目次
 
生母お静の方正之の誕生正之の幼時見性院正之を預りて養育す幼児辻売の風習秀忠夫人の抗議正之保科正光の養子となる先養子あるを聞きて自ら辞せんとす見性院知行三百石を分与す保科正近を正之の傅とす見性院没す安井算哲に就いて碁を学ぶ正之熱海に湯治す正之始めて秀忠に謁見す正光の卒去諸侯正之を敬ふ出羽最上へ転封す保科氏の重宝を保科正貞に贈る島原の乱と正之最上の施政白岩一揆の鎮定国家輔翼の命を受く梶原伝九郎を家人とす正之の直言今津へ転封せらる三春城受取の加勢赴く家綱の元服家康に宮号を賜ふ孝子次郎左衛門の旌表蒲生氏郷の遺法民俗の改良公事奉行の創設正之親しく訴訟の裁断に与る将軍家光の遺命正之将軍家綱の輔導となる正之私謁を斥く由井正雪の変
 
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千年の松 巻之一
 
一、見禰山の御社に御鎮座ましまして、土津大明神と祝ひ祭れるは、会津中将源公、御諱は正之と申し奉りし御事にて、台徳院殿大相国の御四男におはしまし、生母お静の方御母はお静の方、後に浄光院殿と申せしなり、抑このお静の方は、北条家の旧臣神尾伊予栄加が娘にて、江戸神田辺に住居し、其頃井上主計頭殿の御母とも、又は御伯母ともいひ、世におうば殿と申して、将軍様へ御出頭の方有之、御城に御部屋なども御渡有之、お静の方御若盛に、この方へ便り被居候を、彼が部屋へ御成の節、被召仕、御子を懐姙いたされ候故、御城の勤難成、宿下り為致、家元に差置き候へども、御胤懐胎などいふ事、御台様へ洩れ聞え候ては、一家一門何様の曲事に逢ひ可申も難計、然れば大切の事に候と、諸親類打寄り相談いたし、勿体なくも水となし奉り、重ねて御城へ上り候事は、無用に可仕と申し合ひ、家元に差置き候処、おうば殿事むづかしく御申越、日々の使参り候故、隠し置き可申様も無之、御城へ上り候処、程なく又懐姙にて、月数かさなり候に付、宿下りいたし、正之の誕生今度も又水になし可申歟と、一家打寄り、致相談候処に、お静の方の弟に神尾才兵衛政景とて、さる志ある者、進み出で申し候は、いかに面々の身が大事なればとて、正しき天下の御子機にて御座候ものを、両度に及び水になし奉りては、天罸も恐しき儀なり、此御子様故に、御台様より御とがめにあひ、一家一門不残はた物にあがり候とても、是非に不及候、たゞいかにもして、そだて上げ奉り度き儀と申し、御姉婿竹村助兵衛次俊と申す者も、同意に有之、此頃助兵衛は、神田白銀町四条与左衛門と申す者の屋敷地を借り居り候処、其宅へ引取れり、諸親類迄追々是に同意致し、且又土井大炊頭殿より、密々の御申付にて、お静の方は弥此助兵衛宅を宿と定め、月のつもるを皆々相待ち居り候へば、慶長十六年辛亥五月七日の夜四ッ時過ぎ、御誕生被成候を見申せば、殿の御子にて被御座候、その夜助兵衛儀、町奉行米津勘兵衛殿へ御披露仕り、勘兵衛殿直に大炊頭殿へ御達し、大炊頭殿より翌朝被仰上候へば、御覚有之由の上意にて、御召料御紋の御小袖被下候との御事にて、御手づから大炊頭殿へ御渡し被成、勘兵衛殿御取次、助兵衛へ被相渡候に付、則差上之オープンアクセス NDLJP:69且御名をば、幸松様と御内々被進候、正之の幼時成る程御馳走いたし、必ず沙汰無用の由、勘兵衛殿助兵衛へ被申聞、此殿の事に付、御用向は勘兵衛へ可申付様、大炊頭殿御内々御差図有之由にて、色々御肝煎有之儀と相聞え候、頓て地主四条与左衛門儀、備前康光作の御守脇差差上げ、御乳は助兵衛妻差上げ候、一家一門打寄り、弥大切に御養育仕り、随分沙汰なしに仕り候へども、近所の者共は致推量、只一目拝み申し度など申すに付、世間の聞えを憚り、家内に計り置さ参らせ候、翌年五月には葵御紋の御幟を立て、自然御尋も候はむと、四条与左衛門忰藤市、御幟の側に麻上下を着し守り居り候、果して御尋有之候に付、其次第内談申上げ候由に候、朝夕の御膳は木具にすゑ、御茶碗にて清浄に調進仕り、何かと御馳走致し居り、すこしも油断致し候へば、外へ御出被成候を、近所の町人ども敬ひ尊び、或は御持遊の品或は御菓子など、我もと進上仕候由に候、

一、慶長十八年癸丑、御年三歳、此春の頃にも成り候へば、近々御台様より御穿鑿被遊候など、風説聞え候により、お静の方心を痛め御迷惑不浅、夜に紛れ居らば殿へ御越、さまと御打歎き故、土井大炊頭殿へ御内談有之候、爰に田安御比丘尼屋敷に見性院殿と申すは、見性院正之を預りて養育す武田信玄の娘にて、穴山梅雪の後室にて御座候を、権現様御代より御馳走被遊、岩槻近大牧と申す所にて知行六百石被進被差置候、兎に角この人ならではとの御事に究り、三月朔日、土井大炊頭殿・本多佐渡守殿両人田安へ御越し候て、幸松様を其許の御子に可進との御事にて候間、何分にも御介抱被成候様にと御申有之処、見性院殿御答に、是は思もよらぬ御頼みにて候、御当家御譜代の歴々衆さへ、御持ちあぐみに候若君を、此尼などかりにも守り立て可申とは、似合はしからぬ事にて候へども、将軍様にも、此尼を尼と思召し、親分にも成り候へとの上意にて、各にも御頼みの儀に候へば、兎角申すに不及、成る程心得申し候、我等も女にこそ生れ候へ、弓矢取りて世にも知られし信玄が娘にて候へば、少しも御気遣有るまじく候、何れにも御存じの通、御台様より、殊の外御懇に預り、只今迄は御城に計登り居り候様に候へども、此御子を手前に預り候からは、今日よりふつと御城へも登り申すまじく候、此上は早々此方へ被入候様に、御計らひ可成由、いかにも甲斐々々しく御請に付、御両人共に大に御悦にて、翌二日御母子さま共に、田安へ御移り被成候、見性院殿より其家来有泉五兵オープンアクセス NDLJP:70衛・野崎太左衛門を、為御迎遣御引取、宗近作の御守刀被進、武田幸松様と御呼被成、太左衛門事は、今日より御附被進、お静の方、数万の御人初めに候とて、御悦び大方なず、明くる三日の節句をば、殊に御祝ひ有之候、

一、同十九年甲寅八月、大風にて、江戸中のよわき家をば、大かた吹きつぶし、御城廻りにても御破損夥しき事に候、見性院殿御家もつぶれ可申歟と、人々さわぎ候故、長持二棹ならべ、其間に幸松様を入れ置きまゐらせ、見性院殿とお静の方と、御介抱被成候、召仕の女房達おそれふためき候を、幸松様御覧、御笑ひ、幾度も外へ御かけ出し被成候を、御両人にて御引留有之、風しづまり候て、見性院殿殊に御満足にて、さすが将軍の御子程おはしまし、さて健気なる御生れかなとて、御褒め被成候、此頃より以来御見聞被成候事ども、歴然と御記憶、御忘不成候、

