目次
 
正之朱千学に志す輔養編の編集士道の練習と法制法制の公布貧窮せる藩士の処置重臣の待遇を鄭重にす米廩を発いて窮民を助く穀留将軍名代として上洛す官位の辞退家号の辞退裁判と倫理酷刑を廃す検舉拷問の寛厳朝鮮使節の来聘出家の取締孝子の旌表社倉法の創設〈[#「倉」は底本では「会」]〉麦作の奨励米価の調節大寄合法令の周知を図る諸役人の風儀を戒む飯田兵左衛門明暦の大火浅草の米廩を発く回向院災後の賑恤倹約令の施行領内に倹約を令す戸枝彦五郎正之の女前田氏に嫁す江戸用水の修築箕田下屋敷の拝領江戸城の天守領内の賑救堀田正信時事に憤激して采邑に帰る井伊直孝の失言阿部忠秋の篤実湯武放伐の論安藤帯刀を評す正之水戸光圀と儒学を論ず安井算哲に勧めて暦学を研究せしむ臣下の過失を咎めず武備の充実保科正近
 
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千年の松 巻之二
 
正之朱千学に志す

一、承応元年壬辰、御年四十、御幼年より御読書御好被成候処、御壮年に被及、僧沢庵或は愚道等に、禅理を御尋被成、老釈の書粗御信仰の御様子に候処、今年に至り、始めて朱文公の小学を被読、甚御崇信被遊候、大学の基御発明有之、是迄御信用の老仏の書は、悉焼棄被成、専ら濂洛関閩の正学に、御心被用、其外和漢歴代の書、御覧被遊候、治乱の機、興亡の跡、御捜索被遊候、或時御歎息被成、祗候の者へ御意被成候は、御年若の時分は、御思慮浅く、六韜三略或は雑書を御好み、大学・論語・孟子・中庸の類は、或は迂濶或は柔弱とのみ思召し、むなしく年月を被費候儀、御残念の至、御後悔被成候由、呉々御物語被成候、聖学の筋に無之をば御嫌ひ被成、既に黄檗の僧隠元禅師、費隠録一部致進上候得共、御受納無之、又御家老・奉行の面々へ、小学一部宛拝領被仰付、学問の仕様迄、みづから御教被遊候、

一、常の御物語に、程明道愧文王、視民如_傷四字の語、或は范文正公、先天下之憂オープンアクセス NDLJP:88而憂、後天下之楽而楽の語、或は程伊川、自古国家所患、無於在位者不_学の言葉其、御感歎被成候事、しばの儀に候、又或時王元之待漏院記を、殿中に掲げ置き、常に老中の方々に、為見度き程に思召候由、御意被成候、

輔養編の編集一、同年幼君輔導保傅の事ども、御考索被遊候、官医土岐長元、兼ねて文学相嗜み候者に付、委細に被仰含、輔養編と申す御編集被成、御献上被遊候、御近習の衆へも御贈被成候、

士道の練習と法制一、同年御家中掟・御軍令・御軍禁・道中定等の御条目被相定、諸士へ被仰渡候、此御僉議の時に可之哉、世に申伝へ候、御条目共筆立の儀、家老共へ被仰付候て草案仕り、其中に喧嘩口論禁制の事を相記し差上候処に、思召に不応御様子に付、相伺ひ候へば、諸侍共平生の事は、喧嘩口論禁制と、被仰付候儀とは、不思召候、御陣御上洛等の御用に臨み候ての事は、一分の私にかゝりたる程の事は、後日の沙汰になすべき儀各別の筋なり、平生の事は男道の恥辱を取らず、士の名を汚し不申様にと、可心懸儀、武士たるものゝ道にて候間、禁制と可仰付筋に無之候、自然其通にては、家中の者士道の吟味も、疎に可相成事に候と御意被成、禁制の文字を、御删被遊候由に候、実にも最上御在邑の時、寛永十三年の御条目に、禁制と有之を、今度御改定の御掟には、喧嘩口論、大形は双方可誅罸、片方無下に理不尽に於ては、可片誅罸、令荷担者、其咎可本人と、御記被成候、〈公儀の御条目には、荷担せしむる者、其皆本人より重かるべしと有之を、同じかるべしと被仰出候も、思召有之事歟、○延売年中、穿鑿の儀に付、公事奉行共、固く先例を執つて、議し申せし時に、友松勘十郎氏興申せしは、其元共は先例を堅く引き候へどし、土津様御裁断の事たりとも、初年・中年・末年にて違有之ものに候、聖人も初年・中年・晩年にて行跡不同候、義精しく仁熟すと申すは、聖人といへど 時年の事に候、初年には義も精しからず、仁も可熟君有之間、土津様被仰出候とても、御年若く被御座候時、被仰出候事、当時吟味の上、可由、細に教示被致候は、最上・会津両度の御法令にても、その一端を見るべき事に候、山崎闇斎御行状に、及不惑学正而徳成とも、記し置き候、〉法制の公布御条目共御渡被成、猶被仰出候は、正月十一日・七月十八日、何れも無失念様に、其筋々へ集め、これを誦し聴聞可仕候、相残る御法度書も、右の通、一年に両度宛、失念不仕様に、其時々に相触可申候、組外の分は、北原采女方より、其筋々の月行事相触れ、何れも軽き者迄、失念不仕様に可申付候、此度の四巻の御法度書被遣候、此前々より被仰遣候間、無油断申付候へども、久しく御下向も不遊、万事御直に被仰付候儀も無之候へば、自然ゆるまり候儀も、可之歟と被思召、被御念、度々被仰遣候事に候間、この趣を守り、其役の品々朝暮精を入れ、御奉公仕候様に、堅く可申付候、万づ御法度書御掟の儀、オープンアクセス NDLJP:89一通り申渡したる計にては、相守り候儀、油断も可之候間、其心得いたし、急度可申付旨被仰遣候、又其時々の御法度迄も、常々被御念候様、法を立て相触れ可然旨、被仰出候節、総て法度を申付候時は、其奉行の者、下々の心に成替り、其法度易守歟難守歟と、深く致勘弁、易守事に候はゞ、其旨相触れ、背く者有之候はゞ、或は誅伐或は牢舎・過料等、咎の軽重に依りて、可申付候、左もなく難守法度を出し候へば、相背き候者数多有之、無詮事に候間、其段可相心得旨、御意被遊候、

一、同年、御領中所々是迄有来り候傾城共、不残御払被成候、金山は格別に其通被差置候、

貧窮せる藩士の処置一、此頃外様の士、身上不罷成もの共、一組に五七人程づゝ有之、江戸勤番致候ては、難儀に候間、常詰に被仰付然候、北原采女存寄り申上候処、侍共身上可罷成儀、兼ねて不便に被思召、それに付、内証取続き候様にと、度々御情を被加候、然れども勝手の儀のみ致工夫候へば、第一つとむべき御奉公の事、疎略に相成候ものに候、侍共四年に一度づゝ、江戸へ罷上り候儀、いかにも寛なる事に候、この通にて身上不能成者は、上にても何とも可成様無之儀、いかに勝手づくに能く候とて、作法あしく成行き候儀は、組下より申上候とも、承引不致候者に候由、御意被成、御得心不遊候、其後采女罷登り候時分に申上候は、御家中別して身上ならざる衆へは異見いたし、着物・喰物等に至る迄、平生いかにも疎相にいたし候様に、申付け候へば、其段尤に被思召候、然れども身上不成というて、常に卑劣なる心を持ち、賤しくむさき心持にて、斯様にすれば、徳分に候などと、手廻立ちなど、常々黒案仕り、侍の心中を失ひ候様にては、不自由なるよりは、大に劣りたる心に候間、其嗜肝要に被思召候由、御意被成候、又寛文七年、会津の侍共、無尽の企仕候由、御耳に達し、被仰出候は、此儀御法度被仰出候事にては、無之候得共、作法見苦しき事に被思召候、百姓・町人・小者・中間などの作法の様に可之候、常に倹約いたし、一分の見苦しきは苦しからず、侍に不似合仕方は、縦及餓死共、有之まじくと、被思召候、田中三郎兵衛〈此頃采女跡役に相成候〉相心得、内証にて為相止候様にと被仰出、士の風儀厚く御教導ども難有御事に候、

重臣の待遇を鄭重にす一、常々御家中の侍共被御情、頭立ち候者共、安否御尋被下、煩ひ候節は、猶更オープンアクセス NDLJP:90毎度御懇に養生の儀被仰下、御薬或は養生の品被下、老年の者には、寒気の節、御存被出、御頭巾・御羽織など、時々拝領被仰付、老養の御心付など、しめやかに被仰遣候、既に承応の初、原田伊織俄に中風に煩ひ候処、其様子会津より不申上候て、追て得験気、此程は手足も叶ひ、只腰の不起迄に候由、達御耳、御喜悦被成候、乍然老人の儀、其上寒国に不住馴身分に候間、尚無御心許思召候、弥無油断養生、何卒本復いたす様にと被仰遣、改めて御意被成候は、御家中頭立ち候者、相煩ひ候はゞ、其様子便次第に早速可申上由、前々被仰付候処、此度左様無之、序を以て申上候事、不念に思召候、御家中の頭立ち候者、重く相煩ひ候儀、御存無之段、余りしき様に思召候、以来は急度便次第に申上候様被仰出候、又侍共病死の節は、其様子により難有御意共有之、既に物頭安積彦兵衛、江戸勤番の節、会津にて一子致病死候由被聞召、御意被成候は、彦兵衛儀、江戸数番の時分といひ、日頃律義なる者にて、別して力を落し途方有るまじく候、安積一家の者有之候はゞ、早早養子申付け、力を付け候様被仰出候、其外跡目の節、先祖の忠節・勤労の御筋目等被仰出、保科家御譜代の家筋等は、殊に御慈悲を被加、難有御沙汰数度の儀に候、

