<< 霊魂の事、慾の事、及び智の浄潔の事に就ての問答。 >>
問 霊魂の天然の状態はいかなるか、天然と反対の状態はいかなるか、天然以上の状態はいかなるか。
答 霊魂の天然の状態とは感覚に属すると思想に属する神の造物を認識するなり。天然以上の状態とは常に萬物に先だちて存在する神性を直覚するが為に喚起せらるゝなり。然して天然と反対なる状態とは慾に乱さるゝものに霊魂の感動するなり。神聖なる大ワシリイの言へる如し、曰く霊魂は天性に順応してあらはるゝときは上方にあり、しかれどもその天性の外にあらはるゝときは下方に地にあらはるゝなり、上方にあるときは、無慾を以てあらはるれども、天性がその固有の品位より下るときは、彼に慾はあらはるゝなり。ゆえに霊魂の慾は天性のまま霊魂に属するものにあらざることは終に明白なり。もし霊魂は非難せらるゝべき肉体上の慾に感動すること飢渇に於ると同くんば、飢渇に就ては之が為に法を置かれざるにより、他の批責に値する者と同様批責をうくべきには非るべし。時として或者には一見したる所、或る不適宜なることを遂ぐるを神より許され、非難と譴責とに代えて善なる報酬を與へらるゝことあり、淫婦を妻に娶りたる預言者オシヤの為にもかくの如く、神に属する熱心により、兇行を遂げたる預言者イリヤの為にもかくの如く、モイセイの命によりその父母を刃殺したる者の為にもかくの如くなりき。その外霊魂には肉体の性を俟たざるも、天然自然に癖愛と激し易き性のあることは言ひ得らるべくして、是れぞ即霊魂の慾なる。
問 性に順応すとは霊魂の望みが神聖なるものの為に奮熱せしめらるゝ時なるか、或は地に属するものと肉に属するものとに向ふ時なるか、且何の為に霊魂の性は激怒とその熱心とを露はすか。又如何なる場合に於て激怒は天然なるものと名づけらるゝか。霊魂が或る肉体上の望みの為、或は嫉妬の為、或は虚誇の為、或は之と相類するものの為に刺激せらるゝ時なるか、或は之と反対なるものの之を刺激する時なるか、誰か説あらば答ふべし、我等之に従はん。
答 神の書は名称を多く言ひ、屡々之を使用すれども、その義を的確にあらはさず。或る名称は肉体に属すれども、霊魂のことを言ひ、之と反対に霊魂に属する名称は肉体のことを言ふ。聖書は之を分開せず、然れども聡明なる者は此を理解するなり。かくの如く主の神性に属する名称の中、人性に適用すべからざる或る名称は聖書に主の至聖なる体のことを言ひ、之に反して人性に依り主に属する卑下なる名称は主の神性のことを言ふ。ゆえに多くの者は神聖なる言の旨趣を理解せず、蹉跌して改む可らざる罪を犯しぬ。かくの如く聖書には霊魂に属するものと肉体に属するものとを厳に区別せず、ゆえに道徳は天然に霊魂の健康ならば、慾は最早霊魂の病にして、霊魂の性に偶然入りて来りてその固有の健康を失はしむるものなり。然れども健康は天然に偶然の病に先だつことは、此により明白なり。ゆえに此は実にかくの如くならば〈至当ならば〉是れ既に道徳は天然自然霊魂に存在して、偶然なるものは霊性の外にあるを意味するなり。
問 肉体上の慾は天然なるか、或は偶然に肉体に属するか。又霊魂に属する心霊上の慾は霊と体の結合により天然なるか、或は非固有的に霊魂に属するか。
答 肉体上の慾のことは非固有の義に取るべしとは誰も敢て言はざるべし。然れども心霊上の慾のことは清潔が霊魂に天然なることの確知せられて、人皆之を認むるならば、慾は毫も霊魂に天然なるにあらずと敢て言ふは当然なり、何となれば病は健康の後にあればなり。然して同一の性に善なるものと悪なるものとは共に存すること能はず。ゆえに一は必ず他に先だたざるべからずして、他に先だつものは天然なり、何となれば凡て偶然なるもののことは性よりするにあらずして、外より輸入せりと言ふべきによる、而してすべて偶然なるものと輸入せしものには変化の随ふあれども、性は変せず易はらざるなり。
凡て利益に資くる所の慾は神より賜はりしなり。されば肉体上の慾は肉体を益し且成長せしむるが為に付与せられしものにして、心霊上の慾も亦然るなり。さりながら肉体がその固有するものを失ひて、強てその安寧の外に立ち、霊魂に従ふを余儀なくせらるゝときは、肉体は衰弱して害を被むらん。又霊魂も己れに属するものを棄てて肉体に従ふときは、彼も害を受けん、使徒の言ふ所によるに曰く『肉の欲する所は神に逆ひ、神の欲する所は肉に逆ふ、斯の二の者相敵す』(ガラティヤ五の十七)ゆえに誰も神を非難して我等の性に慾と罪とを付与したる如く言ふなかれ、神は各自の性にその成長に資くべきものを付与し給へり、さりながら一の性が他と合同するときは自己と親しきものに合同するにあらずして、反対なるものに合同するなり。然れどももし慾は霊魂に天然に存するならば、何故霊魂は之より害をうくるか。本来性に属するものは之を害せざるなり。
問 肉体を成長堅固ならしむる肉体上の慾は、本来霊魂に属せずんば霊魂を害するは何故なるか。又道徳は肉体を苦むれども霊魂を成長せしむるは何故なるか。