幼児辻売の風習一、幼き殿の御子は、息災延命、末為繁昌、致辻売候事吉例の由、世に申し習はし候とて、見性院殿より有泉五兵衛に御申付有之、五兵衛儀、幸松様を抱き参らせ、辻売に出で候を、御番衆の家来大貫四郎左衛門参り合ひ買取り参らせ、為御祝儀小脇差さし上げ候も、此頃の事に候、

秀忠夫人の抗議一、或時御台様御年寄女中田安へ参られ候て、見性院殿の事は、御台様にも御心易く思召し、御懇の御事に候処、よしなき御預り人をなされ候と、被申候へば、見性院殿聞きもあへず、いかにも其通にて候、去ながら預り申すにてはなく候、我等子にいたし候様にとの御事にて、ふつともらひ切り申し候、無恙成人も被致候はば、武田の名字にいたし、我等に被下候少しの知行をも譲り、後をも弔はれ申すべきとの事にて候、縦御台様より如何様の御咎候とても、一たび見性院が子にいたしたる人の事に候へば、はなし申す事とては成り申さずと、返答有之候へば、其後よりは何の沙汰もなく、少しはゆるやかなる御様子にて、近所の御堀廻などへは御出御遊び被成候、

一、此頃観世七郎左衛門勧進能を興行せし時、御見物に御出被遊候処、其場にて御守の衆、他の者と口論に申し募り、手荒き取合に罷成り、先方は大勢故、御危く被御座候、万沢権九郎と申すは、見性院殿より被附置候者に候処、此時に御供いたし候を、浪人有賀九右衛門と申す者知人にて、見懸け参り合ひ候て、御味方に加はり候、其上九右衛門同道の者共口々に、爰にも味方控へ居り候間、少しもひオープンアクセス NDLJP:71け取るなと、声を懸け候へば、皆引逃げ候、権九郎儀、九右衛門へ申し候は、其方御味方致し呉れ候に付、幸松様御危き所を、御遁被遊候是より田安の御屋敷へ参り候へとて、九右衛門を同道致し候、お静の方、其方の御蔭にて、御命を御ひろひ被遊候とて御悦被成、見性院殿と御両人にて御盃を被下、時服をも被取候、それより御心易く御出入致し候、後に九右衛門を名乗り被召出候は、是等の子細を被思召候ての事に候、或時に品川辺に御慰に御出被成候、神田辺に罷在り候、中山与左衛門と申す者、御供仕り、猟師ども大勢を催し、大網為曳入御覧候も、此時分の事と相聞え候、

正之保科正光の養子となる一、元和三年丁巳、御年七歳、田安に被為入候ても、最早五年に及び、御生立もよく罷成り御座候へども、公儀より何の御沙汰もなく候に付、見性院殿御気毒に被思召、此年の秋、保科肥後守殿御見舞罷成り候を、御呼入れ候て、見性院殿御申し候は、御当家に大身小身へかけ、甲州の衆数多罷居り候ても、筋目を尋ぬる人もなく候処に、其許計は信玄が娘とあるを以て、折々の御音問有之、日来の御芳志感じ入り候事と、常々申し暮らし候、さるによつて、其許に御無心申し度き事の候が、御承引あるべく候やと、被申候に付、肥後守殿御返答に、其許様の御事、信玄公の御息女様にて御座候へば、御主君の御筋目と申し、何様の事にも候へ、自分の力に叶ひ候程は、御用承り可申にて候と、御申し候へば、見性院殿御悦にて、其儀に於ては、御物語申す事の候、是に御入り候若殿は、将軍様の正しき末の御子にておはしまし候を、仔細にて近年我等方に預り置き参らせ候、一日々々と御成人被成、最早年も七歳になられしも、上より何の御尋もなく、老中もさのみかまひ不申候、ひとへに御台様の御心を兼ねられ候ての事と存じ候、殿の御子の七歳より上の御そだちは、大切の時にて候に、我等事にて候へば、然るべき侍の一人もつけ参らする事もなく、女童部の中にばかり生ひ立たせられ候ては後々の御為にも成り不申候まゝ、何れへなりとも御預かへ被成候様にと思ひつゞけ候処、能き時節も来り候はゞ、御親子・御兄弟の御名乗も被成候様にと、心にかけらるべき、頼もしき人を、見立て候ての事と、思ひ暮し候に、其許の事、先にも申す通、父にて候信玄の好身よしみとて、我等が様なるものをも、御拾意無之候御心柄は、此殿の御事と申し、我等斯様に頼み候上は、さぞや御無沙汰も有るまじくと思付き候て、斯く申す事にてオープンアクセス NDLJP:72候、只今の間は御手前に御子分に致し被置、弓馬の道をも、しろしめさるゝ様に頼み入り候と、御申し候へば、肥後守殿、委細承り届け候、若君様の御事と申し、殊には其許様の御頼の儀に候間、無仔細速に領掌仕り候へども、正しき将軍様の公達を、一日にても肥後守などが子分にもとは、勿体なき事にて候、それとも御奉公にも罷成り可申候儀に候はゞ、御内々の上意などをも承り候ての上は、兎も角もの儀に候、其許様御頼と迄にては、御請合不罷成由、御答有之、見性院殿其心底を御聞届け、いかにも御尤の御事とて、御悦不斜候、肥後守殿帰宅後、早速御持遊の品品に、御肴を添へ、進上被致候、扨見性院殿には肥後守殿実心の様子、土井大炊頭殿・井上主計頭殿へ相談有之、具に上聞に達せられ候処、被聞召届、幸松様御事、保科肥後守殿へ御預け被遊候間、在所へ御引取り、御養子分に被成、御養育可之との御内意、大炊頭殿より被仰渡領掌被致、御請に申上げ候、此肥後守殿と申すは、諱は正光とて、信州伊奈郡高遠の城主に有之、二万五千石を領せられ、父は弾正左衛門正直とて、甲州武田家に仕へ、世に鎗弾正と申し、権現様の御妹多劫君にそひ参らせし御由緒も、有之御事に候、依之霜月八日肥後守殿、幸松様を御同道、母お静の方にて、御一同、女房達数人、江戸御発足被成候、万沢権九郎・野崎太左衛門・神尾左門・有泉金弥・御草履収て、并に虎若、〈此時に十一歳、〉其外竹村助兵衛忰半右衛門も御供致し候、又土井大炊頭殿の御計ひとして、公儀の黒鍬頭橋爪久左衛門組の者召具し、肥後守殿よりも御道中為御懐守御徒等を被遣、何れも御供に被召連、同十四日信州高遠へ御着、保科家の士どもみろく松葉と申す所迄、為御迎出候、御座所は南曲輪に御儲有之、其所へ被入候、