米廩を発いて窮民を助く一、同二年癸己、夏中若松町人無力の者、及渇命候体に付、御貸米の儀、会津より申上、其段被聞召届候、縦米過分に御貸被成、上納仕候儀不相成、皆御損に相成候とも、当分可餓死者有之を乍御存、御救不成は、大にひがごとの行ひと被思召候、其上御救被下候米の大積四百五十俵程、入可申歟の由、是はわづかの儀に候間、此外にも入り候はゞ、重ねて奉御意候に、不及候間、町奉行を召寄せ、能能致僉議、救為取可申旨、御意被遊候、斯様の差当り候御仕置、此方へ窺ひ候ては、自然其内一人も餓死仕候へば、取分け御苦労に被思召候間、当年などの様なる早年には、就中無油断心を尽し、相談尤に候由、御丁寧に被仰遣候、

穀留一、同じ頃御意被成候は、御領中の百姓年々に増し、力付き能く成候由、御喜悦被思召候、然る所町中は次第に衰へ候由被聞召候、然る上は、秋中諸郷村より、入り候穀留を、当暮は見計ひ十の内二も三も寛にいたし、町の者等少しは徳分の付き候様に可申付候、〈新穀出来候はゞ、百姓共後日の了簡もなく、我勝に売払ひ、追て致|迷惑、候事に候間、毎年郷村より町へ出し候穀な留め候儀の由に候〉只今は少々百姓痛み候とも、大に不倒候はゞ、又町方をも救ひ候様に吟味可致候、又御オープンアクセス NDLJP:91蔵入の百姓年々に能く相成り候由、是又御喜悦被思召候、乍去百姓共娵入りなどに、結構なる小袖を買ひ候由、左様の奢は為致まじくと、被仰遣候に不及候へども、能き郷村は免を揚げ、悪しき村方は免を引下し、勘弁肝要に候、兎に角御私領の百姓と御蔵人の百姓と無甲乙、行儀以下同様に見え候様に、御蔵入郡奉行、常に心を付け可吟味旨、被仰出候も、此頃の事に候、

将軍名代として上洛す一、同年八月十二日、公方様右府御転任に付、京都へ為御名代遣候、九月廿一日御暇被進、呉服十領黄金百枚・御馬一疋御拝領、御手づから八丈織三端被下、同廿三日鉄炮百挺・数弓五十張御長柄百筋・馬上の士七十五騎、都合四千余の着到にて御発駕被遊候、しやけらなる綺羅少しも仕るまじき由、御供の衆へ被仰付候て、何れも質素なる出立にて御供仕り候、〈此時御乗懸馬に、被相用候具、今に御馬具櫓に有之、近世華侈の風と違ひ、至極質朴なる御品共に候、又御旗本奉行楢林主殿は、武道相嗜み、其頃名ある士に候処、此時御上京御供に可召連哉と存じ、京入の晴にとて、鐔拵草柄の大小を申付け候処、御供に無之に付、其友人の御供致し候者へ相贈り候山、其頃の風可推量事に候〉其時京都にて、中将御拝任被遊候処、御辞退有之、且又女院様〈東福門院様御事〉には、まさしく御姉君に被御座候間、舞楽の御饗応など有之、其上故将軍様の御面影も御懐しく被思召候間、御対面被遊度旨、被仰出候へども、其儀は関東へ御伺不成候ては、御請難成旨被仰上候、御帰府の上、中将御拝任の儀、可叡慮旨上意にて御請被成候、官位の辞退十一月かさねて京都より、従三位の勅許位記を被下候処、是はひたすら御辞退被仰上候に付、正四位下に被叙候、此時に酒井讃岐守殿、高位を御辞退被成候儀は、後代迄の御規模に候由、御感賞有之候へば、夫は存寄不申儀に候、この肥後守は規模の入る男にては無之、将軍の御為には、草履をつかみ候とも、苦しからざる事に候と、御答被成、讃岐守殿弥御歎美不浅由に候、〈武家補任を相考へ候に、両典厩様三位中将御叙任の事は、此年の十月の事と相見え候、然らば両典禄などの如く、御待過あるべき思召と相見え候処、それにては却て御為に不宜との御深慮とばかり知られ候、御役跡友松勘十郎御老中へ奉りー書に、三家の御衆様・両典厩様の如く御会釈にても、無御筋目儀に無御座候処、其身は不肖にて被召仕候を、本望と存じ、遂に身を終り候とも相記し置き候、〉又いつの頃にか、御加増可下思召にて、上様より讃岐守殿へ御相談有之候へば、肥後守気象にては、必ず御辞退可申上、縦押して被下候とも、御請仕るまじく、左候ては却て御為にも不宜候間、御延引被成可然旨、御申上候儀も有之由及承候、

家号の辞退一、いつの頃にか、御家号并に御紋御拝領可仰付御沙汰有之時も、御辞退被仰上候は、幼少の時分、保科肥後守養子に相成り、家名を改め家紋を変じ候ては、義理不相立、家来共信濃育ち不骨実体の者、家名を改め候時は、自然と志を放し可オープンアクセス NDLJP:92申、近年奥羽為鎮定、若松城に罷在り、君臣の間隙有之候ては、御固と不相成候間、御免被下度旨、達て御侘被仰上候、此御書付の本書、いかなる仔細に候哉、今は一橋家にて、御所蔵の由相聞え候、御家号・御紋御拝領の御沙汰も、御後見被仰付候以後の御事に可之候、林大学頭殿〈信篤〉御事実の序文に、厭初克継封邑、不名氏とも相見え候、

裁判と倫理一、同三年甲午、公事訴訟の筋被聞召候に倫理の間は特に被入御念、其道を正しく被遊候処、今年の冬、会津郡田島村金蔵と申す者、親甚五郎へ偽申懸け、対決申付け候時、親を拷問被成候はゞ、白状可致と申すに付、其親夫婦厳しく相糺し候由達御耳、金蔵申分第一不孝なる儀に候、先づ金蔵を可拷問儀、却て甚五郎を責め候儀は、逆なる致方に候、総て親と子と出会の時は、先づ子供を可成程穿鑿いたし、夫共に不分明候はゞ、親をも可相糺候、主人と家来との出入も、此通可同意候、親子致公事候はゞ、裁許は道理次第相捌き候儀勿論に候へども、子供の方に不孝の意味有之候間、其咎は追て相当に可申付旨被仰出候、親子或は主従にかゝり候疑獄、御捌被遊候儀、寛文三年・同十三年にも相記し置き候、

酷刑を廃す一、先封蒲生家の頃は、牛裂・釜煎・明松焙などゝ申す惨毒の刑法、被行来り候場所に候処、此頃の事に可之候哉、其様子被聞召、いかに罪科有之ものに候ても、無慈悲至極なる儀、自今以後如斯刑法は、御用被成まじき旨御意被遊候、就中明松焙と申すは、なぶり殺しにて、刑を弄ぶと申すにて候とて、特に御嫌ひ被遊候由に候、今以て蒲生家の頃相用ゐ候釜二ッ相残り居候、

検舉拷問の寛厳一、総て穿鑿の儀、緩急軽重見切の心得迄、御懇に御示し被遊、既に万事の穿鑿多き中に、其品に依つて分けがたき儀も、可之候へども、大事の糺は、人多く迷惑いたし、いか程費懸り候とも、成程可穿鑿候、但何程吟味候ても、埒明くまじき儀は、是迄と可差置時分も可之、其段肝要の由、御意被成候、後世煩砕なる風と違ひ、大まかなる事に候へども、ゆるかせなる事にては、必ず御許容不遊候、承応中、外様士安武太郎左衛門が屍を、夜中本二ノ丁へ棄て置き、其面皮まで剥ぎ置き、いかなる者、何方にて如斯殺害いたし候とも不相知、色々御穿鑿有之候へども、何者の致候とも、其手筋一向不相分、御不審相懸り候侍九人迄、物頭へ御預被仰付、特に厳しく御穿鑿被仰付、其中可拷問と存じ候者は、得御内意候様可オープンアクセス NDLJP:93仕候、然れども其品に依りて、拷問不致相延ばし候へば、其問に彼者ども、思案分別いたし、糺しにくき儀と存じ候事も於之は、得御意候に不及、即時に拷問可申付候、彼九人の侍、何れも拷問被仰付、少しも不苦者と被思召候由、御押懸り江戸より被仰遣候、隣国迄も取沙汰有之程の厳しき御吟味の由、今以て申伝へ候、又御横目衆御領内被相廻候時分、差出し候目安共被聞召、代官并に郷頭・名主等、非分の致方と相見え候儀ども、穿鑿被仰付時、百姓共隙の時分を考ひ召寄せ、懇に穿鑿可申付旨、御意有之、不急程の儀は、農事の妨に不相成様にと迄、御心付けさせられ、難有御事共に候、

朝鮮使節の来聘一、同年、宗対馬守殿より、明年朝鮮国信使来聘可仕旨、被相伺候処、御老中方御相談に、当年西国洪水にて、所々損亡の地も多く、見苦しく候間、異国の者に見せ候儀、いかゞに可之、暫く延引可然歟との儀に候処、中将機御聞被成、天災流行、何れの国とてもなき事あるべからず候、異域より遥々波濤を凌ぎ来り、御代替を奉祝儀、我国の美事に候間、被差延候儀は不然と被仰出候、其通御評議相決し、明年来聘の筈に相成候、

出家の取締一、同年、会津の領、只今迄は心の儘に、出家を遂げ候儀に候処、自今以後は、家中町在までも、出家に成度と存候者の儀は、其筋々の役人へ相達し、ゆるしを蒙り候ての上に、可仕旨被仰出候、急度御改被成にては無之候間、甚しく取沙汰不仕様に可申付旨、被仰遣候、是も世上にては、会津領分坊主法度出でたるなどゝ申触らし候と相聞え候、

