千年の松/巻之一
一、慶長十八年癸丑、御年三歳、此春の頃にも成り候へば、近々御台様より御穿鑿被㆑遊候など、風説聞え候により、お静の方心を痛め御迷惑不㆑浅、夜に紛れ居らば殿へ御越、さま〴〵と御打歎き故、土井大炊頭殿へ御内談有㆑之候、爰に田安御比丘尼屋敷に見性院殿と申すは、【見性院正之を預りて養育す】武田信玄の娘にて、穴山梅雪の後室にて御座候を、権現様御代より御馳走被㆑遊、岩槻近大牧と申す所にて知行六百石被㆑進被㆓差置㆒候、兎に角この人ならではとの御事に究り、三月朔日、土井大炊頭殿・本多佐渡守殿両人田安へ御越し候て、幸松様を其許の御子に可㆑被㆑進との御事にて候間、何分にも御介抱被㆑成候様にと御申有㆑之処、見性院殿御答に、是は思もよらぬ御頼みにて候、御当家御譜代の歴々衆さへ、御持ちあぐみに候若君を、此尼などかりにも守り立て可㆑申とは、似合はしからぬ事にて候へども、将軍様にも、此尼を尼と思召し、親分にも成り候へとの上意にて、各にも御頼みの儀に候へば、兎角申すに不㆑及、成る程心得申し候、我等も女にこそ生れ候へ、弓矢取りて世にも知られし信玄が娘にて候へば、少しも御気遣有るまじく候、何れにも御存じの通、御台様より、殊の外御懇に預り、只今迄は御城に計登り居り候様に候へども、此御子を手前に預り候からは、今日よりふつと御城へも登り申すまじく候、此上は早々此方へ被㆑為㆑入候様に、御計らひ可㆑被㆑成由、いかにも甲斐々々しく御請に付、御両人共に大に御悦にて、翌二日御母子さま共に、田安へ御移り被㆑成候、見性院殿より其家来有泉五兵【 NDLJP:70】衛・野崎太左衛門を、為㆓御迎㆒被㆑遣御引取、宗近作の御守刀被㆑進、武田幸松様と御呼被㆑成、太左衛門事は、今日より御附被㆑進、お静の方、数万の御人初めに候とて、御悦び大方なず、明くる三日の節句をば、殊に御祝ひ有㆑之候、
一、同十九年甲寅八月、大風にて、江戸中のよわき家をば、大かた吹きつぶし、御城廻りにても御破損夥しき事に候、見性院殿御家もつぶれ可㆑申歟と、人々さわぎ候故、長持二棹ならべ、其間に幸松様を入れ置きまゐらせ、見性院殿とお静の方と、御介抱被㆑成候、召仕の女房達おそれふためき候を、幸松様御覧、御笑ひ、幾度も外へ御かけ出し被㆑成候を、御両人にて御引留有㆑之、風しづまり候て、見性院殿殊に御満足にて、さすが将軍の御子程おはしまし、さて〳〵健気なる御生れかなとて、御褒め被㆑成候、此頃より以来御見聞被㆑成候事ども、歴然と御記憶、御忘不㆑被㆑成候、
【幼児辻売の風習】一、幼き殿の御子は、息災延命、末為㆓繁昌㆒、致㆓辻売㆒候事吉例の由、世に申し習はし候とて、見性院殿より有泉五兵衛に御申付有㆑之、五兵衛儀、幸松様を抱き参らせ、辻売に出で候を、御番衆の家来大貫四郎左衛門参り合ひ買取り参らせ、為㆓御祝儀㆒小脇差さし上げ候も、此頃の事に候、
【秀忠夫人の抗議】一、或時御台様御年寄女中田安へ参られ候て、見性院殿の事は、御台様にも御心易く思召し、御懇の御事に候処、よしなき御預り人をなされ候と、被㆑申候へば、見性院殿聞きもあへず、いかにも其通にて候、去ながら預り申すにてはなく候、我等子にいたし候様にとの御事にて、ふつともらひ切り申し候、無㆑恙成人も被㆑致候はば、武田の名字にいたし、我等に被㆑下候少しの知行をも譲り、後をも弔はれ申すべきとの事にて候、縦御台様より如何様の御咎候とても、一たび見性院が子にいたしたる人の事に候へば、はなし申す事とては成り申さずと、返答有之候へば、其後よりは何の沙汰もなく、少しはゆるやかなる御様子にて、近所の御堀廻などへは御出御遊び被㆑成候、
一、此頃観世七郎左衛門勧進能を興行せし時、御見物に御出被㆑遊候処、其場にて御守の衆、他の者と口論に申し募り、手荒き取合に罷成り、先方は大勢故、御危く被㆑成㆓御座㆒候、万沢権九郎と申すは、見性院殿より被㆓附置㆒候者に候処、此時に御供いたし候を、浪人有賀九右衛門と申す者知人にて、見懸け参り合ひ候て、御味方に加はり候、其上九右衛門同道の者共口々に、爰にも味方控へ居り候間、少しもひ【 NDLJP:71】け取るなと、声を懸け候へば、皆引逃げ候、権九郎儀、九右衛門へ申し候は、其方御味方致し呉れ候に付、幸松様御危き所を、御遁被㆑遊候是より田安の御屋敷へ参り候へとて、九右衛門を同道致し候、お静の方、其方の御蔭にて、御命を御ひろひ被㆑遊候とて御悦被㆑成、見性院殿と御両人にて御盃を被㆑下、時服をも被㆑為㆑取候、それより御心易く御出入致し候、後に九右衛門を名乗り被㆓召出㆒候は、是等の子細を被㆓思召㆒候ての事に候、或時に品川辺に御慰に御出被㆑成候、神田辺に罷在り候、中山与左衛門と申す者、御供仕り、猟師ども大勢を催し、大網為㆑曳入㆓御覧㆒候も、此時分の事と相聞え候、
【正之保科正光の養子となる】一、元和三年丁巳、御年七歳、田安に被為入候ても、最早五年に及び、御生立もよく罷成り御座候へども、公儀より何の御沙汰もなく候に付、見性院殿御気毒に被㆓思召㆒、此年の秋、保科肥後守殿御見舞罷成り候を、御呼入れ候て、見性院殿御申し候は、御当家に大身小身へかけ、甲州の衆数多罷居り候ても、筋目を尋ぬる人もなく候処に、其許計は信玄が娘とあるを以て、折々の御音問有㆑之、日来の御芳志感じ入り候事と、常々申し暮らし候、さるによつて、其許に御無心申し度き事の候が、御承引あるべく候やと、被㆑申候に付、肥後守殿御返答に、其許様の御事、信玄公の御息女様にて御座候へば、御主君の御筋目と申し、何様の事にも候へ、自分の力に叶ひ候程は、御用承り可㆑申にて候と、御申し候へば、見性院殿御悦にて、其儀に於ては、御物語申す事の候、是に御入り候若殿は、将軍様の正しき末の御子にておはしまし候を、仔細にて近年我等方に預り置き参らせ候、一日々々と御成人被㆑成、最早年も七歳になられしも、上より何の御尋もなく、老中もさのみかまひ不㆑申候、ひとへに御台様の御心を兼ねられ候ての事と存じ候、殿の御子の七歳より上の御そだちは、大切の時にて候に、我等事にて候へば、然るべき侍の一人もつけ参らする事もなく、女童部の中にばかり生ひ立たせられ候ては後々の御為にも成り不申候まゝ、何れへなりとも御預かへ被㆑成候様にと思ひつゞけ候処、能き時節も来り候はゞ、御親子・御兄弟の御名乗も被㆑成候様にと、心にかけらるべき、頼もしき人を、見立て候ての事と、思ひ暮し候に、其許の事、先にも申す通、父にて候信玄の
