千年の松/巻之二
一、承応元年壬辰、御年四十、御幼年より御読書御好被㆑成候処、御壮年に被㆑為㆑及、僧沢庵或は愚道等に、禅理を御尋被㆑成、老釈の書粗御信仰の御様子に候処、今年に至り、始めて朱文公の小学を被㆑為㆑読、甚御崇信被㆑遊候、大学の基御発明有㆑之、是迄御信用の老仏の書は、悉焼棄被㆑成、専ら濂洛関閩の正学に、御心被㆑為㆑用、其外和漢歴代の書、御覧被㆑遊候、治乱の機、興亡の跡、御捜索被㆑遊候、或時御歎息被㆑成、祗候の者へ御意被㆑成候は、御年若の時分は、御思慮浅く、六韜三略或は雑書を御好み、大学・論語・孟子・中庸の類は、或は迂濶或は柔弱とのみ思召し、むなしく年月を被㆑為㆑費候儀、御残念の至、御後悔被㆑成候由、呉々御物語被㆑成候、聖学の筋に無㆑之をば御嫌ひ被㆑成、既に黄檗の僧隠元禅師、費隠録一部致㆓進上㆒候得共、御受納無㆑之、又御家老・奉行の面々へ、小学一部宛拝領被㆓仰付㆒、学問の仕様迄、みづから御教被㆑遊候、
一、常の御物語に、程明道愧㆓文王、視㆑民如_㆑傷四字の語、或は范文正公、先㆓天下之憂㆒【 NDLJP:88】而憂、後㆓天下之楽㆒而楽の語、或は程伊川、自㆑古国家所㆑患、無㆑大㆓於在位者不_㆑知㆑学の言葉其、御感歎被㆑成候事、しば〳〵の儀に候、又或時王元之待漏院記を、殿中に掲げ置き、常に老中の方々に、為㆑見度き程に思召候由、御意被㆑成候、
【輔養編の編集】一、同年幼君輔導保傅の事ども、御考索被㆑遊候、官医土岐長元、兼ねて文学相嗜み候者に付、委細に被㆓仰含㆒、輔養編と申す御編集被㆑成、御献上被㆑遊候、御近習の衆へも御贈被㆑成候、
【士道の練習と法制】一、同年御家中掟・御軍令・御軍禁・道中定等の御条目被㆓相定㆒、諸士へ被㆓仰渡㆒候、此御僉議の時に可㆑有㆑之哉、世に申伝へ候、御条目共筆立の儀、家老共へ被㆓仰付㆒候て草案仕り、其中に喧嘩口論禁制の事を相記し差上候処に、思召に不㆑応御様子に付、相伺ひ候へば、諸侍共平生の事は、喧嘩口論禁制と、被㆓仰付㆒候儀とは、不㆑被㆓思召㆒候、御陣御上洛等の御用に臨み候ての事は、一分の私にかゝりたる程の事は、後日の沙汰になすべき儀各別の筋なり、平生の事は男道の恥辱を取らず、士の名を汚し不㆑申様にと、可㆓心懸㆒儀、武士たるものゝ道にて候間、禁制と可㆑被㆓仰付㆒筋に無㆑之候、自然其通にては、家中の者士道の吟味も、疎に可㆓相成㆒事に候と御意被㆑成、禁制の文字を、御删被㆑遊候由に候、実にも最上御在邑の時、寛永十三年の御条目に、禁制と有㆑之を、今度御改定の御掟には、喧嘩口論、大形は双方可㆑為㆓誅罸㆒、片方無下に理不尽に於ては、可㆑為㆓片誅罸㆒、令㆓荷担㆒者、其咎可㆑同㆓本人㆒と、御記被㆑成候、〈公儀の御条目には、荷担せしむる者、其皆本人より重かるべしと有㆑之を、同じかるべしと被㆓仰出㆒候も、思召有之事歟、○延売年中、穿鑿の儀に付、公事奉行共、固く先例を執つて、議し申せし時に、友松勘十郎氏興申せしは、其元共は先例を堅く引き候へどし、土津様御裁断の事たりとも、初年・中年・末年にて違有㆑之ものに候、聖人も初年・中年・晩年にて行跡不㆑同候、義精しく仁熟すと申すは、聖人といへど 時年の事に候、初年には義も精しからず、仁も可㆑熟君有㆑之間、土津様被㆓仰出㆒候とても、御年若く被㆑成㆓御座㆒候時、被㆓仰出㆒候事、当時吟味の上、可㆑有㆓�拾㆒由、細に教示被㆑致候は、最上・会津両度の御法令にても、その一端を見るべき事に候、山崎闇斎御行状に、及㆓不惑㆒学正而徳成とも、記し置き候、〉【法制の公布】御条目共御渡被㆑成、猶被㆓仰出㆒候は、正月十一日・七月十八日、何れも無㆓失念㆒様に、其筋々へ集め、これを誦し聴聞可㆑為㆑仕候、相残る御法度書も、右の通、一年に両度宛、失念不㆑仕様に、其時々に相触可㆑申候、組外の分は、北原采女方より、其筋々の月行事相触れ、何れも軽き者迄、失念不㆑仕様に可㆓申付㆒候、此度の四巻の御法度書被㆑遣候、此前々より被㆓仰遣㆒候間、無㆓油断㆒可㆓申付㆒候へども、久しく御下向も不㆑被㆑遊、万事御直に被㆓仰付㆒候儀も無㆑之候へば、自然ゆるまり候儀も、可㆑有㆑之歟と被㆓思召㆒、被㆑為㆑入㆓御念㆒、度々被㆓仰遣㆒候事に候間、この趣を守り、其役の品々朝暮精を入れ、御奉公仕候様に、堅く可㆓申付㆒候、万づ御法度書御掟の儀、【 NDLJP:89】一通り申渡したる計にては、相守り候儀、油断も可㆑有㆑之候間、其心得いたし、急度可㆓申付㆒旨被㆓仰遣㆒候、又其時々の御法度迄も、常々被㆑入㆓御念㆒候様、法を立て相触れ可㆑然旨、被㆓仰出㆒候節、総て法度を申付候時は、其奉行の者、下々の心に成替り、其法度易㆑守歟難守歟と、深く致㆓勘弁㆒、易㆑守事に候はゞ、其旨相触れ、背く者有㆑之候はゞ、或は誅伐或は牢舎・過料等、咎の軽重に依りて、可㆓申付㆒候、左もなく難㆑守法度を出し候へば、相背き候者数多有㆑之、無㆑詮事に候間、其段可㆓相心得㆒旨、御意被㆑遊候、
一、同年、御領中所々是迄有来り候傾城共、不㆑残御払被㆑成候、金山は格別に其通被㆓差置㆒候、
【貧窮せる藩士の処置】一、此頃外様の士、身上不㆓罷成㆒もの共、一組に五七人程づゝ有㆑之、江戸勤番致候ては、難儀に候間、常詰に被㆓仰付㆒可㆑然候、北原采女存寄り申上候処、侍共身上可㆓罷成㆒儀、兼ねて不便に被㆓思召㆒、それに付、内証取続き候様にと、度々御情を被㆑加候、然れども勝手の儀のみ致㆓工夫㆒候へば、第一つとむべき御奉公の事、疎略に相成候ものに候、侍共四年に一度づゝ、江戸へ罷上り候儀、いかにも寛なる事に候、この通にて身上不㆓能成㆒者は、上にても何とも可㆑被㆑成様無㆑之儀、いかに勝手づくに能く候とて、作法あしく成行き候儀は、組下より申上候とも、承引不㆑致候者に候由、御意被㆑成、御得心不㆑被㆑遊候、其後采女罷登り候時分に申上候は、御家中別して身上ならざる衆へは異見いたし、着物・喰物等に至る迄、平生いかにも疎相にいたし候様に、申付け候へば、其段尤に被㆓思召㆒候、然れども身上不㆑成というて、常に卑劣なる心を持ち、賤しくむさき心持にて、斯様にすれば、徳分に候などと、手廻立ちなど、常々黒案仕り、侍の心中を失ひ候様にては、不自由なるよりは、大に劣りたる心に候間、其嗜肝要に被㆓思召㆒候由、御意被㆑成候、又寛文七年、会津の侍共、無尽の企仕候由、御耳に達し、被㆓仰出㆒候は、此儀御法度被㆓仰出㆒候事にては、無㆑之候得共、作法見苦しき事に被㆓思召㆒候、百姓・町人・小者・中間などの作法の様に可㆑有㆑之候、常に倹約いたし、一分の見苦しきは苦しからず、侍に不㆓似合㆒仕方は、縦及㆓餓死㆒共、有㆑之まじくと、被㆓思召㆒候、田中三郎兵衛〈此頃采女跡役に相成候〉相心得、内証にて為㆓相止㆒候様にと被㆓仰出㆒、士の風儀厚く御教導ども難㆑有御事に候、
【重臣の待遇を鄭重にす】一、常々御家中の侍共被㆑加㆓御情㆒、頭立ち候者共、安否御尋被㆑下、煩ひ候節は、猶更【 NDLJP:90】毎度御懇に養生の儀被㆓仰下㆒、御薬或は養生の品被㆑下、老年の者には、寒気の節、御存被㆑出、御頭巾・御羽織など、時々拝領被㆓仰付㆒、老養の御心付など、しめやかに被㆓仰遣㆒候、既に承応の初、原田伊織俄に中風に煩ひ候処、其様子会津より不㆓申上㆒候て、追て得㆓験気㆒、此程は手足も叶ひ、只腰の不㆑起迄に候由、達㆓御耳㆒、御喜悦被㆑成候、乍㆑然老人の儀、其上寒国に不㆓住馴㆒身分に候間、尚無㆓御心許㆒思召候、弥無㆓油断㆒致㆓養生㆒、何卒本復いたす様にと被㆓仰遣㆒、改めて御意被㆑成候は、御家中頭立ち候者、相煩ひ候はゞ、其様子便次第に早速可㆓申上㆒由、前々被㆓仰付㆒候処、此度左様無㆑之、序を以て申上候事、不念に思召候、御家中の頭立ち候者、重く相煩ひ候儀、御存無㆑之段、余りしき様に思召候、以来は急度便次第に申上候様被㆓仰出㆒候、又侍共病死の節は、其様子により難㆑有御意共有㆑之、既に物頭安積彦兵衛、江戸勤番の節、会津にて一子致㆓病死㆒候由被㆓聞召㆒、御意被㆑成候は、彦兵衛儀、江戸数番の時分といひ、日頃律義なる者にて、別して力を落し途方有るまじく候、安積一家の者有㆑之候はゞ、早早養子申付け、力を付け候様被㆓仰出㆒候、其外跡目の節、先祖の忠節・勤労の御筋目等被㆓仰出㆒、保科家御譜代の家筋等は、殊に御慈悲を被㆑加、難㆑有御沙汰数度の儀に候、