孝子の旌表一、同年冬、奉公人・町人・百姓に限らず、孝行なる者有之候はゞ、連々気を付け致見分、至つて孝行なる者は言上可仕旨被仰出候処、明暦二年、猪苗代小平潟村清十郎と申す者、親に至つて孝行の様子被聞召、中間并に御扶持切米被下候間、会所にて奉行共召仕ひ、様子弥見届け、弥律義に相勤め候はゞ、以来は又何ぞに可召仕候間、先づ会所にて仕ひ見可申候、清十郎親猪苗代に差置き候ては、迷惑可致候間、中間並の家屋敷為取、親共に若松へ引越し罷在候様可申付、自然右の御合力米にて、身代不相成品も候はゞ、追て様子可申上旨、共に御意被成候、其次第申渡し候処、親に為申聞、御請可申上と申し、在所へ罷帰り、其後親同道仕り罷越し、被仰出候趣、御慈悲難有奉存候、然れども御奉公仕候ては、親へ介抱疎にオープンアクセス NDLJP:94相成と、迷惑に存じ候、其上親存ずる仕合も御座候、旁以て御扶持御切米被下候儀、御赦免被遊可下由申之、清十郎申す所を書付け、御家老共より入御披見候、左候はゞ其通にて可差置候、彼者親孝行の段、奇特に思召し、御扶持御切米被下、可召仕旨、被仰遣たるにて候処、右の申分も、定めて親への孝行故に可之、依て清十郎親存生の内、二人扶持被下候、親相果て候後、御奉公仕り度候はば、相応可召仕旨被仰出、其趣申渡し候処、深き御慈悲可申上様も無御座、難有奉存候由申候、又同じ頃、会津郡伊北郷黒沢村長薫と申す盲人、父母に孝行の由達御耳、御扶持方三人分被下置候、寛文五年三月、父母共に相果て候に付、二人扶持は被召上、長薫へ一人扶持被下置候、又万治三年の頃、浪人岩崎助右衛門と申す者、親の終に三年の喪をつとめ候由被聞召、殊に御感歎被成、二百石にて被召出、追々御取立被成、筑前守様御代、奉行迄被仰付候、

社倉法の創設〈[#「倉」は底本では「会」]〉 一、承応の末、米六七千俵臨時に御売可成、それを諸代官へ御預被成、高利の米を借り候百姓へ、利安の御貸被成、其米を以て、御領中万一凶年の節、百姓ども御助被成度被思召、いづれも寄合ひ相談仕候て、善悪の儀、重ねて可申上旨、被仰出候、是朱子社倉法に依りて、被仰思召立候事に候、いづれも可然旨申上候に付、其年米七千俵余、金十両に、七十三俵の直に御買米被仰付、翌年明暦元年の春より、望み次第二割の利付にて、百姓共へ御貸被成候、兼ねて被仰下候には、如何様にも百姓共の為に、御貸被成候米にて、少しも御自分の為に被貸候儀に無之、百姓の為能き様子に候はゞ、如何様にも差引可仕との御事にて、年々貸渡し、冬に至り取立て候処、百姓共外々にて致借米候へば、三四割に有之、差詰り才覚成兼ね候時分は、五割にも借用候に付、甚迷惑いたし候処、社倉米は少しの利息にて貸被成、一同深く難有存候、万事結構なる御仕置にて、百姓ども豊に相成候、其米段々相増し候に付、郷村へ籾蔵を被建、社倉と名付け、其蔵敷の分は、免除地に迄被成下、此籾民間御救の筋、或は御貸米、或は被下切に被成下、其余は他に不相用、凶年の御蓄に被成置候、其後御払米にも被仰付候て、其代金小役御納戸へ御預け、社倉金と名付け、是又民間御救の節ならでは御用不成候、御蔵入の儀も同様被仰付候、又是よりさき承応の初め、塩高直の節か、又は万一飢饉の年など、御領中御救ひのためとて、金子多分塩を買ひ置き候様にと被仰付、河沼郡坂下村にオープンアクセス NDLJP:95囲塩被仰付候、高直の時分、下直に御払被成候へども、如元其分は又御買入被置いづれも難有御仕置共に候、麦作の奨励又会津は麦作至つて少き処、分限に応じ、多く作り候様にと、兼々被仰付、御入部以来は、百姓共合点いたし、殊の外麦多く作り候様相成候、明暦の末被仰出候は、飢饉の時分御救のため、麦を除き置き、百姓共麦作仕付の前後に迷惑可仕候間、其差詰り迷惑の時分に見計ひ、除き置き候麦を貸し、麦作仕廻り次第、麦にて集め置き可然哉と被思召候、然れども斯様の御仕置、其国々により、土地に叶ひ候と不叶と有之ものゝ、会津は兼ねて申聞き置き候、麦作諸国より少く作り候様に被思召候、相談の上、弥土地に叶ひ候御仕置に可成候はゞ、麦を買ひ置き、郡奉行・代官共に能く為得心、下々迷惑仕候時分に、利を安く貸之尤に候、斯様に致仰付候儀、利倍を御好み御蓄被成候儀にては、毛頭無之、飢饉の時分下々御救被成度ため計の思召に候、大勢の者を救ひ可申と、兼ねて覚悟致候には、金銀米銭によらず、毎物蓄の余計有之様に、常々手廻り仕候儀、専用に被思召候由被仰出候、寛文の頃にや、里民御救の儀に付、御意被成候は、御救方高に応じ候ては、御心得無之候、〈高の多少に応じ、御救ひ方申上候ものと相見え候、〉勘定は仕能く可之候へども、飢饉の節など、高に応じ候ては、痛み候者へあたるまじく候、不作などの時は、高に応じ候儀可宜候、総て肝煎百姓に計任せ置き候ては、依怙可之候、斯様の儀、其所案内の者に申付け候へば、所の者心立などゝ存候に付、此者は旧来心立もあしく、此者は我心に不合などゝ、私を挟み、飢饉の節むらなく不当事有之ものに候、所の案内も不存、律義なる者、申付け候へば、其所の飢を考へ、人数に応じ救ひ候に付、宜しきものに候、重ねて御仕置方の心得に可〔マヽ〕成間、覚え居候様に、御物語の様に被仰候、

一、明暦二年丙申、公方様御年十六、林道春被召、御前にて大学首章の講釈御聴聞被遊、拝領物被仰付候に付、中将様殊に御満悦思召し、世の人は左様には存ずまじく候へども、聖人の道を御聞可遊と、被思召寄候は、天下御長久の基にて有之、目出度候儀、過之まじく候と御意被成候、日来聖学深く御尊信被成、他人へも御すゝめ、又学問を好み、読書など仕候由、被聞召候節は、御喜悦被成候間、御近習の者は不申、御手遠の諸士・諸奉公人・町・在郷迄も、御風化によりて、聖学に志し候者不少候、

オープンアクセス NDLJP:96米価の調節一、同年の春の頃かとよ、旧冬より若松米価高直相成り、町人共致迷惑候間、他邦へ米不出様被仰付下度由、訴ひ出で候、然る処御家老・奉行の面々評議いたし候は、穀多く申付け候ては、御家中売米仕候者、可迷惑候間、不然、又米下直に成候へば、軽き奉公人下々、年中少々づゝ米買ひ候もの悦可申、高直にては、借貸も不相成迷惑、町町人共も連々可困窮候、依之御家中の売米は、時相場にて八千俵余御買上、不残他方へ相払ひ候積り、又町中へは御蔵米を、折折御払に可致旨、申付け候処、翌日より米并に雑穀迄も、下直に相成り、町人共相悦び候、乍然夏中に至り、自然御領中詰り候様にては如何に付、諸郷村有米を相改め、諸人養可申程差積り置き候由、江戸表へ申上候処、何れも入念明細相改め、一段尤の仕方、御喜悦被遊候、御領中の御仕置、いつとても斯様の所専一に候、以来も斯様の御仕置、一入尤に思召し候、且御領中御救為成、兼ねて勘金被仰付置候間、御家中の売米八九千俵、早々買取り、町中への売米不足に候はゞ、御蔵米にて其時の相場次第無滞可売候、たとひ米下直に相成り、御損亡に相成候とも、兼ねて御領中御救可成御心懸の金子に候へば、御失墜少しも不苦、弥勘金を以て、売米一刻も早く買取り、下々甘き候様可申付旨、御意被成候、又いつにても、会津にて米の高直下直を見合せ、或は留め或は出し候儀、よく見合せ、町人・百姓不迷惑様可致、差引米の直段は、五日十日の内にも、高下有之ものに候間、江戸より御下知は難成候と迄被仰、誠に難有思召に候、右の通、御慈悲の御仕置に付、町中も寛に相成り、既に寛文の中頃、町中孤独の者、并に及飢候者には、兼ねて御救米被下候故、近年米高直にても、餓死の者は無之、且又小盗等いたし候儀も、近年次第に無之、此段は御救故と存候由、申上ぐる儀も有之、御政道の験著しく相見え候、

大寄合一、同年、会津表永々御留守の儀に候間、北原采女始め、御家老・奉行の面々、会所へ三八の日を大寄合日とし、出席いたし、諸事致僉議候はゞ、御為に可相成儀も可之、役人ども御用達し候にも、可然被思召候、且諸役之勤め様善悪の儀、無油断連々承り届け、仕方悪しき役人も候はゞ、差替へ可申、御役儀能く勤め候者候はゞ、其品吟味仕り、御執成可申上候、其外領中風俗の儀も、心を付け致僉議候様被仰出、又大寄合の時には、大横目も相詰め罷在り候様被仰付候、大寄合には御オープンアクセス NDLJP:97茶被下、御茶坊主相詰め、台子を仕懸け給仕いたし候、又公事場へは、一八の日公事奉行、二六の日郡奉行、五九の日町奉行罷出で、受前の公事承之、裁許申付け、埓明け候由にて、いかにも閑なる様子に候、会所はもと三の丸に有之、其後今の割場の地に被相建、寛文十一年、今の場所へ被相移候由に申伝へ候、