先養子あるを聞きて自ら辞せんとす一、此時に高遠より三里程此方に、御堂垣と申す所に候宿りの時分に、女房達打寄り、茶のみ物語に、高遠には真田左源太殿と申し、肥後守殿のためには、甥子にて有之を、先達て養ひおかれ候などと申すを、幸松様御聞被成、御母上へ御向ひ、肥後守方にては、左源太と申して、子があると承り候、左候上は、我等は見性院殿の許へ帰り可申にて候とて、以ての外の御腹立に有之、何とも不罷成候を、お静の方始め女房達、色々と御機嫌を取直し、高遠へ人を遣し、御子と被成候にては無之由、しかと御聞届にて御得心被成候、〈左源太殿と申すは、肥後守殿の御妹婿小日向源太左衛門某の子にて、御内室御子育無之ゆゑ、部屋子に決し貰ひ被習候よしに候、〉後に此様子を肥後守殿御聞き候て舌を巻き、稚き殿の御心にも似ず、あなおオープンアクセス NDLJP:73そろしとて、御敬憚有之、仮初にも幸松殿と、殿文字を附けて御呼び候由、申伝へ候、さて保科家よりは、御人初めに井上市兵衛を御附有之、其外狩野八太夫・小原内匠など申すもの、御部屋附にて、大方ならざる御馳走共に有之、月に五六度程づゝは、肥後守殿御見舞有之由に候、翌年肥後守殿五千石御加増有之、是は幸松様被為入候故の様にも相聞え候、

見性院知行三百石を分与す一、同五年己未、御年九歳、見性院殿より肥後守殿度々の御願にて、幸松様へ御逢ありたしとの御儀に付、極月に至り、高遠より江府へ御同道に被成、度々田安へ被入、見性院殿御悦不斜、翌年三月高遠へ御帰被成候に付、田安へ為御暇乞御入被成候処に、見性院殿深く御名残を御惜み被成候、黄金一枚御持出し、黄金は世に多き物ながら、是は仔細ある金にて、我等若き時分より、貯へ置き候とて、御手づから被進候、扨又高遠へ御帰後、見性院殿より御筆の御文にて、知行六百石の内三百石、寡しく候へども、後々御大名に被成候時、此尼が志を被思召出候計に進じ候、御鼻紙なりとも、御遣ひ被成候様にとの御事に候、依つて其黄金并に御文ともに、草の御懸硯箱に被入置、今以て其儘御持伝被成候、後年に至り、昔を被思召出候時にや、御取出し御覧被成候を、若き小姓衆などは、仔細を不存、不審を立て候由申伝へ候、此三百石の御知行はいかゞ成り候哉不相分候、又信玄より御譲の由にて、紫銅鮒の水入などをも被進置候、

保科正近を正之の傅とす一、同六年庚申秋、御成人被成候故、肥後守殿より、同姓保科民部正近を、御附に被附候て御申し候は、存世の内に、御父子の御名乗、御加増を被進、大身に御成り候を見申し度き願に候へども、老衰余命も難計、其方より幸松殿へ附置き候間、随分大切に守り立て参らせ候様に、可存入候、我等家督は幸松殿へ進じ置き候間、我等相果て候はゞ、米津勘兵衛殿を頼み、土井大炊頭殿迄可相願候、老人の事に候へば、今晩も期しがたく候間、遺言の書付渡し置き候、委細は我等も勘兵衛殿を以て、大炊頭殿へ願ひ置き候由、民部に被仰置候、

見性院没す一、同八年壬戊四月の頃より、見性院殿御煩の由、高遠へ申し来る、御母君より御見舞として、御使者被附置候処に、五月九日御死去、武州足立郡大牧村清泰寺にて御取置被成候、御病中より御末期迄、外の儀は御申しなく、たゞ幸松様御事のみにて御果被成、今はの際には、幸松様御名乗被仰出、目出度御事やなどゝ、うは言にオープンアクセス NDLJP:74御申被成候由に候、扨高遠へ御死去の由、相聞え御母君殊の外御歎きにて、幸松様にも年来の御芳志ども被思召、御愁歎被成候を、見申す者も致感涙候由に候、右の通の御方故、後々御年忌の御弔に、大牧村阿弥陀堂御修造、寛文の末、御慕田迄御附被成候、又有泉新左衛門・小田切源兵衛は、もと見性院殿被召仕候者には、御忌日には両人にて月代りに、御位牌所建福寺へ参拝可仕旨など被仰付候、

一、寛永三年丙寅、御年十六、山崎闇斎御行状に、自幼善字読書、聡明絶人と相記し置き候処、今年より儒学の筋御志弥深く被御座候由、申伝へ候、又此頃の儀と相見え、保科家の土井上金右衛門は、信州天龍川にて朝夕川狩いたし、水練の達者に候処、此金右衛門を被召連、御水游に御出の由、其家の記に相見え候、又御幼少より碁心被御器用遊候処、安井算哲に就いて碁を学ぶ肥後守殿御屋敷へ、安井算哲算知が父御心易く御出入致し居り候に付、碁の御指南仕り候様にとの、肥後守殿御申し候、左候はゞ、先づ其様子拝見可仕と申すに依つて、算哲を御相手にて三目にて被遊候処、扨扨御器用なる被遊方に候、然れども田舎基にて、被遊方賤しきなど申す内に、終に其碁は、算哲負に相成り候、算哲儀、是は思ひの外なる事に候とて、段々打ち候へども、三目にては中々叶ひ不申、是にては御指南などは不存寄旨申し候由に候、

一、御成人被成、御童名御似合不成候へども、下にて御改可成様も無之間、肥後守殿御心得にて、向後は信濃様と申し候様にと、御家中へ御申渡有之、しかと致したる御受領、御名にては無之候、此頃肥後守殿江府より、信濃様御慰のためにとて、熱海の湯へ御同道被成候、正之熱海に湯治す御出の時分、肥後守殿より御歩行井深加左衛門・御部屋の御歩行小田切源兵衛両人被遣、戸塚の宿へ参り、御本陣両所に取かため、御家中の宿札大方打ち候時御旗本衆七頭、戸塚の宿を三日前より、不残借り置き候を、本陣の者隠し置き候故、七頭の宿取ども可取返由、口論申し募り候処、戸塚の入口にせき札無之に付口論に勝ち、御宿に無相違取かため候由に候、是より𤍠海へ被入、信濃様は直に高遠に御帰りに付、御人を分けられ被召連、肥後守殿特に御人少にて、江戸へ御戻りの由に候、

正之始めて秀忠に謁見す一、同六年己巳、御年十九、去冬より御在府被成候処、将軍様へ御目見の儀、肥後守殿御願被成、六月廿四日初めて、目出たく御目見被仰上、七月七日高遠へ御帰り被成候、又肥後守殿兼々駿河大納言忠長卿へ、御父子の御名乗御取持被下たき旨、オープンアクセス NDLJP:75御頼被申候に付、同年九月、駿府より御対面被成たき由、被仰越、肥後守殿御同道ずにて駿府へ御出被遊候、〈此時に、香坂与兵衛儀世忰にて、肥後守殿の御小姓相切めに居り候由の所、親の人馬を借り騎馬にて御供可仕山被仰付、騎馬の御供仕り候由に候、〉 御城へ御登りの時分、御座敷の内、所々の番士一人も出座無用と被仰付候故、今日の御客誰人にて、斯様に被仰付候哉と、侍衆不審を立て候処に、御帰の時には、不残詰所々々へ罷出で居り候様にと被仰付候由に候、扨御帰の後、駿河様御近習衆へ被仰候は、幸松事は高遠の田舎育にて、万づ不調法にて可之間、当番の士共へ為見候事も、不入事とおもひ、始めは皆々為退候へども、存の外なる事にて、利発なる取廻し安堵せし故、帰の節は番士共へ見せしと被仰、御悦不浅由に候、其日御対面の刻、其相伴に御饗応、且又守家の御刀・御鷹一居、黒御馬・白銀五百枚被進、其上にて御紋の御小袖一つ、御手づから被進候て、是は権現様の御召料にて候、其方も追付御紋御免の節、目出たく着用被致候様にと、祝ひ進じ候由被仰候に付、肥後守殿、是は別して忝き御意にて候、御前様より外に、御執成可仰上方も無御座候、拙者存命の内に、何卒御名乗の儀を承り、相果てたき志願の由、御申上候へば、駿河様、近頃奇特の被申様に候、少しも如才無之旨、被仰候由に候、

