浮世の有様/1/分冊1

目次
 
 
オロシヤ船エトロフ番所砲撃奉行逃走奉行切腹オロシヤ船狼藉の原因蝦夷奥州の警戒公儀役人と佐竹と応答公儀の行軍と上杉の行列と衝突オロシヤ船復来らざりしにより警戒を解く金沢大蔵大輔長崎奉行となる間宮筑前守長崎奉行となる金沢と間宮との批判唐人の出入を制限せしに就きて船頭の抗議大村の城主長崎定詰となる唐人の困窮唐人の乱暴渡辺藤市唐人の狼藉を鎮む大村侯渡辺の功を賞して二百石の知行を与ふ渡辺に就いての批判唐人の臆病津軽騒動の起因津軽の祖先大浦信濃守の悪逆南部津軽の境界論津軽の不法津軽人と南部人の気風津軽侯に就いての批判宮津の百姓一揆苛斂誅求栗原右門の一言にて一揆退く栗原右門佞人の為めに陥れらる西の丸殿中刀傷松山の百姓一揆紀州親類より絹屋への書状忠臣蔵九段目目録いろはうた卯作の弟仁兵衛の書状紀州騒動に就いての余談真田の書状英船漂著薩州侍衆より尾上小十郎への書状文政十年三月十八日の御触
 
オープンアクセス NDLJP:9
 
浮世の有様
 
 
 

此書文化三年に筆を始むと雖、昔よりして予が見聞せし事の、心に留め置きしを、思出づる儘に書記しぬる故、其事の前後せしも少からず。こはたゞ我が家に秘め置きて、他人に見せぬるものにあらざれば、忌憚れる事をも、あらはに之を書き連ね、文の拙きも言葉の賤しきも、書損じぬるをも、之を改め正す事さへあらざれば、年の前後せしなどをば、更に厭ふ事なし。されども、其事実に於ては少しも違ふ事なし。之を見て、其時々の世の有様を思量り、善きも悪しきも能く弁へ知りて、常に之を其心に留め置きぬる時は、其益なきにしもあらず。予が子孫たらむ者は、よオープンアクセス NDLJP:10く之を心得べし。必ず世間流布の雑書と同じく思ひ過るべからず。

 
浮世の有様 巻之一
 
 
文化三年露船到来
 

文化三寅年の事かと覚ゆ、蝦夷へオロシヤ船来りて、ヱトロフの御番所へ、頻に鉄炮相互いでを打懸けしかば、オロシヤ船エトロフ番所砲撃思ひよらぬ事なれば、御奉行戸田又太夫大いに狼狽す。家来の者共、直に主人の具足を取出さむとて、箱を開きぬるに、衣服・帳面の類のみにて、具足なし。主人斯くの如くなれば、家来皆同様の事にて、如何せむと思ひ煩ふ内、御奉行、一番に逃出して、奉行逃走裏なる山へ遁れ行く。主人、斯くの如くなれば、一人も残る者なく、役所をあけて逃走りしに、オロシヤには、此有様を見れども、直には上陸せず。暫くの間は、矢張鉄炮を打懸けしが、陣屋に人なきを見済みすまし、大勢出来り、役所にありし物、何に寄らず、悉く船に積取りぬ。オロシヤ人一人、酒を過して大に酩酊し、船に乗後れて、道路に倒れ居しを、蝦夷人四五人計りにて、之を搦め取りぬるに鉄炮、其側にありて、腰に玉袋を付けしが、玉十八ありて、内二つならでは鉛玉なく、余は悉オープンアクセス NDLJP:11煉玉ねりだまなりといふ。事鎮まりて後、御奉行始め、何れもやうと帰り来りしが、役所の物悉く奪取られ、公儀へ対し申訳なく、今更詮方なくて、奉行切腹御奉行切腹ありて、其始末注進に及ぶ。又兵庫高田屋嘉平治が、江戸へ廻米積みし船中を目懸けて押来り、船頭を生捕り、米はいふに及ばず、船中の物残らず奪ひ取られぬ。 〈高田屋嘉平治、オロシヤの船に行きて応対し、生捕られし人は取戻せしといへり〉是は松前より内分にて、米多くオロシヤへ送られしに、其事公儀の御聞に達し、之を停止せられ、松前は御咎蒙りて、御旗本となりて、奥州の内柳川へ所替となる。オロシヤ船狼藉の原因之よりして今迄行きし米の至らざれば、オロシヤにても之を患ひ、米を得む事を欲して、斯かる狼藉に及びしとなり。斯くては又もや出来り、如何なる狼藉を仕出しだし、兵乱に及びぬる事も計り難ければ、「異船見当り次第、之を打崩すべし」とて、蝦夷奥州の警戒蝦夷地へも大勢出役ありて、奥州の浜手をば、佐竹・上杉・津軽、其外近辺の諸候に命ぜられて、之を固めぬ。或時公儀より出役の方より〈名は忘れたり。〉申合まうしあはせの事あれば、明朝肩衣かたぎぬにて出づべし」との使ありしに、何れも「畏まり奉る」と受けぬれども、何れも肩衣を所持せし者なく、如何せむと困りはてしといふ。斯くて佐竹の陣屋に至りしに、佐行の答には、「肩衣は治平の平服なれば、一人も所持の者なし。陣中にしては、陣羽織を用ふる事古法なれば、陣羽織にて罷出づべし」と返答せしにぞ、公儀役人と佐竹と応答公儀の御役人、大に軍事にうとき事よとて、物笑ものわらひとなりぬ。されども其不明なるを思はずして、却つて之を遺恨に思ひ、何がな佐竹に恥与へんと思ひ、「其印の公儀御印にまがひぬれば、之を改めよ」といひ出しぬ。佐竹よりの答に、「当家に於て、扇に日の丸を附くる事は、頼朝以来、急度きつと由緒ある事なれば、之を改め難し。右仔細は、公辺に於て申上ぐべし。貴辺に申すは無益なり」とて、頓著せざりしかば、又是にて恥を重ねぬ。斯 公儀の行軍と上杉の行列と衝突くの如く多くの軍勢、出張ありしか共、オロシヤは頓と出で来らざる故、詮方せんかたなくて、日々何れも軍陣のならしをなして過せしに、或時道の四辻にて、公儀の行軍と、上杉の行列と行逢ひぬるに、上杉少し早かりしか共、公儀の御威勢を以て、「上杉の人数に控へ」よとありしかば、先手より之を後陣に伝ふ。番頭のいふやうは、「軍中に於て、道の邪魔になるべき事あらば、悉く斬捨て通るべしとの上意を、兼ねて蒙り置きぬ。邪魔にならば、公儀にても苦しからず、斬捨にして通るべし」とて、人数を押出すオープンアクセス NDLJP:12にぞ、こちらには、公儀の御威勢を以て、上杉を取拉とりひしがむとして、既に大変に及ばむとせし故、外々の諸侯より之を挨拶し、朝五つ頃より騒動して、七つすぎ物分ものわかれとなりぬ。之も大なる恥晒はぢさらいなりしといふ。上杉には、当時小身なれども、謙信の余風残りぬる事と見えて、此度斯くの如く出張せしとも、当人の向は一人もなく、皆二里・三里計りなり。城下にて二番手・三番手の手配なしありぬるが、これも二男・三男にて部屋住計りなりといふ。此度出張せし内に、十八貫目の鉄棒を、自由に振廻せる者、五十人ありといへり。

佐竹には、此度出張せし中に、廿四貫目の大筒をため打にする者、五十人ありといふ。かゝれ共、オロシヤの来らざる故、陣備の馴のみに日を送り、右の大筒を打出し、向に楯畳など積重ねて、之を打つに、悉く打抜きて一溜もなし。され共、竹束たけたば計りは打抜き難しといふ。オロシヤ船復来らざりしにより警戒を解く斯くて月日を送りぬれ共、頓と来る事なければ、今は陣払ぢんばらひして何時いつ頃引取るべしと、十日計り前より、其噂ありしに、明早朝いよ陣払といへるに、其夜迄も、陣屋の普請をなし、明くる日、立ちしなに陣屋に火を懸け、米穀・雑具入用の者は、勝手次第に取退けよとなりしかば、近在の百姓共、大に徳付きし事なりとぞ。

右は高田屋と共に、蝦夷地へ到り、一旦オロシヤの船へとらはれとなりし船頭の、其掛なればとて、此備ありし内は、陣中の小使に使はれしが、上杉の鉄棒・佐竹の鉄炮打てる大力なると、佐竹の陣払とには、大に胆を潰しぬ。米穀・器物・蒲団の類、何によらず持退かば、大に徳づく事なりしに、斯かる時は、我等が如き者さへも心大になり、相応の給銀も取りし事故、少しも是等に目を懸くる事なかりしが、今思出づる度毎に、惜しき事せしと、思ひぬる事よとて、此者木屋市郎衛門方に来りて、之を語りぬとて、市郎衛門が咄せる儘を記し置きぬ。予が国元などにては、奥州に於て、オロシヤと大に合戦ありて、大勢打殺し、五七人を生捕り、此方にても三百余の討死ありなど、専ら噂せしが、これ跡形あとかたもなき浮説なり。尤も水土の変り、不正の気に当てられて、百六十人計り疫死せし者ありといへり。弁慶・朝比奈等、其外古来勇力に高名の士、今の世には、一人もあるまじと思ひしに、此度佐竹・上杉の勇士を見て胆潰れしとて、語りしといふ。

オープンアクセス NDLJP:13右は、松前志摩守、御法に背きオロシヤに米を贈りし事露顕し、其余にも何か不筋の事ありて、奥州梁川へ所替仰付けられ御旗本となりぬ。之よりして、年来密に遣せし米の一粒も行かざる故、オロシヤにては、寒国故、米できる事なく、是迄彼の国の王を始め上分の者、日本の米を食し来りし事なるに、之よりして、米の行く事なければ、何れも是に苦みぬるにぞ、斯かる賊船出来りし事なりとて、其節の風説なりしが、其後四五年を経て、松前も元の如くになりて、松前に帰りて、元の如く諸侯の列に加はるやうになりぬ。