一、此頃御領中百姓共、寛に相成り、就中当年は秋上げも存の儘に致し、百姓共悦び候由被聞召、何よりの御楽思召し、御満足被遊候、然れども少しもゆるかせに相成候へば、第一百姓は奢り易きものに候間、自然寛にて奢りたる百姓など候ては、郡奉行・代官共無油断気を付け、左様の百姓には急度不奢様申付け、未進など不致様に仕り、常々無油断差引、肝要被思召候、年貢よろづ定の通急度相納むる上は、何様の稼をも致し、百姓共の徳分に成候様に可申付候、何程も稼出し次第取りからす事にては有るまじく、其趣不断申、為申聞候はゞ、百姓共も合点いたし、油断仕るまじき事に被思召候由、こまやかに御意被成候、

法令の周知を図る一、この頃御領中万づ納方の催促、其外勘定などの儀に付、百姓共疑心を存じ、又は上を御恨にも存候儀は、毎物申付け様悪しく候へば、下々は不明にて有之ものに候間、諸代官此旨を存じ、下々迄明細通じ、さまよひ不申、毎物有体に得心仕候様に、代官共精を出し申付け候様、一両年中には、御横目衆巡見可仰付候、兼ねて此旨を存じ、諸代官油断仕るまじく候、善悪の様子達御耳候はゞ、其品に寄り、可仰付旨御意被成候、又御横目衆へ被仰含候は、御領中廻り、在々所々にて入外いりほがなる儀を、相改め候儀は不及候、下々にはむざと無詮事を申すものに候、何の訳もなく罷通り候ては、善悪も知るまじく候、郡奉行・代官、其外役人共万事順路に申付け候歟、又は其所に寄り、非義なる事に、百姓致迷惑品も候はゞ、依其様子、委相尋ね候儀に可之旨、御意被成候、御領中御蔵入迄度々被相廻、下々の様子被聞召、下情の壅滞せざる様被遊候、

諸役人の風儀を戒む一、御直に官・反・内・貨・来の戒を御教被遊、諸役人の風儀も清廉を尊び、請謁苞苴の筋相慎み、小身の軽き者迄、それを旨とし相勤め候由に候、兼ねて御意被成候は、諸奉行等の手代、其支配いたし候処の者より、むざと進物を取らざる様に、可申付候、取り候ものは少しの様に候へども、其心根を以て手代の御奉公つくに、私をいたす物に候、左候へば下の迷惑いたす事に候、就中代官の下代、其代々郷村へ可オープンアクセス NDLJP:98参候間、無油断申付候の御教に有之、又郷頭并に大百姓等修有之、屋作等に至る迄、応ぜざる結構なる儀仕り、或は買ひ置き、或は諸職人を召置き、大なる細工仕り候様被聞召、如斯の儀、一分の取廻し計にて、左様の修可之儀とは、不思召候、何れ其下を掠め、私有之様被思召候、急度可申付旨被仰出、貪汚の御戒不浅御事に付、御教化によりて、諸吏清廉の風、益盛に相聞え候、中にも珍らしきは、御蔵入郡奉行飯田兵左衛門儀、飯田兵左衛門寛文中より相勤め、名ある者に候処、御蔵入村々より進物申請け候分は、常々御用に付、罷登り候村役人百姓共、己が居宅にて宿いたし、其入用にいたし候由に候、御蔵入の者共は、それとも不存、皆々気遣なく止宿いたし、殊の外悦び候、然る処進物の品々、并に其入用の様子迄、委しく帳記いたし置き、追て御役儀退き候時に其帳記の儘差出し、御家老・奉行の面々入一覧候と申伝へ候、其清くして汚れざる事如斯に候、〈兵左衛門公事奉行相勤め候頃、盗賊の穿鑿有之、糺明の上、白状に及び候者有之、獄辞取究め、罪の所当ともに遂批判申上げ、猶又兵左衛門心底に落入り兼ね候儀有之、其存寄は外に一書を添へて申上候、然る処、其者誅伐申付くべき旨、御下知に付、兵左衛門申上候は、一人たりとも、非命の儀を以て、民命を御絶被成候は、不軽儀に付、穿鑿の上に於ては、無紛様に付、其趣を以て、取究め候へども、拙者心底の通、書面には雖書取候間、中将様に御通し被遊まじくと奉察候、罷登り御直に申上広由申すに付、其儀には及ぶまじく、御下知の通申付け候様、御家老・奉行の面々差図致候へども、兵左衛門得心不致、人命は重き儀に有之、穿鑿役人の身分として、心底に落着不仕儀難申付、今一応言上に及ばれ被下座旨、達て申すに付、其趣達御耳候処、可罷登旨被仰出、早々出府致し、委綱申上候へば、悉被聞召届、其罪人兵左衛門へ為御任成候旨、被仰出候に付、其者牢会為致置き、ゆると穿鑿いたし候へば、無程別に盗人相顕れ候に付、最前の罪人は無事に相済み候由、申伝へ候、〉

一、同年、台城二の御丸に、権現様御宮有之所、中将様被仰上、紅葉山へ御遷宮に相成候、

明暦の大火一、同三年丁酉正月十八日、江戸本郷辺より出火、神田筋霊巌島迄焼払ひ、中将様桜田御屋敷に、御詰被成候処、翌十九日、又候哉またそろや小石川辺より出火、風烈しく吹立ち焼上り候に付、中将様御登城被遊候処、煙一面御本丸へ懸り来り、危き様子に付、公方様上野へ御立退被成可然由、被申方多く有之処、中将様被聞召、御本丸へ火懸り候はゞ、西の丸へ御移被遊可然候、若し西の丸も又焼失候はゞ、御本丸焼跡へ、御陣屋被相建御座候、上野などへ御立退被遊候事は、以ての外不然由被仰上候由の処、やがて竹橋御門内、紀州・水戸の両御屋形一同に燃え上り、御本丸御殿守始め、御殿向へ火移り候に付、未の中刻公方様西の御丸へ、御動座被遊候間、直に西の丸へ御上り被成候、其日の夕方には、また糀町より出火いたし、外桜田より芝海手の方へ火懸り、江戸中一円の大火と相成り、古今未曽有の変にオープンアクセス NDLJP:99之、其時中将様被仰候は公方様には、斯く御安座被御座候処、天樹院様・千代姫様・両典厩様などの御安否は、各御聞届有之哉、何れへ渡らせられ候哉と、御老中へ御尋被成候へば、何れも未だ不承候と、御返答に付、それは余り御無沙汰なる儀に候、早々御使番を以て、御座所御聞出し、御尤に候と被仰、御不興気の折節、御一座の衆の内にて、肥後守殿浜御屋敷も、定めて焼失にて候はむ、御妻子方は何方へ御立退被成候哉と、御申しに付、中将様御返答に、定めて屋敷も焼失候はむ、斯様の節に候間、我等式の妻子の儀は、成り次第の事に候と、被仰候を、阿部豊後守殿御一座にて御聞被成、後に御咄有之由に候、色々と御苦労被遊候て、天樹院様始め、上々様方の御様子、漸く相知れ候、此節下馬にては、人を払ひ一人も不置候処、御腰物番高橋市郎左衛門儀、御供仕候て、近藤濃保理殿へ御断申候て、自分の持道具管鎗へ縄一尋程結ひ付け、是を印に、下馬に御供方少々まとゐ罷在候、他の者一人も不差置候へ共、肥後守殿衆各別に候とて、近藤被聞届候由に候、中将様御城より市郎左衛門を被召候て、暮に及び燭台・蠟燭など御屋敷より持参、西の御丸へ差上げ、粥など持参り候て、御側衆へ御振舞被遊候、此時井伊掃部頭殿には 御供一人も無之候て、御一人立ち、屋敷へ御下り被成候を、中将様御覧被成、市郎左衛門推参仕り罷在り候を、特に御賞美被成候、此夜浜の屋敷も、不残御焼失に付、長門守様御下知を以て、御舎弟様始め奥向、其外家中の妻女迄、無難に品川東海寺へ為御退遊候由、被仰上候、桜田御屋敷は御別条無之候、

浅草の米廩を発く一、此時に浅草御米倉へ火懸り、消え兼ね候に付、町々より人夫を為差出、消留め可然との御事に候処、中将様被聞召、町中の者居所を失ひ、路次に迷ひ居候時に、人足申付け候儀、不然候、類火に逢ひ、食物差支へ候者は、自身に御蔵の火を消し、力次第に御米をも持ち出で候はゞ、其分可下由御触候はゞ、火消といひ御救といひ、二つともに可然由、被仰候に付、いづれも可然との御事にて、其通被仰付、火消にも御救ひにも相成り候由に候、

回向院一、此時廿日迄火鎮り兼ね、三日三夜程に大火事にて、焼死の者十万人余と相聞え候、正月廿四日、台徳院様御霊屋へ御代参御勤被成候節、京橋・中橋通御途中も、焼死の者焦骸夥しく有之を御覧被成、甚御気毒に被思召、其日御登城、公儀の御物入を以て、死骸ども取集め、埋被仰付然由、御相談被成、思召の通被仰付候、今オープンアクセス NDLJP:100の回向院にて、其頃万人塚と申候由に候、

一、長門守様御事、品川東海寺へ御立退後、御病気にて二月朔日御逝去被遊候、同二日為上使、内藤出雲守殿、御朦気御尋あり、御老中方にも為御悔御出に付、大火以後、上下の諸人安穏に無之、御大事の時に候、此度自分の不幸などは国家の憂に較べ候ては、如何計の事に無之、可籠居時節とも不存候、何卒忌御免被成候はゞ、速に出仕いたし度候、御執成頼み入り候由被仰、頓て忌御免被遊、御勤仕被成候、

