新約聖書譬喩略解/第二十 無花果の樹斫るの譬
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第二十 無花果 の樹 斫 るの譬
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- 〔註〕
當 時 総督 ピラト ガリラヤの人 を殺 す事 を將 てイエスに告 るものあるによりて此 譬 を語 りたまへるなり ピラトの為人 は甚 だ厳酷 してガリラヤに罪 を犯 すものありしが来 て天 父 を拝 するところを伺 て之 を其 殿堂 に殺 せり ユダヤ國 の祭 には必 ず牛 と羊 の血 を壇 の四周 に灑 げり ピラトその處 におひて人 を殺 せしゆへその血 地 上 に流 て祭 の血 と雑 れりといへり来 て告 るものの意 には献祭 の時 にあたりて神 の保 護 もあるべきに壇 の前 に殺 さるるは必 ずその人 の罪悪 は衆人 に比 れば尤 も甚 しきゆへこの重 き罰 を受 しなりと思 へるなり イエス語 りたまへるは人 この世 に殺害 を受 たりともいまだ必 ずしも罪悪 の報應 を顕 はすに足 りとなしがたし ガリラヤの人 の中 には殺 されざるものにもまた罪 の重 ものあり シロアムの塔 の傾 き倒 るるとき圧死 されし十八 人 のものはエルサレムにすめるすべての人々 よりもまさりて罪 ある者 と思 ふやと人 みな罪 あるに因 て罰 を受 べし或 は生前 におひて受 或 は死後 におひて受 遅 と速 は定 りなし いまだ報 を受 ざるは時 の至 らざるなり故 にイエス復 之 を戒 めて曰 たまふは爾 若 し悔改 めずんば亦 みなかくの如 く亡 びんと此 言 後 に果 して験 あり イエス昇天 したまふの後 ローマの軍長 タイダス兵 を領 てエルサレムの城 を攻破 りユダヤの人民 股栗 おそれ壇 の前 にきたり禍 を遁 れんことを天 父 に祈祷 居 たりしがローマの兵 殿堂 に入来 り祈祷 ものを壇 の側 に殺 しその血 流 て亦 祭物 に雑 れり また火 を放 て各処 に遷延 城 の牆 傾 倒 れて數 の人 を圧死 せり この兵 士 に害 され牆 に圧死 さるるもの昔 と異 なることなし人 の災難 を受 るを見 てこれを大罪 大悪 によるといふは他 人 を審判 を知 て自己 を審判 を知 らず是 れ人 の通病 なればイエス意 に謂 たまふやうなんぢ人 の災難 の突然 にきたるを見 ば己 が躬 に返 てその人 を以 て鑑 とし速 に自己 もまた突然 にかかる難 にあはんかと自省 慎 べし若 し預 め此 備 をなさざれば永 き沉淪 を受 ん この機會 によりて己 れの悔改 を激 ならば儘 益 あるべきなりと故 になんぢ若 し悔改 ずんばまた必 ず亡 びんといへり イエスすでにこの事 を言 完 また此 譬 を設 て人 をして常 に之 を記念 しめたまへり ○言 は無花果 の樹 を葡 萄 園 に植 たればその地 もよく肥 且 園丁 も日々 に糞 を灌 ぎて野 山 に植 て人 の栽培 せざるとはおなじからず もと園主 の此 樹 を植 るはその菓 を結 ばんが為 なり熟 するときに至 れば菓 の有無 は盡 く顕 はるることなれば園主 その菓 を求 むるために之 を査験 り しかるにこの樹 に葉 有 のみにて菓 を結 ざれば大 に園主 の望 を失 へり但 園主 この樹 の菓 なきを見 て直 に剪 除 んとするにあらず仍 三年 の間 は忍耐 て時々 きたり看 しなり またその菓 なきを看 て灌漑 もせずに唯 永 忍耐 たるにあらず その自 生長 に任 せて植置 しがある日 園丁 