 
文政三年長崎奉行の交迭
 
文政三庚辰年、長崎の奉行を勤められし金沢大蔵大輔といふは、元は佐渡の金山奉行を勤めしに、治め方宜しかりしとて、其選にあひて、長崎へ赴かれしが、元来、高三百石の身上にて、金沢大蔵大輔長崎奉行となる器量も小さく、自ら物毎にこせつきて、長崎一統に、困窮の事多かりしとぞ。佐渡などは、小国にして辺鄙なる上、別けて金山などは、四夫・罪人などを追使ふ事なれば、是にてもよく治まりぬれども、長崎は之と違ひ、唐・和蘭陀など入込み、官物交易の港にして、土地繁華なる所なれば、佐渡と均しき治め方にては治り難き事なるを、矢張其形を用ひしとなり。是故に、唐人なども、是迄は仏参・用事などいひたてゝ、折々は館外へ出歩行であるきしに、これも厳しくなりて、官物交易の節ならでは、出づる事なり難きにぞ、荷主其外上分の唐人は、之を守りぬれ共、下唐人共は、塀を越えて忍びやかに出でぬるにぞ、此事頓て顕はれければ、大いに怒りつゝ、竹を以て、唐人屋敷の四方をは、三重迄矢来結やらいゆひまはしおたりも獄屋の如くになりぬる其後は出づる事もなかりしが、是迄、昔より下唐人共、少々宛は私の商物あきなひもの持渡り、呉服・砂糖何に寄らず、公儀の御買上になり、又商人共も買取りし事なるに、新に此事を止むる上、以来持渡らざる様にとて、其品は悉く取上げ、火をけて之を焼払へとの事なる故、地役の者共より、「是迄斯様の例なき事にて、公儀より表向ゆるし蒙りし事にては無しと雖も、昔より斯く仕来り侍れば、焼捨の事は免し給へかし」と、申立てぬれ共、一旦斯く申出でぬれば、「是非、しか計らふべし」とて、聞入きゝいれなかりしが、最早、奉行も交代の期近づきし事なれば、地役よりも、兎や角と故障言立てゝ、一日送りに日を延ばせしかオープンアクセス NDLJP:14ば、間宮筑前守長崎奉行となる程なく交代も済みぬ。此度かはりに来られし奉行は、間宮筑前守とて、高三千石にて、金沢と違ひ大身なれば、下地の計らひを大に笑ひ、「天下の政は、左様の小さき者にてはなし、余り細々こまと往届き過ぐれば、自ら料人とがにんも多く出来て、下々の困窮に及ぶ者なり、殊に当所などは、外国を引受くる所なれば、外々の如くにはあらじ」とて、政道をゆるがせになし、唐人屋敷の垣をも取払ひ、焼捨てむとせし品をも、夫々に之をさばかせ、唐人共の出入をも、心任こゝろまかせに許されしにぞ、金沢と間宮との批判市中はもとより、唐人共も大に歓びしが、物には程々のありて、其中を用ふる事を吉とする事なるに、金沢は厳に過ぎ、間宮は寛に過ぎぬる故、後には、種々の物、持出でて、近在迄も行きて、忍びやかに、商ひなしぬる様になり、余りみだらになりぬるにぞ、斯くては法度も乱るゝ故、船頭〈荷王なり。〉を奉行所へ召出し、「近来唐人共、余り乱行に相成り、所々へ出行き、喧嘩などなしぬれば、以来は門外へ出づる事を禁ずる由」、申渡されしに、船頭の答に、「委細承知仕り候へば、一応皆の者共へ、其旨申聞かせ、御返答申上ぐべし」とて引取りしが、唐人の出入を制限せしに就きて船頭の抗議早速明くる日、役所へ出で、「昨日仰付けられ候趣、下々へ申聞かせ候ところ、我々数千里を隔てし日本へ、いのちがけの働きして、海上を越え来るも、近来は、日本も政道ゆるがせにて、勝手に出歩行であるき、所々見物等も出来ぬる事故、珍らしき所見むとて、心に楽みつゝ、来れる事なるに、又も厳しくなりて、他行なり難ければ、獄屋へ入りしと同然なり。荒海を経て、命懸けの働をなし、此所に来りて囚の如くならば、一統申合せ、此後、当地へ来るまじといひぬ。我等船頭の名はあれども、名目計りにして、船中の事は、一向に知る事なく、総べて彼等に任する事なるに、彼等来らざる時は、此後、渡海致す事もなり難し。吾が国に於ては、日本へ商をなす事なしとて、少しも苦しき事なし。併ながら、日本於ては、急度、公儀の御益にかゝはるべしと覚ゆ。以来、渡海なくてよしと思ひ給はば、命に従ひ申すべし。彼の者共は、唐にても、無宿の溢者共あふれものどもなれば、我輩の手には、及び難き事にはべる」といふにぞ、奉行にも、大に当惑せられしが、「何分来らざれば、急度御益にかゝはる事なる故、然らば出入をなすとも、よく申聞け、是迄のやうに、みだらの事なく、其方共、急度、心を用ひ相成るべきだけ、之を制し、出入を減ずるやうになすべし」と、申渡されしかども、其後、出入なほ以て、甚しくなりて、奉行も、大いにオープンアクセス NDLJP:15もてあましぬるやうになりぬ。然るに、近年の事なりしが、遠州浜松の城主井上河内守在府の節、鷹野に出でられしが、或家の妻を捕へ、理不尽に之を犯し、其夫、帰り来り、之を咎めしかば、刀を引抜きて、其男へ疵つけし事あり。此事を、公儀へ相届けぬる故、大に不首尾になり、奥州棚倉へ、所替を命ぜらるゝ故、唐津の城主水野日向殿、是に代りて、浜松へ行き給ひ、棚倉の小笠原主殿頭、唐津へ引越となりしが、元来唐津侯、長崎の役を勤められし事なるに、未だ小笠原主殿頭も引越し之なき内より、大村城主、長崎定詰の役を願ひ、暫く参勤を免ぜらるゝやうにとて、種々公儀へ手入する折なれば、〈近年打続き米□下直に付き、諸大名困窮に及び、大村などは別して難渋の由、この故に願ひしとぞ。〉之を幸に、大村へ命ぜられければ、早速、大村の城主長崎定詰となる唐人屋敷門外に、長さ十五間の番所を建て、長柄五十筋・三つ道具・棒など、其前に立てならべ、上には弓・鉄炮・具足など、したゝかに飾りつゝ、二時代にて、五十人宛相詰めて、唐人共を、一人も外へ出す事なく、厳重に相守るにぞ、唐人も如何ともしがたかりしが、斯くなりて、下唐人共、大に困窮に及ぶ事あり。其故如何となれば、近年政道ゆるがせになりぬる故、唐人の困窮在々へ色々の産物を持行き、銘々に忍びやかに商をなし、日本とは、数千〔〈里脱カ〉〕の海を隔てぬる事なれども、彼等は、年々に渡海をなす事故、隣あるきする如くに思ふにぞ、五両の物は二両取り、十両の物は五両取り、又よく馴染なじみし者には、一銭も取らずして、来年の応対にて懸置きしが、此金、一文も取れざる上、当年も是に味ひ、余程の品を仕込み来りしに、之を捌く事のなり難ければ、一統に大にこうじ果てぬ。元来、此者共は、唐にて無宿同様の者共にて、日傭挊ひようかせぎして、彼世をす身分にて、左程の損をなしぬる時は、国へ帰りても、其所にも居られざる程の事なりとぞ。同四辛巳三月、官物を渡しぬるにぞ、其場所へ諸役人も立合ひ、之を改め受取りぬるに、〈唐船入津の節、直に此蔵へ荷物を納めぬ。唐人屋敷よりは、余程離れし所なりとぞ。〉十日余も隙取る事なりとぞ。いつも、唐人五十入計り出でて、之を渡しぬる事なるに、此度は百人余も出来り、〈此時、いつにても、日本人は何によらず、駈込みて取らむとし、唐人は少しにても、駈出して渡さむとし、其中にて、日雇人夫などは、何によらず盗み取る事なれば、之を取られじとて、皆々見張居ぬれども、何時や盗み取らるゝ事なれば、見付次第大に打擲し、いつにても、此時は大喧嘩之ありとぞ。〉五十人余は引渡の場所より、散々ちりになりて、売持を用意し、之をうり、又下地の掛を取らむとて、駈行きぬる故、早速に其趣を、大村の役所へ訴へ来りしかば、直に捕手をやりて、此者共を捕へぬ。さて次の日も、同じく百人余出でて、前日オープンアクセス NDLJP:16の如くせし故、早速に告げ来りし故、又々追手遣して、役所、無人なるを見済し、不意に館内より二百人余も駈出で、役所の前を過ぐるや否や、二人三人づつ連立ち、銘々別れになり、悉く道を変へて走るにぞ、初の追手未だ帰らざるに、再び斯様大勢駈出でて、別れに走せぬる故、役所当番の者共迄、其数を尽して追懸け行きぬれば、役所に残れる者とては、頭分の者。やう五人ならではなかりしに、之れ皆唐人共の謀にて、唐人の乱暴斯くの如く両度の追手にて、人数を減じさせ、其後にて、此役所をつぶさむと巧めるなれば、最早五六町も行きしならむと思ふ頃、又二百四五十人も駈出し、役所前に建てし所の槍・三つ道具・棒など奪ひ取り、五人の者目懸け、突いて懸りけれども、「外の事と違ひ、唐人の事なれば、怪我致させば、公儀のとがめ蒙るべければ、先づ彼がするまゝに、させ置くべし。其内には、追手の者も帰り来り、又公儀役所よりも、加勢来るべし」など、理屈らしくいひつゝも、恐しく思ひ、己等の身上危き事なれば、幕を垂れ、片角かたすみへより、一とちゞみになりて、各〻慄ひ居しが、大給にて

〈士の格式にて、大給といへるは馬廻にて、小給といへるは平士なり。〉渡辺藤市といへる者の二男、一旦、他の家に養子に行きしが、間に逢ひ難しとて不縁になり、親の家に帰り居たりしが、未だ部屋住なれども、主君当所の役 渡辺藤市唐人の狼藉を鎮む勤めらるゝに付き、人大勢入用の事なれば、之も人数に加へられ居たりしが、年はやうやう廿三歳、始より六人の者へ言へるには、「仮令、唐人如何程大功の者たり共、主君公命を受けて、此の役を勤むる上は、公儀の役所同前なり。然るに斯くの如く狼藉するを捨置く時は、公儀への恐れ、外国迄我が国の恥なれば、切死せむ」といひぬるを、無理に之を押へぬるにぞ、詮方なくてありしが、後には上に駈上り、具足・鉄炮・弓・槍に至る迄、悉く奪ひ取り、あたり次第に打崩し、大騒動に及びぬるにぞ、今は堪へ兼ね、「各〻には兎も角も仕給ふべし。我は一命を捨てゝ働くべし」とて立出づるを、「此中へ一人出でしとて、命を失ふ計りにて、何の功もなく、又無難に取静めしとて、唐人へ疵付けては、後難計り難し。是非に止られよ」と引止めしが、「我は只大村に人なき事を恥づ。故に唐人と切死すべし。君無難ならば切腹せむ覚悟なれば、少しも苦しからず」とて、只一人、其中へ切入りしが、目に余る程の大勢なれば、忽ち左の股を突抜かれしが、之を事共せずして、三人に深手負はせ、又四五人へ疵つけしかば、是に恐オープンアクセス NDLJP:17総崩そうくづれになりて、逃出すにぞ、後より之を追懸けしが股を突かれ、行歩意の如くならざれば、皆々逃延びて、館内へ馳入りぬるにぞ、館内には番所ありて、公儀の役人、相詰むる事なれば、之へ切入りては、狼藉に相成るべし。斯く逃込みし上は、捨置きても、最早出づる事は、あるまじと思ひしかば、門前より引返し、直に切腹せむとせしを、六人の者共、之を止め、「仮令腹切るとも君命を待ちて切り給へ。急ぐべき事にはあらじ」とて、強ひて之を止めぬる故、其詞に従ひぬ。かゝる大変なれば、早速、大村へ注進に及びしかば、大村侯にも、早速馳付け給ひしに、渡辺が働にて鎮まりし後なるにぞ、其働を賞し給ひ、「切腹に及ぶ事ならば公儀の御指図に任すべし。只今切るに及ばじ」とて、二百石の知行下されて直に立身す。六人の人々は、直に在所へ追返し、 大村侯渡辺の功を賞して二百石の知行を与ふ閉門申付けられしが、皆々遠島・追放になりしとぞ。其内一人は、外より養子に来り、相続せし者なれば、其妻夫に向ひ、「此度はれの場所にて斯く立後れ給ひ、とがめ蒙る事なれば、何れ無難には済み難かるべし。早く切腹し給へ。然らずば、家を失ふべし」といひぬるを、聞入れずして、遠島に相成りしとなり。斯くて長崎に於ては、大村より公儀に相届け、船頭共を召寄せ、以来私に出来る者共は、悉く切捨て候間、其旨相心得べき由申渡し、厳重に相守りしかば、其後は無事に相なりしとなり。此事、清朝へ、公儀並に奉行所より御掛合之ありしかば、帰国の上、其主たる者を死罪になし、其余は、遠島・放追になりしとぞ。

渡辺に就いての批判近来、諸家ともに武道衰へ、此度の一件なども、渡辺なかりしかば、大村も大なる恥辱蒙るべかりしに、全く彼が一身を抛ちて、働きぬるにより、大村のみならず、吾が国の名を恥かしむる事もなかりしなり。斯かる士は、当時算筆を以て身を立てんとし、又巧者を以て、人におもねりなどする家を、相続ならざりしも、理に侍るぞかし。又清朝の者共は、智を以て人を欺き、或は口論などには巧なれども、是迄日本人と喧嘩などするに、陰嚢を目懸け、之を蹴るの外には、聊も術なく、此方に相心得て、唐人の臆病之を用心する時は、いつも負くる事なしといへり。是迄も人の噂に聞きし如く、少しにても、血を見る時は、至つて臆病なる者なりとぞ。夫故、只一人の渡辺に逢ひて、敗走に及びしなり。昔朝鮮攻の時、加藤清正・飯田角兵衛・吉川広家などがオープンアクセス NDLJP:18いへる如く、手詰の勝負は、甚だ拙き事と覚ゆ。是も良き大将ありて、之を指揮する事ありて、其令行届かば、如何ともなし難かるべけれども、畢竟、下賤の一揆せしなれば、忽ち敗走をなして、大に吾が国の名を揚げぬるやうになりぬる事、幸といふべし。