一、此時に都下米穀乏しく相成り、諸人甚迷惑致し、且在府の諸大名多分居屋敷焼失、難儀の事に付、在府の面々御暇被下、帰国被仰付然旨被仰上、御暇被下候に付、米価安く相成り、諸人安堵いたし候、

災後の賑恤一、火事以後、早速御府内六箇所にて、七日の内、施行の粥被下、或は町中類火の者に、十六万両の御金被発御救被成、難有御事共に候、且又類火の御旗本衆をも御救被下、居宅作事料可下御沙汰有之処、大造の御失費にて、御金蔵も無残程に可之とて、御同意無之方も有之、埓明き兼ね候、中将様被聞召、総て官庫の御蓄と申すは、斯様の時に下々へ御施し、士民安堵する様に被仰付候儀、国家の大慶とする所に候、左なくては御蓄一向無きにも同様に候、如当年大火は、古今不承儀、早々発せられ候様ありたき由被仰、不残御救被下候、

倹約令の施行一、同年火事以後の御物入にて、御要脚御手支に付、諸大名へ御借米の儀、可仰付御評議有之候処、是は不然とて、御得心無之、たゞ上下共に専一に倹約被仰付然、但し御旗本の面々御知行の内より、免を御かり被成候程の儀は、苦しかるまじき由被仰候儀、有之由の処、是等の趣にしたがはれ、同年三月、諸大名并に御旗本の衆・町中迄も、総て倹約を専に被仰付、献上の品々御省き被成、老中諸役人への音信も被相止、衣類居宅の分量等、何れも奢侈の無之様、手軽に被相定候、

一、当春の火事に、御城の御蔵へも火懸り、天下の名物・御代々の御宝器等、多分焼失致し、其儀世上流布いたし候ては不宜候間、成る程穏密に致し置き可然歎と、御老中方御申しの処、其儀には及ぶまじく候、斯様の大変に候処、姦賊の沙汰もなく御無為なる、国家の幸過之まじく候、器財などの類は、何様の御品たりとも、時オープンアクセス NDLJP:101ありて焼失仕候上は、夫迄の事に候とて、其段などは、少しも御心に不懸候、実にも此時の火事、古今未曽有の変に有之候間、先年由井・丸橋等の逆徒、火を放ち兵を起すべしと、巧み候事も間近き儀、いかさま一通の事にはあるべからずと、諸人不相安由の処、万事の御政道其図にあたり候には、無程安堵いたし、不相替目出たく御静謐の御代と相成り、中将様は不申、御執政の衆、御辛労大方ならざる御儀と相聞え候、

領内に倹約を令す一、万治元年戊戌、他家にて平生も、家中より普請の着到を為出、去年の火事後は、家中の価を受け候御方も、相聞え候得共、中将様には、左様の儀、平生御家中へ不仰付、火事以後とても、何の役も不仰付、其上にも火事に逢ひ候者共、早々御救被下、兼ねても折々御金被貸、取続ぎ候様にと、御情を被加、難有候事共に候処、其甲斐も無之、諸士身体不取直儀、御苦労被遊、度々倹約の儀御教有之、猶又今春御意被成候は、世上倹約の儀、兎角従公儀、猶又被仰出之候へども、会津表家中の面々、万づ倹約可仕候、常に鑓為持候儀、組頭は為持可申、其外千石以上の者、為持候ても不苦程の儀に思召し候、然れども必ず為持候様にと思召し候儀には無之、武道具と乍申、常は斯様の類も手軽可仕候、平生の儀数多き事に候へども、衣服・飲食・家居・器財、此品を専倹約いたし、召仕の者も人少に可仕候、只面々の可嗜所は、覚悟立専一に候、諸事を倹約に仕り、金銀をむざと蓄へ置き候様にとの儀には、曽て無之、且振舞の儀、急度可停止其外祝言并に弔の儀迄も、軽く可仕候、総て年寄ども能く心得いたし、自分にて急度相嗜み、諸人に可見候、且又江戸に罷在り候者は、先早々倹約可仰付候へども、未だ従公儀仰出之故、世俗に違ひ候儀如何に思召し、御見合被成候、今少し御覧被合、急度可仰付旨、御意被成候、

戸枝彦五郎一、同年の夏の頃、戸枝市左衛門末子熊之助、十二歳に相成り候を、御小姓に被召出候、難有事に候、熊之助儀、市郎右衛門小身にて身代不相成、大勢の兄弟共懸り居候を、迷惑に存じ、何方へなりとも罷出でたき由、母へ相願ひ候へども、年にも不似合儀を申すとて、叱り置き候処、存じ止り候心底無之、当春御徒目付戸枝平兵衛江戸へ上り候節、滝沢峠へ為見送参り、平兵衛へ向ひ、親に懸り居候儀、致迷惑候、何方へなりとも罷出で度と兼て存じ、父母へは書置き致候間、江戸迄召連れオープンアクセス NDLJP:102呉れ候様達て申之、幼年の者に付、平兵衛色々賺しなだめ、教訓を加へ候ても、斯く迄存じ詰め、戻り候事は不相成とて、自害可致由にて、脇指を抜き候故、不是非、召連れ候処、中将様被聞召、幼年には奇特の者に被思召、行々可召仕御含も有之由御意被遊、御前へ被召出、御小姓被仰付候、親共に於ては、乍幼少不届の次第、必定御難事も可之と、迷惑仕り居候処、不存寄仕合、感涙を流し相悦び候由に候、熊之助儀、段々宜しく生立ち、中将様御覚も宜しく、御学問の跡打に被成候、後年元服被仰付、彦五郎と改め、小番頭被仰付、多年御側に被召仕、文学相嗜み候者に付、御事実の書継被仰付、御葬送の事も、御遺命にて添奉行被仰付友松勘十郎へ差添へ相勤め、最前の御眼力に不違、宜しく御奉公仕候、

正之の女前田氏に嫁す一、此頃第四の御女子於松様御事、加州へ御縁組以前、松平安芸守殿の御嫡弾正大弼殿へ、御緑組有之、御願被仰上候由の処、思召有之、不仰付候、其時に片桐石見守殿御出、御縁組御滞り、御気毒の由御申し候へば、少々御赤面被成、御汗をながされ、手前婿に上杉播州は、過分なる事に候、量分も知らずに、又大身の衆と縁組申合び、思召を蒙り、恐多く候との御答に付、石見守殿御手持なく、わざと他の事に、御咄を移され、御帰り被成候、無程御城に被召、加州の御縁組、思召を以て被仰出御存じ寄られず、難有御満悦被遊候、後に承り候へば、此時分、中納言利常卿、兼ねて御内頭被仰置候事の由に候、利常卿直に御孫中将綱紀朝臣御同道にて、御出被成、利常卿被仰候は、加賀守事御自分へ御頼み申候、国政等の儀迄も、何分御差図御頼み申入れ候最早我等は、何も構ひ申すまじくと被仰候由に候、其後何儀を申上候ても、肥州へ為任置き候間、我等には申すに不及候、肥州に伺ひ可申由、御申被成候と申伝へ候、今以て加州の御家には、中将様被仰候儀ども、相残り居候儀も、有之由承り候、於松様御入輿の時分、御資装料金一万両、御拝領被遊候、〈加州にて御召の御駕は、中将様御召駕と同様の由、実に然りや否、又御参観御下向の御旅|装は、承応中御上京の節の御様子に被遊、諸事御質素の御定の由をも粗及承候、〉

一、於松様加州の御屋敷へ御入輿後、ある御附の女房芝御屋敷へ罷上り候時分、田中三郎兵衛詰合ひ候はゞ、逢ひ申したき由に付、三郎兵衛御広敷へ罷出で、一通りの挨拶も相済み候て、彼女房申し候は、内々御目に懸りたく存じ居候儀、有之候へども、能き折も無之打過ぎ候、御新造様の御金、大分有之、只差置き候も無益なる儀、少々宛も利倍致し候はむには、後々の御為にも成り可申、宜しく御計ひ可オープンアクセス NDLJP:103下由、申候処、三郎兵衛儀、其事は兎角にも不及候て、つくと其顔を見詰め、小声になり、気の取違には無之哉と、申すに付、打驚き、夫は何故に候哉と、承り候へば、三郎兵衛、何の御不足有之、御金を御蓄被成哉、夫故の事に候と、申すに付、彼女房腹立いたし、三郎兵衛、つがもなき事被申候人にはよし、押付け中将様可入候間、御直に可申上とて、間もなく御入の時分、罷出で申上候へば、中将様其顔を御覧被成、そちは気は違はぬや、三ヶ国の大守を夫とし居ながら、何の不足にて、金銀など蓄へ候儀、可之哉と、御意被成候故、其女房退きて甚恥入り、女心にて不心付居候、君臣はたを被合候とは、御家の衆は不申、加州の衆も申候へども、今迄は不存、今日始めてまのあたりに、其事を見候とて、他の人にも咄合ひ感心仕り候由、申伝へ候、

一、万治の初、上杉播磨守殿御病気大切にて、御跡目も不御座候間、井伊掃部頭殿・酒井空印殿、御相談有之、御末男新助殿様御事、御養子可然旨、御申候へども、御得心無之、其後寛文四年、南部山城守殿死去、実子無之、舎弟両人有之候へども、心に不叶候間、上の御思召を以て、相続被仰付下たき旨申置き、死去被致候、其時も新助様可然由の御沙汰有之候処、中将様御挨拶に、是よりさき、上杉播州跡目の儀は、我等娘も彼家の後室として、罷在り候事に候へば、遣し候ても、不苦程の儀さへ、得心不仕候、南部家へは、何の好身も無之候へば、たとひ上意たりとも、達て御断可申上由被仰候、