に語 りて曰 く我 三年 この樹 の菓 を結 を求 むれども得 ざるなりこれを斫去 べし何 ぞいたづらに地 を塞 ぐやと園主 なんぞ地 を塞 を嫌 へるや數 樹 を種 て美観 となすにあらず この地 を以 て美 菓 を求 んと望 めるなり若 し果 を結 ばざれば益 なきのみにあらず他 樹 の肥潤 を減 ずれば返 てこの樹 の無 を勝 れりとせり たとへ枝 葉 の蒼々 として濃 なる蔭 地 を覆 ともまた必 ず棄 て惜 ざるべし園主 すでに剪 除 んとせしに園丁 請求 ていふやう今年 も少 く容 して周囲 を堀 糞 を灌 がば菓 を結 こともあるべし倘 力 を竭 しても實 を結 ばずばその時 之 を斫 るも晩 からずまた再 び培養 を願 はざるなり唯 主 の斫 に任 すべしとなり さて此 譬 の本 意 は(無花果 の樹 )をユダヤ人 にたとへ(葡萄 園 に植 る)とは天 父 ユダヤ人 にケナンの福地 を賜 ひ許多 の恩 を施 し預 言者 に命 じて之 を管理 して教訓 たまふを指 す是 れ菓樹 は園丁 の培 養 を受 ると異 なるなし(菓 を求 る)とは天 父 厚 恩 を賜 ひその善行 あるを求 めたまふを指 す聖書 に屡 菓 を以 て人 の行為 にたとへり且 神 の預 言者 の口 を借 て人 に善行 を勧 めたまふは果 を求 るの徴據 なり〔以賽 五章二節より七節〕果 はよくその樹 の性質 を表 はし善 果 は必 ず善 樹 にて悪 果 は必 ず悪 樹 なり果 によりて樹 の善悪 を分 は猶 行 の人 の性質 を表 はし善行 は必 ず善人 にて悪行 は必 ず悪人 なるが如 くその行 によりてその人 を分 べし新約書 に果 を結 を講 ぜるは三 に類 を分 てり一 は眞 の善 なり或 は善工 をいひ〔提摩太 前二章十節〕或 は善行 をいひ〔馬太五章十六節〕或 は信 を以 て行 をいひ或 は神 の工 を為 をいへり〔帖撒羅 前一章三節〕是 れは善心 より発 るものにて是 を神 のわざとなせり〔約翰傳 六章二十八節〕二 には死 の善 といふ或 は死 の行 をいひ〔希伯來 九章十四節〕或 は律 の行 に由 るをいふ〔加拉太 二章十六節〕その事 は善 なりと雖 も心 よりして発 るにあらざれば美 菓 を將 きたりて樹 の上 に掛 たるが如 くその樹 より生 るにあらざれば是 を死 果 となせり三 には悪行 なり或 は肉 の行 をいひ〔加拉太 五章十九節〕或 は昏暗 の行 をいふ〔羅馬 十三章十二節〕これは悪心 より発 るものにて是 を悪果 となせり果 の類 を三 に分 てりと雖 も神 の求 めたまふはその善果 を結 ことを求 めたまふなり ユダヤ人 の結 果 は死 果 最 も多 し法利 賽 人 の食 を禁 じ長 く祈祷 をなし十 にその一 を納 る遺 傳 を守 るが如 きは是 れ死 果 なり悪果 もまた少 からず昔 より預 言者 を殺 し悪習 に染 しばしば神 の旨 に背 きイエスを害 が如 きはみな悪果 なり國 を立 るの年代 はひさしと雖 もこの善果 なし故 に果 を求 めて得 ずといへり(三年 きたりて求 る)といふは一説 に人 に善 を行 はしめたまふ神 の三 次 を指 すと謂 り第一 次 はアダムに是非 の心 を賦 へその善 行 を求 めたまふなり第 二次 はイスラエルに律法 を授 てその行 の善 きを求 めたまふなり第三 次 は世 界 に福音 を賜 ひその善行 を求 めたまふなり又 一説 に別 て三層 とせり一 は神 モーセの口 に託 て律法 を人 に教 たまひ二 には預 言者 の口 に託 て預 言 を人 に教 たまひ三 には神 イエスの口 に託 て福音 を人 に教 