【先養子あるを聞きて自ら辞せんとす】一、此時に高遠より三里程此方に、御堂垣と申す所に候宿りの時分に、女房達打寄り、茶のみ物語に、高遠には真田左源太殿と申し、肥後守殿のためには、甥子にて有㆑之を、先達て養ひおかれ候などと申すを、幸松様御聞被㆑成、御母上へ御向ひ、肥後守方にては、左源太と申して、子があると承り候、左候上は、我等は見性院殿の許へ帰り可㆑申にて候とて、以ての外の御腹立に有㆑之、何とも不㆓罷成㆒候を、お静の方始め女房達、色々と御機嫌を取直し、高遠へ人を遣し、御子と被㆑成候にては無㆑之由、しかと御聞届にて御得心被㆑成候、〈左源太殿と申すは、肥後守殿の御妹婿小日向源太左衛門某の子にて、御内室御子育無㆑之ゆゑ、部屋子に決し貰ひ被㆑習候よしに候、〉後に此様子を肥後守殿御聞き候て舌を巻き、稚き殿の御心にも似ず、あなお【 NDLJP:73】そろしとて、御敬憚有㆑之、仮初にも幸松殿と、殿文字を附けて御呼び候由、申伝へ候、さて保科家よりは、御人初めに井上市兵衛を御附有㆑之、其外狩野八太夫・小原内匠など申すもの、御部屋附にて、大方ならざる御馳走共に有㆑之、月に五六度程づゝは、肥後守殿御見舞有㆑之由に候、翌年肥後守殿五千石御加増有㆑之、是は幸松様被㆑為入候故の様にも相聞え候、
【見性院知行三百石を分与す】一、同五年己未、御年九歳、見性院殿より肥後守殿度々の御願にて、幸松様へ御逢ありたしとの御儀に付、極月に至り、高遠より江府へ御同道に被㆑成、度々田安へ被㆑為㆑入、見性院殿御悦不㆑斜、翌年三月高遠へ御帰被㆑成候に付、田安へ為㆓御暇乞㆒御入被㆑成候処に、見性院殿深く御名残を御惜み被㆑成候、黄金一枚御持出し、黄金は世に多き物ながら、是は仔細ある金にて、我等若き時分より、貯へ置き候とて、御手づから被㆑進候、扨又高遠へ御帰後、見性院殿より御�筆の御文にて、知行六百石の内三百石、寡しく候へども、後々御大名に被㆑為㆑成候時、此尼が志を被㆓思召出㆒候計に進じ候、御鼻紙なりとも、御遣ひ被㆑成候様にとの御事に候、依つて其黄金并に御文ともに、草の御懸硯箱に被入置、今以て其儘御持伝被成候、後年に至り、昔を被㆓思召出㆒候時にや、御取出し御覧被㆑成候を、若き小姓衆などは、仔細を不㆑存、不審を立て候由申伝へ候、此三百石の御知行はいかゞ成り候哉不㆓相分㆒候、又信玄より御譲の由にて、紫銅鮒の水入などをも被㆓進置㆒候、
【保科正近を正之の傅とす】一、同六年庚申秋、御成人被㆑成候故、肥後守殿より、同姓保科民部正近を、御附に被㆑附候て御申し候は、存世の内に、御父子の御名乗、御加増を被㆑進、大身に御成り候を見申し度き願に候へども、老衰余命も難計、其方より幸松殿へ附置き候間、随分大切に守り立て参らせ候様に、可㆓存入㆒候、我等家督は幸松殿へ進じ置き候間、我等相果て候はゞ、米津勘兵衛殿を頼み、土井大炊頭殿迄可㆓相願㆒候、老人の事に候へば、今晩も期しがたく候間、遺言の書付渡し置き候、委細は我等も勘兵衛殿を以て、大炊頭殿へ願ひ置き候由、民部に被㆓仰置㆒候、
【見性院没す】一、同八年壬戊四月の頃より、見性院殿御煩の由、高遠へ申し来る、御母君より御見舞として、御使者被㆓附置㆒候処に、五月九日御死去、武州足立郡大牧村清泰寺にて御取置被㆑成候、御病中より御末期迄、外の儀は御申しなく、たゞ幸松様御事のみにて御果被㆑成、今はの際には、幸松様御名乗被㆓仰出㆒、目出度御事やなどゝ、うは言に【 NDLJP:74】御申被㆑成候由に候、扨高遠へ御死去の由、相聞え御母君殊の外御歎きにて、幸松様にも年来の御芳志ども被㆓思召㆒、御愁歎被㆑成候を、見申す者も致㆓感涙㆒候由に候、右の通の御方故、後々御年忌の御弔に、大牧村阿弥陀堂御修造、寛文の末、御慕田迄御附被㆑成候、又有泉新左衛門・小田切源兵衛は、もと見性院殿被㆓召仕㆒候者には、御忌日には両人にて月代りに、御位牌所建福寺へ参拝可㆑仕旨など被㆓仰付㆒候、
一、寛永三年丙寅、御年十六、山崎闇斎御行状に、自㆑幼善㆑字読㆑書、聡明絶㆑人と相記し置き候処、今年より儒学の筋御志弥深く被㆑成㆓御座㆒候由、申伝へ候、又此頃の儀と相見え、保科家の土井上金右衛門は、信州天龍川にて朝夕川狩いたし、水練の達者に候処、此金右衛門を被㆓召連㆒、御水游に御出の由、其家の記に相見え候、又御幼少より碁心被㆑為㆑入㆓御器用㆒被㆑遊候処、【安井算哲に就いて碁を学ぶ】肥後守殿御屋敷へ、安井算哲算知が父御心易く御出入致し居り候に付、碁の御指南仕り候様にとの、肥後守殿御申し候、左候はゞ、先づ其様子拝見可㆑仕と申すに依つて、算哲を御相手にて三目にて被㆑遊候処、扨扨御器用なる被㆑遊方に候、然れども田舎基にて、被㆑遊方賤しきなど申す内に、終に其碁は、算哲負に相成り候、算哲儀、是は思ひの外なる事に候とて、段々打ち候へども、三目にては中々叶ひ不㆑申、是にては御指南などは不㆓存寄㆒旨申し候由に候、