【米廩を発いて窮民を助く】一、同二年癸己、夏中若松町人無力の者、及㆓渇命㆒候体に付、御貸米の儀、会津より申上、其段被㆓聞召届㆒候、縦米過分に御貸被㆑成、上納仕候儀不㆓相成㆒、皆御損に相成候とも、当分可㆑及㆓餓死㆒者有㆑之を乍㆓御存㆒、御救不㆑被㆑成は、大にひがごとの行ひと被㆓思召㆒候、其上御救被㆑下候米の大積四百五十俵程、入可㆑申歟の由、是はわづかの儀に候間、此外にも入り候はゞ、重ねて奉㆑得㆓御意㆒候に、不㆑及候間、町奉行を召寄せ、能能致㆓僉議㆒、救為㆑取可㆑申旨、御意被㆑遊候、斯様の差当り候御仕置、此方へ窺ひ候ては、自然其内一人も餓死仕候へば、取分け御苦労に被㆓思召㆒候間、当年などの様なる早年には、就㆑中無㆓油断㆒心を尽し、相談尤に候由、御丁寧に被㆓仰遣㆒候、
【穀留】一、同じ頃御意被㆑成候は、御領中の百姓年々に増し、力付き能く成候由、御喜悦被㆓思召㆒候、然る所町中は次第に衰へ候由被㆓聞召㆒候、然る上は、秋中諸郷村より、入り候穀留を、当暮は見計ひ十の内二も三も寛にいたし、町の者等少しは徳分の付き候様に可㆓申付㆒候、〈新穀出来候はゞ、百姓共後日の了簡もなく、我勝に売払ひ、追て致㆓|迷惑㆒、候事に候間、毎年郷村より町へ出し候穀な留め候儀の由に候〉只今は少々百姓痛み候とも、大に不㆑倒候はゞ、又町方をも救ひ候様に吟味可㆑致候、又御【 NDLJP:91】蔵入の百姓年々に能く相成り候由、是又御喜悦被㆓思召㆒候、乍㆑去百姓共娵入りなどに、結構なる小袖を買ひ候由、左様の奢は為㆑致まじくと、被㆓仰遣㆒候に不㆑及候へども、能き郷村は免を揚げ、悪しき村方は免を引下し、勘弁肝要に候、兎に角御私領の百姓と御蔵人の百姓と無㆓甲乙㆒、行儀以下同様に見え候様に、御蔵入郡奉行、常に心を付け可㆑致㆓吟味㆒旨、被㆓仰出㆒候も、此頃の事に候、
【将軍名代として上洛す】一、同年八月十二日、公方様右府御転任に付、京都へ為㆓御名代㆒被㆑遣候、九月廿一日御暇被㆑進、呉服十領黄金百枚・御馬一疋御拝領、御手づから八丈織三端被㆑下、同廿三日鉄炮百挺・数弓五十張御長柄百筋・馬上の士七十五騎、都合四千余の着到にて御発駕被㆑遊候、しやけらなる綺羅少しも仕るまじき由、御供の衆へ被㆓仰付㆒候て、何れも質素なる出立にて御供仕り候、〈此時御乗懸馬に、被㆓相用㆒候具、今に御馬具櫓に有㆑之、近世華侈の風と違ひ、至極質朴なる御品共に候、又御旗本奉行楢林主殿は、武道相嗜み、其頃名ある士に候処、此時御上京御供に可㆑被㆓召連㆒哉と存じ、京入の晴にとて、鐔拵草柄の大小を申付け候処、御供に無㆑之に付、其友人の御供致し候者へ相贈り候山、其頃の風可㆓推量㆒事に候〉其時京都にて、中将御拝任被㆑遊候処、御辞退有㆑之、且又女院様〈東福門院様御事〉には、まさしく御姉君に被㆑成㆓御座㆒候間、舞楽の御饗応など有㆑之、其上故将軍様の御面影も御懐しく被㆓思召㆒候間、御対面被㆑遊度旨、被㆓仰出㆒候へども、其儀は関東へ御伺不㆑被㆑成候ては、御請難㆑成旨被㆓仰上㆒候、御帰府の上、中将御拝任の儀、可㆑任㆓叡慮㆒旨上意にて御請被㆑成候、【官位の辞退】十一月かさねて京都より、従三位の勅許位記を被㆑下候処、是はひたすら御辞退被㆓仰上㆒候に付、正四位下に被㆑叙候、此時に酒井讃岐守殿、高位を御辞退被㆑成候儀は、後代迄の御規模に候由、御感賞有㆑之候へば、夫は存寄不㆑申儀に候、この肥後守は規模の入る男にては無㆑之、将軍の御為には、草履をつかみ候とも、苦しからざる事に候と、御答被㆑成、讃岐守殿弥御歎美不㆑浅由に候、〈武家補任を相考へ候に、両典厩様三位中将御叙任の事は、此年の十月の事と相見え候、然らば両典禄などの如く、御待過あるべき思召と相見え候処、それにては却て御為に不㆑宜との御深慮とばかり知られ候、御役跡友松勘十郎御老中へ奉りー書に、三家の御衆様・両典厩様の如く御会釈にても、無㆓御筋目㆒儀に無㆓御座㆒候処、其身は不肖にて被㆓召仕㆒候を、本望と存じ、遂に身を終り候とも相記し置き候、〉又いつの頃にか、御加増可㆑被㆑下思召にて、上様より讃岐守殿へ御相談有㆑之候へば、肥後守気象にては、必ず御辞退可㆓申上㆒、縦押して被㆑下候とも、御請仕るまじく、左候ては却て御為にも不㆑宜候間、御延引被㆑成可㆑然旨、御申上候儀も有㆑之由及㆑承候、
【家号の辞退】一、いつの頃にか、御家号并に御紋御拝領可㆑被㆓仰付㆒御沙汰有㆑之時も、御辞退被㆓仰上㆒候は、幼少の時分、保科肥後守養子に相成り、家名を改め家紋を変じ候ては、義理不㆓相立㆒、家来共信濃育ち不骨実体の者、家名を改め候時は、自然と志を放し可【 NDLJP:92】㆑申、近年奥羽為㆓鎮定㆒、若松城に罷在り、君臣の間隙有㆑之候ては、御固と不㆓相成㆒候間、御免被㆑下度旨、達て御侘被㆓仰上㆒候、此御書付の本書、いかなる仔細に候哉、今は一橋家にて、御所蔵の由相聞え候、御家号・御紋御拝領の御沙汰も、御後見被㆓仰付㆒候以後の御事に可㆑有㆑之候、林大学頭殿〈信篤〉御事実の序文に、厭初克継㆓封邑㆒、不㆑更㆓名氏㆒とも相見え候、
【裁判と倫理】一、同三年甲午、公事訴訟の筋被聞召候に倫理の間は特に被㆑入御念、其道を正しく被㆑遊候処、今年の冬、会津郡田島村金蔵と申す者、親甚五郎へ偽申懸け、対決申付け候時、親を拷問被㆑成候はゞ、白状可㆑致と申すに付、其親夫婦厳しく相糺し候由達㆓御耳㆒、金蔵申分第一不孝なる儀に候、先づ金蔵を可㆑致㆓拷問㆒儀、却て甚五郎を責め候儀は、逆なる致方に候、総て親と子と出会の時は、先づ子供を可㆑成程穿鑿いたし、夫共に不分明候はゞ、親をも可㆓相糺㆒候、主人と家来との出入も、此通可㆑為㆓同意㆒候、親子致㆓公事㆒候はゞ、裁許は道理次第相捌き候儀勿論に候へども、子供の方に不孝の意味有㆑之候間、其咎は追て相当に可㆓申付㆒旨被㆓仰出㆒候、親子或は主従にかゝり候疑獄、御捌被㆑遊候儀、寛文三年・同十三年にも相記し置き候、
【酷刑を廃す】一、先封蒲生家の頃は、牛裂・釜煎・明松焙などゝ申す惨毒の刑法、被㆑行来り候場所に候処、此頃の事に可㆑有㆑之候哉、其様子被㆓聞召㆒、いかに罪科有㆑之ものに候ても、無慈悲至極なる儀、自今以後如㆑斯刑法は、御用被㆑成まじき旨御意被㆑遊候、就㆑中明松焙と申すは、なぶり殺しにて、刑を弄ぶと申すにて候とて、特に御嫌ひ被㆑遊候由に候、今以て蒲生家の頃相用ゐ候釜二ッ相残り居候、
【検舉拷問の寛厳】一、総て穿鑿の儀、緩急軽重見切の心得迄、御懇に御示し被㆑遊、既に万事の穿鑿多き中に、其品に依つて分けがたき儀も、可㆑有㆑之候へども、大事の糺は、人多く迷惑いたし、いか程費懸り候とも、成程可㆑遂㆓穿鑿㆒候、但何程吟味候ても、埒明くまじき儀は、是迄と可㆓差置㆒時分も可㆑有㆑之、其段肝要の由、御意被㆑成候、後世煩砕なる風と違ひ、大まかなる事に候へども、ゆるかせなる事にては、必ず御許容不㆑被㆑遊候、承応中、外様士安武太郎左衛門が屍を、夜中本二ノ丁へ棄て置き、其面皮まで剥ぎ置き、いかなる者、何方にて如㆑斯殺害いたし候とも不㆓相知㆒、色々御穿鑿有㆑之候へども、何者の致候とも、其手筋一向不㆓相分㆒、御不審相懸り候侍九人迄、物頭へ御預被㆓仰付㆒、特に厳しく御穿鑿被㆓仰付㆒、其中可㆑致㆓拷問㆒と存じ候者は、得㆓御内意㆒候様可【 NDLJP:93】㆑仕候、然れども其品に依りて、拷問不㆑致相延ばし候へば、其問に彼者ども、思案分別いたし、糺しにくき儀と存じ候事も於㆑有㆑之は、得御意候に不㆑及、即時に拷問可㆓申付㆒候、彼九人の侍、何れも拷問被㆓仰付㆒、少しも不㆑苦者と被㆓思召㆒候由、御押懸り江戸より被㆓仰遣㆒候、隣国迄も取沙汰有㆑之程の厳しき御吟味の由、今以て申伝へ候、又御横目衆御領内被㆓相廻㆒候時分、差出し候目安共被㆓聞召㆒、代官并に郷頭・名主等、非分の致方と相見え候儀ども、穿鑿被㆓仰付㆒時、百姓共隙の時分を考ひ召寄せ、懇に穿鑿可㆓申付㆒旨、御意有㆑之、不㆑急程の儀は、農事の妨に不㆓相成㆒様にと迄、御心付けさせられ、難㆑有御事共に候、
【朝鮮使節の来聘】一、同年、宗対馬守殿より、明年朝鮮国信使来聘可㆑仕旨、被㆓相伺㆒候処、御老中方御相談に、当年西国洪水にて、所々損亡の地も多く、見苦しく候間、異国の者に見せ候儀、いかゞに可㆑有㆑之、暫く延引可㆑然歟との儀に候処、中将機御聞被㆑成、天災流行、何れの国とてもなき事あるべからず候、異域より遥々波濤を凌ぎ来り、御代替を奉㆑祝儀、我国の美事に候間、被㆓差延㆒候儀は不㆑可㆑然と被㆓仰出㆒候、其通御評議相決し、明年来聘の筈に相成候、