正光の卒去一、同八年辛未、御年廿一、将軍様御不例の由に付、八月十三日俄に高遠を御起被成、同十六日御着府御逗留、然る所に、其年の十月七日肥後守殿七十一歳にて、鍛治橋御屋敷にて御卒去、是迄十五年以来、御懇なる御養育の忝さを思召し、御愁歎無申計候、頓て松平伊豆守殿御悔の上使として、御出有之、霜月十二日に、酒井雅楽頭殿御宅へ、高遠の家老共御呼寄せ、土井大炊頭殿御列座にて、高遠の城地無相違仰付候、且又思召有之間、随分大切に守立て候様にとの上意の旨、被仰渡候、同十八日には御登城、御礼首尾能く被仰上、其時に保科民部・篠田半左衛門・一瀬勘兵衛・北原采女・竹村半右衛門迄、将軍様御目見被仰付候、同月廿七日御元服被遊、廿八日従五位下肥後守に御叙任の上、為清の御腰物御拝領被成候、右の御様子故、追て御名乗も可之歟と、御家中きほひ罷在り候処に、翌年正月廿四日、将軍台徳院と奉唱候、

諸侯正之を敬ふ一、御代替りに相成り候て、段々御懇なる御様子に有之候へども、其時分は、今の御詰衆のやうなる御列にて、御小身と申し、御官位も軽く被入候には、いつも御末座に被御座、公方様ふと諸大名の詰所々々を御のぞき被遊候て、あれはオープンアクセス NDLJP:76誰ぞ、あれは誰ぞと、御尋被遊候、殿様御儀に至り、あれはと御尋に付、御側の衆、肥後守にて御座候と、被申上候、左候へば、肥後守が上には、誰も居さうもなきものぞと、上意有之、いつとなく其儀流布いたし、御同席の衆、いづれも御上座に御つき不成、御座席つまり候に付、皆御縁通に御着座有之様に罷成り、御気毒に被思召候旨、御物語有之候、斯様なる御様子に付、世上にても目を付け、皆諸大名衆の御あひしらひも、大に相替り候、然れども兼ねて、御身の御取立御望がましき御心などは、仮初にも不在、さま御取持ち仕る者など有之候ても、少しも御心を不留、御小家の御安心、何の御不足とも不思召候、其御様子台聴に達し、殊に御感歎被遊候と相聞え候、

出羽最上へ転封す一、寛永九年の冬、四品に御昇進、其後日光山御成の節御供奉、同十一年御上洛の御供被遊、侍従に被任、同十三年に至り、御年廿六の時に、十七万石の御加増にて、出羽国村山郡最上の城へ都合二十万石に被成、御所替被仰付候、御家督後纔六年の内に、御加増といひ御官位といひ、斯くの如き御取立御首尾可申上様無之、難有御事共に候、最上へ御入部の時分、青貝柄の小持錦三十筋、御拝領被遊候、且又俄に大身に被成、人に御事欠に可之とて、土井大炊頭へ心を添へ遣し候様、御同意有之、最上御城御請取の節、侍並に足軽以下、余程御加勢有之、城門並に諸番所へ武具其儘に残し置き候様にと、大炊頭殿被申付、其通被留置候、其武具鉄炮百挺・弓五十穂・持弓廿五穂と申し伝へ候、会津迄為御持成候に付、今以て御天守に水車土井家の紋有之、空穂ども残り居り候扨又高遠御旧領の者ども、無限御慕ひ申上げ、彼地其頃、摺臼挽の時に、左の通謡ひ候由に候、今の高遠で身がたてられやうか早く最上の肥後様へ

保科氏の重宝を保科正貞に贈る一、同十四年丁丑、保科弾正忠殿へ北原采女御使として、御先祖弾正左衛門殿、天正年中、小笠原右近大夫貞慶攻め来り候節、御手勢にて御防戦、悉く御追討有之候に付、権現様より御感状並に包永の御刀被下候、其御感状・御刀・伊奈半郡の御朱印、其外保科家に相伝あるべき程の物は、不残被遣候、中にも元重の御刀は、髭切と申す異名有之候、其仔細は保科故筑前守殿、信州に於て、志賀平左衛門と申す者を被討候時に、髭をかけて切りおとされ候有様を、武田信玄御覧ありて、髭切と名付け、保科の重代たるべしと、御申し候由、此御刀迄も被遣候、此事にても、保科を御オープンアクセス NDLJP:77名乗被成候からは、御道具をば被留置然などと、申す者共も候へども、御聞入もなく、皆々被遣候、弾正忠殿殊の外御悦にて、采女へ腰物被下候由に候、後に承り候へば、堀田加賀守殿を以て、上よりの御内意にて被遣候由にて、さては無程御連枝の御弘め可之哉など、世上取沙汰致し候由、申し伝へ候、其後寛永の末、諸家の系譜御改の時も、此方にては、保科のつり計、御書上可成候間、保科家の来由は、悉く弾正忠殿より御書上可之旨、被仰遣候、抑保科弾正忠、諱正貞、初めは甚四郎と申し候て、故肥後守正光君の異母弟に候処、肥後殿御子無之に付、権現様・台徳院様両御所の御前にて、甚四郎殿を御猶子に御定被成、御父子にて御奉公有之候、然る所追つて仔細有之、退身被致、浪人の体にて被居候を、上総国にて新知被下被召出、大番頭被仰付、叙爵して弾正忠と被申、寛永十年、鍛冶橋内保科家の屋敷は、弾正忠殿に被下、此方は西丸下にて、松平周防守殿の上ヶ屋敷を、新規に被下、弾正忠殿後に、一一万石迄に、御加増被下候も、保科の御家督、此方へ被仰付候に付、弾正忠殿御事は其事となく、段々御取立の儀と相聞え候、

島原の乱と正之一、同年十月、肥前国島原にて、吉利支丹蜂起いたし、有馬の古城へ取籠り候由、江戸へ注進有之、関東より御名代として、御一門方被遣候段にも至り候はゞ、御筋目の儀にも候間、此方などにても可之と、世間にても取沙汰致すに付、御家中の者共は、猶以て左も可之歟と、心懸け候折節、御登城被成候様にとの御奉書にて、御上り被成候、扨こそ西国への御名代被仰付にて可之と、御家中勇み立ち候処に、案の外に最上へ御暇御拝領にて、御下り可成との御事にて、御家中のきほひも醒めはて、殿様にも定めて、御満足には被思召まじき歟と、申し候処、下々にての積りの外に、一段と御機嫌能く、早々御下向被遊候、後日に承り候へば、西国に事の出来る時は、東国の儀を御気遣被遊、奥州筋押の為にと、被思召御下被成候との上意にて、泰き思召の由に候、最上へ御帰城被成候ても、江戸への御使者・御飛脚等、毎日の様に有之候、其砌ある夜の御咄に、今度島原の一揆も、是程の儀には成り行くまじき儀を、彼是と相談の内に、日数を経て、事重くは成りたると相見え候、それといふも、九州の内にしかと致したる御家門御譜代無之故にて候、総別先の手の見えたる事にてさへあらば、急に埓を明けて事をすましたるが、公儀の御為にもなる事に候、然れども人々後難を憚り、面々の越度にならぬ様オープンアクセス NDLJP:78にと計、分別する内に、物ごと手延に成りて、小事も大事に相成り候儀多きものに候、畢竟上の御為を存じ入り、致しそこなひ候時は、我身を果す迄よと、覚悟を究め候儀、第一の事に候と被仰候、