一、御成人被㆑成、御童名御似合不㆑被㆑成候へども、下にて御改可㆑被㆑成様も無㆑之間、肥後守殿御心得にて、向後は信濃様と申し候様にと、御家中へ御申渡有㆑之、しかと致したる御受領、御名にては無㆑之候、此頃肥後守殿江府より、信濃様御慰のためにとて、熱海の湯へ御同道被㆑成候、【正之熱海に湯治す】御出の時分、肥後守殿より御歩行井深加左衛門・御部屋の御歩行小田切源兵衛両人被㆑遣、戸塚の宿へ参り、御本陣両所に取かため、御家中の宿札大方打ち候時御旗本衆七頭、戸塚の宿を三日前より、不㆑残借り置き候を、本陣の者隠し置き候故、七頭の宿取ども可㆓取返㆒由、口論申し募り候処、戸塚の入口にせき札無㆑之に付口論に勝ち、御宿に無㆓相違㆒取かため候由に候、是より𤍠海へ被㆑為㆑入、信濃様は直に高遠に御帰りに付、御人を分けられ被㆓召連㆒、肥後守殿特に御人少にて、江戸へ御戻りの由に候、
【正之始めて秀忠に謁見す】一、同六年己巳、御年十九、去冬より御在府被成候処、将軍様へ御目見の儀、肥後守殿御願被㆑成、六月廿四日初めて、目出たく御目見被㆓仰上㆒、七月七日高遠へ御帰り被㆑成候、又肥後守殿兼々駿河大納言忠長卿へ、御父子の御名乗御取持被㆑下たき旨、【 NDLJP:75】御頼被㆑申候に付、同年九月、駿府より御対面被㆑成たき由、被㆓仰越㆒、肥後守殿御同道ずにて駿府へ御出被㆑遊候、〈此時に、香坂与兵衛儀世忰にて、肥後守殿の御小姓相切めに居り候由の所、親の人馬を借り騎馬にて御供可㆑仕山被㆓仰付㆒、騎馬の御供仕り候由に候、〉 御城へ御登りの時分、御座敷の内、所々の番士一人も出座無用と被㆓仰付㆒候故、今日の御客誰人にて、斯様に被㆓仰付㆒候哉と、侍衆不審を立て候処に、御帰の時には、不㆑残詰所々々へ罷出で居り候様にと被㆓仰付㆒候由に候、扨御帰の後、駿河様御近習衆へ被㆑仰候は、幸松事は高遠の田舎育にて、万づ不調法にて可㆑有㆑之間、当番の士共へ為㆑見候事も、不㆑入事とおもひ、始めは皆々為㆑退候へども、存の外なる事にて、利発なる取廻し安堵せし故、帰の節は番士共へ見せしと被㆑仰、御悦不㆑浅由に候、其日御対面の刻、其相伴に御饗応、且又守家の御刀・御鷹一居、黒御馬・白銀五百枚被㆑進、其上にて御紋の御小袖一つ、御手づから被㆑進候て、是は権現様の御召料にて候、其方も追付御紋御免の節、目出たく着用被㆑致候様にと、祝ひ進じ候由被㆑仰候に付、肥後守殿、是は別して忝き御意にて候、御前様より外に、御執成可㆑被㆓仰上㆒方も無㆓御座㆒候、拙者存命の内に、何卒御名乗の儀を承り、相果てたき志願の由、御申上候へば、駿河様、近頃奇特の被㆑申様に候、少しも如才無㆑之旨、被㆑仰候由に候、
【正光の卒去】一、同八年辛未、御年廿一、将軍様御不例の由に付、八月十三日俄に高遠を御起被㆑成、同十六日御着府御逗留、然る所に、其年の十月七日肥後守殿七十一歳にて、鍛治橋御屋敷にて御卒去、是迄十五年以来、御懇なる御養育の忝さを思召し、御愁歎無㆓申計㆒候、頓て松平伊豆守殿御悔の上使として、御出有㆑之、霜月十二日に、酒井雅楽頭殿御宅へ、高遠の家老共御呼寄せ、土井大炊頭殿御列座にて、高遠の城地無㆓相違㆒被㆓仰付㆒候、且又思召有㆑之間、随分大切に守立て候様にとの上意の旨、被㆓仰渡㆒候、同十八日には御登城、御礼首尾能く被㆓仰上㆒、其時に保科民部・篠田半左衛門・一瀬勘兵衛・北原采女・竹村半右衛門迄、将軍様御目見被㆓仰付㆒候、同月廿七日御元服被㆑遊、廿八日従五位下肥後守に御叙任の上、為清の御腰物御拝領被㆑成候、右の御様子故、追て御名乗も可㆑有㆑之歟と、御家中きほひ罷在り候処に、翌年正月廿四日、将軍台徳院と奉㆑唱候、
【諸侯正之を敬ふ】一、御代替りに相成り候て、段々御懇なる御様子に有㆑之候へども、其時分は、今の御詰衆のやうなる御列にて、御小身と申し、御官位も軽く被㆑為㆑入候には、いつも御末座に被㆑成㆓御座㆒、公方様ふと諸大名の詰所々々を御のぞき被㆑遊候て、あれは【 NDLJP:76】誰ぞ、あれは誰ぞと、御尋被㆑遊候、殿様御儀に至り、あれはと御尋に付、御側の衆、肥後守にて御座候と、被㆓申上㆒候、左候へば、肥後守が上には、誰も居さうもなきものぞと、上意有㆑之、いつとなく其儀流布いたし、御同席の衆、いづれも御上座に御つき不㆑被㆑成、御座席つまり候に付、皆御縁通に御着座有㆑之様に罷成り、御気毒に被㆓思召㆒候旨、御物語有㆑之候、斯様なる御様子に付、世上にても目を付け、皆諸大名衆の御あひしらひも、大に相替り候、然れども兼ねて、御身の御取立御望がましき御心などは、仮初にも不㆑被㆑為㆑在、さま〴〵御取持ち仕る者など有㆑之候ても、少しも御心を不㆑被㆑為㆑留、御小家の御安心、何の御不足とも不㆑被㆓思召㆒候、其御様子台聴に達し、殊に御感歎被㆑遊候と相聞え候、
【出羽最上へ転封す】一、寛永九年の冬、四品に御昇進、其後日光山御成の節御供奉、同十一年御上洛の御供被㆑遊、侍従に被㆑任、同十三年に至り、御年廿六の時に、十七万石の御加増にて、出羽国村山郡最上の城へ都合二十万石に被㆑成、御所替被㆓仰付㆒候、御家督後纔六年の内に、御加増といひ御官位といひ、斯くの如き御取立御首尾可㆓申上㆒様無㆑之、難㆑有御事共に候、最上へ御入部の時分、青貝柄の小持錦三十筋、御拝領被㆑遊候、且又俄に大身に被㆑為㆑成、人に御事欠に可㆑有㆑之とて、土井大炊頭へ心を添へ遣し候様、御同意有㆑之、最上御城御請取の節、侍並に足軽以下、余程御加勢有㆑之、城門並に諸番所へ武具其儘に残し置き候様にと、大炊頭殿被㆓申付㆒、其通被㆓留置㆒候、其武具鉄炮百挺・弓五十穂・持弓廿五穂と申し伝へ候、会津迄為㆓御持㆒被㆑成候に付、今以て御天守に水車土井家の紋有㆑之、空穂ども残り居り候扨又高遠御旧領の者ども、無㆑限御慕ひ申上げ、彼地其頃、摺臼挽の時に、左の通謡ひ候由に候、今の高遠で身がたてられやうか早く最上の肥後様へ