又金沢が奉行となりて、長崎へ赴かれしは、文政三と記しぬれども、今一両年も前の事なりしや。是を紛らはしく思へり。騒動に及びたるは、四年三月廿一日の事にて、是は慥に覚えぬる故、此に断りぬ。

右騒動の始末は、長崎西村八左衛門・升屋猪兵衛などに聞きぬるまゝを、記し置く事なり。

大村の長崎の役を勤むるに付きては、一町半も、地面海上へ築出し、大なる役所を建て、日々、百人余の人を詰めしめて、之を守らしむる事、大なる物入なれども、一段、其物入をなすとも、参勤交代、六箇年に一度づつなす時は、始終は勝手宜しき事になりぬべしとて、斯かる願をなして、之を勤めしに、三年計り勤むると。是を罷めらるゝやうになりぬ、其故如何となれば、公儀に御聞済ありし事ならずとて、止められしとなり。大村も、近来殊の外、困窮なる故、勝手向の為にせむとて、此事願ひ出で、斯くなる迄に余程の賂を費せしといふ。公儀の御聞に達し、御許をも蒙らずして、長崎の役を勤めらるべきや。殊に地面一町半も海へ築出し、大なる番所など建てなば、是に取懸れる初に、急度其罪を糺さるべき事なるに、御奉行始め、御勘定奉行・大目附などありながら、其御沙汰もなくして、僅か三年にして、斯かる事になり行きぬ。聊の法を犯しぬるさへ、忽に其咎ある事なるに、斯かる大相たいさうなる事、御聞済なき事なりとて、停止せらるゝ程ならば、止めらるゝのみにて、事の済むべきか。大村の私にせし事ならば、改易にも及ぶべき程の事なるべし。大村は、たゞ上聞に達せざる事とて、之を止められしのみにて、多くの金銀を費して、築地をなし、番所等建ば、其儘にして、長崎地役の者、是に詰むる事なりとぞ。是れ諺にいへる貧すれば鈍するの譬なるべし。其是非に至りては、公儀への恐れありて、之を論じ難し。嗚呼。

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文政五年津軽騒動
 
文政五壬午年春の事なりしが、南部浪人下戸米秀之進といへる者、津軽越中守を討たむと謀りし事あり。然れども、其事露顕せしかば、事ならずして、公儀へ召捕らへられ、刑せられ畢んぬ。津軽騒動の起因是れ如何なる事によりて、斯かる目論見せしやと、其故を尋ぬるに、奥州は、至つて大国にして、古より諸侯多く之ある中にも、南部は、別けて領内も広く、当時にても、仙台よりも大なりとぞ。天正の頃、豊臣秀吉、天下を一統に治め給ひしが、其頃に当りて、津軽の先祖を、大浦信濃守といひて、南部の家老を勤む。すべて、応仁より以来は、天下大に乱れ、君臣位をかへ、賊臣、君を殺して其身を立つるなど、挙げて算へ難し。此弊風、其頃迄も残りてありしかば、常に独立の志あり。津軽の祖先大浦信濃守の悪逆秀吉、相州小田原を攻むる頃迄も、南部には、其国広く兵多くして、片夷中の事なれば、四方に敵を受くる事なければ、秀吉に随ふ心なく、泰然として、其国にありぬる故、大浦、之を幸として、密に小田原の陣中へ出来り、「己降参をなし、南部には、君に随ふ心なし」とて、主家を悪しざまに言ひぬるにぞ、秀吉大に悦び、「是迄の通、本領安堵すべし」と申付くるにぞ、南部領にて、土地宜しき分は、悉く書出して、己が有とせむとす。秀吉には、兼ねて諸侯をせばめ、内乱をなして、自らよわれる様の〈上杉の直江山城守・薩州の伊集院などへ、知行給はりて、直参同様に致されし故、已に伊集院は、朋輩にそれまれて、命を隕すやうになりぬ。これ諸侯を弱むるの手段なり。〉計らひを、好み給ふにぞ、之を許し給ひしかば、己が本城に楯籠り、南部と合戦に及びしが、十分の利を得て、南部の城を落す事三十六、中にも大仏浦といへる所には、南部の大殿居給ひしを攻詰めて、是に切腹致させけるにぞ、南部大に怒り、此恥辱を雪がむと思ひぬれども、天下は一統に治りぬ。彼は天下の命を蒙り、我は天下に叛きての合戦故、如何ともなし難く、終に和睦の命下りて、拠なく軍を止めしが、其時の遺恨、今に忘るゝ事なきに、〈南部領にて宜しき地方は、悉く津軽に奪ひ取られ、当時、仙台よりも領内広しと雖も山多く、其余荒原のみにて、田地は至つて少し。故に牧をなし、馬を養育して、之を他国へ交易す。奥州の内にて、至つて悪しき所なりとぞ。〉

百年前、又もや憤りを重ぬ。其故如何となれば、津軽は宜しき土地のみを領する事なれば、米穀沢山にて、至つて豊なれども、山少く海に近き所なれば、材木に事を欠きぬる故、又もや、南部領の檜木山を奪ひ取る。之は年久しく目論見し事と見えて、南部領内の山の向なる谷合に、兼ねて、これより津軽領とオープンアクセス NDLJP:20いへる立石を拵へて、南部津軽の境界論地中へ密に埋め置き、年経て後、其山を津軽領なりとて、境目の論を仕出しぬる故、南部にては、古より恨ある上に、斯かる不法の事に及びぬる故、大に怒り、種々論じ合ひしが、互に水掛論なる故、双方とも、公儀へ願ひぬるにぞ、南方の百姓を招出し、とくと御糺し之ありしに、津軽の百姓の中より、八十余の老人罷出でて言ふやうは、「此度、公事くじいたしゝ山は、津軽領に相違あらじ。私幼年の時迄は、山の向なる谷合に、境目の立石ありし事を覚ゆ。若し、南部の方に悪心の者ありて、之を取退けしにや。いつの間に失ひしにや、幼年の事なれば知難し。然る故、右の山は、津軽領に相違之なき由」を、いひ募るにぞ、「さらば其心覚のあたりを、掘りて見るべし。昔ありしに違ひなくば、何なりとも、其しるしなき事はあるまじ」と、命ぜられしにぞ、其谷合を掘りて、埋め置きし石を取出す。此故に、みす知れし領分なるに、其山をば、津軽の方へ取られぬるやうになりぬ。斯く迄、恨みある上に、又もや、昨年の事なりしか、一橋様とやらんが、殿中に於て、南部侯へ材木の無心申し給ひしかば、之をうべなひ帰りて、家来へ其由をいひ付けられし所、諸役人評定の上にていふやうは、「領内に材木多き事なる故、安き事のやうなれども、運送甚だむつかしく、百両の木を献ぜむとすれば、三百両の運賃を費す事なるに、斯かる聊の事にても、凡そ二三千両余の費ともなる事にして、先にては、之等の事を知り給はず。当時、御勝手向難渋の折柄なれば、領内に当時にては、材木之なき由にて、断り給ふべし」と、何れも申し立てぬる故、之を聞入れ給ひ、其後、殿中に於て、「仰の趣。家来共へ申聞け候処、当時領内には、材木一向之なき由に侍れば、拠なく御断り申上ぐる」といはれしに、折節津軽候、其席に居られしが、「其こそ安き御事なれ。己が領内に、材木沢山にあり。御入用程献らむ」といはれしにぞ、一橋公とやらんも、大に悦び給ひ、「早速に之をうべなはるゝ段、喜悦の由」いひ給ふにぞ、南部には、手持なき事なりしとぞ。斯くて、津軽侯には、其由早々、国元へ言ひ遣しぬれども、元来、山少く材も乏しき事なる故、先年奪ひ取りし山の木を、少々伐出し、其山に続きたる南部の林をしたゝかに伐出す。〈之れ兼ねての巧み事なりしとぞ。〉其辺の百姓、之を見付けぬる故、早速訴へ出でしにぞ、南部より役人馳付け、之を咎めしかば、「殿中に於て、御領内には、材木一本もなオープンアクセス NDLJP:21き由仰せらるゝ程の事なれば、あるべきやうなし。之こそ我が殿の林なり」とて、津軽の不法少しも構はず伐倒し、大方、大木をば伐取りぬるにぞ、南部の方にては大に怒り、彼此申しぬれども、之を申募る時は、主人の越度となりぬる故、公儀へ願立つる事もなり難く、是非なくも、無念を怺へぬるやうになりぬ。津軽には、其所を附込み、斯かる不法の事をなしぬる事、甚だ以て、宜しからぬ振舞にして、別して武門に於て、あるまじき事共なり。斯かる振合なれども、如何なる事にや、公儀の思召に叶ひ、元来、四万六千石〈四万六千石と雖も、領内五十万石余も之ある由。〉なりしが、六万石になり、十三四年以前、松前侯、罪を蒙り、其後、オロシヤの賊船、ヱトロフの役所に押寄せ、官物を奪ひ取りしかば、御奉行戸田又太夫殿、切腹に及びぬ。其節、公儀より御手当厳しく、すべて奥羽の諸侯に命じ給ひ、又来る事あらむとて、各〻海辺を固めし事あり。津軽は、最も奥州のはてなる故、早速に、松前に人数を遣しなどせしにぞ、此時、十万石の格を給ひ、近来、公儀よりして御養子に入らせらる。斯くの如きの羽振はぶりなる故、南部侯には、大に口惜しく思はれしが、終に病根となり、死去せられしにぞ、下戸米秀之進は、是に近習せし者なる故、浪人となり、君の恨を晴らさんと謀りし者なりとて、其時の取沙汰なりき。又津軽崎国の領個室の鍛冶が注進により、之をより供廻ともまはり三倍に君連由、「僅かなる浪人者二三人の同類ありて、之を討たむとするを聞きて、斯く迄、用心せし事、余り臆せし振舞なり」とて、其節、江戸にて大笑なりしとて、江戸仕立物屋喜三郎といへる者、予に語りぬ。総べて南部の人は、山分なる故、無骨なれども、至つて正直にして、津軽人と南部人の気風津軽はおしなべて、人に馴々しく、発明にして見ゆれども、人気至つて悪しき所なりとぞ、

予、津軽の家中伊東□□に逢ひぬる故、其時の事を尋ねしに、「百年前事ありて後は、南部領を通る事なく、至つて嶮岨なれども、秋田領を往来す。下戸米が主人を討たむとせしは、秋田領にての事なりしが、仙台の鍛冶が知らせにて、暫く跡の宿に滞留し、大勢人を遣し、厳しく吟味をなす。在所よりも大勢迎に出で、秋田よりも領内の事故、大勢人を出し、吟味ありし故、下戸米出奔して、無難に帰国ありぬ。其後、注進せし鍛冶両人共、仙台より申受け、三百石づつにて、召抱へらオープンアクセス NDLJP:22れし」とて語りぬ。

鍛冶が注進有難く、これ全く命の親と尊び思ひぬればとて、これ等には、金銀を与へて褒美するか。津軽侯に就いての批判然らずば、相応の捨扶持すてぶちをやりて、其儘になし置きて可なるべし。之に三百石を与へ、侍となせるもをかしく、之と肩を並べ、又是が下につける一家中の士の、たはけ者なる事、思ひやらるゝぞかし。是にて彼の家の弓矢も思ひ計るべし。

 
                                        
 

