<< 恩寵にも又悪習にも漸々生長する霊魂の奥底は甚だ深し。 >>
一、 霊魂の貴重なる器は大なる深處に存在すること録していへる如し、曰く其淵と心とを試みんと〔シラフ四十二の十八〕。人が誡命に背きて怒を被りし後、罪は人をとらへて、己の属下となし、透徹して深遠なる苦き淵の如く、自から内部に入りて、霊魂の牧野を其最深き奥底に至る迄占領したりき。かくの如くなれば霊魂とこれに混淆したる罪は多くの枝葉ありて地の深き處に根ざしたる大なる樹に比ぶべし。かくの如く霊魂に入りたる罪は其牧野を最深き奥所に至る迄占領して慣習となり蔽錮となり、幼時より各人に生長し、養成せられて人に悪を教へんとす。
二、 ゆえに神聖なる恩寵の作用が各人の信仰に準じ、霊魂を庇蔭して、霊魂が上より助をうくるときも、恩寵は霊魂を猶唯一部おほふのみなり。されば何人も霊魂が全く照明せられたりと思ふなかれ、其内部には悪習の為に大なる牧野の猶存するありて、人にはたらく恩寵と融和するの大なる労と盡力は人の為に要用なり。ゆえに瞬間に人を浄めて完全なる者となすを得る神聖なる恩寵が漸々霊魂を訪問するを始むるは、人の自由なる意思の何に於ても悪者と親まず、己を恩寵に全く委ねて、神に対する全き愛を守るや否やを試みんが為なり。かくの如くなれば霊魂は時と多くの年所を経る間に練達なるものとなり、何を以ても恩寵を怒らしめず、又憂ひしめずして漸々己のために助を見ん。然らば恩寵も亦自から霊魂に於て牧野を占領し、霊魂が多年練達して恩寵と融和するものとなるに準じ、その最深き組織と意念に至る迄根を放つべくして、霊魂は全く此器中に最早王たる所の天の恩寵を以て囲まるるに至らん。
三、 しかれども人は大なる謙遜をまもらずんば、己をサタナに委し、既にあたへられたる神聖なる恩寵を剝ぎて裸体にせらるべくして、其時彼の自誇は露はれん、何となれば彼は裸体にしてまづしくなればなり。ゆえに神の恩寵に富まさるるものは大なる謙遜と中心の悲傷とに居り、己を以て一物も有たざるまづしきものと為して、左の如く思はんこと肝要なり、曰く『おのれに有するものはすべて他に属するものにして、他人が我にあたへたるなり、されば欲するときは我よりとらん』と。かくの如く神と人々の前に己を謙る者は其あたへられたる恩寵をまもるを得ん、言ふあり『自から卑うする者は高うせられん』〔マトフェイ二十三の十二〕。人は神の被選者となりて自から己を罰すべし、また忠義なる者となりて己を當らざる者と思ふべし。かくの如き霊魂は神の意を悦ばしてハリストスを以て活かされん。彼に光栄と権柄は世々に帰す。アミン。