最上の施政一、最上御在城の頃は、未だ御年若に被入候処、其施設周詳にして、措置精練なりと、山崎闇斎御行状に記し置き候、御事業とては、くはしく不相知候へども、御入部の冬、御家中御仕置の御条目、今に相残り、或は其翌年には、最上飢饉の処、御領中一人も不飢様、御救被下、諸人難有御政道を感悦仕り候由に候、此頃御領中御取立の法共、後に御領主移り替り、或は御料と相成り候ても、其法を被取候由に候、諸民今に御慕ひ申し居り候と承り候、

白岩一揆の鎮定一、同十五年戊寅、酒井長門守殿知行所、出羽国白岩と申す所の百姓ども、地頭をそむき騒動いたし、江戸迄訴ひ出で候に付、延沢の御代官小林十郎左衛門殿へ、取鎮被仰付候処、中々承引不仕、次第に募り候に付、小林殿手際に不叶、最上へ被参殿様へ御相談被致候に付、保科民部へ仰含め、彼地へ被遣候、民部早々馳せ向ひ、之を呼集め、遂吟味候処、其仕方不届に付、扨申し聞け候は、其方共申上げたき筋も候はゞ、幸ひ肥後守様御在邑の事に候間、山形へ罷出で、御裁許可相願候、乍然大勢にては、他の聞えも如何に候間、密々参り候様申し諭し、徒党の者卅五人、山形へ相残り候を見すかし、一人も不残召捕へ候処、速に御城下の北長町河原と申す所にて、皆々磔にかけられ候て、何事なく事鎮まり候、委細は江戸へも言上被成候由に候、

国家輔翼の命を受く一、同十六年巳卯正月、御参覲被成、御礼被仰上候後、内田信濃守殿為上使御出、向後天下の御政道の儀に於て、存じ寄り候儀は、少しも無遠慮言上可仕旨、被仰出此以来色々献替の御言を奉られし由に候へども、御草稿等誰も存じ候者無之候、

一、同年八月廿一日、江戸出火、御本丸回禄に付、将軍様には蓮池御門より、西の丸へ被成候、殿様御供被遊、御直の上意を以て、御城外御見廻り被成、直に二の丸を御固め被遊候、此後何方へも御成の節は、大方御留守居被遊候、

一、同年九月、芝海手の御座敷御拝領被遊候、

一、最上御入部後、武勇忠義の士共御吟味の上多分被召出将又奉公仕り候者、主を択び候も、古今の常に有之、此頃殿様御事、天下に御名望無隠御儀に候間、志あオープンアクセス NDLJP:79る士共、御家を慕ひ罷出で候者も、不少事と相聞え候、〈この頃、松平右衛門佐殿の御口入にて、安部非又た衛門といふ者を、被召出候 其時に右衛門佐殿御旗本花房志摩守殿へ、御物語有之は、我等も大国を領し居り、彼者など相応に扶持可致程の事は、最易き事に候へども、譜代の家人も多く、加増など果敢々々敷も難遣候、今肥後守殿は、半天下の勢有之、いかなる大国をも被領、いかなる官位に被進候も難知候、夫に従ひ家来共は、格式知行の高も頼有之事に候間、精を入れ候と、御咄有之由、其家に申し伝へ候、又南光坊の御口入にて、原田伊予二千石にて被名出候処、其時に御家なればこそ、伊予も二千石にて出で候へども、何方にても、高禄にて有付き兼ねざるものに候、二千石にては大なる堀出し者の由、被咄候由に候、南光坊の咄、或は右衛門佐殿の当半天下の勢など、被申たるにて、世の覚も知られ候事に候間、勝れ候士共、御家に集り候、〉中にも寛永十九年五月、甲州武田家の浪人梶原伝九郎被召抱候は、難有思召に候、梶原伝九郎を家人とす伝九郎兄弟是よりさき、殊に貧窮に相成り、親を養ひ可申手立無之程に、行詰り候には、身を殺し候ても、親を可養と存じ究め、折節吉利支丹御改に付、其訴人仕り候者は、御褒美銀数多可下由、御高札に記し、被相建候を見候て、伝九郎其弟に申し候は、我等偽つて、吉利支丹宗の者と可相成候間、其許訴人可仕候、左候はゞ御褒美銀可下候間、夫にていか様にも、孝養可仕由、申し候へば、其弟答へ候は、弟の身として、兄の訴人に出で、世にながらひ居り候儀、甚不本意の間、某儀吉利支丹宗の者と、可相成候、御訴人被成候へかしとて、双方申し争ひ候処、伝九郎申し候は、左には無之、我等年もたけ、親の分抱久しくは、難心底候、其許は年若の儀、永く親の御為と可相候〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉間、早々訴人に可出候と申すに付、其意に任せ、弟儀江戸へ罷出で、評定所へ訴ひ出で候、時の奉行衆召出し、対決被申付候、弥伝九郎吉利支丹宗、無紛に相決し候、然れども訴人愁歎の様子、自然相顕れ、難心得事に候とて、再応御糺明有之候へども、弥吉利支丹宗相違無之候、乍然其様子いかにも不審の事に付、甲州の役人並に其辺の者共、被召出御尋有之候へば、吉利支丹宗の者とは不相聞、実は貧窮にせまり、孝養のため、如此兄弟相談仕りたる始末、段々相顕れ、さりとは奇特なる志、珍しき事に付、達上聞御褒美金子被下置候、殿様此旨被聞召、御家来に被召出、御奉公仕り、追ては忰弥三郎迄、御切米被下、親子にて御奉公仕り候、寛文九年伝九郎老病に付、隠居の願申上げ候処、被聞召届忰弥三郎家督無相違下、親伝九郎訳有之者に付、是迄弥三郎に被下候十二石三人扶持、為老養親伝九郎一生の内被下候、

一、同十九年壬午十月、将軍様西の御丸にて、御茶の御会被遊候て被召、御登城被成、夫より浅生辺へ御鷹野に御成被遊、御供被遊候処に、御薬園の御殿に於て、松平伊豆守殿を以て、御手鷹の内、雁とり鴨とり二居御拝領、殊更御城廻りの御鷹オープンアクセス NDLJP:80場たりとも、正之の直言向後御免被成候間、御鷹匠頭小野久内を案内者にて、遠慮なく鷹狩可致との上意有之、此時分斯様の儀、他には無之事故、御様子別段なる儀と、世上取沙汰仕り候、其後両日御鷹野被成、雁二羽御合被成、翌日御城へ御持参、二羽共に御献上被成候て、御目見被仰上、酒井讃岐守殿御取合に、肥後守儀御鷹場御免被成候に付、此間大分物数仕り、難有奉存候と御申上げ候、則殿様讃岐守殿の方へ御向ひ被成、いや只今差上げ候雁二羽の外には、獲物不仕由被仰候に付、少しは御座の興もさめ候様子に有之、扨御前御退出被成、御次の間にて讃岐守殿御不興顔にて、只今は余りに御正直なる御挨拶に候と、御申し候へば、殿様御返答に、我等も左様には存じ候へども、仮初にも上を欺き偽りがましきは、其罪不軽と存じ候て、有の儘に申上げ候と被仰候、讃岐守殿其心の正しきを、殊に御感賞有之由に候、