【保科氏の重宝を保科正貞に贈る】一、同十四年丁丑、保科弾正忠殿へ北原采女御使として、御先祖弾正左衛門殿、天正年中、小笠原右近大夫貞慶攻め来り候節、御手勢にて御防戦、悉く御追討有之候に付、権現様より御感状並に包永の御刀被㆑下候、其御感状・御刀・伊奈半郡の御朱印、其外保科家に相伝あるべき程の物は、不㆑残被㆑遣候、中にも元重の御刀は、髭切と申す異名有㆑之候、其仔細は保科故筑前守殿、信州に於て、志賀平左衛門と申す者を被㆑討候時に、髭をかけて切りおとされ候有様を、武田信玄御覧ありて、髭切と名付け、保科の重代たるべしと、御申し候由、此御刀迄も被㆑遣候、此事にても、保科を御【 NDLJP:77】名乗被㆑成候からは、御道具をば被㆓留置㆒可㆑然などと、申す者共も候へども、御聞入もなく、皆々被㆑遣候、弾正忠殿殊の外御悦にて、采女へ腰物被㆑下候由に候、後に承り候へば、堀田加賀守殿を以て、上よりの御内意にて被㆑遣候由にて、さては無㆑程御連枝の御弘め可㆑有㆑之哉など、世上取沙汰致し候由、申し伝へ候、其後寛永の末、諸家の系譜御改の時も、此方にては、保科のつり計、御書上可㆑被㆑成候間、保科家の来由は、悉く弾正忠殿より御書上可㆑有㆑之旨、被㆓仰遣㆒候、抑保科弾正忠、諱正貞、初めは甚四郎と申し候て、故肥後守正光君の異母弟に候処、肥後殿御子無㆑之に付、権現様・台徳院様両御所の御前にて、甚四郎殿を御猶子に御定被㆑成、御父子にて御奉公有㆑之候、然る所追つて仔細有㆑之、退身被㆑致、浪人の体にて被㆑居候を、上総国にて新知被㆑下被㆓召出㆒、大番頭被㆓仰付㆒、叙爵して弾正忠と被㆑申、寛永十年、鍛冶橋内保科家の屋敷は、弾正忠殿に被㆑下、此方は西丸下にて、松平周防守殿の上ヶ屋敷を、新規に被㆑下、弾正忠殿後に、一一万石迄に、御加増被㆑下候も、保科の御家督、此方へ被㆓仰付㆒候に付、弾正忠殿御事は其事となく、段々御取立の儀と相聞え候、
【島原の乱と正之】一、同年十月、肥前国島原にて、吉利支丹蜂起いたし、有馬の古城へ取籠り候由、江戸へ注進有㆑之、関東より御名代として、御一門方被㆑遣候段にも至り候はゞ、御筋目の儀にも候間、此方などにても可㆑有㆑之と、世間にても取沙汰致すに付、御家中の者共は、猶以て左も可㆑有㆑之歟と、心懸け候折節、御登城被㆑成候様にとの御奉書にて、御上り被㆑成候、扨こそ西国への御名代被㆓仰付㆒にて可㆑有㆑之と、御家中勇み立ち候処に、案の外に最上へ御暇御拝領にて、御下り可㆑被㆑成との御事にて、御家中のきほひも醒めはて、殿様にも定めて、御満足には被㆓思召㆒まじき歟と、申し候処、下々にての積りの外に、一段と御機嫌能く、早々御下向被㆑遊候、後日に承り候へば、西国に事の出来る時は、東国の儀を御気遣被㆑遊、奥州筋押の為にと、被㆓思召㆒御下被㆑成候との上意にて、泰き思召の由に候、最上へ御帰城被㆑成候ても、江戸への御使者・御飛脚等、毎日の様に有㆑之候、其砌ある夜の御咄に、今度島原の一揆も、是程の儀には成り行くまじき儀を、彼是と相談の内に、日数を経て、事重くは成りたると相見え候、それといふも、九州の内にしかと致したる御家門御譜代無㆑之故にて候、総別先の手の見えたる事にてさへあらば、急に埓を明けて事をすましたるが、公儀の御為にもなる事に候、然れども人々後難を憚り、面々の越度にならぬ様【 NDLJP:78】にと計、分別する内に、物ごと手延に成りて、小事も大事に相成り候儀多きものに候、畢竟上の御為を存じ入り、致しそこなひ候時は、我身を果す迄よと、覚悟を究め候儀、第一の事に候と被㆑仰候、
【最上の施政】一、最上御在城の頃は、未だ御年若に被㆑為㆑入候処、其施設周詳にして、措置精練なりと、山崎闇斎御行状に記し置き候、御事業とては、くはしく不㆓相知㆒候へども、御入部の冬、御家中御仕置の御条目、今に相残り、或は其翌年には、最上飢饉の処、御領中一人も不㆑飢様、御救被㆑下、諸人難㆑有御政道を感悦仕り候由に候、此頃御領中御取立の法共、後に御領主移り替り、或は御料と相成り候ても、其法を被㆑為㆑取候由に候、諸民今に御慕ひ申し居り候と承り候、
【白岩一揆の鎮定】一、同十五年戊寅、酒井長門守殿知行所、出羽国白岩と申す所の百姓ども、地頭をそむき騒動いたし、江戸迄訴ひ出で候に付、延沢の御代官小林十郎左衛門殿へ、取鎮被㆓仰付㆒候処、中々承引不㆑仕、次第に募り候に付、小林殿手際に不叶、最上へ被㆑参殿様へ御相談被㆑致候に付、保科民部へ仰含め、彼地へ被㆑遣候、民部早々馳せ向ひ、之を呼集め、遂㆓吟味㆒候処、其仕方不届に付、扨申し聞け候は、其方共申上げたき筋も候はゞ、幸ひ肥後守様御在邑の事に候間、山形へ罷出で、御裁許可㆓相願㆒候、乍㆑然大勢にては、他の聞えも如何に候間、密々参り候様申し諭し、徒党の者卅五人、山形へ相残り候を見すかし、一人も不㆑残召捕へ候処、速に御城下の北長町河原と申す所にて、皆々磔にかけられ候て、何事なく事鎮まり候、委細は江戸へも言上被㆑成候由に候、
【国家輔翼の命を受く】一、同十六年巳卯正月、御参覲被㆑成、御礼被㆓仰上㆒候後、内田信濃守殿為㆓上使㆒御出、向後天下の御政道の儀に於て、存じ寄り候儀は、少しも無㆓遠慮㆒言上可㆑仕旨、被㆓仰出㆒此以来色々献替の御言を奉られし由に候へども、御草稿等誰も存じ候者無㆑之候、
一、同年八月廿一日、江戸出火、御本丸回禄に付、将軍様には蓮池御門より、西の丸へ被㆑為㆑成候、殿様御供被㆑遊、御直の上意を以て、御城外御見廻り被㆑成、直に二の丸を御固め被㆑遊候、此後何方へも御成の節は、大方御留守居被㆑遊候、
一、同年九月、芝海手の御座敷御拝領被㆑遊候、