津軽騒動落著の写

  御書院番八木丹波守組、早川十右衛門長屋借受罷在候。

                  下戸米秀之進事、浪人​相馬大作​​三十四歳​

其方儀、津軽越中守家筋之儀は、古来、南部家臣下之筋目に有之処、当越中守代に至り、家格は勿論、官位共結構に相成、猶昇進も可有之趣、南部大膳大夫及承、越中守儀、南部家同格に可相成と、右之儀を残念に存居り候を、気鬱之上、発病死去致す由、及承、殊に当大膳大夫、其頃者無官に有之候付、越中守よりは、遥末座に相成候間、旁〻心外に存、其方仕官之身分には無之候得共、父祖之為には、累代之主人に付、右鬱憤を可晴と、関良助外二人へも申勧、越中守帰城之節、道筋に待受、右遺恨を申述、同人屈伏之上、隠居いたすならば格別、さも無之に於ては、鉄炮を伏置き、打留候之積、其方一己之存念より、右企いたし、羽州秋田領白沢宿迄罷越す処、越中守には、道を替へ帰城いたす故、不本意候共、右企之趣、露顕可致と、妻子其外召連出奔いたす始末、不公儀を仕方、不届至極に付、獄門申付候

  右相馬大作方に致同居候浪人。 ​関良助​​廿二歳​ 其方儀、下戸米秀之進事相馬大作儀、津軽越中守家筋之儀、古来は南部家臣下の筋目に有之処、当越中守代に至り、家格は勿論、官位共結構に相成、猶此上昇進も可之、左候得者、大膳大夫同格に可相成と、同人儀、右を残念に存候哉。病気相発、死去いたす由、大作及承、同人儀仕官の身分には無之候得共、父祖の為には主人に付、右鬱憤を可晴と、越中守入府の節、道筋に待受、遺恨の次第を申述、同人屈オープンアクセス NDLJP:23伏の上、隠居致すならば格別、さも於之者、鉄炮を伏置、打留可申所存之由に候得共、大作一人にては難計間、其方にも同道致す様申付、大作は師匠之儀にも有之、雑黙止もだし存、同意致し、同家来右平、忰下戸米惣蔵、外一人へは、大作より申合、同人並に其方は、短筒之鉄炮を持ち、四人とも出立いたし、羽州秋田領白沢宿迄罷越処、越中守儀、通行之道筋を替へ帰城いたす故、不本意共、右企之趣、露顕可致旨、大作申聞候とて、同人倶に出奔いたす始末、不公儀仕方、旁〻不届に付、死罪申付候。

  松平陸奥守領分、奥州江刺郡片岡村之内、岩谷堂町百姓にて、鍛冶いたし候

                        大吉弟子 徳兵衛

其方儀、羽州大館へ参居る大吉弟子喜七を呼に罷越、途中湯治場にて、下戸米秀之進事相馬大作、外二人に出会処、是又大館へ参るに付き、同道いたし候処。同所にて大作ゟ風呂敷包預置処、不審に存、解き見たなれば、鉄炮の形に似寄候品等有之に付、如何と存候なれ共、強而尋も不致、喜七立帰候後、大作儀津軽越中守を鉄炮にて可打留間、同人通行之限、承呉候様、大吉へ相頼、同人儀致承知罷越すなれ共、右之趣越中守方へ弟弟子喜七を以、注進可致間、其方は三之戸に居残り、喜七出立延引無之様可致旨申処、同人儀、無間も出立いたす後、下戸米惣蔵儀、家出いたし行衛不相知由にて、親右平次ゟ被頼、尋に出る途中、市兵衛方へ立寄処、喜七儀弘前へ罷越す趣にて、南部領之者共、越中守入府を妨る由申付、其段大吉方へ手紙認差出後、大作惣蔵外三人に行会節、越中守入府之粧を見物に参る旨申聞、其方儀も倶に罷越す様申付、惣蔵を連帰度迚、悪事企る大作に随ひ、白沢宿迄罷越候段、同人悪事に馴合儀は無之共、右始末不埒に付、手鎖申付候。

                 中曽市郎兵衛組御小人 飯田弥助

其方儀知人下戸米秀之進事相馬大作儀悪事いたし、妻子並に弟弟子召連、在処出奔致儀は不存共、得と身元も不相糺、大作難儀之由申聞るとて、一同両三日手前に差置、其上早川十左衛門長蔵借受候節、大作身元請人に相立段不埒に付、押込申付候。

        西丸御留守居 夏目左近将監家来 大村太左衛門

オープンアクセス NDLJP:24其方儀知人下戸米秀之進事相馬大作儀、芸術修行之為、妻子並に弟弟子召連、御当地へ罷出、御小人飯田弥助儀、大作身元受人に相立、早川十右衛門長屋借受住居いたす処、加判之者無之候ては不相済候に付、其方加判いたし呉候様相頼迚、得と身元も不相糺、飯田弥助外一人、請合人に取置とは乍申、十右衛門長蔵貸遣す段、不埓に付押込申付候。

                渡辺越中守家来 医師 岩名昌言

其方儀、南部浪人相馬大作儀下戸米秀之進と申節、芸術修行之為、御当地へ出、岡野宗達方に止宿いたす砌、其方忰昌山知人に相成処、学問致度由申込み教遣す処、秀之進儀国許へ参候後、妻子並に弟弟子召連、出府之上借宅いたすまで差置呉候様申、難渋之様子見捨がたし迚、出奔者共不存、主人へも不申聞、一両日止宿為致候始末不埓に付押込申付候。

  松平陸奥守領分 奥州江刺郡片岡村之内 岩谷堂町百姓にて鍛冶職致候

                            大吉

                    ​同人弟弟子​​    喜七事嘉兵衛​​ ​

其方共儀、右一件に付、遂吟味候之処、不埒之筋も無之間無構。

                    浪人相馬大作妻 あや

其方儀者、領主南部大膳大夫家来へ引渡す。

 右之通、青山下野守殿御指図、

  文政五壬午八月廿九日

  町奉行榊原主計頭掛り、御目附御手洗五郎之立合。

 
文政五年宮津一揆
 
宮津の百姓一揆

文政五壬午年十二月上旬より、丹後宮津領内百姓一揆致し、同十三日城外迄押寄する。其故如何となれば、近年武家一統困窮に及び、別して宮津侯には難渋の事なりとぞ。これ他なし、何れも其分限に過ぎて奢をほしいまゝにするよりぞ斯くは成行く事にぞ侍べる。其政道の邪なる、先づ年貢を取立つるに、当年の分は昨年に納めさせ、来年の分を当年と、是迄一箇年づつ先取さきどりせし上に、当春よりして、領内の百姓一統へ、人オープンアクセス NDLJP:25一人に付き、一日二文づつの銭を出させ、之をきびしく取立てぬるにぞ、身元貧しき者共は、苛斂誅求大いに之を苦しみ、難渋に日を送りしに、冬に至りて、「再来年さらいねんの年貢を此所にて納めよ」とて、厳しく申付けらるゝにぞ、是迄一箇年の先取日銭等にて苦しめる上に、今一箇年の年貢先取との厳命なれば、当々其目をすぐる事ちなり難く、他国に行きて乞食するか、さなければ飢ゑて死するの外に詮術せんすべも無く、拡処よんどころなく強訴する様になりぬ。元来斯様の事始まりし元といへるは、領内にて十軒衆と唱へ、大に富める町人・百姓抔ありて、此者共上の御用承り、勝手方の仕送をなし来りしに、近年上困窮甚しき事故に、己等より取換へ置きし金の、年々に滞るのみにて、少しも返へる事なければ、家老・郡奉行・代官などへ程よく持込み、斯かる法を設けぬるも、銘々に返し給はる手段なり。家老始め、上の御勝手を勤むる者共なれば、其旨に従ひ、其上是等が手より賂を取りて、下々を悩ましぬるにぞ、百姓等此事を知り、斯かる非道の政道をなして、上の為めにもなる事ならば、まだしもの事なるに、一統をせぶり取りし金銭を、十人の者共の懐に入るゝ手段こそ不埒なれ、是と一つになりて我等を苦しむる役人共の憎さよ、さらば彼等を打潰し、家老・郡奉行・代官を申受けて、存分になりて腹をいん、若願ひ叶はずんば、とても飢死・乞食などして恥曝さんよりも、軍して城を乗取るべし、願ひ叶はずんば地頭とて恐るゝに足らずとて、人数凡そ七万人、内二万人は近江の者なりしが、〈江州に領分一万石あり。〉「此度の発頭人は近江一万石の百姓なり」といへる幟を建て、大いに騒動に及ぶ。斯くの如く一揆蜂起の事なれば、十一月下旬より其沙汰取りなる故に、彼の十人衆、其外富みて私慾をなせし者共、皆々大に恐れぬ。中にも峯山といへる所の岩滝宗兵衛といへるは、十人衆の内にても最も大家にして、仰山に金銀を貯へ、田地も多く持ちぬる上当国は絹・縮緬の類ひ一統に織出す所なれば、是等をも仕入れて貯へしが、前以て此噂を聞くと等しく、帳面類密に檀那寺へ預け置き、薄氷を踏む心地にて日を送りしが、極月十三日一揆先づ一番に峯山へ押来り、宗兵衛が家財を打砕き、金銀は銘々少々宛は用心に懐中し、残りは悉く海中へ投込み、家・蔵をも引倒す。斯くしても帳面の有り所知れざる故、主宗兵衛を引括り、厳しく責め尋ねるにぞ、始めの程は言はざりしが、皆々之を打殺さんとすオープンアクセス NDLJP:26るにぞ、「檀那寺へ預けし趣」白状に及びしかば、直様其寺へ馳行き、「帳面を出せ」といひしかども、寺の為めに大切の檀那にて、密に頼まれし事なれば、「左様の物預りし事なし」とて、之を隠せしにぞ百姓共大に怒り、「悪き坊主が云ひ様かな、其儀ならば、此寺を打砕き彼奴等きやつらをも殺すべし」と罵りつゝ、はや寺を壊さんとす。和尚も今は詮方なく、之を出して渡せしかば、之を受取り、夫よりこう森といへる所の角屋何某を打砕き、次にかや野の吉三郎といへる者の家をこぼち、直に切戸の松原迄押来る。総て一揆などは、松明を多く用意する者なるに、此一揆には其事なく、こぼちたる家毎に、貯へ持ちぬる絹・縮緬の類悉く奪ひ取り、其所に於て直様是を大なる綱の如くに絢ひ合せ、之に火を付け松明となす。峯山の宗兵衛が家計りにて、縮緬二十駄、絹数十駄なりしとぞ。其余推して知るべし。切戸の松原の方にて川一つ隔りて、是より城迄、纔半道計りにして、外より行くときは、幅三四町の大沼数十町ありて、之を廻りぬれば三里余の道なりとぞ。この故に皆々松原へ来りぬる故、地頭よりも是を城下へ入れましとて、川向には多くの人数を出し、数百の高張をともし、棒・三つ道具の類にて之を制すれば、絹・縮緬に火を付けて、幾千といふ数を知らず、是迄壊ちたる家々の帳面を竹の先へ括り付け、之にも火を付けつゝ、制する者を張飛ばし、「各〻方には我我を制する事、大なる心得違ひなり、皆々百姓共は上へ忠義の為め、此の如く帳面を焼捨て、借金の根断しをなし、我々が願を聞届け給はるやう願ひ出づるなり、邪魔なせそ」とて、馳過くる故、爰ぞ一大事の場なりと、家中残らず追々に馳来り、是を防がんとす。此の如く暫く挑合ひぬる内、一揆方には、其辺の家を多く打砕き、三四町計なる沼の中へ橋を作りて、過半之より打入て、思ひ寄らずも城下へ押寄せ、所々の家を打砕くにぞ、城方には此沼を便りになし、切戸の方の勢ひ烈しければ、一方へ人数かたまり、一大事と防ぎぬるに、思寄らずも城下の方大騒動にて、追々早打来り、「先づ其所を捨置き、城下の防ぎすべし」となれば、皆々狼狽うろたへつゝも引返す。一揆の者共其後を慕うて打入りぬ。〈此時一揆の中より切戸の松原の並木を多く引抜き、是を自由に振廻し打入し者大勢ありしとぞ。〉斯くて両方の者共一手になりて馳廻る事なれば、爰にても防ぎ難く、皆城中へ引入りければ、皆々存分に打砕き、夫より殿のかけ家にて、上の道具預り居る藤屋幾松といへる者の家を打砕きけるに、オープンアクセス NDLJP:27幾松麻上下著用して一つ蔵の前に平伏し、「我等が家道具等は、各〻の存分に打砕き給へ、是は我蔵にあらず、殿の御道具の入りし蔵なれば、是計りは免し給ふ様に」とて、地に平伏し、涙に咽びて頼みしかば、此蔵毀つ事は許遣りしとかや。夫より直に城外へ押寄せしかば、郡奉行・代官など出でて利害を言ひぬれ共、之を聞かざりしかば、家老馬を乗出し、権威を以て種々威しつゝ、「若早く引取らずんば、鉄炮を以て打殺すべし」といへるにぞ、百姓等大に怒り、「兼ねて己が邪なる政道にて下を苦め、此期に及び又権威を以て伏せんとすかや、奴に物いはす事なかれ」とて、大勢打懸るいきほひなれば、大に恐れて早々城中へ逃入りぬ。斯くては、はや殿の一大事に及ばんとて、各〻安き心はなかりしに、栗原右門の一言にて一揆退く栗原右門とて七十に近き老人、麻上下にて馬を乗出し、「何事によらず一統の願あらば、一々に聞届け遣はすべし。斯く大勢にて城外へ相詰め騒動に及びては、殿は申すに及ばず、公儀へ対し甚だ恐れ多き事なれば、一旦引退き、おとなしく願ひ出づべし」といひぬるにぞ、此人は平常篤実なる人物なる故、此詞を聞きて、百姓の言ふ様は、「我々土民の身として、上へ対し事を好むにはあらねども、年毎に年貢の先取に合ひ、是迄種々の掛り物多く、当番よりは日銭をかくる事始まり、下々は飢に苦む事なるに、其上に今又其先の年貢を取立てんとす、非道とやいはん邪とやいはん、天下に類なき事共なり。畢竟斯く騒動に及ぶも、我等が所為にあらず、是れ上の悪政に依て、下々の者共困窮に迫れるが故なり。今此所にて日々の掛銭と年貢先納の事を許し、家老・郡奉行・代官何某々々三人は、上を掠め下を苦むる国賊なり。此三人を我々に給り、又此度の一揆何れ発頭人之ありと雖、誰彼の差別なく、領内一統困窮にて皆一統の心なり、若一旦吾々を退かしめ、頭取を吟味し、是を仕置せんとならば、其詞に従難し。右三条共只今承知し給はゞ、速に引取るべし」と答へけるに、栗原が云、「年貢・日銭・頭取穿鑿の事は速に聞届けゝれ共、役人所望の儀は一応殿に伺ひ、其指図を受けずして、国元のはからひには成難し。され共我等承りし上は、一統の主意相立候やう、上へ申立て計ひなすべければ、早く引取り申すべし」といひけるに、皆皆口を揃へて、「右の内一箇条欠けても相成り難し、殊に此度の騒動、皆彼等より起る所なり。是非只今申受くべし、」といへるにぞ、「初にも言へる如く、殿の下知を受けずオープンアクセス NDLJP:28してははからひ難し、何れ其方共の願相立ちぬる様、急度計ふべければ、何分にも一旦引取り相待つやう」といひぬるにぞ、「然らば直に之より急使を以て殿へ申上げ給ふべし。其迄は此所へ控へ居て相待つべし」と言ひけるにぞ、栗原が曰、「何分斯く迄騒動をなし、此上にも此処を相去る事無き時は、殿の御不首尾となり、公儀の恐れ少からず、斯かる大変なれば、殿へ伺ひし計りにても相済み難し。早々御老中へも相届け、公儀の御指図に任すべし。何れにも其方共の主意は承り届けぬ。又其方共も役人へは恨ある共、殿には御存なき事なれば、殿を恨み奉る事はあるまじければ、長く静まらぬ程、殿の御首尾に相かゝはる事なれば、此旨を聞入れ申すべし」と言へるにぞ、「然らば一旦峯山迄引取り、御沙汰相待つべし」とて、城下を引払ひが、十六日迄同所に相控へしが、七七日に至り、如何いかゞ評定せし事にや、平は引払ひ、廿三日皆々大方に峯山をば引払ひしとぞ。其間斯く大勢の者共、阪善麦をあきなふ家、其外町屋・在家に限らず食を出させ、辞する者は打擲に及べるにぞ、皆々之に従ひて、言ふが儘にせしに、其価は、峯山の宗兵衛始め崩ちたる家々に、銘々に用意せし事なれば、手当り次第に金・銀を払ひぬるにぞ、十人も食して判金一両遣ひなどして、荷売屋の類は、何れも此騒動にて大徳付きしと云へり。斯る大変なれば、暫くは往来も相止り、近辺の諸侯 〈同国田辺、但馬の出石、丹波の福知山、同国園部等なり。〉各〻五百人計りにて、銘々領分境相守りしとぞ。其後は如何納まりしとも、其落著を聞かざりしが、此間さる方にて聞ぬるに、頭取の分十五六人も召捕られ、公儀の手に渡り、先達て網乗物にて京都へ引れしとぞ。一揆せし者共は、「若し右の者共仕置にも相ならば、又もや一統に打寄せん」と言へる由なり。