江戸用水の修築一、是も万治の初と相聞え候、兼ねて江戸用水の儀、御苦労被成、山手は水良く候へども、其他は地形悪しく水不宜、諸人の難儀に有之、火事の時なども、差支へ候に付、水道の致方御工面被成、玉川の水を引取り、用水と可致との相談に相成候、其時に、武用のため宜しからざる旨、申す衆も有之候処、中将様御挨拶に、国郡を守るべきの城に於ては、堅固を旨と可致事に候、天下の御座城に於ては、万民便用に事足り、安居いたし候儀、御要害の第一と存ずる事に候と、被仰候て、御決定被成成就、永く便利と相成候儀に候、

箕田下屋敷の拝領一、同年夏、兼ねて御願被成候処、箕田にて御下屋敷御拝領、御喜悦思召し候、然る所御受取の節、地割やゝ聞えざる致方有之に付、中将様御腹立被成、既に御拝領被成まじくと、被仰候に付、何れも殊の外迷惑いたされ、不念仕候との申訳被致候、オープンアクセス NDLJP:104中将様被仰候は、我等心得には、慥に依估と存候へども、不念と被申候上は、不是非候、兎角致言上、上より御吟味の上にて、弥不念に相極り候はゞ、其上にて御拝領可成との儀にて、御老中にも御聞被成、御苦労かりにて、さまと被仰候に付、中将様御挨拶被成候は、役人たる面々、少しにても私を致す事、御為ならざる儀に候間、向後のみこらしめにも、被仰付候様にと存候へども、我等事にて候へば、其通に致置き候、外様大名衆段々に、下屋敷願ひ候衆、多く相聞え候間、依估贔屓の沙汰少しも無之様に、被相勤候事、肝要の由被仰聞御勘忍被成、御請取候故、場所悪しく地形築立て候に、人脚大に懸り候事共に候、翌年四月、御普請成就いたし候、

一、同二年己亥夏、承応中被仰出候御家中の掟書、此度十一箇条の御条目に、御改定被遊、内藤源助自卓、江戸表へ被召寄候時分、御渡被遣候、且又百姓共衣服の制、乗物停止の御法度をも被遣候、

江戸城の天守一、同年秋、江戸の御城御殿向、残らず御普請成就いたし、御天守は出来不申候、是は火事以後、御天守、始め御普請の儀、御相談の時、中将様被仰上候は、天守は近代織田信長以来の事にて、さのみ城の要害に利あると申すにも無之、たゞ遠く観望いたす迄の事に候、当時武家・町家・大小の輩、家作仕候砌に、公儀の御作事永引き候へば、下々の障にも可相成候、斯様の儀は、国力を被費候時節に有之まじく、当分御延引可然との儀にて、御天守の御普請は、御沙汰相止み候由に候、

領内の賑救一、同年冬、会津表鰥寡孤独の貧人ども、不飢様、随分可申付候、下々の施物の儀は、米迄に無之、なにか取りまぜ候て、身命つなぎ申す物に候間其心得いたし、施す様にと、御意被成候、此以来毎度御改にて、一人一日二合づゝの積、社倉米の内を以て被下候、又貧人にひとしき者共も、其者稼ぎ相成候まで、此積を以て、五箇月・三箇月又は七八箇月被下、御取立不相成候、其儘被下候、又所縁無之乞食共、橋下或は木の根などに居り、風雨に当られ倒死に候体、不便の事に付、乞食小屋被仰付、馬場町末に被建置候、

一、同三年庚子、当年日光山御参宮の儀、去年中被仰出、其節は中将様御留守被遊候筈に候へども、近頃度々出火有之、不穏候間、先御延引被遊可然旨被仰上、御沙汰相止み候、又同年の春諸諸名の献上等、最早如旧例相復候ても、苦しかるオープンアクセス NDLJP:105まじき由、御老中方御評議の所、中将様、先是迄の通被成置然由、被仰述候、是又御沙汰相止み候由に候、

堀田正信時事に憤激して采邑に帰る一、去る慶安の末、由井・丸橋等御幼君の時を窺ひ、放火の紛れ兵を挙げ候て、志を可遂と、企て候儀も有之、露顕に及び、御仕置被仰付候処、其隠謀に一味せし人、大身・小身かけて余程有之などゝ、後々風説専ら相聞え候へども、其後無事に相済む、或は明暦の三年の大火には、御殿向始め、御殿守・櫓門等迄、灰燼と相成り、都下の人民焦爛の骸、街に満ち、上下の諸人眉をひそめざる者無之処、御救恤の御政道共無残所、無程安堵致候、然る所、万治三年十月、堀田上野介殿、己が居城に引退き、御当代最早十箇年に相成り候処、年寄共奉守様悪しく、万人いさみ候事一日も無之、御旗本の面々困窮に及び、武備の励も薄く相成候間、御足高の助けにも被仰付たき志願にて、領地差上げたき由、中将様并に阿部豊後守殿を宛所と致し、一書を被差上候に付、其実弟脇坂中務少輔殿御預被成候、書面の趣、野心がましきは勿論、一分の事にては無之、其家を棄て候て、天下の御為を存じ被入候儀、憤激する所より出で候儀と相聞え候、主幼く国疑ふと申す古語も有之、斯様の御時節、御大任に被当候に付きては、至公至誠を以て、天下の御為、一筋に御謀り被遊候御心ばせの程は、別に相記し置き候条と、御言葉の端にも、自然相顕れ候儀に候、然れども常々上の御威光を被重、廷議の漏洩を深く御慎被成候て、謙抑を専と被遊候間、其御事業の今日に申伝へ候儀とては、纔計ならで無之、是併御盛徳より出づる所といへども御家来共の身に於ては、今更遺憾不少候、〈上野介正信の事、其旧臣の記せしといふものに、初め父加賀守正盛、大猷院様御他界の節、殉死被致候時分、正信へ被申置候は、御末期の時分、上様へ御直に弓矢の道、少しも御失念被遊まじき旨、上意被遊、我等類もなき御取立の身に候処、御馬先の御奉公も不致、追腹いたし、寸志の御供計仕候儀、残念千万なる儀、上様には御幼年の儀、此後万一御年寄共奉守様不宜、弓馬の道も、疎に相成候はゞ、侍の吟味も御失念可遊候、左候はゞ当家は格別の家筋に候間、上の御為にも成候はゞ、城地を差上げ、寸志の御奉公と可致との遺言有之、御当代最早十箇年に相成り、御旗本の面々有志輩も困窮いたし、小身にて大役被仰付、御足高御加増等不下、人馬差出候事不相叶、武備の励も、薄く相成候由にて、上野介殿、殊に気毒に被存、酒井雅栄守厳はくは、兼ねて続きがらも有之由にて、其存念ひそかに被申候儀有之候へども、難成仔細有之由にて、取上不申候、依之熱々被考候は、天下次第に疲弊し、御旗本の面々如斯困窮に及び、それに古代より、被立置候京の大仏を打潰し、銭になし候などは、天下の恥とも可申事に候、御幼年の節、利勘の御仕置のみにて、万民相痛み、執政の衆夫程の御為を存候はゞ、自分々々の酒宴をやめ候ても、其銭を為拵、民の潤に相成る様取計有之度事に候、父の遺言も有之儀に候間、領地十三万石余差上げ、御旗本の面々、御足高の助けにもと存じ、寸志忠勤の端と存じ究め、其儀江戸に在りながら申上候ては、親類にも留められ、兎角存念難達と思ひ究め、其次第を直筆にて認之候て、中将様並に阿部豊後守殿を、宛所に欲し被差上、直に御暇をも不申請、其領地佐倉へ被引退候、依之其弟備中守正俊へ、上使被仰付、御目付両人被差添、佐倉へ被差下、被仰渡候は、其所志感じ思召し、願の通領地被召上候、追て言上の趣を以て、御沙汰可及との議に有之、忰帯刀へ御合力として、一万俵被下候に付、頓て、城受取に付、安藤対馬守厳被遣、上野介殿は、其弟脇坂中務少輔殿へ御預被成、信州飯田へ被遣、一万石の格オープンアクセス NDLJP:106式にて、可罷越旨被伸付候、其後可召返思召有之、河越にて七万石可下御沙汰に付、中将様より御書を以て、奉書到来次第発足、途中より忰帯刀屋敷へ着の儀被相伺、着後阿部豊後守宅にて、可仰渡候間、無異議御請可之由、被仰進候処、備中守殿此儀を承知有之、ひたすら御免被下、其通にて被差置候様、再三御老中迄御断にて、近頃不届の儀、備中守殿不入事とは、思召しながら、右の仕合にて御沙汰相止み、其趣猶又中将様より、被仰遣候由を載せ置き候、実録に候哉否、世に広く伝ふる所とは、異なる儀も有之、中将様御大政に被預候ても、表立ち候事、御自身に被成候儀とては、不承及候へども、上野介殿へ御内慮被仰遣候は、御名宛の書付被差出、候故にも、可之哉と、被察候、上野介殿の事、上野御取扱といひ、諸事尋常御預人とは、格別なる儀共にて、御憎み思召し候事とは不相聞、いかさま其仔細ある事とは、はかり知られ候、御書被遣候儀も有之に付、其有増を記し置き候、 ○上野介殿には、兼ねて松平伊豆守殿と中悪しく、此度の儀も、専ら此人の事を非議し申され候事と相聞え、其書中にも、御奉公不届の仁を可相果と、度々存候趣と相見え、或は厳有院様御子不御座を苦労にし、御預の身ながら都に上り、神社仏閣に祈祷し、或は薨御の時分、鋏刀にて自害致され候始末、いかさま気節ある人の様には被察候、〉