【出家の取締】一、同年、会津の領、只今迄は心の儘に、出家を遂げ候儀に候処、自今以後は、家中町在までも、出家に成度と存候者の儀は、其筋々の役人へ相達し、ゆるしを蒙り候ての上に、可㆑仕旨被㆓仰出㆒候、急度御改被㆑成にては無㆑之候間、甚しく取沙汰不㆑仕様に可㆓申付㆒旨、被㆓仰遣㆒候、是も世上にては、会津領分坊主法度出でたるなどゝ申触らし候と相聞え候、
【孝子の旌表】一、同年冬、奉公人・町人・百姓に限らず、孝行なる者有㆑之候はゞ、連々気を付け致㆓見分㆒、至つて孝行なる者は言上可㆑仕旨被㆓仰出㆒候処、明暦二年、猪苗代小平潟村清十郎と申す者、親に至つて孝行の様子被㆓聞召㆒、中間并に御扶持切米被㆑下候間、会所にて奉行共召仕ひ、様子弥見届け、弥律義に相勤め候はゞ、以来は又何ぞに可㆑被㆓召仕㆒候間、先づ会所にて仕ひ見可㆑申候、清十郎親猪苗代に差置き候ては、迷惑可㆑致候間、中間並の家屋敷為㆑取、親共に若松へ引越し罷在候様可㆓申付㆒、自然右の御合力米にて、身代不㆓相成㆒品も候はゞ、追て様子可㆓申上㆒旨、共に御意被㆑成候、其次第申渡し候処、親に為㆓申聞㆒、御請可㆓申上㆒と申し、在所へ罷帰り、其後親同道仕り罷越し、被㆓仰出㆒候趣、御慈悲難㆑有奉㆑存候、然れども御奉公仕候ては、親へ介抱疎に【 NDLJP:94】可㆓相成㆒と、迷惑に存じ候、其上親存ずる仕合も御座候、旁以て御扶持御切米被㆑下候儀、御赦免被㆑遊可㆑被㆑下由申㆑之、清十郎申す所を書付け、御家老共より入㆓御披見㆒候、左候はゞ其通にて可㆓差置㆒候、彼者親孝行の段、奇特に思召し、御扶持御切米被㆑下、可㆑被㆓召仕㆒旨、被㆓仰遣㆒たるにて候処、右の申分も、定めて親への孝行故に可㆑有㆑之、依て清十郎親存生の内、二人扶持被㆑下候、親相果て候後、御奉公仕り度候はば、相応可㆑被㆓召仕㆒旨被㆓仰出㆒、其趣申渡し候処、深き御慈悲可㆓申上㆒様も無㆓御座㆒、難㆑有奉㆑存候由申候、又同じ頃、会津郡伊北郷黒沢村長薫と申す盲人、父母に孝行の由達㆓御耳㆒、御扶持方三人分被㆓下置㆒候、寛文五年三月、父母共に相果て候に付、二人扶持は被㆓召上㆒、長薫へ一人扶持被㆓下置㆒候、又万治三年の頃、浪人岩崎助右衛門と申す者、親の終に三年の喪をつとめ候由被㆓聞召㆒、殊に御感歎被㆑成、二百石にて被㆓召出㆒、追々御取立被㆑成、筑前守様御代、奉行迄被㆓仰付㆒候、
【社倉法の創設〈[#「倉」は底本では「会」]〉】 一、承応の末、米六七千俵臨時に御売可㆑被㆑成、それを諸代官へ御預被㆑成、高利の米を借り候百姓へ、利安の御貸被㆑成、其米を以て、御領中万一凶年の節、百姓ども御助被㆑成度被㆓思召㆒、いづれも寄合ひ相談仕候て、善悪の儀、重ねて可㆓申上㆒旨、被㆓仰出㆒候、是朱子社倉法に依りて、被㆓仰思召立㆒候事に候、いづれも可㆑然旨申上候に付、其年米七千俵余、金十両に、七十三俵の直に御買米被㆓仰付㆒、翌年明暦元年の春より、望み次第二割の利付にて、百姓共へ御貸被㆑成候、兼ねて被㆓仰下㆒候には、如何様にも百姓共の為に、御貸被㆑成候米にて、少しも御自分の為に被㆑為㆑貸候儀に無㆑之、百姓の為能き様子に候はゞ、如何様にも差引可㆑仕との御事にて、年々貸渡し、冬に至り取立て候処、百姓共外々にて致㆓借米㆒候へば、三四割に有㆑之、差詰り才覚成兼ね候時分は、五割にも借用候に付、甚迷惑いたし候処、社倉米は少しの利息にて貸被㆑成、一同深く難㆑有存候、万事結構なる御仕置にて、百姓ども豊に相成候、其米段々相増し候に付、郷村へ籾蔵を被㆑建、社倉と名付け、其蔵敷の分は、免除地に迄被㆓成下㆒、此籾民間御救の筋、或は御貸米、或は被㆑下切に被㆓成下㆒、其余は他に不㆓相用㆒、凶年の御蓄に被㆓成置㆒候、其後御払米にも被㆓仰付㆒候て、其代金小役御納戸へ御預け、社倉金と名付け、是又民間御救の節ならでは御用不㆑被㆑成候、御蔵入の儀も同様被㆓仰付㆒候、又是よりさき承応の初め、塩高直の節か、又は万一飢饉の年など、御領中御救ひのためとて、金子多分塩を買ひ置き候様にと被㆓仰付㆒、河沼郡坂下村に【 NDLJP:95】囲塩被㆓仰付㆒候、高直の時分、下直に御払被㆑成候へども、如㆑元其分は又御買入被㆑置いづれも難㆑有御仕置共に候、【麦作の奨励】又会津は麦作至つて少き処、分限に応じ、多く作り候様にと、兼々被仰付、御入部以来は、百姓共合点いたし、殊の外麦多く作り候様相成候、明暦の末被㆓仰出㆒候は、飢饉の時分御救のため、麦を除き置き、百姓共麦作仕付の前後に迷惑可㆑仕候間、其差詰り迷惑の時分に見計ひ、除き置き候麦を貸し、麦作仕廻り次第、麦にて集め置き可㆑然哉と被㆓思召㆒候、然れども斯様の御仕置、其国々により、土地に叶ひ候と不㆑叶と有㆑之ものゝ、会津は兼ねて申聞き置き候、麦作諸国より少く作り候様に被㆓思召㆒候、相談の上、弥土地に叶ひ候御仕置に可㆑被㆑成候はゞ、麦を買ひ置き、郡奉行・代官共に能く為㆑致㆓得心㆒、下々迷惑仕候時分に、利を安く貸㆑之尤に候、斯様に致㆓仰付㆒候儀、利倍を御好み御蓄被㆑成候儀にては、毛頭無㆑之、飢饉の時分下々御救被㆑成度ため計の思召に候、大勢の者を救ひ可㆑申と、兼ねて覚悟致候には、金銀米銭によらず、毎物蓄の余計有㆑之様に、常々手廻り仕候儀、専用に被㆓思召㆒候由被㆓仰出㆒候、寛文の頃にや、里民御救の儀に付、御意被㆑成候は、御救方高に応じ候ては、御心得無㆑之候、〈高の多少に応じ、御救ひ方申上候ものと相見え候、〉勘定は仕能く可㆑有㆑之候へども、飢饉の節など、高に応じ候ては、痛み候者へあたるまじく候、不作などの時は、高に応じ候儀可㆑宜候、総て肝煎百姓に計任せ置き候ては、依怙可㆑有㆑之候、斯様の儀、其所案内の者に申付け候へば、所の者心立などゝ存候に付、此者は旧来心立もあしく、此者は我心に不㆑合などゝ、私を挟み、飢饉の節むらなく不㆑当事有㆑之ものに候、所の案内も不㆑存、律義なる者、申付け候へば、其所の飢を考へ、人数に応じ救ひ候に付、宜しきものに候、重ねて御仕置方の心得に可㆑有〔マヽ〕㆑成間、覚え居候様に、御物語の様に被㆑仰候、
一、明暦二年丙申、公方様御年十六、林道春被㆑為㆑召、御前にて大学首章の講釈御聴聞被㆑遊、拝領物被㆓仰付㆒候に付、中将様殊に御満悦思召し、世の人は左様には存ずまじく候へども、聖人の道を御聞可㆑被㆑遊と、被㆓思召寄㆒候は、天下御長久の基にて有㆑之、目出度候儀、過㆑之まじく候と御意被㆑成候、日来聖学深く御尊信被㆑成、他人へも御すゝめ、又学問を好み、読書など仕候由、被㆓聞召㆒候節は、御喜悦被㆑成候間、御近習の者は不㆑及㆑申、御手遠の諸士・諸奉公人・町・在郷迄も、御風化によりて、聖学に志し候者不㆑少候、
【 NDLJP:96】【米価の調節】一、同年の春の頃かとよ、旧冬より若松米価高直相成り、町人共致㆓迷惑㆒候間、他邦へ米不㆑出様被㆓仰付㆒被㆑下度由、訴ひ出で候、然る処御家老・奉行の面々評議いたし候は、穀多く申付け候ては、御家中売米仕候者、可㆑致㆓迷惑㆒候間、不㆑可㆑然、又米下直に成候へば、軽き奉公人下々、年中少々づゝ米買ひ候もの悦可㆑申、高直にては、借貸も不㆓相成㆒致㆓迷惑㆒、町町人共も連々可㆑及㆓困窮㆒候、依㆑之御家中の売米は、時相場にて八千俵余御買上、不㆑残他方へ相払ひ候積り、又町中へは御蔵米を、折折御払に可㆑致旨、申付け候処、翌日より米并に雑穀迄も、下直に相成り、町人共相悦び候、乍㆑然夏中に至り、自然御領中詰り候様にては如何に付、諸郷村有米を相改め、諸人養可㆑申程差積り置き候由、江戸表へ申上候処、何れも入念明細相改め、一段尤の仕方、御喜悦被㆑遊候、御領中の御仕置、いつとても斯様の所専一に候、以来も斯様の御仕置、一入尤に思召し候、且御領中御救為㆑可㆑被㆑成、兼ねて勘金被㆓仰付置㆒候間、御家中の売米八九千俵、早々買取り、町中への売米不足に候はゞ、御蔵米にて其時の相場次第無㆑滞可㆑売候、たとひ米下直に相成り、御損亡に相成候とも、兼ねて御領中御救可㆑被㆑成御心懸の金子に候へば、御失墜少しも不㆑苦、弥勘金を以て、売米一刻も早く買取り、下々甘き候様可㆓申付㆒旨、御意被㆑成候、又いつにても、会津にて米の高直下直を見合せ、或は留め或は出し候儀、よく〳〵見合せ、町人・百姓不㆑致㆓迷惑㆒様可㆑致、差引米の直段は、五日十日の内にも、高下有㆑之ものに候間、江戸より御下知は難㆑被㆑成候と迄被㆑仰、誠に難㆑有思召に候、右の通、御慈悲の御仕置に付、町中も寛に相成り、既に寛文の中頃、町中孤独の者、并に及㆑飢候者には、兼ねて御救米被㆑下候故、近年米高直にても、餓死の者は無㆑之、且又小盗等いたし候儀も、近年次第に無㆑之、此段は御救故と存候由、申上ぐる儀も有之、御政道の験著しく相見え候、