今津へ転封せらる一、同二十年癸未、御年三十三、七月四日、陸奥国会津若松の城へ、三万石の御加増にて、廿三万石になされ、御所替被仰付候、抑若松の御城地と申すは、奥羽の咽喉に有之、天正年中、葦名家没落の後、豊臣太閤御下向、伊達家の押領を御取上有之、其後蒲生氏郷ならでは、あるまじき由にて、東国の鎮護として、此所に被差置候処、氏郷御卒去の後、其子秀行、未だ年若にて、奥羽の鎮護、大事の場所無覚束とて、野州宇都宮へ御移被成、会津へは越後より上杉中納言景勝を封ぜられ候処、慶長五年関ヶ原御一戦の後、景勝をば、羽州米沢へ御移被成候、然る所この城は、御家門御譜代の歴々に無之候ては難差置、蒲生秀行は御婿と申し、旧領の地に付、六十万石の身上にて封ぜられ、蒲生家断絶の後、藤堂和泉守殿の推挙にて、加藤左馬之介殿四十万石にて居城有之、二男民部少輔殿へ二本松、婿松下石見守殿へ三春を被下、左馬之介殿へ属せられ、其外二万石の地、御預被成候処、其子式部少輔の時、領地被召上候に付、今度別段の思召を以て、御拝領被成候、御加増は三万石に候へども、外に古新田二万石をば、けこみに被成、扨又南山五万石の処は、私領同然に仕置等仕り候へとの、御内意を以て、御預被成候、彼是取合はせ候へば、三十万石の御身上にて、昔より奥州押への場所なるを以て、如斯被仰付、一入難有被思召、御満悦被成候、八月二日江戸御発駕、白河通にて馬上三十騎被召連、同八日御入部被遊候、御曲輪内を始め、段々御見廻り、御領中所々御巡見、初知入の御仕置ども、無残所仰付、権現様御宮御供領、始め先規より所附来の寺社領被之、且諸士オープンアクセス NDLJP:81へも御加増被下、十二月朔日民間の御仕置八十箇条被仕出、翌年正月御参府被遊候、其節松平伊豆守殿へ、御蔵入の儀、御私領同然、諸事被仰付候由、被仰述候、御尤の儀、御序を以て、可上聞旨、御挨拶有之候、其年御領内年貢の未進三千五百両、御容赦被遊候、〈会津御入部の日は、天気も勝れて宜しく、一発御機嫌宜しく、御喜被成、其秋は豊作にて諸郷村賑々しく悦び候由、今以て申伝へ候、〉御国引渡の節、上使伊丹順斎殿始め、御勘定衆迄大勢下向有之候処、佐野主馬と申す仁も被参、引渡の御用被相勤候、延宝の頃、其様子を物語り候は、肥後守殿会津御拝領の節、伊丹順斎に我等も差添へ、御国引渡し罷帰る、大猷院様へ御目見の節、順斎申上げ候次第、手前儀も末座にて承り候、肥後守儀結構なる御国拝領仕り、其上割余りの地迄、御預被下、難有由申上げ候、仕置き方諸事の儀は、肥後守知行所同前仕り候様にと、申渡し候段順斎申上げ候と承り候、手前事に候へば、委細は不存候得共、御勘定も両三年は無之を、肥後守殿より御断にて、御勘定被成上候と覚え候、外々の御預所とは各別に候、其時会津へ参り候衆も、我等計に相成り候段相咄し候、古き様子も相知れ候事に付、相記し置き候、〈上使衆御引渡の帳面に、佐野主馬・井上半右衛門両人判形の品、今以てのこり置き候、〉

三春城受取の加勢赴く一、正保元年甲申四月、三春城主松下石見守殿、乱心にて土佐国へ流罪被仰付、家中の者共城を渡し申すまじきなどゝ、騒動に及び候由に付、井伊掃部頭殿御一同俄に彼地への御暇被仰出候、御下城の節、さらば無程とて、互に御駕に被召候を、御供の者承り、御帰宅後、股立をもおろさず罷在り候処へ追付き、御発駕御下向可遊との御触有之、会津へは人馬寄せの御手配、飛脚を以て被仰遣やがて江戸御起被遊候、白河城にて掃部頭殿御一同、三春表の儀、御評定被成候、其時に所々の人数も落合ひ候処、岩城内藤の家中三百余騎、半分は御残し可然由、御差図被成候へども、いづれも先陣不仕候ては、不叶由、申争ひ、内藤殿には未だ幼弱の事にて、家老ども手に余り候様子被聞召、御差図被成候は、双方申す所尤に候、左候上は、今度所向の一手は、早々三春表へ馳せ向ひ、先陣可仕候、さて弥城攻議定の時は、後陣の者馳せ来り、相代り城攻可仕由被仰渡、双方申分なく相済み候、それより白河を御起被成、長沼駅迄御下向、此所に御逗留被成、一左右次第御取詰可成思召にて、其様子彼地へ御家来被附置、御覧被成、時々刻々の注進被聞召候儀に候、会津にては各打起つ計に支度いたし、御下知を相待ち居り候処、無オープンアクセス NDLJP:82相違城地差上げ候由、注進有之候に付、同十九日会津へ御帰城被遊候、其冬迄御在邑、十月十四日御発駕、日光山御参拝、直に御帰府被成候、〈長沼御起と申す前日に、御供家老より、明日は御帰城可成候司、御風呂をたかせ、御膳の用意可申付置旨、案内申越し候、翌日御着城の由に有之、其頃御手軽の御仕成なりし御様子、近世の風とは格別なる事、甚だ言外に相見え候に付、小事ながら爰に記し置き候、〉

家綱の元服一、同二年乙酉、四月廿一日、左近衛少将に被任、同廿三日若君様〈厳有院様御事〉御元服、正二位大納言に御叙任被遊候に付、御元服の親にとの上意にて、御理髪の御役御勤被成、井伊掃部頭殿〈直孝朝臣〉には、御加冠被成候由に候、其時に公方様へ来国光の御刀、大納言様へ守家の御太刀・行光の御刀・御馬一疋御献上被成、公方様より為御祝儀、長光の御刀、大納言様より将監長光の御刀御拝領被遊候、御喜悦被思召候、其年の七月十四日、従四位上に御進被遊候、

家康に宮号を賜ふ一、同年十一月、京都より権現様へ宮号御贈被遊候に付、勅使菊亭大納言様御下向、日光山へ勅額被懸候、其時依上意、少将様御登山、酒井讃岐守殿・松平右衛門大夫殿も、御登山被成候、御帰府後御登城、御前に於て、日光表の御儀尋被遊、御神慮の御感応、御冥加に被叶、難有被思召候由、被仰上御満足不斜候、