一、最上御入部後、武勇忠義の士共御吟味の上多分被㆓召出㆒将又奉公仕り候者、主を択び候も、古今の常に有㆑之、此頃殿様御事、天下に御名望無㆑隠御儀に候間、志あ【 NDLJP:79】る士共、御家を慕ひ罷出で候者も、不少事と相聞え候、〈この頃、松平右衛門佐殿の御口入にて、安部非又た衛門といふ者を、被㆓召出㆒候 其時に右衛門佐殿御旗本花房志摩守殿へ、御物語有㆑之は、我等も大国を領し居り、彼者など相応に扶持可㆑致程の事は、最易き事に候へども、譜代の家人も多く、加増など果敢々々敷も難㆑遣候、今肥後守殿は、半天下の勢有㆑之、いかなる大国をも被㆑為㆑領、いかなる官位に被㆑進候も難㆑知候、夫に従ひ家来共は、格式知行の高も頼有㆑之事に候間、精を入れ候と、御咄有㆑之由、其家に申し伝へ候、又南光坊の御口入にて、原田伊予二千石にて被㆓名出㆒候処、其時に御家なればこそ、伊予も二千石にて出で候へども、何方にても、高禄にて有付き兼ねざるものに候、二千石にては大なる堀出し者の由、被㆑咄候由に候、南光坊の咄、或は右衛門佐殿の当半天下の勢など、被㆑申たるにて、世の覚も知られ候事に候間、勝れ候士共、御家に集り候、〉中にも寛永十九年五月、甲州武田家の浪人梶原伝九郎被㆓召抱㆒候は、難㆑有思召に候、【梶原伝九郎を家人とす】伝九郎兄弟是よりさき、殊に貧窮に相成り、親を養ひ可㆑申手立無㆑之程に、行詰り候には、身を殺し候ても、親を可㆑養と存じ究め、折節吉利支丹御改に付、其訴人仕り候者は、御褒美銀数多可㆑被㆑下由、御高札に記し、被㆓相建㆒候を見候て、伝九郎其弟に申し候は、我等偽つて、吉利支丹宗の者と可㆓相成㆒候間、其許訴人可㆑仕候、左候はゞ御褒美銀可㆑被㆑下候間、夫にていか様にも、孝養可㆑仕由、申し候へば、其弟答へ候は、弟の身として、兄の訴人に出で、世にながらひ居り候儀、甚不本意の間、某儀吉利支丹宗の者と、可㆓相成㆒候、御訴人被㆑成候へかしとて、双方申し争ひ候処、伝九郎申し候は、左には無㆑之、我等年もたけ、親の分抱久しくは、難㆑任㆓心底㆒候、其許は年若の儀、永く親の御為と可㆓相候㆒〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉間、早々訴人に可㆑出候と申すに付、其意に任せ、弟儀江戸へ罷出で、評定所へ訴ひ出で候、時の奉行衆召出し、対決被㆓申付㆒候、弥伝九郎吉利支丹宗、無㆑紛に相決し候、然れども訴人愁歎の様子、自然相顕れ、難㆓心得㆒事に候とて、再応御糺明有㆑之候へども、弥吉利支丹宗相違無㆑之候、乍然其様子いかにも不審の事に付、甲州の役人並に其辺の者共、被㆓召出㆒御尋有㆑之候へば、吉利支丹宗の者とは不㆓相聞㆒、実は貧窮にせまり、孝養のため、如㆑此兄弟相談仕りたる始末、段々相顕れ、さりとは奇特なる志、珍しき事に付、達㆓上聞㆒為㆓御褒美㆒金子被㆓下置㆒候、殿様此旨被㆓聞召㆒、御家来に被㆓召出㆒、御奉公仕り、追ては忰弥三郎迄、御切米被㆑下、親子にて御奉公仕り候、寛文九年伝九郎老病に付、隠居の願申上げ候処、被㆓聞召届㆒忰弥三郎家督無㆓相違㆒被㆑下、親伝九郎訳有㆑之者に付、是迄弥三郎に被㆑下候十二石三人扶持、為㆓老養㆒親伝九郎一生の内被㆑下候、
一、同十九年壬午十月、将軍様西の御丸にて、御茶の御会被㆑遊候て被㆑為㆑召、御登城被㆑成、夫より浅生辺へ御鷹野に御成被㆑遊、御供被㆑遊候処に、御薬園の御殿に於て、松平伊豆守殿を以て、御手鷹の内、雁とり鴨とり二居御拝領、殊更御城廻りの御鷹【 NDLJP:80】場たりとも、【正之の直言】向後御免被㆑成候間、御鷹匠頭小野久内を案内者にて、遠慮なく鷹狩可㆑致との上意有㆑之、此時分斯様の儀、他には無㆑之事故、御様子別段なる儀と、世上取沙汰仕り候、其後両日御鷹野被㆑成、雁二羽御合被㆑成、翌日御城へ御持参、二羽共に御献上被㆑成候て、御目見被㆓仰上㆒、酒井讃岐守殿御取合に、肥後守儀御鷹場御免被㆑成候に付、此間大分物数仕り、難㆑有奉㆑存候と御申上げ候、則殿様讃岐守殿の方へ御向ひ被㆑成、いや只今差上げ候雁二羽の外には、獲物不㆑仕由被㆑仰候に付、少しは御座の興もさめ候様子に有㆑之、扨御前御退出被㆑成、御次の間にて讃岐守殿御不興顔にて、只今は余りに御正直なる御挨拶に候と、御申し候へば、殿様御返答に、我等も左様には存じ候へども、仮初にも上を欺き偽りがましきは、其罪不㆑軽と存じ候て、有の儘に申上げ候と被㆑仰候、讃岐守殿其心の正しきを、殊に御感賞有㆑之由に候、
【今津へ転封せらる】一、同二十年癸未、御年三十三、七月四日、陸奥国会津若松の城へ、三万石の御加増にて、廿三万石になされ、御所替被㆓仰付㆒候、抑若松の御城地と申すは、奥羽の咽喉に有㆑之、天正年中、葦名家没落の後、豊臣太閤御下向、伊達家の押領を御取上有㆑之、其後蒲生氏郷ならでは、あるまじき由にて、東国の鎮護として、此所に被㆓差置㆒候処、氏郷御卒去の後、其子秀行、未だ年若にて、奥羽の鎮護、大事の場所無㆓覚束㆒とて、野州宇都宮へ御移被㆑成、会津へは越後より上杉中納言景勝を封ぜられ候処、慶長五年関ヶ原御一戦の後、景勝をば、羽州米沢へ御移被㆑成候、然る所この城は、御家門御譜代の歴々に無㆑之候ては難㆑被㆓差置㆒、蒲生秀行は御婿と申し、旧領の地に付、六十万石の身上にて封ぜられ、蒲生家断絶の後、藤堂和泉守殿の推挙にて、加藤左馬之介殿四十万石にて居城有㆑之、二男民部少輔殿へ二本松、婿松下石見守殿へ三春を被㆑下、左馬之介殿へ属せられ、其外二万石の地、御預被㆑成候処、其子式部少輔の時、領地被㆓召上㆒候に付、今度別段の思召を以て、御拝領被㆑成候、御加増は三万石に候へども、外に古新田二万石をば、けこみに被㆑成、扨又南山五万石の処は、私領同然に仕置等仕り候へとの、御内意を以て、御預被㆑成候、彼是取合はせ候へば、三十万石の御身上にて、昔より奥州押への場所なるを以て、如㆑斯被㆓仰付㆒、一入難㆑有被㆓思召㆒、御満悦被㆑成候、八月二日江戸御発駕、白河通にて馬上三十騎被㆓召連㆒、同八日御入部被㆑遊候、御曲輪内を始め、段々御見廻り、御領中所々御巡見、初知入の御仕置ども、無㆓残所㆒被㆓仰付㆒、権現様御宮御供領、始め先規より所㆓附来㆒の寺社領被㆑下㆑之、且諸士【 