栗原右門佞人の為めに陥れらる其後如何なり行きし事やと思ひしに、但馬村・岡・山名等の家老、沢山義兵衛が言へるには、「栗原右門一揆を取静めしを、疾妬・偏執の心より、〈家老其外の者共、大に一揆共に恥しめられ、〉此人一揆に組せし由に讒言して、親子共入牢せしむ。栗原が忰是を憤り、牢を破り江戸訴せんと出奔し、同国田辺藩中へ忍ぶ。〈親類の方なり。〉宮津にても之を察し聞合せしに、其事相違なければ、捕手を遣し、其捕手田辺侯へ断りも無くして、藩中へ踏込み之を召捕へんとせしかば、其無礼狼藉を憤り、其捕手の者共悉く田辺にて引括り、案内もなく狼藉せしとて、宮津へ引渡しに相成て、大に恥を晒せしと云ふ。栗原は直に田辺を出で、江オープンアクセス NDLJP:29戸を志し走りしに、宮津より追々追人をかけ、京都町奉行所へ御頼ありしかば、京よりも其手当厳しきにぞ、栗原も屈強の士なれども、久しく入牢せし事故、歩行心の如くならざれば、近江にて知辺しるべの寺へ隠れしに、京都より之を聞出して、其寺の四方を取巻き、之を捕へんとせしかば、粟原も詮方なく、願書を住持に頼み置き、切腹して失せぬ。其後住持同人が頼み置きし願書を持つて江戸へ出でしといふ。其後の事は如何なりしや知れ難し。」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉

 
文政六年四月西の丸殿中刃傷
 
 文政六癸未年四月廿二日申の下刻、江府西丸殿中にて、刃傷に及び候一件左の通、

西の丸殿中刀傷一     ​西丸御書院番頭(三番組)​​    酒井山城守組        ​​ ​

一     ​同    組頭​​    大久保六郎右衛門        ​​ ​

一     ​当番御目附​​    新庄鹿之助        ​​ ​

一 当人  ​西丸御書院番(高三百俵)​​    松平外記        ​​       未三十三歳​

一 父   ​西丸御小納戸(高三百俵、御足高共五百石高)​    松平頼母総領        ​​        屋敷築地小田町松平遠江守分家

一  相手即死外記相番​一橋式部卿殿御用人可十郎忰(高二百石)​    戸田彦之進    ​​        未三十二歳高屋敷牛込御門内

一  同断同断  ​    本多伊織        ​​       未五十八歳(八百石)屋敷本所二つ目亀沢町

一  同断同断  ​    野間右京        ​​       未三十四歳(高八百石)屋敷駒込

一  深手同断  ​    間部源十郎        ​​       未四十六歳(高千五百五十石)屋敷三河台

オープンアクセス NDLJP:30一  同断同断  ​    神尾五郎三郎        ​​       (高千五百石)屋敷五番町

 右趣意委しく知らずと雖も、大方左の通り承及候事。

一、外記儀生得才智深く、武芸も余人に勝れ、後々に至り急度御役にも相立つべき者に付き、西の丸内府御憐感厚きを以て、先般召出され候て、御書院番相勤め罷在候処、新役の儀故、相番の者兎角に麁細の儀の事共を、彼此と故障申立て候へ共、程よく取釈相勤来候処に、兼ねて御上首尾宜しきこと相憎み候者も之あり候由。一昨廿一日、西の丸様駒場へ御成あらせらる。依て御書院番よりも御成り先へ出仕候。此人夫の内へ、外記儀も当番に相当り罷出候処、之に依て駒場御成先拍子木番を申付け、勤方の儀は古役より申付け相勤められ候。然るに同役の内に兼ねて内匠も之あり候事にて、外記駒場の勤方、先度承り候趣とは多分齟齬致し、以の外に存候処へ、同役の者より外記儀勤方不鍛錬の由、満座の中にて恥かしめ候故、外記も大に憤り、其場にて打捨て申すべしと存候処、畢竟小勢相手に揉合候とも余儀なし、最早是迄なりと観念致し、還御に随ひ帰宅致し、翌廿二日西の丸殿中御書院番詰所二階休息所にて、前段の通り刃傷に及び、当人は其場に於て切腹致し相果て申し候。右に付き殿中の騒動大方ならず、御書院番頭酒井山城守事、翌廿三日未明より自分遠慮なされ候処、同日御城より召させられ候に付き、遠慮乍ら登城致され候処、同日夜に入り帰宅之あり。尤も即死・手負人等廿三日夜引取仰付けられ候て、則ち坂下御門より是を出し候。尤も右の外に、相番二十人計りも詰合ひ罷在り候へ共、未熟の振舞にて御不興蒙られ候趣、之に依つてあらはに書き記し難く、且つ間部源十郎儀帰宅の後、養生相叶はず、廿四日に死去、此末如何御裁許仰出され候や、何様むづかしき御取扱の由に承及び候。猶又此末取沙汰承り次第申上ぐべく候。

  文政六未年四月

酒井山城守遠慮廿三日一日限りにて御免の由に候。

 当四月廿二日西の丸一件落著、同十月九日仰渡さる。

オープンアクセス NDLJP:31一 改易                西丸御書院番頭酒井山城守組​   神尾五郎三郎​​ ​

一 ​御番被召放、隠居被​                  ​​仰付、慎可罷在候、​​同​​   池田七十郎​​ ​

                       間部源十郎

一 ​御番被召放、小​​                  ​​普請入逼塞、​​同​​   藪庄十郎​​ ​

                       近藤小膳

                       長野勝三郎

                       川村清次郎

                       伊丹和五郎

                       北尾友之進

                       井上政之助

一 ​御番御免、小普​​                  ​​請入差控、​​同​​   飯塚早之助​​ ​

                       堀長左衛門

                       横山十三郎

一 ​御番御免、​​                  ​​小普請入、​​同​​   内藤政五郎​​ ​

                       荒川三郎兵衛

                       日向政吉

                       曲淵大学

                       安西伊賀之助

一 五束之事也、            ​同​​   岡部半之助​​ ​

一 不行届候、             ​同​​   内田伊三郎​​ ​

オープンアクセス NDLJP:32                       細井吉太郎

                       松平八郎右衛門

一 ​父七十郎御番被召放、隠居被仰付候知行之​​                  ​​内相減五百石、其方へ被下置、小普請入、​​同​​   池田市之丞名代​ ​