【大寄合】一、同年、会津表永々御留守の儀に候間、北原采女始め、御家老・奉行の面々、会所へ三八の日を大寄合日とし、出席いたし、諸事致㆓僉議㆒候はゞ、御為に可㆓相成㆒儀も可㆑有㆑之、役人ども御用達し候にも、可㆑然被㆓思召㆒候、且諸役之勤め様善悪の儀、無㆓油断㆒連々承り届け、仕方悪しき役人も候はゞ、差替へ可㆑申、御役儀能く勤め候者候はゞ、其品吟味仕り、御執成可㆓申上㆒候、其外領中風俗の儀も、心を付け致㆓僉議㆒候様被㆓仰出㆒、又大寄合の時には、大横目も相詰め罷在り候様被㆓仰付㆒候、大寄合には御【 NDLJP:97】茶被㆑下、御茶坊主相詰め、台子を仕懸け給仕いたし候、又公事場へは、一八の日公事奉行、二六の日郡奉行、五九の日町奉行罷出で、受前の公事承㆑之、裁許申付け、埓明け候由にて、いかにも閑なる様子に候、会所はもと三の丸に有之、其後今の割場の地に被㆓相建㆒、寛文十一年、今の場所へ被㆓相移㆒候由に申伝へ候、
一、此頃御領中百姓共、寛に相成り、就㆑中当年は秋上げも存の儘に致し、百姓共悦び候由被㆓聞召㆒、何よりの御楽思召し、御満足被㆑遊候、然れども少しもゆるかせに相成候へば、第一百姓は奢り易きものに候間、自然寛にて奢りたる百姓など候ては、郡奉行・代官共無㆓油断㆒気を付け、左様の百姓には急度不㆑奢様申付け、未進など不㆑為㆑致様に仕り、常々無㆓油断㆒差引、肝要被㆓思召㆒候、年貢よろづ定の通急度相納むる上は、何様の稼をも致し、百姓共の徳分に成候様に可㆓申付㆒候、何程も稼出し次第取りからす事にては有るまじく、其趣不㆓断申㆒、為㆓申聞㆒候はゞ、百姓共も合点いたし、油断仕るまじき事に被㆓思召㆒候由、こまやかに御意被㆑成候、
【法令の周知を図る】一、この頃御領中万づ納方の催促、其外勘定などの儀に付、百姓共疑心を存じ、又は上を御恨にも存候儀は、毎物申付け様悪しく候へば、下々は不明にて有㆑之ものに候間、諸代官此旨を存じ、下々迄明細通じ、さまよひ不㆑申、毎物有体に得心仕候様に、代官共精を出し申付け候様、一両年中には、御横目衆巡見可㆑被㆓仰付㆒候、兼ねて此旨を存じ、諸代官油断仕るまじく候、善悪の様子達㆓御耳㆒候はゞ、其品に寄り、可㆑被㆓仰付㆒旨御意被㆑成候、又御横目衆へ被㆓仰含㆒候は、御領中廻り、在々所々にて
【諸役人の風儀を戒む】一、御直に官・反・内・貨・来の戒を御教被㆑遊、諸役人の風儀も清廉を尊び、請謁苞苴の筋相慎み、小身の軽き者迄、それを旨とし相勤め候由に候、兼ねて御意被㆑成候は、諸奉行等の手代、其支配いたし候処の者より、むざと進物を取らざる様に、可㆓申付㆒候、取り候ものは少しの様に候へども、其心根を以て手代の御奉公つくに、私をいたす物に候、左候へば下の迷惑いたす事に候、就㆑中代官の下代、其代々郷村へ可【 NDLJP:98】㆑参候間、無㆓油断㆒可㆓申付㆒候の御教に有㆑之、又郷頭并に大百姓等修有㆑之、屋作等に至る迄、応ぜざる結構なる儀仕り、或は買ひ置き、或は諸職人を召置き、大なる細工仕り候様被㆓聞召㆒、如㆑斯の儀、一分の取廻し計にて、左様の修可㆑有㆑之儀とは、不㆑被㆓思召㆒候、何れ其下を掠め、私有㆑之様被㆓思召㆒候、急度可㆓申付㆒旨被㆓仰出㆒、貪汚の御戒不㆑浅御事に付、御教化によりて、諸吏清廉の風、益盛に相聞え候、中にも珍らしきは、御蔵入郡奉行飯田兵左衛門儀、【飯田兵左衛門】寛文中より相勤め、名ある者に候処、御蔵入村々より進物申請け候分は、常々御用に付、罷登り候村役人百姓共、己が居宅にて宿いたし、其入用にいたし候由に候、御蔵入の者共は、それとも不㆑存、皆々気遣なく止宿いたし、殊の外悦び候、然る処進物の品々、并に其入用の様子迄、委しく帳記いたし置き、追て御役儀退き候時に其帳記の儘差出し、御家老・奉行の面々入㆓一覧㆒候と申伝へ候、其清くして汚れざる事如㆑斯に候、〈兵左衛門公事奉行相勤め候頃、盗賊の穿鑿有㆑之、糺明の上、白状に及び候者有㆑之、獄辞取究め、罪の所当ともに遂㆓批判㆒申上げ、猶又兵左衛門心底に落入り兼ね候儀有㆑之、其存寄は外に一書を添へて申上候、然る処、其者誅伐申付くべき旨、御下知に付、兵左衛門申上候は、一人たりとも、非命の儀を以て、民命を御絶被㆑成候は、不㆑軽儀に付、穿鑿の上に於ては、無㆑紛様に付、其趣を以て、取究め候へども、拙者心底の通、書面には雖㆓書取㆒候間、中将様に御通し被㆑遊まじくと奉㆑察候、罷登り御直に申上広由申すに付、其儀には及ぶまじく、御下知の通申付け候様、御家老・奉行の面々差図致候へども、兵左衛門得心不㆑致、人命は重き儀に有㆑之、穿鑿役人の身分として、心底に落着不㆑仕儀難㆓申付㆒、今一応言上に及ばれ被㆑下座旨、達て申すに付、其趣達㆓御耳㆒候処、可㆓罷登㆒旨被㆓仰出㆒、早々出府致し、委綱申上候へば、悉被㆓聞召届㆒、其罪人兵左衛門へ為㆓御任㆒被㆑成候旨、被㆓仰出㆒候に付、其者牢会為㆑致置き、ゆる〳〵と穿鑿いたし候へば、無㆑程別に盗人相顕れ候に付、最前の罪人は無事に相済み候由、申伝へ候、〉
一、同年、台城二の御丸に、権現様御宮有之所、中将様被仰上、紅葉山へ御遷宮に相成候、
【明暦の大火】一、同三年丁酉正月十八日、江戸本郷辺より出火、神田筋霊巌島迄焼払ひ、中将様桜田御屋敷に、御詰被㆑成候処、翌十九日、
【浅草の米廩を発く】一、此時に浅草御米倉へ火懸り、消え兼ね候に付、町々より人夫を為㆓差出㆒、消留め可㆑然との御事に候処、中将様被㆓聞召㆒、町中の者居所を失ひ、路次に迷ひ居候時に、人足申付け候儀、不㆑可㆑然候、類火に逢ひ、食物差支へ候者は、自身に御蔵の火を消し、力次第に御米をも持ち出で候はゞ、其分可㆑被㆑下由御触候はゞ、火消といひ御救といひ、二つともに可㆑然由、被㆑仰候に付、いづれも可㆑然との御事にて、其通被㆓仰付㆒、火消にも御救ひにも相成り候由に候、
【回向院】一、此時廿日迄火鎮り兼ね、三日三夜程に大火事にて、焼死の者十万人余と相聞え候、正月廿四日、台徳院様御霊屋へ御代参御勤被㆑成候節、京橋・中橋通御途中も、焼死の者焦骸夥しく有㆑之を御覧被㆑成、甚御気毒に被㆓思召㆒、其日御登城、公儀の御物入を以て、死骸ども取集め、埋被㆓仰付㆒可㆑然由、御相談被㆑成、思召の通被㆓仰付㆒候、今【 NDLJP:100】の回向院にて、其頃万人塚と申候由に候、
一、長門守様御事、品川東海寺へ御立退後、御病気にて二月朔日御逝去被㆑遊候、同二日為㆓上使㆒、内藤出雲守殿、御朦気御尋あり、御老中方にも為㆓御悔㆒御出に付、大火以後、上下の諸人安穏に無㆑之、御大事の時に候、此度自分の不幸などは国家の憂に較べ候ては、如何計の事に無㆑之、可㆓籠居㆒時節とも不㆑存候、何卒忌御免被㆑成候はゞ、速に出仕いたし度候、御執成頼み入り候由被㆑仰、頓て忌御免被㆑遊、御勤仕被㆑成候、
一、此時に都下米穀乏しく相成り、諸人甚迷惑致し、且在府の諸大名多分居屋敷焼失、難儀の事に付、在府の面々御暇被㆑下、帰国被㆓仰付㆒可㆑然旨被㆓仰上㆒、御暇被㆑下候に付、米価安く相成り、諸人安堵いたし候、
【災後の賑恤】一、火事以後、早速御府内六箇所にて、七日の内、施行の粥被㆑下、或は町中類火の者に、十六万両の御金被㆑為㆑発御救被㆑成、難㆑有御事共に候、且又類火の御旗本衆をも御救被㆑下、居宅作事料可㆑被㆑下御沙汰有㆑之処、大造の御失費にて、御金蔵も無㆑残程に可㆑有㆑之とて、御同意無㆑之方も有㆑之、埓明き兼ね候、中将様被㆓聞召㆒、総て官庫の御蓄と申すは、斯様の時に下々へ御施し、士民安堵する様に被㆓仰付㆒候儀、国家の大慶とする所に候、左なくては御蓄一向無きにも同様に候、如㆓当年㆒大火は、古今不㆑及㆑承儀、早々発せられ候様ありたき由被㆑仰、不㆑残御救被㆑下候、