孝子次郎左衛門の旌表一、同三年丙戌冬、御領分越後国蒲原郡永谷村百姓次郎左衛門と申す者、土民無隙候て、親に孝を尽し候由被聞召、御威被遊、弥老父養のため、米十俵被下、能々可申聞旨、被仰出候、右の次第申渡し、御米頂戴為致候処其中を取分け懐中仕り、其余は不残湯川を船にて致運送候、其仔細を尋ね候へば、若し破船にても有之時は、頂戴の御米を、両親に為戴候儀、難叶候と存じ、自然の為に、少々懐中仕り候由申し候、是農民の孝行、始めて其賞を被行候儀に候、凡孝子順孫を旌賞せられし儀は、国史にも不絶有之儀候へども、中古以来いつ方にても、左様なる事は不承程の儀の処、目出たき御政道と可申事に候、其後承応元年五月、次郎左衛門、親ともに、今存命に候はゞ、次郎左衛門へ二人扶持被下候、若し親相果て母計り残り候とも、其通可申付、自然両親ともに相果て候はゞ、次郎左衛門へ一人扶持可申付由、被仰出候処、母は相果て、父未だ存命に付、二人扶持被下候、次郎左衛門儀、重重の御哀憐、冥加至極難有奉存候由、申上げ候、寛文元年、親相果て候に付、次郎左衛門へ一人扶持被下候、

一、同年常陸国下館にて、御鷹場御拝領被成候、此後彼地へ御下向の儀も有之候オープンアクセス NDLJP:83処、寛文二年依御願差上候、

一、同四年丁亥、御暇被下、御帰城被遊候、其時御領中民間にて迷惑仕り候筋も候はゞ、無遠慮申上げ候様被仰出候、品々願出で差上げ候を、被聞召筋ある儀は、其通に被仰出、下々感悦仕り候、其冬御家老・奉行等御城へ被召御茶被下、其上にて呂刑、官・反・内・貨・来五字の戒を、委細に御説示被成候、翌春正月御発駕被遊候、

一、慶安元年戊子、御入部後、御領中年貢の未進御免被成、其後も二千両余御用捨被遊候処、此上にも加藤家引渡の内、負はせ高と申す苛政の取立有之、民間にて迷ひ高と申し、迷惑仕り候由被聞召、無筋取立、御仕置の正路ならざる事に被思召、此年より検地被仰付、承応元年迄に相済み、負はせ高の分不残御用捨被成、都合二万石余、御年貢諸役御免被成候、御入部以来、免相も平均四ッ三分余なる迄に御下被成、其外品々の御仁政共にて、御領中の百姓共難有御悦、年々豊に相成り、慶安元年より寛文末迄、民数は二万九千五百人余相増し、御仁政の効著しく、無限御慈悲共に候、〈免相は平均五ッ三分なる程に相当り候由、御収納方米金、当分の内に有之、元禄以来田別免の御法に考合ゼ候ては、四つ五分五厘の免に相当り候由に候、〉

蒲生氏郷の遺法一、会津は四塞の国にて、地広く人少く、風俗動悍に有之、葦名家以来、英武の名将引続き居城有之、民間迄も剛勇気力を尊び候風相移り、中にも蒲生宰相氏郷は、武名も殊に高く相聞え候処文雅の趣もありて、治国の才も格別なる由にて、若松の城郭修築、市井街衢の割直も、後々迄其割相残り、遺族ども有之、既に米金収納の法、並に山中木地挽の業は、氏郷より起り、漆本種植の事は、上杉景勝の頃より有之、蠟蠟の利不少、且又石森檜原・軽井沢等の金銀山も盛にて、奥羽第一の大邦に有之候、先封の方々仕置の様子、乱世引続きとは乍申、多くは武断の事共にて、道を正し沙汰被致候儀ども不相聞、偶良法善政など申し候ても、権詐小恵の類に有之、民俗も質実なる様には候へども、我儘にて道理の聞分も、少き様なる場所の由に候処、民俗の改良寛永御入部以来、御仁政を被布行、人倫の道を明かにし、不何事、順路に被仰付候を以て、諸人段々信服いたし、民心の非も次第に相改り、淳厚の俗に一変致し候由に候、其頃の歌謡の由にて、古老の筆記に、如左相見え候、

   土の瘤から星の親仁がつばぬけた火事の卵をふみつぶせ

其詞甚だ鄙俚ながら、暗に荘子、日月出矣、爝火不息の詞に似て、中々味有之様に相聞え候、土の瘤は山の事にて、星の親仁は、月の事の由、つばぬけたとは、つとさオープンアクセス NDLJP:84し出でたりといふ意にて火事の卵は、挑灯にたとひし事の由候、先封の方々私智の政術を挑灯に比し、御入部以来御仁政の大なるを月光に比し、如斯うたひ候由、申伝へ候、其詞も爽晻昧、未だ光明を破らずと、いふやうなる様子を見るべきの一つに候、南山御蔵入は、山中場広の土地にて、御入部の時分、離散の百姓多く、亡所同然の村々多く有之に付、段々御引返し居村に相成り、新規御取立の如く今以て、申し居る村方有之、既に南山数里の山奥より、年々自分として見禰山御社へ、今以て、参詣致し候者も有之由に候、

一、同二年己丑、今年より、御領中百姓男女の数、御改被成、此後毎年、定例に相成り候、

公事奉行の創設一、公事訴訟の穿鑿、諸士奉公人と百姓・町人出入の儀は、公事奉行の裏判に、御定被置、町奉行・郡奉行支配所の出入は、其奉行共穿鑿を遂げ、裁許申付け候、公事奉行と申し候て、公事裁許専任の役、被立置候事は、他に不承儀に候、慶安三年、公事奉行共、奉公人と町人及訴論候時、対決申付け候得共、奉行人共の儀、自分の威勢に任せ、かさ押に理不尽の事を申懸け、無作法の致方有之由達御耳、被仰出候は、元来公事承り候儀、何事に心得候哉、無作法有之者は、先づ公事の理非を不論、其不届の品々吟味の上急度可申付儀に候、裁断に預りたる人、第一自分の仕方を正しく相嗜み、同心共迄も作法能く召置き、見分いかにも威儀有之様に可致候、様子じだらに致し成り候ては、裁許​(マヽ)​​にを​​ ​軽しめ、畢竟上の御役場を不重に至るものに候、斯様の仕方、自分の驕にては無之候条、不遠慮、毎物急度仕り候儀、専一に被思召候、併対決に罷出で候者共、其理の趣申伸べ候処は、申易き様に、能々可相嗜候、町奉行・郡奉行共、双方共に町人・百姓の出入に候へば、一方かさ押し理不尽の儀有之まじく候へども、諸事仕方能き様にいたし、可裁断、此段奉行共兼ねて相心得、正之親しく訴訟の裁断に与る役人共へ可申聞旨、被仰出遣候、穿鑿の帳共、江戸表へ差上げ候時は、毎度御近習の者に、為読被聞召候、思召有之箇所々々は、紙を貼り置き候様にと、被仰候て、先づ始終御聞被成、二度目には、大方御裁断被遊候、其中穿鑿の足らざる所有之歟、又は御不審の儀有之時は、かく穿鑿可仕旨、御意被成、再詰問被仰付候儀も、数度有之、其情実大方は、思召に相違の所無之候、穿鑿の始末、委しく御記憶被遊被御座候間、うかとしたる儀など申上げ候へば、色々オープンアクセス NDLJP:85御不審有之程の儀に候、然れども被御念候て、度々被仰出候は、差上げ候帳面の上にて被仰遣候間、別して相替り候品も候はゞ、無遠慮重ねて可申上由、御意被成候、