一 ​父源十郎御番被召放、隠居被仰付、​​                  ​​其方へ無相違下置、小普請入、​​同​​   間部隼人名代​ ​

一 無構、              ​西丸表陸尺​​   源太郎  ​​ ​

一                   ​大目附(千七百石)​​   岩瀬伊予守      ​​ ​

一                   ​町奉行(二千二百石)​​   筒井伊賀守      ​​ ​

                    ​目附(七百石)​​   金森甚四郎      ​​ ​

   右於評定所立合、伊予守被渡之

                    ​西丸御書院番頭​​   酒井山城守名代      ​​        (七千石)​

一 ​不束之事ニ付、​​                  ​​御役御免差控、​​同 組頭​​   大久保六郎右衛門名代​          (三百石)​

                    ​同 目附​​   新庄鹿之助名代      ​​       (千石)​

一 ​不束之事ニ付、​​                  ​​御役御免、​​同 組頭​​   阿部四郎五郎名代​        (二千五十一石七斗)​

一 御役御免、             ​同 御小納戸​​   松平頼母         ​​     (三百俵)​

オープンアクセス NDLJP:33                    ​御番医師​​   牧原玄忠         ​​ ​

                       竹田英仙

一 不束之事、             ​外科​​   曽谷伯安         ​​ ​

                       川島周庵

                       天野良雲

右御本丸若年寄堀田摂津守於役宅、若年寄並西丸共出座、摂津守申渡之

 御目附御手洗五郎兵衛、西丸同柴田三左衛門立合にて。

 
文政六年六月松山百姓一揆
 
同年六月の事なりしが、絹屋卯作至つて入魂にいたしぬる人の子の、身持悪しく色事にて、金多く遣捨てしにぞ、親の不興を受けて家を追出されぬる故、親類の者より挨拶をなして、親の許を受けしかども、直に内へ当人を引入るゝ時は、借金方大勢出来る様子なれば、只何角なしに、親類の方へ預り置きぬ、当人も是迄放蕩を尽せし程の事なれば、斯くて居ぬる事を、心憂く思ひければ、とても斯く外にして、今暫くも日を送る事ならば、此間に四国廻せんと、親類の方へ居る事の、気術なく思ひけるにぞ、同じ様なる友達両人を誘ひて、其由親類へ告げて出行きけるが、伊予の松山へ到りぬるに、久しく雨降らずして、百姓共植付に苦しみし上に、政道正しからずして、松山の百姓一揆一統困窮に及びぬる故、領内一統申合せ一揆をなし、人衆七万計り、城下へ押寄せし事なれば、大騒動にて方々色々と頼みしかども、一飯を食し難く、まして宿借し呉るゝ方もなければ、嶮岨なる山道を、喰はず飲まずに一昼懸りて、十八里あるきしが、やうと明くる日になりて、一飯に有付きぬれども、其辺すべて騒々しき事なれば、其日も甚だ難渋に及びしとて、大に四国廻に懲果てしとて、飢に苦しみぬる事、又恐ろしかりし事など語りしとぞ。

斯くて一揆は城下迄押詰めしかば、諸役人夫々に備へ為し、已に大変に及ぶ勢なりしかども、家老馬上に駈出で、「願の筋あらば尋常に申出づべきに、斯く狼藉に及びぬる事、上を恐れざる振舞なり。何に寄らず、一々に承り届け申すべければ、一旦引オープンアクセス NDLJP:34取り、おとなしく願ひ出づべし」といひぬるに、「此所にて聞届け給はらずば引取るまじ」と、口を揃へていへるにぞ、「然らば汝等、殿に御恨あるや如何」といひけるに、「非道なる役人共へこそ恨はあれ、上へ対し恨み奉る事はなし」と答へぬるにぞ、「然らば早く引取るべし。斯くの如くに騒動に及びては、公儀へ対し、殿の御首尾にかゝはる事なり。願の筋に於ては、我等受合ひて急度聞届け申すべし」といへるにぞ、「然らば仰に従ふべし。よきに計ひ給はれ」とて、引取りしとぞ。其後如何納まりし事か、其落著を知らず。斎藤町にて、按摩を業として渡世する村川屋おまつといへる女あり。是が弟は、雑喉場ざこばにて肴屋をなし、相応の暮にて居ぬるが、病気に付き、伊予の温泉に至りしに、折節其騒動に出合ひしかば、屋上に登りて、大勢の押行くを見物せしが、誠に仰山の事なりしとて語りしとて、まつが咄に聞候ひぬる故、此事も筆の序に書付けて置くものなり。

 
文政六年六月紀州百姓一揆
 
 文政六癸未年六月、絹屋卯作方へ、紀州親願の者より騒動の儀申越し候始末。

此間者久々打絶御無音仕候。段々暑も強相成候。紀州親類より絹屋への書状弥〻御安泰之由奉賀上候。此方皆無事相暮申候。乍憚御安意被成下候。寔に当地も此節は、殊之外大さわぎにて、城下並に在方諸家中・並に大年寄衆始め大納言様迄の御心配之儀が、此度おこり、今に相済不申。依之城下は不申、在方不残うはさにて罷暮居候。定めて御地にも御聞取も可之存候へども、先つ有増申上候。

、先月廿一日ゟの初まりにて御座候。最初は此節の旱強く御座候故、百姓一統に、当年は御年貢御免被成下候様願出候処、御上にも御聞届無之候故、夫より近在近廻り百姓、東へは五十八ケ村一統に相成り、又西は四十六ケ村不残加太迄、百姓一統に相成り、御上与合戦致度候様願出、夫ゟ御家中諸組・諸役人・御老中迄、不残御城内へ詰居候人も有之、又は丸之内詰居る人々、夫ゟ西は北島渡場にて、凡人数三千人程にて、馬上にて詰居、侍百人程残り、家来は鉄炮をかまへ、其外槍・弓何角方々、東は同前宮前迄、右之通構へて、十日以前ゟ昼夜詰切にて、右百姓と城下は諸侍大合戦、寔に此節は町・在大さうどうにて、皆々うろ致暮居申候御事に御オープンアクセス NDLJP:35座候。且又百姓早強く水少し。夫故右初まり候事ながら、一体今迄御上諸役人・諸家中初、商人に相成り、様々の商売、御上にて被遊候に付、夫故百姓も段々難渋致居候処、此節大旱強くて水少し。夫故町・在大さうどうの御事に御座候。今三日其内尚合戦厳敷相成り、扨々町中畏入申候事に御座候。先は右荒増一寸申上置候。寔に南龍様御入国有之以来、ケ様成事例を不聞候。九州天草合戦同様之儀に御座候。家中初百姓並に町人心配之義にて、何卒々々両三日之内、静かに相成り候はゞ大悦存候。尚其内追々御申上候儀に候間、宜敷御考合可成下候。右其故先日よりも、大に御無沙汰仕候。先右之由鳥渡御咄旁々申上候処、尚珍敷儀も有之候はゞ早速申上候。依之早々如此御座候頓首。

 六月三日夕

先四月貴客様御入之節、十八日雨天に而、其ゟ只一日雨天に而、今に雨降り不申、扨々こり入申候。

 文政六年癸未六月

、当月十日夜ゟ紀州那賀郡・伊藤郡、凡村数二百八十ケ村程有之候処に、右村々追追致徒党、翌十一日昼時、和歌山辺迄押来り、八軒家村松原とほり三軒家といへる村迄、凡人数七万程居候処、其勢三手に相分り、一手は八軒家松原通〔れカ〕、一手は紀の川筋堤を押寄せ、一手は和泉海道筋、都合三処より押寄候由、然る処、十日夜伊藤郡・那賀郡の大百姓を、凡八十軒程打くだき、乱入致し候之処、太守ゟ手配として、大手口は竹垣結廻し、夫々御大名衆、諸所を堅めらる。大手口は朝比奈惣左衛門を頭として、鉄炮二百挺・鑓二百筋・先手穢多五百人程竹鑓を持たせ備構へ、凡千人程にて堅めたり。扨又中之島口は、先手物頭を初、凡三百人程にて相堅む。田中口は奉行・代官・鉄炮・鑓を構へ、七百人程にて堅めける。夫ゟ二十五本松北島川には、水野美濃守を頭として、右同断七百人程にてかたむ。裏手湊川口筋は、久野伊織かためける。湊川口ゟ青岸並に荒浜浜辺迄、船凡八十艘余にて相守る。薬師畑には紀伊殿御隠居御居所故、右川口海辺は別而厳敷かためらる。和歌出島の堅めは、大番頭二人其外組同心等相守る。扨又城中は、安藤帯刀・三浦長門守・加納大隅守・山中オープンアクセス NDLJP:36筑後守・村上伊予守、当時何れも老中其外諸大名・諸奉行・諸役人・同心不残、昼夜不分相守る。扨又三軒家と言へる村は、右の手口海辺にて、百姓共押寄候人数之中へ、用人役小笠原次郎右衛門・町奉行壬生広右衛門・目附堀田十郎三人共、鑓・鉄炮にて備を立て押出候処、三人の者一人立にて、百姓願の通御聞済有之候間、百姓共不残引取申候処に、同十二日夜、右百姓の内、盗人・浪人凡そ百五十人程、十日夜打砕き候処之大家の内にて、金銀多く盗取る由に付、百姓共より追々注進致し、翌十三日たゞしとして、大番頭三人・鉄炮七八百挺程・鑓四百筋程にて、右浪人・盗賊共籠る処の和佐山と言へる大山を、八方ゟ取巻き、西は大井瀬川原、東は粉川寺辺、南は有田郡、総大将には久野近江守、其外大番頭始めとして、組同心並に穢多〔非〕人迄、合せて一万人程にて、右和佐山を取巻きける。此由和歌山へ聞えければ町中木戸打切、町奉行一頭・物頭一組・大年寄等大勢にて、昼夜町内相廻り候故、城下の騒動大方ならず、同処無別条雖、町人共皆々恐怖致候事、先達ての海上郡・名草郡は、此節静謐に相成るの処又又百姓一揆起り、昼夜共寺々の釣鐘を撞き、其外鐘・太鼓を打鳴らし攻寄せ、町中へひゞき大きに騒動にて、諸商人・大工・車力之者共、一向買用無之皆々打歎き、大に困窮之趣、且又大守思召は、何れ盗人並に一揆等不残御糺之思召之由、如何落著相付可申哉、近来珍敷事どもにて有之候事、落着次第又々可申上候以上。

 六月

 
                                        
 
    忠臣蔵九段目忠臣蔵九段目

風雅でないしやれでない、 角力取人足。
本に世話で御座候らうなう、 人足廻し。
雪と申す者は、降る時は少しの風にも散り、
軽いで御座りますれど、一致して相成つた
時は、峯の吹雪に砕く大石同前。 数万の百姓。
連判の人数は皆気無の日影物、 伊東・那賀の浪人者。

オープンアクセス NDLJP:37堺への状認めん飛脚が来たら知らせよ、 上方親類人々。
谷の戸明けて鶯の、梅見付けたるほゝえ顔、 所々へ詰めた無足人。
袴はづして飛んで出る、 本町筋丁稚でつちと下女。
御尋に預りおはづかしう存じます、 岩出より逃げて帰る人々。
御在所も定かならず、 川上辺こぼたれし人々。
移り代るは世の習ひ、 今日の大変。
登屋からと聞き合す、 内目附。
私が役の二人前、 町奉行。
ほしがる所々、山々塗笠・三尺帯、
しやうもやうもないわいの、 勘定奉行。
因果との寄合、 岩手辺。
思へば足も立兼ぬる、 子供老人。
娘覚悟はよいか、 中の島辺の逃支度。
又吹き出すほら貝の音、井上の首。
受取は此三宝、ざわ
と見苦しい、 丸の内の騒。
日本一のあほうの鏡、 金沢氏。
馬鹿つくすなと踏砕く、 橋本村御仕入役所。
長棹にかけたる槍追取、 所々槍方役人。
嘸本望で御座らうなう、 百姓共。
此程のこゝろづかひ、 代官。
某をひそかに召され先づかうの物語、 久勢殿。
切るに切られぬ拍子ぬけ、 地蔵辻へ詰めた諸士。
雨戸に合せん合くろ 井上氏。金沢氏。
用心きびしく、 御仕入円メ。
わつと泣声泣娘、 八軒家茶屋。

オープンアクセス NDLJP:38斯様の事もあらうかと遥々来る、 三浦殿。
提灯・釣鐘釣合はぬ、 海野殿。

 
                                        
 