【倹約令の施行】一、同年火事以後の御物入にて、御要脚御手支に付、諸大名へ御借米の儀、可㆑被㆓仰付㆒御評議有㆑之候処、是は不㆑可㆑然とて、御得心無㆑之、たゞ上下共に専一に倹約被㆓仰付㆒可㆑然、但し御旗本の面々御知行の内より、免を御かり被㆑成候程の儀は、苦しかるまじき由被㆑仰候儀、有㆑之由の処、是等の趣にしたがはれ、同年三月、諸大名并に御旗本の衆・町中迄も、総て倹約を専に被㆓仰付㆒、献上の品々御省き被㆑成、老中諸役人への音信も被㆓相止㆒、衣類居宅の分量等、何れも奢侈の無㆑之様、手軽に被㆓相定㆒候、
一、当春の火事に、御城の御蔵へも火懸り、天下の名物・御代々の御宝器等、多分焼失致し、其儀世上流布いたし候ては不㆑宜候間、成る程穏密に致し置き可㆑然歎と、御老中方御申しの処、其儀には及ぶまじく候、斯様の大変に候処、姦賊の沙汰もなく御無為なる、国家の幸過㆑之まじく候、器財などの類は、何様の御品たりとも、時【 NDLJP:101】ありて焼失仕候上は、夫迄の事に候とて、其段などは、少しも御心に不㆑被㆑懸候、実にも此時の火事、古今未曽有の変に有㆑之候間、先年由井・丸橋等の逆徒、火を放ち兵を起すべしと、巧み候事も間近き儀、いかさま一通の事にはあるべからずと、諸人不㆓相安㆒由の処、万事の御政道其図にあたり候には、無㆑程安堵いたし、不㆓相替㆒目出たく御静謐の御代と相成り、中将様は不㆑及㆑申、御執政の衆、御辛労大方ならざる御儀と相聞え候、
【領内に倹約を令す】一、万治元年戊戌、他家にて平生も、家中より普請の着到を為㆑出、去年の火事後は、家中の価を受け候御方も、相聞え候得共、中将様には、左様の儀、平生御家中へ不㆑被㆓仰付㆒、火事以後とても、何の役も不㆑被㆓仰付㆒、其上にも火事に逢ひ候者共、早々御救被㆑下、兼ねても折々御金被㆑為㆑貸、取続ぎ候様にと、御情を被㆑加、難㆑有候事共に候処、其甲斐も無㆑之、諸士身体不㆓取直㆒儀、御苦労被㆑遊、度々倹約の儀御教有㆑之、猶又今春御意被㆑成候は、世上倹約の儀、兎角従㆓公儀㆒、猶又被㆓仰出㆒可㆑有㆑之候へども、会津表家中の面々、万づ倹約可㆑仕候、常に鑓為㆑持候儀、組頭は為㆑持可㆑申、其外千石以上の者、為㆑持候ても不㆑苦程の儀に思召し候、然れども必ず為㆑持候様にと思召し候儀には無㆑之、武道具と乍㆑申、常は斯様の類も手軽可㆑仕候、平生の儀数多き事に候へども、衣服・飲食・家居・器財、此品を専倹約いたし、召仕の者も人少に可㆑仕候、只面々の可㆑嗜所は、覚悟立専一に候、諸事を倹約に仕り、金銀をむざと蓄へ置き候様にとの儀には、曽て無㆑之、且振舞の儀、急度可㆑被㆓停止㆒其外祝言并に弔の儀迄も、軽く可㆑仕候、総て年寄ども能く心得いたし、自分にて急度相嗜み、諸人に可㆑為㆑見候、且又江戸に罷在り候者は、先早々倹約可㆑被㆓仰付㆒候へども、未だ従㆓公儀㆒被㆓仰出㆒無㆑之故、世俗に違ひ候儀如何に思召し、御見合被㆑成候、今少し御覧被㆑合、急度可㆑被㆓仰付㆒旨、御意被㆑成候、
【戸枝彦五郎】一、同年の夏の頃、戸枝市左衛門末子熊之助、十二歳に相成り候を、御小姓に被㆓召出㆒候、難㆑有事に候、熊之助儀、親市郎右衛門小身にて身代不㆓相成㆒、大勢の兄弟共懸り居候を、迷惑に存じ、何方へなりとも罷出でたき由、母へ相願ひ候へども、年にも不㆓似合㆒儀を申すとて、叱り置き候処、存じ止り候心底無㆑之、当春御徒目付戸枝平兵衛江戸へ上り候節、滝沢峠へ為㆓見送㆒参り、平兵衛へ向ひ、親に懸り居候儀、致㆓迷惑㆒候、何方へなりとも罷出で度と兼て存じ、父母へは書置き致候間、江戸迄召連れ【 NDLJP:102】呉れ候様達て申㆑之、幼年の者に付、平兵衛色々賺しなだめ、教訓を加へ候ても、斯く迄存じ詰め、戻り候事は不㆓相成㆒とて、自害可㆑致由にて、脇指を抜き候故、不㆑及㆓是非㆒、召連れ候処、中将様被㆓聞召㆒、幼年には奇特の者に被㆓思召㆒、行々可㆑被㆓召仕㆒御含も有㆑之由御意被㆑遊、御前へ被㆓召出㆒、御小姓被㆓仰付㆒候、親共に於ては、乍㆓幼少㆒不届の次第、必定御難事も可㆑有㆑之と、迷惑仕り居候処、不㆓存寄㆒仕合、感涙を流し相悦び候由に候、熊之助儀、段々宜しく生立ち、中将様御覚も宜しく、御学問の跡打に被㆑成候、後年元服被㆓仰付㆒、彦五郎と改め、小番頭被㆓仰付㆒、多年御側に被㆓召仕㆒、文学相嗜み候者に付、御事実の書継被㆓仰付㆒、御葬送の事も、御遺命にて添奉行被㆓仰付㆒友松勘十郎へ差添へ相勤め、最前の御眼力に不㆑違、宜しく御奉公仕候、
【正之の女前田氏に嫁す】一、此頃第四の御女子於松様御事、加州へ御縁組以前、松平安芸守殿の御嫡弾正大弼殿へ、御緑組有㆑之、御願被㆓仰上㆒候由の処、思召有㆑之、不㆓仰付㆒候、其時に片桐石見守殿御出、御縁組御滞り、御気毒の由御申し候へば、少々御赤面被㆑成、御汗をながされ、手前婿に上杉播州は、過分なる事に候、量分も知らずに、又大身の衆と縁組申合び、思召を蒙り、恐多く候との御答に付、石見守殿御手持なく、わざと他の事に、御咄を移され、御帰り被㆑成候、無㆑程御城に被㆑為㆑召、加州の御縁組、思召を以て被㆓仰出㆒御存じ寄られず、難㆑有御満悦被㆑遊候、後に承り候へば、此時分、中納言利常卿、兼ねて御内頭被㆓仰置㆒候事の由に候、利常卿直に御孫中将綱紀朝臣御同道にて、御出被㆑成、利常卿被㆑仰候は、加賀守事御自分へ御頼み申候、国政等の儀迄も、何分御差図御頼み申入れ候最早我等は、何も構ひ申すまじくと被㆑仰候由に候、其後何儀を申上候ても、肥州へ為㆑任置き候間、我等には申すに不㆑及候、肥州に伺ひ可㆑申由、御申被㆑成候と申伝へ候、今以て加州の御家には、中将様被㆑仰候儀ども、相残り居候儀も、有㆑之由承り候、於松様御入輿の時分、御資装料金一万両、御拝領被㆑遊候、〈加州にて御召の御駕は、中将様御召駕と同様の由、実に然りや否、又御参観御下向の御旅|装は、承応中御上京の節の御様子に被㆑為㆑遊、諸事御質素の御定の由をも粗及㆑承候、〉
一、於松様加州の御屋敷へ御入輿後、ある御附の女房芝御屋敷へ罷上り候時分、田中三郎兵衛詰合ひ候はゞ、逢ひ申したき由に付、三郎兵衛御広敷へ罷出で、一通りの挨拶も相済み候て、彼女房申し候は、内々御目に懸りたく存じ居候儀、有㆑之候へども、能き折も無㆑之打過ぎ候、御新造様の御金、大分有㆑之、只差置き候も無益なる儀、少々宛も利倍致し候はむには、後々の御為にも成り可㆑申、宜しく御計ひ可㆑被【 NDLJP:103】㆑下由、申候処、三郎兵衛儀、其事は兎角にも不㆑及候て、つく〴〵と其顔を見詰め、小声になり、気の取違には無㆑之哉と、申すに付、打驚き、夫は何故に候哉と、承り候へば、三郎兵衛、何の御不足有㆑之、御金を御蓄被㆑成哉、夫故の事に候と、申すに付、彼女房腹立いたし、三郎兵衛、つがもなき事被㆑申候人にはよし〳〵、押付け中将様可㆑被㆑為㆑入候間、御直に可㆓申上㆒とて、間もなく御入の時分、罷出で申上候へば、中将様其顔を御覧被㆑成、そちは気は違はぬや、三ヶ国の大守を夫とし居ながら、何の不足にて、金銀など蓄へ候儀、可㆑有㆑之哉と、御意被㆑成候故、其女房退きて甚恥入り、女心にて不㆓心付㆒居候、君臣はたを被㆑為㆑合候とは、御家の衆は不㆑及㆑申、加州の衆も申候へども、今迄は不㆑存、今日始めてまのあたりに、其事を見候とて、他の人にも咄合ひ感心仕り候由、申伝へ候、
一、万治の初、上杉播磨守殿御病気大切にて、御跡目も不㆑被㆑成㆓御座㆒候間、井伊掃部頭殿・酒井空印殿、御相談有㆑之、御末男新助殿様御事、御養子可㆑然旨、御申候へども、御得心無㆑之、其後寛文四年、南部山城守殿死去、実子無㆑之、舎弟両人有㆑之候へども、心に不㆑叶候間、上の御思召を以て、相続被㆓仰付㆒被㆑下たき旨申置き、死去被㆑致候、其時も新助様可㆑然由の御沙汰有㆑之候処、中将様御挨拶に、是よりさき、上杉播州跡目の儀は、我等娘も彼家の後室として、罷在り候事に候へば、遣し候ても、不㆑苦程の儀さへ、得心不㆑仕候、南部家へは、何の好身も無㆑之候へば、たとひ上意たりとも、達て御断可㆓申上㆒由被㆑仰候、
【江戸用水の修築】一、是も万治の初と相聞え候、兼ねて江戸用水の儀、御苦労被㆑成、山手は水良く候へども、其他は地形悪しく水不㆑宜、諸人の難儀に有㆑之、火事の時なども、差支へ候に付、水道の致方御工面被㆑成、玉川の水を引取り、用水と可㆑致との相談に相成候、其時に、武用のため宜しからざる旨、申す衆も有㆑之候処、中将様御挨拶に、国郡を守るべきの城に於ては、堅固を旨と可㆑致事に候、天下の御座城に於ては、万民便用に事足り、安居いたし候儀、御要害の第一と存ずる事に候と、被㆑仰候て、御決定被㆑成成就、永く便利と相成候儀に候、
