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生母お静の方正之の誕生正之の幼時見性院正之を預りて養育す幼児辻売の風習秀忠夫人の抗議正之保科正光の養子となる先養子あるを聞きて自ら辞せんとす見性院知行三百石を分与す保科正近を正之の傅とす見性院没す安井算哲に就いて碁を学ぶ正之熱海に湯治す正之始めて秀忠に謁見す正光の卒去諸侯正之を敬ふ出羽最上へ転封す保科氏の重宝を保科正貞に贈る島原の乱と正之最上の施政白岩一揆の鎮定国家輔翼の命を受く梶原伝九郎を家人とす正之の直言今津へ転封せらる三春城受取の加勢赴く家綱の元服家康に宮号を賜ふ孝子次郎左衛門の旌表蒲生氏郷の遺法民俗の改良公事奉行の創設正之親しく訴訟の裁断に与る将軍家光の遺命正之将軍家綱の輔導となる正之私謁を斥く由井正雪の変
 
正之朱千学に志す輔養編の編集士道の練習と法制法制の公布貧窮せる藩士の処置重臣の待遇を鄭重にす米廩を発いて窮民を助く穀留将軍名代として上洛す官位の辞退家号の辞退裁判と倫理酷刑を廃す検舉拷問の寛厳朝鮮使節の来聘出家の取締孝子の旌表社倉法の創設〈[#「倉」は底本では「会」]〉麦作の奨励米価の調節大寄合法令の周知を図る諸役人の風儀を戒む飯田兵左衛門明暦の大火浅草の米廩を発く回向院災後の賑恤倹約令の施行領内に倹約を令す戸枝彦五郎正之の女前田氏に嫁す江戸用水の修築箕田下屋敷の拝領江戸城の天守領内の賑救堀田正信時事に憤激して采邑に帰る井伊直孝の失言阿部忠秋の篤実湯武放伐の論安藤帯刀を評す正之水戸光圀と儒学を論ず安井算哲に勧めて暦学を研究せしむ臣下の過失を咎めず武備の充実保科正近
 
殉死の禁備荒儲蓄諸役の任叙を慎む正之の領内施政の方針火葬の禁老養郷村籾蔵の配置養子には同姓の者を撰ばしむ継母の不行跡に関わる裁判正之榊原忠次を推薦す節婦を賞す正之の病状学問所の保護山崎闇斎の講義を聴く本朝通鑑の編集諸侯の人質を廃す衆道の殺害に関する裁判桂光院の移転吉川惟足衣食の質素人主の仁慈玉山講義附録編集火葬禁止の為墓地を設置す一客の茶湯会津風土記の編纂会津四郡淫祠仏堂の破却山鹿素行の処罰古社の再興修復困窮藩士の救済贗金の廃毀平維茂の墓碑を建つ家訓十五条の撰定二程治教録及伊洛三子伝心録の編集朝鮮使節の正之観米価の調節藩吏の苛斂を戒む国産の他領輸出就床の時刻朱子学の研究飲食の簡素
 
正之の隠居領内神社の整理忠僕の主人継母殺害の裁判正之の帰国極楽寺住持の裁判賞罰を公平ならしむ安藤市兵衛の米価調節法因窮藩士の救済吉川惟足正之の霊号を撰す田中正玄の卒去酒井忠勝正玄の死を惜む正之成瀬重次に蟄居を命ず田中正玄と成瀬重次正之猪苗代に遊ぶ会津旧事雑考の編集会津四家合考小川庄地蔵堂原堰の構築会津神社志正之予め棺槨を造らしむ正之の自省正之の遺訓正之と前田綱紀友松氏興正之の卒去見弥山に葬る土津神社
 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。