たまふなり又 一説 にイエス世 に在 すとき三年 の間 道 を傳 たまへり便 これ三年 果 を求 るの證 據 なりと諸説 いづれも通 れども必 ずこれに泥 べからず大約 イエスの意 にはしばしばきたり求 ことをいへり一 たびよりして再 び再 びよりして三 たびと天 父 の忍耐 たまふことを表 せり(園主 と園丁 )とに両説 あり或人 は園主 の樹 を斫 んとするは天 父 の公 なる審判 を指 し園丁 の代 て請 求 るはイエス神 の右 に在 して人 に代 て祈祷 たまふことを指 す〔希伯來 書七章二十五節〕或人 は園主 の来 て果 を求 るはイエス福音 を傳 へ三年 人 に悔 改 を勧 めたまふことを指 し園丁 の請求 るは聖霊 我 等 の荏弱 を助 て我 等 の祈 るべき事 を言 しめ玉 ふを指 す〔羅馬 八章二十六節二十七節 創世記六章三節〕両説 倶 に理 あれども前 の説 を以 て正 となす人 に代 て祈祷 るはイエスとし聖霊 とするを論 ぜず祇 主 の罪 を罰 したまふの時 を寛 めんことを求 め彼 に悔 改 る機會 あらしめたまふなり決 て恩 を賜 によりて審判 を廃 たまふことなし主 の永遠 の罰 を加 たまはざるを求 るなり究竟 恩惠 を賜 はれども公議 を以 て旨 となしたまふ故 にもし果 を結 ばざれば之 を斫 れと謂 るなり世末 の時 には救主 審司 となり公 を以 て審判 き罪 を赦 したまはざるなり神 は災 を人 に加 へたまはんとするに先 その時 を寛 めたまへり洪水 の災 の如 きは百 二 十年 を遅 て至 り〔創世記六章三節〕ソドム ゴモラの二 邑 を滅 さんとするときにアブラハム代 て請求 るを聽 したまひ十人 の義者 あらば罰 を降 さずと曰 たまへり〔創世記十八章二十四節〕ユダヤの人 イエスを釘死 せしは四 十年 を待 てエルサレムを滅 せり又 主 の約束 したまひし所 を行 たまふに遅 きは或人 の遅 きと思 ふが如 きにあらず一人 の亡 るをも望 たまはずすべての人 の悔改 に至 らんことを望 たまふて我 等 に永 く忍 たまふなり〔彼得 後書三章九節〕(地 の廃 るによりて斫 るべし)といふは此 樹 の悪 く毒 あるによりて剪除 んとするにあらず されば人 も大罪 あるに因 て刑罰 を受 るにあらず日々 天 父 の恩 を得 ながら榮 を天 父 に帰 せず天 父 に謝 せずまた過 を改 めず善 に遷 らざるは是 れ人 の法 となすべからず家族 もその為 す所 に效 ひまた同 く無 用 とならん是 れ眞 理 を碍 げ所謂 地 を廃 るなり ユダヤの人 は天 父 の誡命 を識 ども絶 て善行 なく榮 を神 に帰 せざるは全 くこの弊 を犯 せるなり(園丁 の周囲 を堀 て糞 を灌 )と謂 はイエスの教訓 と聖霊 の祐 とを指 せり人 天 父 の忍耐 を得 ていまだ剪盡 さざればなほ善法 を以 て教導 きよく旧 をすて新 に従 しめたまへり是 等 の機 會 は聖書 に云 る眷顧 の日 なり〔路加十九章四十一節四十四節〕ユダヤ國 のみ然 るにあらず都 の人 みな此 機 會 あり此 機 會 を趁 ば神 の恩 を得 やすくこの機 會 を失 へば必 ず神 の罰 を受 べきなり罪 あるを知 て尚 悔改 ざるものは立刻 に醒悟 べし眷顧 の日 いま盡頭 にイエスに頼 ずんば恐 くは我 壽命 もまた盡 んとせん悔 るとも追 がたし縦 ひ死 せずして心 に偶 悟 ることあるも旋 又 迷 に沉 ば救主 の代 て求 たまふことなく聖霊 の感 化 なく永 く心硬 りて終 に悔改 る期 なし機 會 一 たび過 なば又 得 がたく天 父 の恩 絶 なんとす