【箕田下屋敷の拝領】一、同年夏、兼ねて御願被㆑成候処、箕田にて御下屋敷御拝領、御喜悦思召し候、然る所御受取の節、地割
一、同二年己亥夏、承応中被㆓仰出㆒候御家中の掟書、此度十一箇条の御条目に、御改定被㆑遊、内藤源助自卓、江戸表へ被㆓召寄㆒候時分、御渡被㆑遣候、且又百姓共衣服の制、乗物停止の御法度をも被㆑遣候、
【江戸城の天守】一、同年秋、江戸の御城御殿向、残らず御普請成就いたし、御天守は出来不㆑申候、是は火事以後、御天守、始め御普請の儀、御相談の時、中将様被㆓仰上㆒候は、天守は近代織田信長以来の事にて、さのみ城の要害に利あると申すにも無㆑之、たゞ遠く観望いたす迄の事に候、当時武家・町家・大小の輩、家作仕候砌に、公儀の御作事永引き候へば、下々の障にも可㆓相成㆒候、斯様の儀は、国力を被㆑費候時節に有㆑之まじく、当分御延引可㆑然との儀にて、御天守の御普請は、御沙汰相止み候由に候、
【領内の賑救】一、同年冬、会津表鰥寡孤独の貧人ども、不㆑及㆑飢様、随分可㆓申付㆒候、下々の施物の儀は、米迄に無㆑之、なにか取りまぜ候て、身命つなぎ申す物に候間其心得いたし、施す様にと、御意被㆑成候、此以来毎度御改にて、一人一日二合づゝの積、社倉米の内を以て被㆑下候、又貧人にひとしき者共も、其者稼ぎ相成候まで、此積を以て、五箇月・三箇月又は七八箇月被㆑下、御取立不㆓相成㆒候、其儘被㆑下候、又所縁無㆑之乞食共、橋下或は木の根などに居り、風雨に当られ倒死に候体、不便の事に付、乞食小屋被㆓仰付㆒、馬場町末に被㆓建置㆒候、
一、同三年庚子、当年日光山御参宮の儀、去年中被㆓仰出㆒、其節は中将様御留守被㆑遊候筈に候へども、近頃度々出火有㆑之、不㆑穏候間、先御延引被㆑遊可㆑然旨被㆓仰上㆒、御沙汰相止み候、又同年の春諸諸名の献上等、最早如㆓旧例㆒被㆓相復㆒候ても、苦しかる【 NDLJP:105】まじき由、御老中方御評議の所、中将様、先是迄の通被㆓成置㆒可㆑然由、被㆓仰述㆒候、是又御沙汰相止み候由に候、
【堀田正信時事に憤激して采邑に帰る】一、去る慶安の末、由井・丸橋等御幼君の時を窺ひ、放火の紛れ兵を挙げ候て、志を可㆑遂と、企て候儀も有㆑之、露顕に及び、御仕置被㆓仰付㆒候処、其隠謀に一味せし人、大身・小身かけて余程有㆑之などゝ、後々風説専ら相聞え候へども、其後無事に相済む、或は明暦の三年の大火には、御殿向始め、御殿守・櫓門等迄、灰燼と相成り、都下の人民焦爛の骸、街に満ち、上下の諸人眉をひそめざる者無㆑之処、御救恤の御政道共無㆓残所㆒、無㆑程安堵致候、然る所、万治三年十月、堀田上野介殿、己が居城に引退き、御当代最早十箇年に相成り候処、年寄共奉㆑守様悪しく、万人いさみ候事一日も無㆑之、御旗本の面々困窮に及び、武備の励も薄く相成候間、御足高の助けにも被㆓仰付㆒たき志願にて、領地差上げたき由、中将様并に阿部豊後守殿を宛所と致し、一書を被㆓差上㆒候に付、其実弟脇坂中務少輔殿御預被㆑成候、書面の趣、野心がましきは勿論、一分の事にては無㆑之、其家を棄て候て、天下の御為を存じ被㆑入候儀、憤激する所より出で候儀と相聞え候、主幼く国疑ふと申す古語も有㆑之、斯様の御時節、御大任に被㆑為㆑当候に付きては、至公至誠を以て、天下の御為、一筋に御謀り被㆑遊候御心ばせの程は、別に相記し置き候条と、御言葉の端にも、自然相顕れ候儀に候、然れども常々上の御威光を被㆑為㆑重、廷議の漏洩を深く御慎被㆑成候て、謙抑を専と被㆑遊候間、其御事業の今日に申伝へ候儀とては、纔計ならで無㆑之、是併御盛徳より出づる所といへども御家来共の身に於ては、今更遺憾不㆑少候、〈上野介正信の事、其旧臣の記せしといふものに、初め父加賀守正盛、大猷院様御他界の節、殉死被㆑致候時分、正信へ被㆓申置㆒候は、御末期の時分、上様へ御直に弓矢の道、少しも御失念被㆑遊まじき旨、上意被㆑遊、我等類もなき御取立の身に候処、御馬先の御奉公も不㆑致、追腹いたし、寸志の御供計仕候儀、残念千万なる儀、上様には御幼年の儀、此後万一御年寄共奉㆑守様不㆑宜、弓馬の道も、疎に相成候はゞ、侍の吟味も御失念可㆑被㆑遊候、左候はゞ当家は格別の家筋に候間、上の御為にも成候はゞ、城地を差上げ、寸志の御奉公と可㆑致との遺言有㆑之、御当代最早十箇年に相成り、御旗本の面々有㆑志輩も困窮いたし、小身にて大役被㆓仰付㆒、御足高御加増等不㆑被㆑下、人馬差出候事不㆓相叶㆒、武備の励も、薄く相成候由にて、上野介殿、殊に気毒に被㆑存、酒井雅栄守厳はくは、兼ねて続きがらも有㆑之由にて、其存念ひそかに被㆑申候儀有㆑之候へども、難㆑成仔細有㆑之由にて、取上不㆑申候、依㆑之熱々被㆑考候は、天下次第に疲弊し、御旗本の面々如㆑斯困窮に及び、それに古代より、被㆓立置㆒候京の大仏を打潰し、銭になし候などは、天下の恥とも可㆑申事に候、御幼年の節、利勘の御仕置のみにて、万民相痛み、執政の衆夫程の御為を存候はゞ、自分々々の酒宴をやめ候ても、其銭を為㆑拵、民の潤に相成る様取計有㆑之度事に候、父の遺言も有㆑之儀に候間、領地十三万石余差上げ、御旗本の面々、御足高の助けにもと存じ、寸志忠勤の端と存じ究め、其儀江戸に在りながら申上候ては、親類にも留められ、兎角存念難㆑達と思ひ究め、其次第を直筆にて認㆑之候て、中将様並に阿部豊後守殿を、宛所に欲し被㆓差上㆒、直に御暇をも不㆓申請㆒、其領地佐倉へ被㆓引退㆒候、依㆑之其弟備中守正俊へ、上使被㆓仰付㆒、御目付両人被㆓差添㆒、佐倉へ被㆓差下㆒、被㆓仰渡㆒候は、其所志感じ思召し、願の通領地被㆓召上㆒候、追て言上の趣を以て、御沙汰可㆑被㆑及との議に有㆑之、忰帯刀へ御合力として、一万俵被㆑下候に付、頓て、城受取に付、安藤対馬守厳被㆑遣、上野介殿は、其弟脇坂中務少輔殿へ御預被㆑成、信州飯田へ被㆑遣、一万石の格【 NDLJP:106】式にて、可㆓罷越㆒旨被㆓伸付㆒候、其後可㆑被㆓召返㆒思召有㆑之、河越にて七万石可㆑被㆑下御沙汰に付、中将様より御書を以て、奉書到来次第発足、途中より忰帯刀屋敷へ着の儀被㆓相伺㆒、着後阿部豊後守宅にて、可㆑被㆓仰渡㆒候間、無㆓異議㆒御請可㆑有㆑之由、被㆓仰進㆒候処、備中守殿此儀を承知有㆑之、ひたすら御免被㆑下、其通にて被㆓差置㆒候様、再三御老中迄御断にて、近頃不届の儀、備中守殿不㆑入事とは、思召しながら、右の仕合にて御沙汰相止み、其趣猶又中将様より、被㆓仰遣㆒候由を載せ置き候、実録に候哉否、世に広く伝ふる所とは、異なる儀も有㆑之、中将様御大政に被㆑為㆑預候ても、表立ち候事、御自身に被㆑成候儀とては、不㆓承及㆒候へども、上野介殿へ御内慮被㆓仰遣㆒候は、御名宛の書付被㆓差出㆒、候故にも、可㆑有㆑之哉と、被㆑察候、上野介殿の事、上野御取扱といひ、諸事尋常御預人とは、格別なる儀共にて、御憎み思召し候事とは不㆓相聞㆒、いかさま其仔細ある事とは、はかり知られ候、御書被㆑遣候儀も有㆑之に付、其有増を記し置き候、 ○上野介殿には、兼ねて松平伊豆守殿と中悪しく、此度の儀も、専ら此人の事を非議し申され候事と相聞え、其書中にも、御奉公不届の仁を可㆓相果㆒と、度々存候趣と相見え、或は厳有院様御子不㆑被㆑成㆓御座㆒を苦労にし、御預の身ながら都に上り、神社仏閣に祈祷し、或は薨御の時分、鋏刀にて自害致され候始末、いかさま気節ある人の様には被㆑察候、〉
ー、松平美作守殿御本丸御留守居被㆓仰付置㆒候処、近頃江戸度々出火にて、ある時煙御城へ懸り危く候に付、奥平大膳大夫殿・松平甲斐守殿、其余の若手の大小名、手勢召連れ駈着け、被㆓消留㆒候に付、為㆓御褒美㆒、時服拝領被㆓仰付㆒候、美作守殿御役分に就いては、其時の御働不㆓大方㆒候へども、御褒美の御沙汰も無㆑之候に付、無㆓面目㆒存じ、不快を懐き、御役御赦免の儀、度々御老中迄、被㆓相願㆒候、官医平賀玄純は、美作守殿心易く出入いたし居候処、御屋敷へ玄純参上の節、其趣御物語申上候へば、中将様被㆑仰候は、美作守殿老功の仁として、御大事の御役御勤めながら、若輩の衆と、功を被㆑争候事には有㆑之まじく、此度一同御褒美の御沙汰など、有㆑之程にては、都て御不本意の筋に可㆑有㆑之候、御大役の御身分、一度火に懸り御消留め候とて、御恩賞など御望み候事とは不㆑存候、此度の如き小事は、美作守殿手に足らざる程に被㆓思召㆒候故、御大事の御役をば、被㆓仰付㆒たるにて可㆑有㆑之、御役儀御辞退の事は、我れと我身を軽しめられ候筋の由、御異見被㆓仰進㆒候に付、美作守殿其誤を始めて御心付き、中将様の御言葉に感服被㆑致、御老中の御宅へ御出、其趣被㆓申述㆒候由に候、
