<< 神の言と世の言と、神の子と此世の子との間の差別。 >>
一、 神の言は即神にして、世の言は即世なり。さりながら神の言と世の言と、神の子と世の子との間に大なる差別と距離のあるあり。けだしすべての種子は其所生に肖ん。ゆえにもし神の種子が世の言と地上の物体と此世の栄とに己を付與せんをねがふならば、彼は生命の真実なる慰安を見るを得ずして、死し且亡びん、何となれば彼の慰安は其生れたる所にあればなり。主のいひ給ふ如く〔マトフェイ十三の二十二〕浮世の諸慮の為に勝たれ、地の械繋につながるる者は、圧せられて、神の栄の為に無結果なる者とならん。しかれどもこれとひとしく肉に属する自由なる意思の為に勝たるる者、即世に属する人も、もし神の言をきくを願ふといへども、圧せられて、或る無言なる者の如くならん、悪習の欺きに慣れたる者等は神のことを聞くときは、不愉快なる談話に擾されし者の如く心に煩悶せん。
二、 且又パウェルもいへり、『霊に属する人は神の神の事をうけず、其彼の為に愚たるが故なり』〔コリンフ前二の十四〕。また預言者もいへり、神の言は彼等の為に嘔吐したる食物の如しと〔イサイヤ二十八の十三、フェオドテオンの訳に依る〕おのおの己の生れたる所の法に依りて生活するの外別に生活するあたはざるを見ん。然れどもまた他の一方よりもこれに注意せんこと肝要なり。もし肉に属する人は決心して自から己を変化するに着手するならば、最初にまづ彼は死して、以前の悪なる生活の為に無結果なる者とならん。然のみならず病に冒さるる者、たとへば熱病にかかる者の如きも、其身は床上に横りて世の何事をも修むる能はずといへども、工作の為の配慮に引かれて心は自から安んぜず、其友をつかはして医を尋ねん、かくの如く誡命を破りて己れを情慾の病におとしいれ、無力なるものとなれる霊魂も主に就て彼を信ずるときは、彼より代保をうけん、されば従前の最悪なる生活を棄て、旧き病の為に衰弱する霊魂は、なほ横臥して、生命のいかなる行をも真実に成し遂ぐる力あらずといへども、しかれども生命の為に専ら力めて慮り、主に懇願し、真実の医を尋ねざるを得ざるべく且これを為し得るなり。
三、 偽教師の為に詭計に引入られたる或者等主張して、人は必ず死すれば何等の善も全く為すあたはじといふは誤れり。嬰児は何も為すの力あらず、或は其足にて母に至るあたはずといへども、母を尋ねて自から身を動かし呱々として泣かん。されば母はこれをあはれみ、児の声を励まし、高く叫んで母を尋ぬるをよろこび、児の来りて母に就くあたはざるがために、児を愛するの情に勝つ能はざる母は其久しく尋ぬるがために、みづから彼に近づきて、大なる慈心を以て彼を取り、撫愛してこれに乳せんとす。人を愛する神の来りて神を尋ぬる霊魂と為す所もこれに同じ。然のみならず其固有の愛と其の本来の慈心に動かさるる彼は更にいよいよ自から霊魂の明悟に附きて、使徒のいへる如く霊魂と一神とならん〔コリンフ前六の十七〕。けだし霊魂が主に附き、主も霊魂を憐み且愛しつつ来りて彼に附きて、霊魂の明悟は主の恩寵に最早不断に止居るときは、霊魂と主とは同一の神となり、同一の融和、同一の智とならん。霊魂の体は地に棄てらるるものとなりて存すれども、其の智は第三重の天に昇り、主に附きて、かしこに主につかふまつりつつ、天のイエルサリムに全く生存せん。
四、 天の都に高く尊厳の位に坐し給ふ者は、自から霊魂と共にその体に全く居らん、何となれば彼は霊魂の象を高く諸聖者の天の都なるイエルサリムに置けども、其神性の得もいはれざる光の自己の象をその体に置きたればなり。彼は体の都に於て霊魂につとめて、霊魂は天の都に於て彼につかへん。霊魂は天に於て彼の嗣業者となりたれど、彼は地に於て霊魂を嗣業にうけ給へり。けだし主は霊魂の嗣業となりて、霊魂は主の嗣業となるなり。くらまされたる罪人といへども、其思と智とは体より極めて遠く離るるを得べく、大なる距離を瞬間に走りて、懸隔せる方面にうつる力を有するなり、されば体はしばしば地に棄てらるれども思は至愛する者と共に他の方面に居るべく或は至愛する者と共にして、自己を見ること彼処に居る者の如くならん。しかれども罪人の霊魂さへかくの如く鋭敏に疾く翔りて、其智は懸隔せる方面に在るを妨ぐるあらずんば、いはんや聖神の力を以て暗黒の覆を脱したる霊魂に於ては、その智慧の眼は天の光に照されて、霊魂は汚辱の慾より全く救はれ、恩寵により潔きものとなるときは、天に於て全く神を以て主につかふべく、また体を以ても全く彼につかへて、其思は何処にも在らざるなき程濶くなり、欲する所に随ひ、欲するときにハリストスにつかうまつらん。
五、 使徒は此事をいへり、曰く『衆聖徒と偕に濶さと長さと深さと高さとの何なるを悟り、及びハリストスの測り難き愛を知るを得んため、爾等が神の凡の充満に満てられんためなり』〔エフェス三の十八十九〕。得もいはれざる霊魂の奥秘を察せよ、主はこれにかかれる暗黒をこれより排除け、これを開きて、自からこれに現はれ給ふ。其智の思を廣濶にして、凡そ見ゆると見えざる萬物の濶さと長さと深さと高さとに至らしむることいかばかりなるや。されば霊魂は実に大業、神の業にして、奇異なる業なり。これを造るに当りて神は其本性に悪癖を入れずしてつくり給へり、却て神の道徳の像によりてこれを造り、これに道徳の法と理性と認識と善智と信と愛と其他の徳行とを神の像によりて賦與し給へり。
六、 今も主は認識と善智と愛と信とに於て彼を捜し求めて、かれに現はれん。主は明悟と意念と自由と主宰する智とを彼に賦し、又或る大なる優美を彼に王たらしめ、かれを動かし易きもの軽翼なる者、及び倦まざるものとなし、瞬間に去来して、神が欲するときは思を以て主につとむべき才能を彼にあたへ給へり。一言を以てこれをいへば彼をして主の新婦となり随伴者とならしめんがため、又主も彼と合併して彼も主と一神とならんがために彼をつくりたまへり、いふあり、『主に附く者は主と一神となる』〔コリンフ前六の十七〕。彼に光栄は世々に帰す。アミン。