    楽集

  此度百姓共騒動に付き、御機嫌伺として樽肴差上候に付き、

    目録目録


政事でばつこしたる筑後を縁側へ遣りたい、

     当時御老中出頭山中筑後守殿。

諸方をしぼり上樽あげたる。近目を隠居させたい。

     右同断、海野兵左衛門、

是は奉行にて之あり候処、段々出世致し御老中相勤居申候。尤近眼。

先達て死なれたる田中を今迄置いて見たい。

     田中良左衛門殿、

元軽き役人にて御座候処、段々出世致し、五奉行仰付けられ相勤居候処、三四年已前死去致候。

御益を切つて取上げたる金沢をこぼちたい。

     金沢弥右衛門殿、

元四十石の大御番相勤、段々出世致し、当時知行千石、五奉行の随一。

敵を見て慄うたる佐野が御役人かへたい。

     佐野千蔵殿御代官。

勢州迄新川掘りたる清水が御役を上げたい。

     清水八郎殿御勝手役所頭取。

是迄堀りたる川々を潰したい。

     町奉行。御勘定奉行。

立合にて、此度町中の川々百姓共に掘らせ候に付き、右百姓難渋致候。尤無銭にて掘らせ申候故。

オープンアクセス NDLJP:39段々はひ上りたる稲葉が腰をぬきたい。

     稲葉十郎兵衛殿、

      是も御勝手頭取。

御勢を揃へたる立石を北島へ渡したい。

     立石千五郎殿御奉行。

百姓に紛れ込み方々をこばち樽盗賊を捕らへたい。

    附句

わる口をいはれたる此人等に聞かせたい。

今度町々御評判の高い水喧嘩、安う売られぬ一大事、上下かみしもに致し、紙代は、僅かたゞの三文。

 
                                        
 
    いろはうたいろはうた


い 命をも捨てゝ争ふ水喧嘩。

ろ 論はない、先づ是れからは御仕入を、こぼたば在も町も悦ぶ。

は はたと手を打て驚け、御政事が手足おぢ慄ふ智恵なし。

に 西浜へ御注進はなかりしかば、君には何にもしろし召さずや。

ほ 法外〔にカ〕下を苦しめ、めいの出世の種にさしを入れける。

へ へその下へ心をうつす役人も、今度のちりけ余程こたへる。

と 殿様へならふ事ならわれが、申上げたや下のなんじふ。

ち 智恵もなし才覚もなき御政事も、なければならず有て益なし。

り 綸言は汗のごとしと申せども、いまの綸言出たり引いたり。

ぬ 盗人を捕へて見れば我が子なり、これはをさめのわるい故なり。

る 累代に聞かぬ今度のおほ騒動、しばし十露盤そろばん隠居するなり。

お 思ひ知れ、これ迄下を苦しめた、むくいが今は北島の土手。

わ 禍は下から起こるものと聞く、今は上からおこす世のなか。

か 上は鏡、くもらぬ御代を此やみに、闇になすのは役人のわざ。

オープンアクセス NDLJP:40
 
                                        
 

此間当地騒動に付、さまの落首出来、先達て追々申上候。右の各〻落首書相届候 卯作の弟仁兵衛の書状哉、乍序一寸御尋申上候。相届候はゞ、御返事御申越可成候。外之書付と違ひ、若飛脚紛失いたし候はゞ、此方にて吟味仕度候間、否や御申越奉願候。

、当地騒動之儀も、先大体に相静り安心仕候。併諸役人不残紀州一箇国を打廻り候て、伊都・那賀・海士・名草・有田・日高之郡、此節三千人程之役人、鉄炮又は槍などにて打廻り、其内にて大勢召捕、此節百七八十人計も召捕、毎日御吟味最中にて、町中賑敷事に御座候。則今日八軒家と中川原に十一人、獄門に相懸く。是は此度伊都郡之百姓共にて御座候。段々御吟味被成相片付候様子に御座候。有田・日高郡は、此節熊野迄打廻り候て、諸役人参られ候最中にて御座候。先達て騒動之節、諸役人之中にも死人又手負等有之、又在方にても死人・手負等有之、寔に此度之騒動は、先天草已来の大変にて御座候。此節は御上にも行届、先安心仕候。此度は不存大騒動にて、大きに心配仕候。尚ほ委敷事は拝面万々御咄可申上候。

 六月廿七日 仁兵衛

      卯作殿

一、七月下旬、同人方より卯作へ申越し候には、又十一人此度は大ノ瀬〈たいのせとすみて読む由なり〉 といへる所にて、獄門に懸りしとなり。未だ入牢の者百三十人計り、之ある由を申越しぬといへり。

右は斎藤町絹屋卯作といへる人の妻の弟なる者、和歌山へ行きて、総年寄の方へ身を寄せてありぬるにぞ、これが方より絹屋へ贈りたる状の写なり。卯作のいへるには、「当四月、権現祭り拝まんとて、彼の地に到りしに、百姓大勢川浚をなしてありしが、仰山に幟を立て、何村何十何人々々々々々々いとへるしるしなり。余りに大層の事なる故、親類の者へ尋ねしに、百姓共皆々無賃にて、川浚致しぬるやう、上よりの命なり。其上皆々代る人夫に出づる事なれば、当所にて各〻仕度致し、飯代・雑用総て手前より致しぬる事故、嘸苦しかるらん。総て国中町・在に限らず、諸運上・課役等にて、一統に大なる難渋なり」〈[#底本では直前に「終わりかぎ括弧」なし]〉といひしとぞ。此度の騒動は、元水論より起りしといオープンアクセス NDLJP:41へども、各〻身上立て難き故、斯かる大変に及びしとなり。先づ其主たる難渋といへるは、年貢を納むる事常法に倍し、旱損・水損などありて、種々に歎き出づれ共、少しも用捨する事なく、其上年貢を納めぬる後の作徳のむきは、雑穀に至る迄。悉く上に買上げ、其上にて相場を上げ。町家へ之を払ひ、百姓は商人の手より買取りて喰ふ事なれば、下々の困窮、詞にも述べ難し。其上米穀に限らず、他所より求め候事を厳しく禁ぜられ、米は一石〈八合升なれば、一石といへるは八斗なり。〉に付き八十五匁より九十目に至る。通例の一石なれば、百目の外へ出づるなれば、下のこうじぬる事、之にて推計るべし。此度一揆の起りし所より大和の五条迄は、僅か三里を隔てぬるに、爰にては白米一石七十五匁の相場なる故、百姓共五升・三升・一升程づつも箱に入れ、又は風呂敷に包みなどして、目立たざるやうに之を求めしが、此事も上に知れぬるにぞ、政道益々厳しくなりて、其事もなり難く、斯かる時節なれば、村々にても少々の金を持ちぬる者は、皆々役人へ取入り、己を利する業のみを心とするにぞ、自然此者共其目附となりて、村毎に二三人宛も斯かる者共のなき村とてはなく、たま法度を犯し、忍びやかに米を求めぬるも、此者共に見付けられ、厳しく咎を受くる上、其米は上へ取上げになり、其上三貫文の過料を取らるゝにぞ、いよ困じ果てぬるやうになりぬ。又岩手といへる所に、紀伊殿巡見の時休ひ給へる御殿ありしが、役人共の思付にて、近き頃御殿は和歌山へ引け、其跡に新に家を立て、御仕入役所と唱へ、其役を勤むる者は其辺にて小金持ちたる者共、賂を出して上へ取込み之を勤め、何に寄らず価安き物を買締め、百姓共へ金を貸し付け、返納の時節に至れば、少しも延引なし難く、若し当人難渋にて調達むつかしき時は、一家親類より之を取立てぬる故に、此貸付始まりてより、家田畠を失ひて、絶え果てぬる者多く出来る様になりぬ。其外質物を取りなど致し、下々の物を悉く取上げぬるにぞ、此度の騒動、第一番に此役所を打潰し、夫より村々にて相応の渡世する者共の内をば、悉く打砕き、家財の向は野中へ持運び、悉く焼捨てぬ。早速代官・奉行等駈付け、一人の代官先へ進み出で、「願の筋あらば、尋常に願ひ出づべきを、一揆をなし斯く狼藉に及ぶ事、上を恐れざる致方不埒なり」といひしかば、其詞も終らざるに、一揆共口を揃へ、「是迄邪なる政事にオープンアクセス NDLJP:42て賂を貪り取り、今又己一人、此中へ進み出で、左様なる言をいひぬるは、己等が悪事顕はれ、罪せられむ事を恐れ、早く静めんと思ふなるべし。彼奴きやつを打殺せ」と声々に呼ばはりつゝ、各〻得物振立てゝ打つて懸りしかば、如何ともし難く、這々はうの体にて逃げ帰りしとぞ。此時余程人死ありしとぞ。又此騒動に紛れ、浪人者〈紀州浪人多き由、〉百五六十人も打交り、八百人計りの党を結び、在々に押入をなすにぞ、書面にもある如く、一万余の人数にて四方を取巻きしが、皆取逃しやう四十計り召捕りしと聞こゆ。合戦の如くに備へ、飛道具迄用意しながら、此等は余り拙き業にぞありける。城外迄押寄せぬるにぞ安藤帯刀馬を乗出で、「願の筋は一々聞届け申すべければ、一旦引取るべき由」、詞を尽して利害を示しぬる故、やうと之を諾ひ、一先づ引取るやうになりしとぞ。

本町心斎橋筋東へ入る所、中屋善兵衛といへる呉服商ふ者、心易くする人紀州にありて、此度一揆の為にこぼたれたる橋本といへる所の呉服商ふ家に奉公せしが、近頃別家致し、少し片寄りし所に住す。此度の大変に主家も打崩され、金銀は申すに及ばず、衣類・諸道具残らず焼捨てられ、著のみ著の儘にて、家内皆々此者の方へ身を寄せぬる由。此騒動にて人死三百人余もありしとぞ。是が咄には、大抵の趣は始めにいへる如くなれども、一揆催すと直に城下へ到り、引取の節、其道筋にて酒屋にては酒を出させ、相応の橋の家に到り飯を焚がせ、之を速にせざる者常よりにくしと思者悉く打潰し、先づ一番に紀の川筋にて川端にある富家、常に上に取込み、質物を取り、名目の金を貸しなどして、近年大に仕出したる者あり。此家を壌ち家財残らず川中へ打込みしを、一揆の中に慾心の者ありて、五六人いひ合せ、七八丁計り川下に隠れ居て、之を拾ひ取りしを、一揆中間に之を見付け、其者共を引捕へ、槍にて首搔き落し、鍬にて打殺しなどして、一人も残らず之を殺しぬ。夫より所々を壊ちぬれども、家財の類は悉く野中に持運び、火を付けて焼尽しぬ。斯くの如くなれば、皆々恐れ逃げ迷ふ。中にも金銀衣類の類を持ちて逃ぐる者、一揆の中にても、騒動に紛れ、慾心を抱き金銀を奪ひ取りし者など、見付け次第に打殺しぬる故、凡そ三百人余、家を壊ちぬるも三百に余るといへり。然し此度壊たれし村々は、皆々貧村にて、一オープンアクセス NDLJP:43箇村に三軒か四軒ならでは、金銀貯へし者はなき所なれども、此度の一揆往来筋なれば、斯様の難に遭ひし由、二三里も片寄りし方には、至つて福者あれども、是等は何事もなかりしとぞ。

六月廿五日、久昌寺に於て堺海会寺に逢ひしに、其人紀州の咄をなす。是がいへるに付、紀州騒動に就いての余談最初の起といへるは、数日旱続ひでりつゞき故、川々水乏しくなり、百姓共植付に困りぬるに、其少き水を、新田の方へ引取るにぞ、肝心の古田は、いよ如何ともし難し。これ如何となれば、当地などにても、鴻池新田・袴屋新田などいひて、新田を持てる者は、多くは富家にして、常に賄賂を以て役人へ取入りぬる故、斯かる時、己が思ふ儘に計らへるなり。斯くの如くなれば、百姓立行き難きにぞ、一村寄合をなし、古田と新田とは、何れが大切なるや。当時にては運上賄賂を取る計りにて、年貢は外国ほかぐにに倍し、近頃迄なくて済みぬる新田へ水を引き、大切なる田地の荒れぬるをも厭はず。斯かれども秋に至らば、年貢は厳しく責めはたるべし。斯くては皆々餓死に及ぶべし。此事強訴せんとて、打寄り評議する半ばへ、何か吟味の筋ありて、穢多大勢出来り、上の威光をいひ立て、彼此といへるにぞ、一統人気立ちし折なれば、七八人も之を打殺し、其余にも手疵を負はせぬる故、詮方なくて逃帰りしが、程なく三百余の穢多を催し押来る。此方にては強訴の一件を近村に勧めぬるに、何れも身分立行き難き事なれば之にくみす。たまあやぶみぬる村ありて、早速に与せざるをば、庄屋を打殺さむといへるにぞ。各〻一統をなして凡八百人に及ぶ。斯くの如くなれば、再び穢多を打殺し、大騒動に及び、城下迄押詰めしを、安勝が馬を乗出し、願の筋は一々聞届けむとて、程よく利害を申聞かせし故引取りしとぞ。五月廿一日頃より水論の沙汰ありて、廿八日城下に押寄せしが、人数四千余三手に分れ、三方より一度に押懸けしとぞ。早速百目計りの米直段五十匁に下り、他国の米買ひ次第との事なりしとぞ。又十日頃より三万余押寄せ、十二三日の頃引取り、一旦静まりし様にてありしが、又々南の方日高辺に一揆起りしとぞ。