ー、松平美作守殿御本丸御留守居被仰付置候処、近頃江戸度々出火にて、ある時煙御城へ懸り危く候に付、奥平大膳大夫殿・松平甲斐守殿、其余の若手の大小名、手勢召連れ駈着け、被消留候に付、為御褒美、時服拝領被仰付候、美作守殿御役分に就いては、其時の御働不大方候へども、御褒美の御沙汰も無之候に付、無面目存じ、不快を懐き、御役御赦免の儀、度々御老中迄、被相願候、官医平賀玄純は、美作守殿心易く出入いたし居候処、御屋敷へ玄純参上の節、其趣御物語申上候へば、中将様被仰候は、美作守殿老功の仁として、御大事の御役御勤めながら、若輩の衆と、功を被争候事には有之まじく、此度一同御褒美の御沙汰など、有之程にては、都て御不本意の筋に可之候、御大役の御身分、一度火に懸り御消留め候とて、御恩賞など御望み候事とは不存候、此度の如き小事は、美作守殿手に足らざる程に被思召候故、御大事の御役をば、被仰付たるにて可之、御役儀御辞退の事は、我れと我身を軽しめられ候筋の由、御異見被仰進候に付、美作守殿其誤を始めて御心付き、中将様の御言葉に感服被致、御老中の御宅へ御出、其趣被申述候由に候、

井伊直孝の失言一、或時に、井伊掃部頭殿御宅へ、中将様御出、掃部頭殿御手前にて、御茶被進候て、此頃、ある方より、此茶器を被贈候、随分断り候ても得心不致、無下に返しやり候も、気毒に存じ、其通致し置き候、其許にても斯様なる儀、可之と御物語に付、中将様被仰候は、心底にある所は、人にもこたへ申す物に候、我等ふつと貰ひ候心無之候間、人より贈り候心も無之候、少々は御心持に有之候故、人も試み申すにて可之と、いかにも御取飾もなく、無造作なる御答に付、掃部頭殿御笑ひ、存じの外なる詆責に逢ひ候と、被仰候由に付、右の通御心置なき御交にて、御力を被オープンアクセス NDLJP:107合、国家を御保護被遊候事故、去る万治中、掃部頭殿御卒去の節、早々為御悔御出有之、其節権現様以来、御奉公被致、殊更武功の人にも候処、近頃惜しき人被相果候、公儀の御事欠に候と、深々御悼み被成候由に候、

阿部忠秋の篤実一、或時に阿部豊後守〈忠秋朝臣〉を御誉被成候て、総じて昔より執権の家々には、諸人奔走いたし、出入も不断有之、全盛の様子は、自然他よりも相見え候儀候処、豊州の屋敷常に静なるは、其権に誇られざる故に候大猷院様御目鑑にて、将軍様御幼稚より御附被置候は、斯様なる篤実の人故に候と御意被成候、右の通の御方故、ある大名より豊後守殿へ、珍しき鶉の由にて、進物有之時に、兼ねて御飼ひ置き候鶉籠の口を、皆庭の方へ向けさせ、口をあけ、不残被相放、上の御威光にて、人にも執し思はれし身にては、物は好くまじき事に候、我等近頭ふと鶉をすき飼ひ置き候へば、はや如斯に候、向後は鶉ずきを可相止と、物語有之由に候、常々少しも御自分の権威に御誇なく、謹慎の御方と今以て申伝へ候、〈室鳩巣の雑話に、此頃諸執政何れもつゆ身に驕なく権に誇らず、何事もおほやけに沙汰せられ、至公至明にして、諸侯諸役人に対して、私の求なく私の怒なく、只正道をもて下知せられし程に、其威令下に行はれしかば、諸侯諸役人も各おそれ慎みて、身持正しかりしぞかし、其政を謀るには、虚文を制へ事実をつとめ、人を取るには、材弁を退け実行をすゝむ、凡百の有司、何れも廉清寡欲なりしかば各身を守り職を恭くして、時勢に附かず身計をなさゞりき、是によりて、庶政あがり、百事熈り、たゞ此時を別して盛とすと、記し置き候、大猷院様御代末よりして、厳有院様御代頃の事にて中将様御盛の頃の様子に付、為参考爰に附録いたし候、〉

湯武放伐の論一、板倉周防守殿〈重宗朝臣〉京都より下向、御参会の時、湯武放伐の事、京都にて儘者共と、度々講究いたし候へども、道理分明に無之、如何被思召候哉と、御尋被成候に付、湯武放伐の論は、聖賢の説既に決し候儀に候、其義理に当れる事は、申すに不及候然れども学問の道は、明に知りて、能く行ふに可之事に候処、我等の輩湯武の事を、手本と致し候儀は、入用無之候、幸に良師と可仕は、文王・伯夷にて可之、それを手本と心得、不足有るまじく、湯武の道は不相弁候とも、心に懸り不申由、御答有之、周防守殿御感賞有之候由に候、山崎闇斎御碑文に、欲夷斎無怨之仁、厭湯武革命之義と、有之候は、此御志節を申したるにて、可有之候、又二程治教録上巻に韓退之、羑里操曰、臣罪当誅兮、天王聖明、程子曰、道得文王心出来、此文王至徳処と被相載、常々文王至徳の処は、孔子以来、韓愈・程朱これを発せる由被仰候由、又泰伯至徳の処は、孔子以来、たゞ朱子これを明にすとも被仰候、大王剪商の志有之、泰伯従はず、遂に其後を泯されしを、深く御感歎被遊候よしに候、

オープンアクセス NDLJP:108安藤帯刀を評す一、紀伊亜相頼宣卿へ、初め安藤帯刀を御附被遊候時に、権現様より、土井大炊頭殿を御使として、帯刀へ被仰含候は、頼宣年若にて候、万一逆心の企にても有之候はゞ、速に言上可仕候、此事起請文を以て、御請可仕との御事に候、帯刀儀、上意謹んで承り候、然れども一日も君臣と相成候ては、縦狂乱の御企有之とも、主人の事を訴人仕り候筋無之某に於ては、御請難成候、自然御謀反の御志など、被御座候はゞ、急度御諫言申上げ、夫とも御承引於之は、是非もなき事に候間、御馬先にて、討死可仕覚悟の外、他念無之由申上候、権現様、其忠心を被聞召届、其通被成置候由、此事を中将様被聞召、御意被成候は、帯刀が申す所、忠心には候へども、御馬先にて討死可仕との御請は、義に於て違ひたる筋有之、至極残念なる事に候、幾重にも御諫言申上候、御承引無之、御手にかゝり、御前にて相果て候とも、不義の御軍には従ひ奉るまじき旨、申上候はむには、道理分明に有之、批判も有るまじく候、是学問無之候に付、義理の間違有之由、御物語被遊候、

正之水戸光圀と儒学を論ず一、水戸黄門光圀卿御懇に被成、折々御出も有之、緩々御対話の時分は、いつ迚も、国家の御事に及び、学問の御議論ども有之候、或時御出の時、御酒被差出、御格盞にて被召上ながら、数刻御物語被遊候、御給仕の御小姓、余に被召上候と、心付きたるより、御盃数を心覚え仕候処、廿七盃づゝ被召上候と、数を留め候由申伝へ候、此時の御物語は、性善・性悪の御論に有之、光圀卿はしきりに性悪の説を御主張被成、御議論有之候処、中将様御答に、性善の説は先賢の所従に候間、慮外ながら、先賢の定法に御したがひ、御工夫被積可然、異なる御見識を、被相立候は、必御無用の由被仰候と、申伝へ候、桃源遺事に、義公初め荀卿の書御好み被成候処、後年に孟子を深く御好み被成候、度々御近習の衆へも、能く読み候様被仰候由、相見え候間、中将様と御議論有之候は、荀卿の書御好の時分と、相見え候、

一、加藤内蔵助殿〈明友〉は、林道春を師とし、学問を御嗜の御方の所、御心易く、時々御入来の有之、しめやかに御対話ども被成候、或時御近習の者へ、御咄被成候は、祖父左馬助殿・父式部少輔殿迄、大身に有之、内蔵助殿に至り、小身に候へども、父祖には遥にまさりたる賢明の人に候、如斯に候はゞ、小身にても不足無之由、御賛歎被成候、

オープンアクセス NDLJP:109安井算哲に勧めて暦学を研究せしむ一、兼ねて碁を御好被成候て、此頃の碁所安井算知と饒先の御手合の由、申伝へ候、或時算知と被遊候時に、常程に不入様に付、御心障にても被御座候哉と、算知申上候へば、さればにて候、大事の役を可申付と、工夫致し居り、これかかれかと決し兼ね、心に浮び候と被仰候に付、算知儀、碁の道にて申上候へば、色々と決し兼ね候時分は、初めに了簡致候方にきはめ、よろしく存候由申上候、暫時御思案有之、それにて心中決し候と、御意有之由、申伝へ候、又算知が子算哲儀、家業の碁は、随分致し候へども、少き時より、暦算の術に、志有之候に付、家業を忽諸に致候とて、算知苦労仕候由被聞召、世上暦算の術疎く、本朝久しく宣明暦御用ひの所、推歩の術おろそかなる事に付、幸に精を入れ、稽古為致候はば、世の為にも可相成候、碁の上手は外にも可之候間、其志を折き不申様、出精可致由、御意被成候に付、算哲弥精を出し、其術を研究いたし候、天和三年の暦に、霜月十六日、月蝕の由有之を、算哲兼ねて無之由、申候処、果して月蝕無之候、算哲儀、元郭守敬授時暦によりて、暦書を作り、公儀へ献上仕り、貞享改暦の一挙に相成候は、ひとへに中将様御言葉懸り候故に有之、後に算哲天文方被仰付、今の渋川家に候、依つて算哲儀見禰山の神庫へ暦書を奉納仕り、今に有之候、

一、江戸表にて、御使番菅儀左衛門儀、御使相勤め、不仰付御口上、差心得申述ベ罷帰り、御返答申上候に付、以ての外御腹立にて御呵り被遊候、続いて御使番山田九太夫御病気御見舞の御使被仰付、罷帰り候処、御先方へ参り、御玄関前に御駕有之を見懸け、御客には有之まじくと存じ、御様子相尋ね候へば、御気色御本腹にて、御他出御設の由に付、左候はゞ御病気御見舞の御使者は、如何に可之と存じ、御口上不申述立戻り、儀左衛門御呵りの儀承り、必定申上候はゞ、御腹立に可之、乍然早速不申上候ては、男道欠け候と存じ、御直に有の儘に申上候へば、少しも御怒を不移、一段御機嫌にて、其方共使役申付け置き候は、外聞不欠様にと、被思召候事に候、本腹にて他へ被出候処へ、病気見舞の使は、いなものに候、致方宜しくと、御誉被成、御本腹御悦の御使相勤め候様にと、被仰付候、九太夫儀、過分の御知行被下候よりも、難有奉存候由に候、