NDLJP:81】へも御加増被㆑下、十二月朔日民間の御仕置八十箇条被㆓仕出㆒、翌年正月御参府被㆑遊候、其節松平伊豆守殿へ、御蔵入の儀、御私領同然、諸事被㆓仰付㆒候由、被㆓仰述㆒候、御尤の儀、御序を以て、可㆑達㆓上聞㆒旨、御挨拶有㆑之候、其年御領内年貢の未進三千五百両、御容赦被遊候、〈会津御入部の日は、天気も勝れて宜しく、一発御機嫌宜しく、御喜被㆑成、其秋は豊作にて諸郷村賑々しく悦び候由、今以て申伝へ候、〉御国引渡の節、上使伊丹順斎殿始め、御勘定衆迄大勢下向有㆑之候処、佐野主馬と申す仁も被㆑参、引渡の御用被㆓相勤㆒候、延宝の頃、其様子を物語り候は、肥後守殿会津御拝領の節、伊丹順斎に我等も差添へ、御国引渡し罷帰る、大猷院様へ御目見の節、順斎申上げ候次第、手前儀も末座にて承り候、肥後守儀結構なる御国拝領仕り、其上割余りの地迄、御預被㆑下、難㆑有由申上げ候、仕置き方諸事の儀は、肥後守知行所同前仕り候様にと、申渡し候段順斎申上げ候と承り候、手前事に候へば、委細は不㆑存候得共、御勘定も両三年は無㆑之を、肥後守殿より御断にて、御勘定被㆓成上㆒候と覚え候、外々の御預所とは各別に候、其時会津へ参り候衆も、我等計に相成り候段相咄し候、古き様子も相知れ候事に付、相記し置き候、〈上使衆御引渡の帳面に、佐野主馬・井上半右衛門両人判形の品、今以てのこり置き候、〉
【三春城受取の加勢赴く】一、正保元年甲申四月、三春城主松下石見守殿、乱心にて土佐国へ流罪被㆓仰付㆒、家中の者共城を渡し申すまじきなどゝ、騒動に及び候由に付、井伊掃部頭殿御一同俄に彼地への御暇被㆓仰出㆒候、御下城の節、さらば無㆑程とて、互に御駕に被㆑為㆑召候を、御供の者承り、御帰宅後、股立をもおろさず罷在り候処へ追付き、御発駕御下向可㆑被㆑遊との御触有㆑之、会津へは人馬寄せの御手配、飛脚を以て被㆓仰遣㆒やがて江戸御起被㆑遊候、白河城にて掃部頭殿御一同、三春表の儀、御評定被㆑成候、其時に所々の人数も落合ひ候処、岩城内藤の家中三百余騎、半分は御残し可㆑然由、御差図被㆑成候へども、いづれも先陣不㆑仕候ては、不㆑叶由、申争ひ、内藤殿には未だ幼弱の事にて、家老ども手に余り候様子被㆓聞召㆒、御差図被㆑成候は、双方申す所尤に候、左候上は、今度所㆑向の一手は、早々三春表へ馳せ向ひ、先陣可㆑仕候、さて弥城攻議定の時は、後陣の者馳せ来り、相代り城攻可㆑仕由被㆓仰渡㆒、双方申分なく相済み候、それより白河を御起被㆑成、長沼駅迄御下向、此所に御逗留被㆑成、一左右次第御取詰可㆑被㆑成思召にて、其様子彼地へ御家来被㆓附置㆒、御覧被㆑成、時々刻々の注進被㆓聞召㆒候儀に候、会津にては各打起つ計に支度いたし、御下知を相待ち居り候処、無㆓【 NDLJP:82】相違㆒城地差上げ候由、注進有㆑之候に付、同十九日会津へ御帰城被㆑遊候、其冬迄御在邑、十月十四日御発駕、日光山御参拝、直に御帰府被㆑成候、〈長沼御起と申す前日に、御供�家老より、明日は御帰城可㆑被㆑成候司、御風呂をたかせ、御膳の用意可㆓申付置㆒旨、案内申越し候、翌日御着城の由に有㆑之、其頃御手軽の御仕成なりし御様子、近世の風とは格別なる事、甚だ言外に相見え候に付、小事ながら爰に記し置き候、〉
【家綱の元服】一、同二年乙酉、四月廿一日、左近衛少将に被㆑任、同廿三日若君様〈厳有院様御事〉御元服、正二位大納言に御叙任被㆑遊候に付、御元服の親にとの上意にて、御理髪の御役御勤被㆑成、井伊掃部頭殿〈直孝朝臣〉には、御加冠被㆑成候由に候、其時に公方様へ来国光の御刀、大納言様へ守家の御太刀・行光の御刀・御馬一疋御献上被成、公方様より為㆓御祝儀㆒、長光の御刀、大納言様より将監長光の御刀御拝領被㆑遊候、御喜悦被㆓思召㆒候、其年の七月十四日、従四位上に御進被㆑遊候、
【家康に宮号を賜ふ】一、同年十一月、京都より権現様へ宮号御贈被㆑遊候に付、勅使菊亭大納言様御下向、日光山へ勅額被㆑為㆑懸候、其時依㆓上意㆒、少将様御登山、酒井讃岐守殿・松平右衛門大夫殿も、御登山被㆑成候、御帰府後御登城、御前に於て、日光表の御儀尋被㆑遊、御神慮の御感応、御冥加に被㆑為㆑叶、難㆑有被㆓思召㆒候由、被㆓仰上㆒御満足不㆑斜候、
【孝子次郎左衛門の旌表】一、同三年丙戌冬、御領分越後国蒲原郡永谷村百姓次郎左衛門と申す者、土民無㆑隙候て、親に孝を尽し候由被㆓聞召㆒、御威被㆑遊、弥老父養のため、米十俵被㆑下、能々可㆓申聞㆒旨、被㆓仰出㆒候、右の次第申渡し、御米頂戴為㆑致候処其中を取分け懐中仕り、其余は不㆑残湯川を船にて致㆓運送㆒候、其仔細を尋ね候へば、若し破船にても有㆑之時は、頂戴の御米を、両親に為㆑戴候儀、難㆑叶候と存じ、自然の為に、少々懐中仕り候由申し候、是農民の孝行、始めて其賞を被㆑行候儀に候、凡孝子順孫を旌賞せられし儀は、国史にも不㆑絶有㆑之儀候へども、中古以来いつ方にても、左様なる事は不㆑及㆓承程㆒の儀の処、目出たき御政道と可㆑奉㆑申事に候、其後承応元年五月、次郎左衛門、親ともに、今存命に候はゞ、次郎左衛門へ二人扶持被㆑下候、若し親相果て母計り残り候とも、其通可㆓申付㆒、自然両親ともに相果て候はゞ、次郎左衛門へ一人扶持可㆓申付㆒由、被㆓仰出㆒候処、母は相果て、父未だ存命に付、二人扶持被㆑下候、次郎左衛門儀、重重の御哀憐、冥加至極難㆑有奉㆑存候由、申上げ候、寛文元年、親相果て候に付、次郎左衛門へ一人扶持被㆑下候、
一、同年常陸国下館にて、御鷹場御拝領被㆑成候、此後彼地へ御下向の儀も有㆑之候【 NDLJP:83】処、寛文二年依㆓御願㆒被㆓差上㆒候、
一、同四年丁亥、御暇被㆑下、御帰城被㆑遊候、其時御領中民間にて迷惑仕り候筋も候はゞ、無㆓遠慮㆒申上げ候様被㆓仰出㆒候、品々願出で差上げ候を、被㆓聞召㆒筋ある儀は、其通に被㆓仰出㆒、下々感悦仕り候、其冬御家老・奉行等御城へ被㆑為㆑召御茶被㆑下、其上にて呂刑、官・反・内・貨・来五字の戒を、委細に御説示被㆑成候、翌春正月御発駕被㆑遊候、