【井伊直孝の失言】一、或時に、井伊掃部頭殿御宅へ、中将様御出、掃部頭殿御手前にて、御茶被㆑進候て、此頃、ある方より、此茶器を被㆑贈候、随分断り候ても得心不㆑致、無下に返しやり候も、気毒に存じ、其通致し置き候、其許にても斯様なる儀、可㆑有㆑之と御物語に付、中将様被㆑仰候は、心底にある所は、人にもこたへ申す物に候、我等ふつと貰ひ候心無㆑之候間、人より贈り候心も無㆑之候、少々は御心持に有㆑之候故、人も試み申すにて可㆑有㆑之と、いかにも御取飾もなく、無造作なる御答に付、掃部頭殿御笑ひ、存じの外なる詆責に逢ひ候と、被㆑仰候由に付、右の通御心置なき御交にて、御力を被【 NDLJP:107】㆑為㆑合、国家を御保護被㆑遊候事故、去る万治中、掃部頭殿御卒去の節、早々為㆓御悔㆒御出有㆑之、其節権現様以来、御奉公被㆑致、殊更武功の人にも候処、近頃惜しき人被㆓相果㆒候、公儀の御事欠に候と、深々御悼み被㆑成候由に候、
【阿部忠秋の篤実】一、或時に阿部豊後守〈忠秋朝臣〉を御誉被㆑成候て、総じて昔より執権の家々には、諸人奔走いたし、出入も不断有㆑之、全盛の様子は、自然他よりも相見え候儀候処、豊州の屋敷常に静なるは、其権に誇られざる故に候大猷院様御目鑑にて、将軍様御幼稚より御附被㆑置候は、斯様なる篤実の人故に候と御意被㆑成候、右の通の御方故、ある大名より豊後守殿へ、珍しき鶉の由にて、進物有㆑之時に、兼ねて御飼ひ置き候鶉籠の口を、皆庭の方へ向けさせ、口をあけ、不㆑残被㆓相放㆒、上の御威光にて、人にも執し思はれし身にては、物は好くまじき事に候、我等近頭ふと鶉をすき飼ひ置き候へば、はや如㆑斯に候、向後は鶉ずきを可㆓相止㆒と、物語有㆑之由に候、常々少しも御自分の権威に御誇なく、謹慎の御方と今以て申伝へ候、〈室鳩巣の雑話に、此頃諸執政何れもつゆ身に驕なく権に誇らず、何事もおほやけに沙汰せられ、至公至明にして、諸侯諸役人に対して、私の求なく私の怒なく、只正道をもて下知せられし程に、其威令下に行はれしかば、諸侯諸役人も各おそれ慎みて、身持正しかりしぞかし、其政を謀るには、虚文を制へ事実をつとめ、人を取るには、材弁を退け実行をすゝむ、凡百の有司、何れも廉清寡欲なりしかば各身を守り職を恭くして、時勢に附かず身計をなさゞりき、是によりて、庶政あがり、百事熈り、たゞ此時を別して盛とすと、記し置き候、大猷院様御代末よりして、厳有院様御代頃の事にて中将様御盛の頃の様子に付、為㆓参考㆒爰に附録いたし候、〉
【湯武放伐の論】一、板倉周防守殿〈重宗朝臣〉京都より下向、御参会の時、湯武放伐の事、京都にて儘者共と、度々講究いたし候へども、道理分明に無㆑之、如何被㆓思召㆒候哉と、御尋被㆑成候に付、湯武放伐の論は、聖賢の説既に決し候儀に候、其義理に当れる事は、申すに不㆑及候然れども学問の道は、明に知りて、能く行ふに可㆑有㆑之事に候処、我等の輩湯武の事を、手本と致し候儀は、入用無㆑之候、幸に良師と可㆑仕は、文王・伯夷にて可㆑有㆑之、それを手本と心得、不足有るまじく、湯武の道は不㆓相弁㆒候とも、心に懸り不㆑申由、御答有㆑之、周防守殿御感賞有㆑之候由に候、山崎闇斎御碑文に、欲㆑得㆓夷斎無怨之仁㆒、厭㆑聞㆓湯武革命之義㆒と、有㆑之候は、此御志節を申したるにて、可㆑㆑有之候、又二程治教録上巻に韓退之、羑里操曰、臣罪当㆑誅兮、天王聖明、程子曰、道得文王心出来、此文王至徳処と被㆓相載㆒、常々文王至徳の処は、孔子以来、韓愈・程朱これを発せる由被㆑仰候由、又泰伯至徳の処は、孔子以来、たゞ朱子これを明にすとも被㆑仰候、大王剪商の志有㆑之、泰伯従はず、遂に其後を泯されしを、深く御感歎被㆑遊候よしに候、
【 NDLJP:108】【安藤帯刀を評す】一、紀伊亜相頼宣卿へ、初め安藤帯刀を御附被㆑遊候時に、権現様より、土井大炊頭殿を御使として、帯刀へ被㆓仰含㆒候は、頼宣年若にて候、万一逆心の企にても有㆑之候はゞ、速に言上可㆑仕候、此事起請文を以て、御請可㆑仕との御事に候、帯刀儀、上意謹んで承り候、然れども一日も君臣と相成候ては、縦狂乱の御企有㆑之とも、主人の事を訴人仕り候筋無㆑之某に於ては、御請難㆑成候、自然御謀反の御志など、被㆑成㆓御座㆒候はゞ、急度御諫言申上げ、夫とも御承引於㆑無㆑之は、是非もなき事に候間、御馬先にて、討死可㆑仕覚悟の外、他念無㆑之由申上候、権現様、其忠心を被㆓聞召届㆒、其通被㆓成置㆒候由、此事を中将様被㆓聞召㆒、御意被㆑成候は、帯刀が申す所、忠心には候へども、御馬先にて討死可㆑仕との御請は、義に於て違ひたる筋有㆑之、至極残念なる事に候、幾重にも御諫言申上候、御承引無㆑之、御手にかゝり、御前にて相果て候とも、不義の御軍には従ひ奉るまじき旨、申上候はむには、道理分明に有㆑之、批判も有るまじく候、是学問無㆑之候に付、義理の間違有㆑之由、御物語被㆑遊候、
【正之水戸光圀と儒学を論ず】一、水戸黄門光圀卿御懇に被㆑成、折々御出も有㆑之、緩々御対話の時分は、いつ迚も、国家の御事に及び、学問の御議論ども有㆑之候、或時御出の時、御酒被㆓差出㆒、御格盞にて被㆓召上㆒ながら、数刻御物語被㆑遊候、御給仕の御小姓、余に被㆓召上㆒候と、心付きたるより、御盃数を心覚え仕候処、廿七盃づゝ被㆓召上㆒候と、数を留め候由申伝へ候、此時の御物語は、性善・性悪の御論に有㆑之、光圀卿はしきりに性悪の説を御主張被㆑成、御議論有㆑之候処、中将様御答に、性善の説は先賢の所㆑従に候間、慮外ながら、先賢の定法に御したがひ、御工夫被㆑為㆑積可㆑然、異なる御見識を、被㆓相立㆒候は、必御無用の由被㆑仰候と、申伝へ候、桃源遺事に、義公初め荀卿の書御好み被㆑成候処、後年に孟子を深く御好み被㆑成候、度々御近習の衆へも、能く読み候様被㆑仰候由、相見え候間、中将様と御議論有㆑之候は、荀卿の書御好の時分と、相見え候、
一、加藤内蔵助殿〈明友〉は、林道春を師とし、学問を御嗜の御方の所、御心易く、時々御入来の有之、しめやかに御対話ども被㆑成候、或時御近習の者へ、御咄被㆑成候は、祖父左馬助殿・父式部少輔殿迄、大身に有㆑之、内蔵助殿に至り、小身に候へども、父祖には遥にまさりたる賢明の人に候、如㆑斯に候はゞ、小身にても不足無㆑之由、御賛歎被㆑成候、
【 NDLJP:109】【安井算哲に勧めて暦学を研究せしむ】一、兼ねて碁を御好被㆑成候て、此頃の碁所安井算知と饒先の御手合の由、申伝へ候、或時算知と被㆑遊候時に、常程に不㆑被㆑為㆑入様に付、御心障にても被㆑成㆓御座㆒候哉と、算知申上候へば、さればにて候、大事の役を可㆓申付㆒と、工夫致し居り、これかかれかと決し兼ね、心に浮び候と被㆑仰候に付、算知儀、碁の道にて申上候へば、色々と決し兼ね候時分は、初めに了簡致候方にきはめ、よろしく存候由申上候、暫時御思案有㆑之、それにて心中決し候と、御意有㆑之由、申伝へ候、又算知が子算哲儀、家業の碁は、随分致し候へども、少き時より、暦算の術に、志有㆑之候に付、家業を忽諸に致候とて、算知苦労仕候由被㆓聞召㆒、世上暦算の術疎く、本朝久しく宣明暦御用ひの所、推歩の術おろそかなる事に付、幸に精を入れ、稽古為㆑致候はば、世の為にも可㆓相成㆒候、碁の上手は外にも可㆑有㆑之候間、其志を折き不㆑申様、出精可㆑為㆑致由、御意被㆑成候に付、算哲弥精を出し、其術を研究いたし候、天和三年の暦に、霜月十六日、月蝕の由有㆑之を、算哲兼ねて無㆑之由、申候処、果して月蝕無㆑之候、算哲儀、元郭守敬授時暦によりて、暦書を作り、公儀へ献上仕り、貞享改暦の一挙に相成候は、ひとへに中将様御言葉懸り候故に有㆑之、後に算哲天文方被㆓仰付㆒、今の渋川家に候、依つて算哲儀見禰山の神庫へ暦書を奉納仕り、今に有㆑之候、