或人のいへるには、米屋平右衛門事、紀州の御蔵元なる故、彼が忰に逢ひぬる故、此事尋ねしに、噂の如く前代未聞の大変なり。同人方蔵方の事なれば、此事を聞いてオープンアクセス NDLJP:44拾置き難く、大抵騒動も納まり通路開けしと聞きぬる故、先日手代両人、御見舞として紀州へ遣せしに、彼の地に入込みしかば、百姓共、元来此者共御蔵元致し、米の直段高くなりしも、此等が所為ならむ。たゝき殺せ打殺せなど罵りて、大いに騒ぎ立ちぬる故、這々の体にて城中へ駈入り、数日経れども帰り難く、今に滞留してありぬとて、語りしといへり。

当地幸町に、近年御屋敷出来し、買物方とて下地より御出入の町人淡路町泉治郎を始めとして、十人を其役とし、家賃・唐物・米穀・家屋敷の買入等、何に寄らず買入れ、大に利潤を得、又貸し物方とて、名目の金を貸付などする事になりぬ。元来当地亀六といへる者、紀州にて淡路屋といへる菓子屋と心易き事なれば、近来御役筋の事とさへいへば、何によらず取上げらるゝ事にて、賂の流行する時節なれば、是等が目論見に出来せし由、紀州は十八年前迄は、大借金にて甚だ困窮なりしが、下の難儀をもかまはで、種々の新法を立て、過分の金子を貯へ給ふやうになりしとて、中屋善兵衛、此事を予に語りぬ。則ち亀六とかやいへる者は、善兵衛知る人にて、今にては泉治郎始め、此役に困まり果て、退役せむと願ひつるとぞ。これ如何となれば、近来人気悪しき故、口入などいふ者は、多くは八十貫目の品を買はせんと思ふ時は、売主へ対談し、百貫目として、之を買主へ買はせ、二十貫目口入の懐へ入れる様の計らひをなす。泉治郎始め皆々、家柄の者共にて、左様なるはしたなき業する事は、聊もなき事なるに、斯かる事にて、過分の益ある様に役人共は相心得ぬれば、権柄に種々の用事などいひ付くるにぞ、皆々大に迷惑すと聞けり。

或家に病人ありて、治療頼み来れるにぞ、其招に応じぬ。此家、昔より家具買ふ家にして、年久しく紀州より何か買取りて、手広きあきなひをなす。是がいへるには、此間紀州の人出来りし故、此度騒動の事を聞けるに、八軒家より少し計り隔りし所に大庄屋あり。一揆大勢蜂起して、前以米五十石借受け度き旨申越しぬるに、無しとて之をころわりぬ。斯くて大勢押来るにぞ、米十五俵を飯に焚き、之を出して饗応しけるが、始めの無心を聞入れざりしとて、此家をも打砕きしとぞ。其外諸々の騒動、大方始めに記せし如くなれども、六月十八日より有田郡にては五千計り起りて、之も大庄屋の家オープンアクセス NDLJP:45を打砕く。此沙汰前以て告げ知らす者ありし故、諸道具・金銀・帳面の類、密に近辺へ預け置きしに、大庄屋はいふに及ばず、何一つにても之を預りし者の家は、悉く打砕きぬ。斯くて其由和歌山へ〈城下より僅か二里〉聞えぬる故、役人共船四十艘に打乗り、直に駈附けしが、最早十分に打砕き、皆々散々ちりに引取りし後なりしとぞ。又此一揆大に起りしは、五月廿一日に始まり、廿八日より甚しかりしと雖も、前以て其催しありし事と見ゆ。四月十日過の事なりしが、黒江〈是も城下より二里計り南なり。〉といへる所にて、数家を打砕けり。此辺総て膳椀の類を多く仕込みて、諸国へ売出す所なり。近き頃迄は銘々勝手次第の商なりしに、仲間中に慾心の者共いひ合せ、上へ運上を出し、株十二軒に定め、是迄一様に商せし者共も、其余は悉く十二軒の下職となり、始めの程は少しの口銭取られし事なりしが、近来にては過分の口銭を取りぬる故、皆々引合申さず候故、種々相歎きしとて、わけて聞入るゝ事なく、さればとて此等の手を越えて、聊の商する事もならざれば、大に困窮に及びぬるにぞ、一統申合せ此者共の家を悉く打砕き、帳面は皆引破り、金銀は海へ打込み、大いに騒動に及びしとなり。之は病家の主、権現祭見むんとて紀州へ到りしに、此人黒江と常に取引の事を知れる者、此節斯様斯様の大変なり。訳けて黒江に行き給ふ事なかれ。如何なる変あらむも計り難しとて、之を止めしとなり。

 
                                        
 

真田の書状酷熱中愈〻御清勇祥御入賀候。然者七夕の色紙、日外いつぞや申上候通り御差遣被下度、御息女両人待兼られ候様子に御座候まゝ、兼々御遣被下度、勿論あね女大に筆廻り申悦入申候。外にも大分揃居候事に候間、心せき候様子御座候。右兄弟中にても認候つもりに可成候歟。宜敷御計勿論、一紙にても疎略すたり候儀は、毛頭無御座候。其段相待居申候。

 
文政六年六月大和一揆
 

、扨大分壮年之人々、暑にあてられ候儀も有之候。貴所様大暑中随分御保養専一に奉存候○大和葛下・高市・城〔下カ〕等多人数打寄、米屋をこぼち寔に悪事千里にうつり、南紀騒動と同じく所々にてかゞりを焼き、ほら貝半鐘・大鼓にて人数を集め、オープンアクセス NDLJP:46八南木にて六軒、三輪にて三軒、今里屋にて二軒こばち、高田にて寄合、今市辺へ相かゝり候様子故、郡山侯・高取侯御役人多人数御出にて御出張の由、しかし大におびやかし、長尾の米屋をこぼち候よし相聞え申候。扨々当年はさわがしき事に候。先はあら。かしこ。

  六月廿五日夕 真田

     伊達様

 但し是は米直段を下直にせん為計りと相聞申候。

 
文政七年八月英船薩摩に来る
 
    文政七申八月薩摩国へイギリス人来著に付き御届の写

一、松平豊後守領分、薩摩国七島の内宝島沖へ、七月八日白帆の船一艘漂来り、橋船一艘ゟ異国人七人致上陸候に付、英船漂著役人差越候処、言語文字不相通、無間も本船へ乗替、翌九日異国人橋船二艘ゟ上陸いたし、牛、望の由手招てまねき致し候得共、不相調段手様を以て相答へ、イギリスと申事相分、野菜少々相呉候処、本船へ乗帰り、又々橋船二艘にて異国人多人数陸へ乗付、方々致徘徊海辺へつなぎ置候牛奪取、早々射殺、在番之者罷在候番所へ鉄炮夥敷打放、本船ゟ石火矢繁く打かけ及狼籍候に付、彼島へ渡海いたし居候目附役吉村九介と申者、異国人一人鉄炮にて打留候処、其余之者共不残本船へ逃帰り、直に午未之方へ乗行、同十一日迄は、遠沖へ帆影も見え候得共、其後は何方へ乗行候哉不相分、自然乗戻候儀も難計候に付、手当いたし島津権五郎と申者へ、一組之人数相添、右之島へ差越、其外浦々・島々へも、取締厳重に申付、依之長崎御奉行所へ追々相届申出置候段、国元ゟ被申越候候付、於江戸表御月番御老中様へ御届申上候。

  八月晦日 ​松平豊後守内​​  朝倉孫十郎  ​​ ​

 同十一子年、薩州侍衆より当地尾上小十郎と申人へ申来候書状の趣、左の通、

薩州領分之内、薩州侍衆より尾上小十郎への書状日向路へたつみに当りて五十余里沖中へ島あり。唐共日本共不相分、無人島と申迚、是迄人不参。大洋中の島故、船がかりの場も無之、然る処去秋日向之船、難風に逢ひ無拠右之島へ取付申候処、烟の立様子見受、陸に上り致吟味候処、浜辺オープンアクセス NDLJP:47岩窟之間五六人住居、異国人やら日本人やら、男女差別も不分者居、此者一人立出申候者、客人者日本之人にては無之やと相尋申候に付、其通と相答候由、然る処島人申候者、此島に日本船来事ヲ相待候事、我々代々申伝而相待居候。則我等者平家之末に而、乱後二艘人なき島を尋候て、上皇を守護し、此所に漂流し、人数八十人男女住居隠れ候まゝ、其後追々人も減じ申候得共、当時者又々七十人罷在候。其内、天皇の御末葉も被在候。我々代々申伝候に者、宝劔・宝鏡を今一度本国へ相渡度候。時之天子に奉り度段、敬ひ願出に御座候。何卒船本国へ被帰候上、国主へ此旨被申立候様被申候由、右に付直様国元役所へ申立候処、太守ゟ御迎船相立、薩州へ皆々御迎取、当時江戸表へ伺に相成居申来候。

右者誠に実事ならば、珍敷事に無之や。五穀なしの島に、よくも子孫相続し、今迄住居いたし候者哉と不思議に被存候。尤中程人敷減じ候と申処左も可之、持越候糧米切れ候後、暫く海草やら木之実やら喰馴れ候迄之処、人減じ候半かと被察候。子孫は生れながら、夫に相なれ成長いたしゝ者故、後年〔之カ〕当時に至り、又々人相増候処、どうやら誠らしくも有之候。檀の浦にて世之治り口之空説とて及承居申候得共、誰も其頃者実説存候者有之間敷也。併宝劒・実鏡が証拠ものと奉存候。珍敷故荒々申上候。

  二月十七日

 
文政十年将軍太政大臣を拝す
 
     文政十丁亥年三月十八日御触の写文政十年三月十八日の御触


公方様太政大臣御昇進、

詔書宣旨御頂戴、内府様従一位之御位記御頂戴、御作法無残処相済候〔旨カ〕、江戸ゟ被仰下候条、恐悦可存候。此旨町中可触知者也。

   同五月

御昇進に付、御役附御位階
御老中御掛別段御使 青山下野守様
御若年寄御用掛 増山河内守様

オープンアクセス NDLJP:48御昇進に付御使 井伊掃部頭様
御位階に付右同 松平越中守様
日光御名代 酒井雅楽頭様
御同所へ西御丸ゟ御名代 松平下総守様
御代 戸田采女正様

   〆

     於御本丸御馳走方

御勅使方 溝口伯耆守様
院使方 秋月長門守様
御控 鍋島岩城
御使 松平長門守様
大宮使
鷹司様 黒田

   〆

     帝都ゟ御下向之次第

勅使 鷹司様
  広橋様
  甘露寺様
院使 冷泉様
大宮使 大倉様
女御使 藤谷様
詔書使 堤様
御衣紋 高倉大夫様
御身固 土御門様

  右之外、多分御紋付有之候得共略す。

    同年六月

オープンアクセス NDLJP:49御別段御上使 青山下野守様

右拝賀之節、津軽越中守、近衛様ゟ拝領之由にて、轅に乗て出られしにぞ、御咎を蒙り閉門被仰付、家老・用人・留守居其外役掛り之者五六人切腹をなす。此事に付、種々の風説ありといへともこれを略す。

 
 
 

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