一、慶安元年戊子、御入部後、御領中年貢の未進御免被㆑成、其後も二千両余御用捨被㆑遊候処、此上にも加藤家引渡の内、負はせ高と申す苛政の取立有㆑之、民間にて迷ひ高と申し、迷惑仕り候由被㆓聞召㆒、無㆑筋取立、御仕置の正路ならざる事に被㆓思召㆒、此年より検地被㆓仰付㆒、承応元年迄に相済み、負はせ高の分不㆑残御用捨被㆑成、都合二万石余、御年貢諸役御免被㆑成候、御入部以来、免相も平均四ッ三分余なる迄に御下被㆑成、其外品々の御仁政共にて、御領中の百姓共難㆑有御悦、年々豊に相成り、慶安元年より寛文末迄、民数は二万九千五百人余相増し、御仁政の効著しく、無㆑限御慈悲共に候、〈免相は平均五ッ三分なる程に相当り候由、御収納方米金、当分の内に有㆑之、元禄以来田別免の御法に考合ゼ候ては、四つ五分五厘の免に相当り候由に候、〉
【蒲生氏郷の遺法】一、会津は四塞の国にて、地広く人少く、風俗動悍に有㆑之、葦名家以来、英武の名将引続き居城有㆑之、民間迄も剛勇気力を尊び候風相移り、中にも蒲生宰相氏郷は、武名も殊に高く相聞え候処文雅の趣もありて、治国の才も格別なる由にて、若松の城郭修築、市井街衢の割直も、後々迄其割相残り、遺族ども有㆑之、既に米金収納の法、並に山中木地挽の業は、氏郷より起り、漆本種植の事は、上杉景勝の頃より有㆑之、蠟蠟の利不㆑少、且又石森檜原・軽井沢等の金銀山も盛にて、奥羽第一の大邦に有㆑之候、先封の方々仕置の様子、乱世引続きとは乍㆑申、多くは武断の事共にて、道を正し沙汰被㆑致候儀ども不㆓相聞㆒、偶良法善政など申し候ても、権詐小恵の類に有㆑之、民俗も質実なる様には候へども、我儘にて道理の聞分も、少き様なる場所の由に候処、【民俗の改良】寛永御入部以来、御仁政を被㆓布行㆒、人倫の道を明かにし、不㆑依㆓何事㆒、順路に被㆓仰付㆒候を以て、諸人段々信服いたし、民心の非も次第に相改り、淳厚の俗に一変致し候由に候、其頃の歌謡の由にて、古老の筆記に、如㆑左相見え候、
土の瘤から星の親仁がつばぬけた火事の卵をふみつぶせ
其詞甚だ鄙俚ながら、暗に荘子、日月出矣、爝火不㆑息の詞に似て、中々味有㆑之様に相聞え候、土の瘤は山の事にて、星の親仁は、月の事の由、つばぬけたとは、つとさ【 NDLJP:84】し出でたりといふ意にて火事の卵は、挑灯にたとひし事の由候、先封の方々私智の政術を挑灯に比し、御入部以来御仁政の大なるを月光に比し、如㆑斯うたひ候由、申伝へ候、其詞も�爽晻昧、未だ光明を破らずと、いふやうなる様子を見るべきの一つに候、南山御蔵入は、山中場広の土地にて、御入部の時分、離散の百姓多く、亡所同然の村々多く有㆑之に付、段々御引返し居村に相成り、新規御取立の如く今以て、申し居る村方有㆑之、既に南山数里の山奥より、年々自分として見禰山御社へ、今以て、参詣致し候者も有㆑之由に候、
一、同二年己丑、今年より、御領中百姓男女の数、御改被㆑成、此後毎年、定例に相成り候、
【公事奉行の創設】一、公事訴訟の穿鑿、諸士奉公人と百姓・町人出入の儀は、公事奉行の裏判に、御定被㆑置、町奉行・郡奉行支配所の出入は、其奉行共穿鑿を遂げ、裁許申付け候、公事奉行と申し候て、公事裁許専任の役、被㆓立置㆒候事は、他に不㆑及㆑承儀に候、慶安三年、公事奉行共、奉公人と町人及㆓訴論㆒候時、対決申付け候得共、奉行人共の儀、自分の威勢に任せ、かさ押に理不尽の事を申懸け、無作法の致方有㆑之由達㆓御耳㆒、被㆓仰出㆒候は、元来公事承り候儀、何事に心得候哉、無作法有㆑之者は、先づ公事の理非を不㆑論、其不届の品々吟味の上急度可㆓申付㆒儀に候、裁断に預りたる人、第一自分の仕方を正しく相嗜み、同心共迄も作法能く召置き、見分いかにも威儀有㆑之様に可㆑致候、様子じだら〳〵に致し成り候ては、裁許(マヽ)にを 軽しめ、畢竟上の御役場を不㆑重に至るものに候、斯様の仕方、自分の驕にては無㆑之候条、不㆑致㆓遠慮㆒、毎㆑物急度仕り候儀、専一に被㆓思召㆒候、併対決に罷出で候者共、其理の趣申伸べ候処は、申易き様に、能々可㆓相嗜㆒候、町奉行・郡奉行共、双方共に町人・百姓の出入に候へば、一方かさ押し理不尽の儀有㆑之まじく候へども、諸事仕方能き様にいたし、可㆑及㆓裁断㆒、此段奉行共兼ねて相心得、【正之親しく訴訟の裁断に与る】役人共へ可㆓申聞㆒旨、被㆓仰出遣㆒候、穿鑿の帳共、江戸表へ差上げ候時は、毎度御近習の者に、為㆑読被㆓聞召㆒候、思召有㆑之箇所々々は、紙を貼り置き候様にと、被㆑仰候て、先づ始終御聞被㆑成、二度目には、大方御裁断被㆑遊候、其中穿鑿の足らざる所有㆑之歟、又は御不審の儀有㆑之時は、かく〳〵穿鑿可㆑仕旨、御意被㆑成、再詰問被㆓仰付㆒候儀も、数度有㆑之、其情実大方は、思召に相違の所無㆑之候、穿鑿の始末、委しく御記憶被㆑遊被㆑成㆓御座㆒候間、うかとしたる儀など申上げ候へば、色々【 NDLJP:85】御不審有㆑之程の儀に候、然れども被㆑為㆑入㆓御念㆒候て、度々被㆓仰出㆒候は、差上げ候帳面の上にて被㆓仰遣㆒候間、別して相替り候品も候はゞ、無㆓遠慮㆒重ねて可㆓申上㆒由、御意被㆑成候、
一、同四年辛卯、御年卅九、春中より公方様御不例の由、四月に至り、弥御様体御勝れ不㆑被㆑遊候との事にて、毎日御登城被㆑成候、然る所に十八日以後は、御屋敷へ御帰不㆑被㆑成、平詰に被㆑成候、同二十日朝より、以ての外御大切の由にて、御三家始め、諸大名不㆑残御登城被㆑成候処、酒井讃岐守殿・松平伊豆守殿・阿部対馬守殿を以て、俄に御機嫌被㆑為㆑重候間、最早御対面難㆑被㆑遊思召し候御後の儀、大納言様へ御如才不㆑仕、御奉公肝要に被㆓思召㆒候由、上意の旨被㆓仰渡㆒候、未刻に至り、大奥御殿の方より、堀田加賀守殿御出、肥後守殿々々々々と、御呼び候に付、急ぎ御越被㆑成候処に、加賀守殿御案内にて、御寝所の御次の間迄御同道、是に御控へ候様にと有㆑之、追て奥の御座敷にて、加賀守殿の声にて、肥後守是へと、御申しに付、【将軍家光の遺命】御出被㆑成候へば、将軍様には、加賀守殿に御もたれ被㆑遊ながら、少将様の御顔を御覧被㆑遊、右の御手を御出し