臣下の過失を咎めず一、或時御登城可成思召にて、当番の者明七つ時に相成り候はゞ、可申上由被オープンアクセス NDLJP:110仰付置候処、其時刻を聞違ひ、八つを七つと存じ申上候に付、御昼なり、あけを被待候へども、夜明け不申、当番の者迷惑仕り、甚不念の趣申上候処、それ迄には不及候、縦聞損じ候とも、早き方に誤り候は、遅きよりはよろしく候とて、別して御呵りの御沙汰もなく、此後は心を可付旨、御意被成候、又ある頃、江戸御厩に、殊に勝れたる御秘蔵の御馬有之候を、会津へ被遣候時に、御厩の者、率連れ罷下り、房河の船渡にて、此馬船を見て、不得乗候、御厩の者手荒く打ち、ふと一眼を怪我いたさせ、会津着後、其筋の役人急度牢舎申付け候、此段達御耳御意被成候は、ふと致したる仕損じと被思召候、巧み候儀無之候条、赦免可申付候、畜類の故を以て、人を御痛め被成候筋に無之、重ねての取扱方は、随分能く教へ置き、粗忽なる儀不仕様可申付旨、被仰出候、

一、或時御登城被遊候節、御召御小袖の御袖の御紋、御前の方に成候様、取違ひ仕立て候を差上ぐ、中将様御心不付被召候、井伊掃部頭殿御覧被成、珍しき小袖を被召候と、御笑ひ被成、被召替候様にと、被仰候に付、始めて御心被付候、中将様、いかやうにても不苦候へども、御助言に候間、可御思召旨、御笑ひながら御答被成、被召替候由に候、田中三郎兵衛詰合の時分にて承之、御納戸役并に仕立て候者共、不調法を以て、御外聞不宜、以ての外なる仕方の由、甚呵之押込め置き、御下城後、此段申上候へば、尤の事に候、然れども粗忽者共の寄合に候、仕立て候者も、納戸役の者も、其着用いたし候我等も、何れも粗忽者共の寄合に候重ねては入念候様申付け、赦免可申付旨、被仰候に付、三郎兵衛儀、其身の咎を御免被成候如く悦び候由に候、又いつも御登城の御後にて、御寝所の掃除いたし候事に候処、御納戸役野村九兵衛、坊主共召連れ、掃除申付候、坊主共棕櫚箒にて、太刀打の真似いたし、御鈴の綱へ当り候に付、其音にて奥様為御迎御出被成、御鈴廊下の口明き候に付、驚入り平伏いたし罷在候、御帰に無之候間、奥様空しく御戻被成候、此段三郎兵衛へ達し候へば、以ての外なる儀、只は被差置まじく候間、覚悟可仕候、達御耳、如何様被仰付候も難計候間、謹んで御下知可相待、粗忽仕るまじき旨申付け、押込め置き候、何れも自害可仕程に恐入り罷在候処、御帰に付、及言上候へば、御意被成候は、彼者共何とて、徒に鈴口の綱を動し可申や、あやまちは見えわたり候事に候、押込め置き候に不及、速にゆるし為勤候、様被仰出オープンアクセス NDLJP:111候、三郎兵衛儀、仁君の御下知、存の外なる辱き思召に候と、感涙を流し、其旨申聞け、何れも殊に難有奉存候、総て下に不調法有之節は、三郎兵衛儀、御下知不相待、甚呵りの厳しく申付け候、依之御腹立も薄く、御下知も自然と順路に有之、君臣の事業、他に類も有之まじくと、諸人申候由に候、

武備の充実一、奥羽の抑へ、御大事なる御場所と申し、武備の筋被御念、被仰付置儀は無申計、常々弓・鉄炮の物頭・足軽の器量芸能をえらび、召抱へ置き、柔弱の者は召放し、弓・鉄炮の稽古、中りの甲乙、其頭共見届け、相応の被下方有之、侍大将には、御譜代にては井深監物・赤羽仁右衛門・篠田内膳等被召仕、又今村伝十郎・沼沢出雲・神宝隠岐・安達兵左衛門・堀半右衛門・日向半之丞・三宅孫兵衛・原田伊予等、武道の心得有之者、追々被召抱、士共御預被成、既に正保の始め、御意被成候は、諸侍共兼ねて度々被仰含候間、定めて武具・馬具等は、分量相応に可嗜候へ共、必小道具共を調不申ものに候、大抵の道具を調へ候て、其外細々の道具は、やすき事に存じ致油断、只今打起つ時、俄に何かと行当るものに候間、常々組頭は組の者に、諸道具沙汰候様にと、内々可催促候、少々は武具・馬具を組頭内にて見候ても、尤に候へども、今程左様の儀を仕候はゞ、世間沙汰を可致候へば、左様には不入事に候、不足の道具を無油断心懸け候様可申付、又物頭共も、武道具一度受取り、封を付け置き候と計、心済に存候はゞ、虫喰又広狭・長短をも存ずまじく候、折々矢倉へ参り、他へ不見様、人々に着せ見て、能き頭をば、其名を書付け、俄の時は、書付次第に着し、指物は差出し候様に、常々心を懸可申、乍去俄に人々左様仕候はゞ、世間も如何に候間、折々不目立様に、矢倉に参り、戸をもさし、我組の者に可申付、必ず必ず常の嗜み肝要の由、御意被成、兼ねて御陣触有之時は、必ず日限より以前に、支度畢つて、打立つ前日は、静にして如平生致との御合条も、有之事にて、何れも不行当様にと、心懸け候由に候、弓・馬・鎗・劒術・鉄炮の達人、大勢有之、并に武器の職人、何れも無残所御扶持被成候、島原一揆の時分は、大村太兵衛父子、安部井又左衛門、彼地へ御使に被遣、手柄仕候に付、一倍の御加増被下、〈太兵衛忰此時に、十七歳にて、父に従ひ彼地に参り、以造手柄仕候に付、是へも百五十石被下被召出候、其名は及承発、〉又寛文の初、外様士中、土井孫右衛門、御奉公不怠、小身の者と所軍役の心懸宜しき由、被召聞、御加増五十石被下、武道の筋被相励候事に候、

オープンアクセス NDLJP:112一、正保中、御帰城の時には、河沼郡八田野原にて、御備立にて御狩有之、御人数懸引御ならし被遊、承応の度、御軍令御軍禁被相定候処、明暦中甲州流の軍法御吟味有之、御禁令御改定被遊、御禁令并に御備の図御渡被成、毎年二度づゝ為読聞、縦不時の軍といふとも、堅く陣場を相守り、御法令を諳じ候様にと被仰出候、或は小荷駄郷村へ御預け置き、年々被増、或は御兵器の御改等、度々被仰付、御陣具・小荷駄の具迄、少しも御手支無之様、役人へ被仰付置、其上口米金の儀は、兼々御軍用金と名付け置き、御兵具御手入等には、被相用候へども、其余には御用ゐ無之、御軍金無相違候様、被成置候、又江戸へ俄に御人数被召寄候時分、道中賃馬差支可申との思召にて、江戸御屋敷へ火薬蔵被仰付、玉薬等沢山に入れ置き候、

保科正近一、保科民部正近は御家門と申し、随一の重臣にて、組頭・物頭等、外様の士ども支配いたし、其総大将に罷在候処、松平丹波守殿御家来西郷新兵衛は、民部婿に有之、或時新兵衛儀及困窮候由、申越し候に付、其通行詰り候ては、不時の奉公は不成候、此方にては百石の高にて、金十両程づゝ用意仕り居候事に付、不時の奉公さへ無覚束との儀に於ては、此方にて可扶助候間、退身致候と、及答候と申伝へ候、民部諸侍を率ゐ居候心持も、相見え候事に候、民部末期の書置にも、一度御用に立可申と存詰め、御家中侍衆常々懇に仕り、心懸け申す内、年も寄り候、之を残念と存候処に、剰へ煩ひ候て相果て候儀、返すも皆たはごとに相成り、口惜しく存候由認め置き、不時の御用を、特に専一に存入候儀に候、民部跡役此原采女光次、其次には田中三郎兵衛正玄を、引続き被仰付、永々御在府に就いては、会津の御留守御城代に罷在り、侍の差引仕り、不意の節の儀、被仰含置候由に候、御預の寄騎共、毎年隣国へ差越し、密に様子承り届け、事変りたる儀は言上仕候、寛文十一年仙台に於て、原田甲斐が事有之時分、田中三郎兵衛寄騎、并に同心早々差越し、様子為相探、其上伊南与八郎儀、兼ねて心得有之者に付、自然御出世も可之哉と、穏密に被仰付、彼地へ被遣候、俄の事故、自力を以て、即時に罷立ち、湯越仕り、急に打越し、押前の様子、地理の案内迄、悉精察仕り、委曲書付け、入御披見候処、中将様思召に相叶ひ、御感被成、殊に今般物前の儀、自力を以て相勤め、日来心懸奇なな儀に被思召、御褒美被下候、其外被遣候者も、数多有之候、〈兼ねて組頭へ被仰付置候にも、仮初の火事抔も、諸侍共は組頭の下知に従ひ可走廻候問、斯様の時分、其心ばせ心懸をも可見置、自然の次には、左様の首尾をも可申上、火事彼オープンアクセス NDLJP:113是の時分、其心懸仕候へば、自然の時も出合ひ、御用に可立と被思召候由、御意被成候儀も有之候、〉

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。