者、共に三十余人なるが、何れも一様の揃ひにて、御蔭二度と記せる大幟を押立て、参りしと云ふ。道中筋にても、余程目立ちしと云へり。
亀山家中中島登が母抜参りせしに、【悲劇】道にて婦人の三つ計りの子を負ひて、始終後や先に歩みしが、此婦人負ひし子を取られて、狂女となりぬ。又夫婦連にて当歳の子を抱きぬるが、男の其子を抱きしに、妻にはぐれ、子の泣入りて途方に迷ひぬるあり。又婦人の、連れにはぐれ、狐に化かされて、池中に溺れて困じぬる等、種々の事ありしとて語りぬ。
前にもいへる如く、【躍の代償】御蔭躍り無上に流行り出し、所々方々に移りしが、天保二年辛卯春よりしては、摂州へ移りしが、四月半ば過よりしては、中山勝尾寺・箕面・池田、其外、其辺一統に始まりぬ。中にも、池田は富商多き処なり。されども身を持てる者共は、斯かる
【 NDLJP:176】 〈[#図は省略]〉
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。