一、江戸表にて、御使番菅儀左衛門儀、御使相勤め、不㆑被㆓仰付㆒御口上、差心得申述ベ罷帰り、御返答申上候に付、以ての外御腹立にて御呵り被㆑遊候、続いて御使番山田九太夫御病気御見舞の御使被㆓仰付㆒、罷帰り候処、御先方へ参り、御玄関前に御駕有㆑之を見懸け、御客には有㆑之まじくと存じ、御様子相尋ね候へば、御気色御本腹にて、御他出御設の由に付、左候はゞ御病気御見舞の御使者は、如何に可㆑有㆑之と存じ、御口上不㆓申述㆒立戻り、儀左衛門御呵りの儀承り、必定申上候はゞ、御腹立に可㆑有㆑之、乍㆑然早速不㆓申上㆒候ては、男道欠け候と存じ、御直に有の儘に申上候へば、少しも御怒を不㆑被㆑為㆑移、一段御機嫌にて、其方共使役申付け置き候は、外聞不㆑欠様にと、被㆓思召㆒候事に候、本腹にて他へ被㆑出候処へ、病気見舞の使は、いなものに候、致方宜しくと、御誉被㆑成、御本腹御悦の御使相勤め候様にと、被㆓仰付㆒候、九太夫儀、過分の御知行被㆑下候よりも、難㆑有奉㆑存候由に候、
【臣下の過失を咎めず】一、或時御登城可㆑被㆑成思召にて、当番の者明七つ時に相成り候はゞ、可㆓申上㆒由被㆓【 NDLJP:110】仰付置㆒候処、其時刻を聞違ひ、八つを七つと存じ申上候に付、御昼なり、
一、或時御登城被㆑遊候節、御召御小袖の御袖の御紋、御前の方に成候様、取違ひ仕立て候を差上ぐ、中将様御心不㆑被㆑付被㆑為㆑召候、井伊掃部頭殿御覧被㆑成、珍しき小袖を被㆑為㆑召候と、御笑ひ被㆑成、被㆓召替㆒候様にと、被㆑仰候に付、始めて御心被㆑付候、中将様、いかやうにても不㆑苦候へども、御助言に候間、可㆑任㆓御思召㆒旨、御笑ひながら御答被㆑成、被㆓召替㆒候由に候、田中三郎兵衛詰合の時分にて承㆑之、御納戸役并に仕立て候者共、不調法を以て、御外聞不㆑宜、以ての外なる仕方の由、甚呵㆑之押込め置き、御下城後、此段申上候へば、尤の事に候、然れども粗忽者共の寄合に候、仕立て候者も、納戸役の者も、其着用いたし候我等も、何れも粗忽者共の寄合に候重ねては入念候様申付け、赦免可㆓申付㆒旨、被㆑仰候に付、三郎兵衛儀、其身の咎を御免被成候如く悦び候由に候、又いつも御登城の御後にて、御寝所の掃除いたし候事に候処、御納戸役野村九兵衛、坊主共召連れ、掃除申付候、坊主共棕櫚箒にて、太刀打の真似いたし、御鈴の綱へ当り候に付、其音にて奥様為㆓御迎㆒御出被㆑成、御鈴廊下の口明き候に付、驚入り平伏いたし罷在候、御帰に無㆑之候間、奥様空しく御戻被㆑成候、此段三郎兵衛へ達し候へば、以ての外なる儀、只は被㆓差置㆒まじく候間、覚悟可㆑仕候、達㆓御耳㆒、如何様被㆓仰付㆒候も難㆑計候間、謹んで御下知可㆓相待㆒、粗忽仕るまじき旨申付け、押込め置き候、何れも自害可㆑仕程に恐入り罷在候処、御帰に付、及㆓言上㆒候へば、御意被㆑成候は、彼者共何とて、徒に鈴口の綱を動し可㆑申や、あやまちは見えわたり候事に候、押込め置き候に不㆑及、速にゆるし為㆑勤候、様被㆓仰出㆒【 NDLJP:111】候、三郎兵衛儀、仁君の御下知、存の外なる辱き思召に候と、感涙を流し、其旨申聞け、何れも殊に難㆑有奉㆑存候、総て下に不調法有㆑之節は、三郎兵衛儀、御下知不㆓相待㆒、甚呵りの厳しく申付け候、依㆑之御腹立も薄く、御下知も自然と順路に有㆑之、君臣の事業、他に類も有㆑之まじくと、諸人申候由に候、
【武備の充実】一、奥羽の抑へ、御大事なる御場所と申し、武備の筋被㆑入㆓御念㆒、被㆓仰付置㆒儀は無㆓申計㆒、常々弓・鉄炮の物頭・足軽の器量芸能をえらび、召抱へ置き、柔弱の者は召放し、弓・鉄炮の稽古、中りの甲乙、其頭共見届け、相応の被㆑下方有㆑之、侍大将には、御譜代にては井深監物・赤羽仁右衛門・篠田内膳等被㆓召仕㆒、又今村伝十郎・沼沢出雲・神宝隠岐・安達兵左衛門・堀半右衛門・日向半之丞・三宅孫兵衛・原田伊予等、武道の心得有㆑之者、追々被㆓召抱㆒、士共御預被㆑成、既に正保の始め、御意被㆑成候は、諸侍共兼ねて度々被㆓仰含㆒候間、定めて武具・馬具等は、分量相応に可㆑嗜候へ共、必小道具共を調不㆑申ものに候、大抵の道具を調へ候て、其外細々の道具は、やすき事に存じ致㆓油断㆒、只今打起つ時、俄に何かと行当るものに候間、常々組頭は組の者に、諸道具沙汰候様にと、内々可㆑致㆓催促㆒候、少々は武具・馬具を組頭内にて見候ても、尤に候へども、今程左様の儀を仕候はゞ、世間沙汰を可㆑致候へば、左様には不㆑入事に候、不足の道具を無㆓油断㆒心懸け候様可㆓申付㆒、又物頭共も、武道具一度受取り、封を付け置き候と計、心済に存候はゞ、虫喰又広狭・長短をも存ずまじく候、折々矢倉へ参り、他へ不㆑見様、人々に着せ見て、能き頭をば、其名を書付け、俄の時は、書付次第に着し、指物は差出し候様に、常々心を懸可㆑申、乍㆑去俄に人々左様仕候はゞ、世間も如何に候間、折々不㆓目立㆒様に、矢倉に参り、戸をもさし、我組の者に可㆓申付㆒、必ず必ず常の嗜み肝要の由、御意被㆑成、兼ねて御陣触有㆑之時は、必ず日限より以前に、支度畢つて、打立つ前日は、静にして如㆓平生㆒可㆑致との御合条も、有㆑之事にて、何れも不㆓行当㆒様にと、心懸け候由に候、弓・馬・鎗・劒術・鉄炮の達人、大勢有㆑之、并に武器の職人、何れも無㆓残所㆒御扶持被㆑成候、島原一揆の時分は、大村太兵衛父子、安部井又左衛門、彼地へ御使に被㆑遣、手柄仕候に付、一倍の御加増被㆑下、〈太兵衛忰此時に、十七歳にて、父に従ひ彼地に参り、以㆑造手柄仕候に付、是へも百五十石被㆑下被㆓召出㆒候、其名は㆑不㆑及承発、〉又寛文の初、外様士中、土井孫右衛門、御奉公不㆑怠、小身の者と所軍役の心懸宜しき由、被㆓召聞㆒、御加増五十石被㆑下、武道の筋被相励候事に候、
【 NDLJP:112】一、正保中、御帰城の時には、河沼郡八田野原にて、御備立にて御狩有㆑之、御人数懸引御ならし被㆑遊、承応の度、御軍令御軍禁被㆓相定㆒候処、明暦中甲州流の軍法御吟味有㆑之、御禁令御改定被㆑遊、御禁令并に御備の図御渡被㆑成、毎年二度づゝ為㆓読聞㆒、縦不時の軍といふとも、堅く陣場を相守り、御法令を諳じ候様にと被㆓仰出㆒候、或は小荷駄郷村へ御預け置き、年々被㆑増、或は御兵器の御改等、度々被㆓仰付㆒、御陣具・小荷駄の具迄、少しも御手支無㆑之様、役人へ被㆓仰付置㆒、其上口米金の儀は、兼々御軍用金と名付け置き、御兵具御手入等には、被㆓相用㆒候へども、其余には御用ゐ無㆑之、御軍金無㆓相違㆒候様、被㆓成置㆒候、又江戸へ俄に御人数被㆓召寄㆒候時分、道中賃馬差支可㆑申との思召にて、江戸御屋敷へ火薬蔵被㆓仰付㆒、玉薬等沢山に入れ置き候、
【保科正近】一、保科民部正近は御家門と申し、随一の重臣にて、組頭・物頭等、外様の士ども支配いたし、其総大将に罷在候処、松平丹波守殿御家来西郷新兵衛は、民部婿に有㆑之、或時新兵衛儀及㆓困窮㆒候由、申越し候に付、其通行詰り候ては、不時の奉公は不㆑可㆑成候、此方にては百石の高にて、金十両程づゝ用意仕り居候事に付、不時の奉公さへ無㆓覚束㆒との儀に於ては、此方にて可㆑致㆓扶助㆒候間、退身㆑可㆑被㆑致候と、及㆑答候と申伝へ候、民部諸侍を率ゐ居候心持も、相見え候事に候、民部末期の書置にも、一度御用に立可㆑申と存詰め、御家中侍衆常々懇に仕り、心懸け申す内、年も寄り候、之を残念と存候処に、剰へ煩ひ候て相果て候儀、返す〳〵も皆たはごとに相成り、口惜しく存候由認め置き、不時の御用を、特に専一に存入候儀に候、民部跡役此原采女光次、其次には田中三郎兵衛正玄を、引続き被㆓仰付㆒、永々御在府に就いては、会津の御留守御城代に罷在り、侍の差引仕り、不意の節の儀、被㆓仰含置㆒候由に候、御預の寄騎共、毎年隣国へ差越し、密に様子承り届け、事変りたる儀は言上仕候、寛文十一年仙台に於て、原田甲斐が事有㆑之時分、田中三郎兵衛寄騎、并に同心早々差越し、様子為㆓相探㆒、其上伊南与八郎儀、兼ねて心得有㆑之者に付、自然御出世も可㆑有㆑之哉と、穏密に被㆓仰付㆒、彼地へ被㆑遣候、俄の事故、自力を以て、即時に罷立ち、湯越仕り、急に打越し、押前の様子、地理の案内迄、悉精察仕り、委曲書付け、入㆓御披見㆒候処、中将様思召に相叶ひ、御感被㆑成、殊に今般物前の儀、自力を以て相勤め、日来心懸奇なな儀に被㆓思召㆒、御褒美被㆑下候、其外被㆑遣候者も、数多有㆑之候、〈兼ねて組頭へ被㆓仰付置㆒候にも、仮初の火事抔も、諸侍共は組頭の下知に従ひ可㆓走廻㆒候問、斯様の時分、其心ばせ心懸をも可㆓見置㆒、自然の次には、左様の首尾をも可㆓申上㆒、火事彼【 NDLJP:113】是の時分、其心懸仕候へば、自然の時も出合ひ、御用に可㆑立と被㆓思召㆒候由、御意被㆑成候儀も有㆑之候、〉
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。