被㆑遊候時、加賀守殿御側近くと、御申しに付、御茵の上迄、御寄被㆑成候処に、少将様の御手を御執被㆑遊、其方事我等が恩を、定めて忘るまじくとの、上意に付、御感涙に御咽び、兼々骨髄に徹し、片時も忘却不㆑仕旨、被㆓仰上㆒候へば、御機嫌にて、大納言未だ幼少の事なれば、其方をたのむぞと、上意に付、奉㆑畏候、不肖ながら身命を抛ち奉㆑守にて、可㆑有㆓御座㆒、其儀に於ては乍㆑憚御心安く被㆑為㆓思召㆒候様にと、御涙ながら御請被㆓仰上㆒候へば、いかにも御喜びの御様子にて、安堵するとの上意にて、其後はとかうの上意も無㆑之、御手を御はなし被㆑遊候、少将様には、是を御暇乞と被㆓思召㆒候に付、御途方も無㆑之所に、加賀守殿、しきりに手を御ふり候に付、御涙をのごひ、御側を御退出被㆑成、表へ御戻り被㆑成候処、御出仕の衆、少将様の御顔色を見、いかさま御大切至極の御様体と被㆓心付㆒候様子に候、間もなく加賀守殿御出、御三家の御方に向ひ、只今御他界被㆑遊候段、御披露有㆑之候、追て大猷院様と奉㆑唱候御事に候、今日より直に西の御丸へ御勤番被㆑成 少々御風気に被㆑為㆑入候へども、少しも御厭なく、廿三日迄御退出なく、平詰に被㆑成、御老中と諸事を御相談被㆑成候、御末期の時分、御一人被㆑為㆑召候儀、天下に無㆓比類㆒事、誠に御冥加に被㆑為㆑叶、深く辱き御遺言とも、御愁傷と申し、彼是可㆑申様も無㆑之御様子どもに候、【 NDLJP:86】此後日々御登城、御大政の筋被㆓聞召㆒候、
【正之将軍家綱の輔導となる】一、少将様御儀、故有㆑之、保科の家督被㆑為㆑継候へども、紛れもなく台徳院殿大相国の御子、大猷院殿左府の御舎弟、御当代の御叔父に有㆑之、前途は黄門・参議にも御累進可㆑被㆑成程の御身柄に候処、此度御遺言にて、御幼君の御後見被㆑遊候上は、御自身の事は思召し棄てさせられ、諸事御譜第の衆と御並び、御謙抑を主となされ、其貴を御挟み被㆑成候御心、曽て不㆑被㆑為在、ひとへに国家の安危、天下の治否に計御心を被㆑為㆑置、御代御長久に有㆑之様にと、昼夜御苦労被㆑遊候、先年駿河大納言様より、無㆑程御紋御免の時に、御着用候様にと、御祝被㆑進候権現様御召の御小袖をも、此時に思召す仔細有㆑之、御鎧の御下召に、仕立被㆓仰付㆒、其端切は焼棄被㆓仰付㆒、又御家老共被㆓召出㆒、御意被㆑成候は、天下の御事一筋に御大切に御存被㆑入候上は、御手前の事にはさのみ御心尽されまじく候間、面々能く相心得、自今以後は、御領中御家中の御仕置、弥油断不㆑仕、諸事能く承届け申上げ候様、被㆓仰付㆒候、常々の御物語に、我等が上様の御事を、昼夜不㆑奉㆑忘心底は、竹ならず割りても知るべく候へども、それもならぬ事に候へば、人如㆑斯とは知るまじくと被㆑仰候、〈御三家の御方は、伯父様にて被㆑成㆓御座㆒候へども、尾張殿・水戸殿と被㆑仰、両典厩様は、まぎれもなき甥子様達に候へども、左馬様・右馬樟とならでは、仮初にも不㆑被㆑仰候、是は公方様の御舎弟故、御うやまひ被㆑成、兎にも角にも、公方様御感光不㆑浅様にとの御心入にて可㆑有㆑之と、下々にて申居り候、〉
一、此時公方様御年纔に、十一歳に被㆑成㆓御座㆒、かゝる御幼君にて、御大統を被㆑為㆑継候も、御当家始めての儀に有㆑之、且又乱世をさる事遠からずして、諸大名の風も未だ全く不㆑穏、御親戚の御中といへども、むざと御心を許されざる程の御様子にて、殊に御大事なる砌に有㆑之、少将様御苦労無㆓申計㆒、老臣にては、井伊掃部頭〈直孝朝臣〉・酒井讃岐守〈忠勝朝臣〉・松平伊豆守〈信綱朝臣〉・阿部豊後守〈忠秋朝臣〉・等、篤実寛厚、偉才の名臣と共に、御力を被㆑為㆑合、御輔佐被㆑遊、保衡の任に被㆑為㆑在、大猷院様御在世に不㆓相替㆒、天下の御威光御盛に有㆑之、其御功業は、海内世の所㆑知候、山崎闇斎御碑文に、其事㆑君也、大義常存㆓於心㆒、念々不㆑忘、以㆑安㆑世為㆑悦、不㆘以㆓一毫㆒欺上㆑之、恐㆓己忠之不_㆑尽、而不㆑欲㆓人之悦_㆑己と相記し、其所㆓尽思対_㆑命、悉焼㆑之、人無㆓得而知_㆑之とも相見え候、廷議の筋御家来などへ御咄被㆑成候儀は、曽て無㆑之間、誰も不㆑存候へども、御建議の趣自然後々は、他より相聞え候儀も不㆑少候、
【正之私謁を斥く】一、此頃ある御歴々の方より、吉良若狭守殿を以て、御願事の御相談被㆓仰越㆒候処、【 NDLJP:87】に、初めには御無用に被㆑成可㆑然と、御返答有㆑之、二度に及び候に付、以ての外なる御気色にて、大猷院様御在世に候はゞ、斯様の儀などは、噂にも被㆑出まじき儀に候、たとひ老中不㆑残得心被㆑致候とも、此肥後守に於ては、承り届け候と、申す事不㆓相成㆒候、斯様の儀を取りもたれ候、其許にも似合ひ不㆑申と、被㆑仰候に付、若狭守殿大に御迷惑がり候由に候、事の仔細は誰も不㆑存候、
一、同年七月三日、御登城の節、松平和泉守殿、上意を被㆑伝候は、暑気の節、日々の御出仕、御感思召し候由にて、やがて御前へ被㆓召出㆒、御手づから御団扇・御香嚢御拝領被㆑遊候、
【由井正雪の変】一、同月日光山御参拝の御暇被㆑下、廿一日御発駕、廿五日帰府の御道中へ、井伊掃部頭殿より、飛脚到来、駿河に罷在り候浪人由井正雪、逆心の企露顕に及び、其党類丸橋忠弥等、被㆓召捕㆒候由、御申越に付、古河駅より急に御起被㆑成御着府、御旅装の儘に、直に御登城被㆑遊候、此時に駿府近所の御大名へは、若手に余り候はゞ、駿府より一左右次第人数可㆓差出㆒由、御老中奉書を以て、御下知有㆑之、専ら用意有㆑之由に候、正雪は致㆓自害㆒相果て、其余の悪党共被㆓召捕㆒、無㆑程御仕置被㆓仰付㆒候、
この著作物は、1959年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しています。従って、日本においてパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。