一、同四年辛卯、御年卅九、春中より公方様御不例の由、四月に至り、弥御様体御勝れ不遊候との事にて、毎日御登城被成候、然る所に十八日以後は、御屋敷へ御帰不成、平詰に被成候、同二十日朝より、以ての外御大切の由にて、御三家始め、諸大名不残御登城被成候処、酒井讃岐守殿・松平伊豆守殿・阿部対馬守殿を以て、俄に御機嫌被重候間、最早御対面難遊思召し候御後の儀、大納言様へ御如才不仕、御奉公肝要に被思召候由、上意の旨被仰渡候、未刻に至り、大奥御殿の方より、堀田加賀守殿御出、肥後守殿々々々々と、御呼び候に付、急ぎ御越被成候処に、加賀守殿御案内にて、御寝所の御次の間迄御同道、是に御控へ候様にと有之、追て奥の御座敷にて、加賀守殿の声にて、肥後守是へと、御申しに付、将軍家光の遺命御出被成候へば、将軍様には、加賀守殿に御もたれ被遊ながら、少将様の御顔を御覧被遊、右の御手を御出し被遊候時、加賀守殿御側近くと、御申しに付、御茵の上迄、御寄被成候処に、少将様の御手を御執被遊、其方事我等が恩を、定めて忘るまじくとの、上意に付、御感涙に御咽び、兼々骨髄に徹し、片時も忘却不仕旨、被仰上候へば、御機嫌にて、大納言未だ幼少の事なれば、其方をたのむぞと、上意に付、奉畏候、不肖ながら身命を抛ち奉守にて、可御座、其儀に於ては乍憚御心安く被思召候様にと、御涙ながら御請被仰上候へば、いかにも御喜びの御様子にて、安堵するとの上意にて、其後はとかうの上意も無之、御手を御はなし被遊候、少将様には、是を御暇乞と被思召候に付、御途方も無之所に、加賀守殿、しきりに手を御ふり候に付、御涙をのごひ、御側を御退出被成、表へ御戻り被成候処、御出仕の衆、少将様の御顔色を見、いかさま御大切至極の御様体と被心付候様子に候、間もなく加賀守殿御出、御三家の御方に向ひ、只今御他界被遊候段、御披露有之候、追て大猷院様と奉唱候御事に候、今日より直に西の御丸へ御勤番被成 少々御風気に被入候へども、少しも御厭なく、廿三日迄御退出なく、平詰に被成、御老中と諸事を御相談被成候、御末期の時分、御一人被召候儀、天下に無比類事、誠に御冥加に被叶、深く辱き御遺言とも、御愁傷と申し、彼是可申様も無之御様子どもに候、オープンアクセス NDLJP:86此後日々御登城、御大政の筋被聞召候、

正之将軍家綱の輔導となる一、少将様御儀、故有之、保科の家督被継候へども、紛れもなく台徳院殿大相国の御子、大猷院殿左府の御舎弟、御当代の御叔父に有之、前途は黄門・参議にも御累進可成程の御身柄に候処、此度御遺言にて、御幼君の御後見被遊候上は、御自身の事は思召し棄てさせられ、諸事御譜第の衆と御並び、御謙抑を主となされ、其貴を御挟み被成候御心、曽て不為在、ひとへに国家の安危、天下の治否に計御心を被置、御代御長久に有之様にと、昼夜御苦労被遊候、先年駿河大納言様より、無程御紋御免の時に、御着用候様にと、御祝被進候権現様御召の御小袖をも、此時に思召す仔細有之、御鎧の御下召に、仕立被仰付、其端切は焼棄被仰付、又御家老共被召出、御意被成候は、天下の御事一筋に御大切に御存被入候上は、御手前の事にはさのみ御心尽されまじく候間、面々能く相心得、自今以後は、御領中御家中の御仕置、弥油断不仕、諸事能く承届け申上げ候様、被仰付候、常々の御物語に、我等が上様の御事を、昼夜不忘心底は、竹ならず割りても知るべく候へども、それもならぬ事に候へば、人如斯とは知るまじくと被仰候、〈御三家の御方は、伯父様にて被御座候へども、尾張殿・水戸殿と被仰、両典厩様は、まぎれもなき甥子様達に候へども、左馬様・右馬樟とならでは、仮初にも不仰候、是は公方様の御舎弟故、御うやまひ被成、兎にも角にも、公方様御感光不浅様にとの御心入にて可之と、下々にて申居り候、〉

一、此時公方様御年纔に、十一歳に被御座、かゝる御幼君にて、御大統を被継候も、御当家始めての儀に有之、且又乱世をさる事遠からずして、諸大名の風も未だ全く不穏、御親戚の御中といへども、むざと御心を許されざる程の御様子にて、殊に御大事なる砌に有之、少将様御苦労無申計、老臣にては、井伊掃部頭〈直孝朝臣〉・酒井讃岐守〈忠勝朝臣〉・松平伊豆守〈信綱朝臣〉・阿部豊後守〈忠秋朝臣〉・等、篤実寛厚、偉才の名臣と共に、御力を被合、御輔佐被遊、保衡の任に被在、大猷院様御在世に不相替、天下の御威光御盛に有之、其御功業は、海内世の所知候、山崎闇斎御碑文に、其事君也、大義常存於心、念々不忘、以世為悦、不一毫之、恐己忠之不_尽、而不人之悦_己と相記し、其所尽思対_命、悉焼之、人無得而知_之とも相見え候、廷議の筋御家来などへ御咄被成候儀は、曽て無之間、誰も不存候へども、御建議の趣自然後々は、他より相聞え候儀も不少候、

正之私謁を斥く一、此頃ある御歴々の方より、吉良若狭守殿を以て、御願事の御相談被仰越候処、オープンアクセス NDLJP:87に、初めには御無用に被成可然と、御返答有之、二度に及び候に付、以ての外なる御気色にて、大猷院様御在世に候はゞ、斯様の儀などは、噂にも被出まじき儀に候、たとひ老中不残得心被致候とも、此肥後守に於ては、承り届け候と、申す事不相成候、斯様の儀を取りもたれ候、其許にも似合ひ不申と、被仰候に付、若狭守殿大に御迷惑がり候由に候、事の仔細は誰も不存候、

一、同年七月三日、御登城の節、松平和泉守殿、上意を被伝候は、暑気の節、日々の御出仕、御感思召し候由にて、やがて御前へ被召出、御手づから御団扇・御香嚢御拝領被遊候、

由井正雪の変一、同月日光山御参拝の御暇被下、廿一日御発駕、廿五日帰府の御道中へ、井伊掃部頭殿より、飛脚到来、駿河に罷在り候浪人由井正雪、逆心の企露顕に及び、其党類丸橋忠弥等、被召捕候由、御申越に付、古河駅より急に御起被成御着府、御旅装の儘に、直に御登城被遊候、此時に駿府近所の御大名へは、若手に余り候はゞ、駿府より一左右次第人数可差出由、御老中奉書を以て、御下知有之、専ら用意有之由に候、正雪は致自害相果て、其余の悪党共被召捕、無程御仕置被仰付候、

 
 

この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。