答 性の外にあるものは性を害する所以を認めざるか。けだし性は各己れに属するものに近づきて、楽みに満たさるゝなり。さりながら汝は此等各自の性に属する固有なるもののあるを知らんを願ふか。認めよ、性に助くる所のものはその性に属するものにして、之を害するものは疎遠なるもの、外より輸入せしものなることを。ゆえに肉体の慾と霊魂の慾とが互に反対することは確知せられたるにより、凡て幾許なりとも肉体に助けを為して之に休安を與ふるものは既に肉体に固有なるものなり。しかれども霊魂は何物と親しくなるともその物は霊魂に天然なりとは言ひ得ざるなり。けだし霊魂の固有を成すものは肉体の為には死なればなり。さりながら前文に言ふ所のものは非固有的に霊魂に属するも、霊魂が自から肉体を被むる間は、肉体の弱きにより之を脱して自由にならんことは能はざるなり、何となれば測る可らざる睿智を以て霊魂の活動と肉体の活動との間に定められたる一致合同の故に依り肉体の為に憂ふるものを天然自然に彼と共とすればなり。然れども彼等は互にかくの如く共に與にすといへども、甲の活動は乙の活動と異なり、彼の望みは此の望みと異にして、之と同く体は神と異なるなり。さりながら性は変せざるなり、却て各自の性は或は罪に或は道徳に極めて傾くといへども、然れどもその固有の望みにより活動するなり。されば霊魂が肉体のことの慮りより上に高まるときは、その活動により、全く霊神上に開花して、天の中央に測るべからざる所に帯去られん。さりながら此の状態に於ても肉体がその自己に属する固有なるものを忘れて想起せざらんことをば許さざるべくして、之と同じく肉体が罪に於てあらはるゝならば霊魂の思は心中に流れ出て已まざるなり。
問 智の浄潔は如何なるか。
答 智の浄潔とは人が悪を知らざるを言ふにあらず〈けだしかくの如き者は畜類も同様なるべし〉天性のまま孩提の如くなる状態にあるを言ふにあらず、外見を飾るを言ふにあらず。視よ智の浄潔とは即道徳に勤勉練習するにより、神聖なるものを以て光照せられたる是なり。ゆえに人が思念の誘惑なくして之を得ること肉体を衣ざる者の如くなるべしと予は敢て言はざるべし。けだし我等が性は死に至る迄戦はざるべく害を受けざるべしと予は言ふを敢てせざればなり。然れども思念の誘惑と名づくるは之に従はしめらるゝを言ふにあらずして、之と戦ふの始を置くをいふ。
- 思念の活動は四ある事。
思念の活動は人に四の原因により生ずるなり。第一は天然なる肉体上の望みにより生じ、第二は人の見聞する世の客観が感覚に顕はるゝにより生じ、第三は予め占領せられたる概念により、及び人が智力に有する心霊上の傾きにより生じ、第四は如上の原因により悉くの慾に引入れて我等と戦ふ魔鬼の打撃により生ずるなり。ゆえに人は此の肉体の生活にある間は死に至る迄思念とその戦いとを有せざる能はず。けだし人は世を出でざる先又は死せざる先に、此の四の原因中何れか無動作に至らんことを得るか、或は肉体の為に緊要なるものを切に求めざると、世の或物を願ふを余儀なくせられざるとを得るか、自から判断すべし。しかれどももし此の如きことを想像するは時に合はず、何となれば性は此の如き事々物々に必要を有すればなりと云はば是れ最早慾は凡て肉体を被むる者の欲すると欲せざることに拘はらず動作するを意味するなり。是故に凡て肉体を被むる人は顕然として不断に動作する一の或る慾より己を保護せず、二の慾より保護せずして、多くの慾より保護せんこと緊要なり。徳行を以て自から慾に勝ちし者は、たとひ思念と此の四の原因の打撃の為に驚かざるといへども、自から勝利を譲らざるべし、何となれば彼等は力を有して、その心意は善良神聖なる記憶の為に大に悦べばなり。
問 智の浄潔と心の浄潔とは何を以て異なるか。
答 智の浄潔は別にして心の浄潔は又別なり。けだし智は心霊上の感覚の一なれども心は内部の感覚を包括して之をその権中に持すればなり。心は根なり。もし根が聖ならば枝も聖ならん、即心が導かれて浄潔に達するならば、悉くの感覚も清めらるゝこと明なり。もし智は神聖なる書を読むに益々勉励し、或は禁食と儆醒と静黙とに多少苦んで、汚穢の品行に遠ざかるならば、その従前の生涯を忘れて浄潔に達せん。然れども恒久なる浄潔は有せざるべし、何となれば彼は速に浄めらるれど亦速に汚さるればなり。ただ心は多くの患難と剥奪と、凡て世に居る者等と世間的交際を為すより遠ざかると、此のすべての為に己を殺すとにより、浄潔に達するなり、然してもし彼は浄潔に達するときは、その浄潔は何等の小なるものの為にも汚されざるべく、大なる顕然たる戦をも恐れざるべし、即寒心すべき戦をも恐れざるべし、何となれば、薄弱なる人々に於て消化する能はざる如何なる食物をも速に消化し得べき強健なる胃を己れに有すればなり。けだし医は言へり、凡て肉食は消化し易からず、然れども強健なる胃が之を受くるときは健康なる体に多くの力を與へんと。かくの如く凡て暫時の間に僅少なる労苦を以て速に得たる浄潔は速に失はれ且汚されん。然れども多くの患難によりて達し、長久の間を以て得たる浄潔は霊魂の或る部分に対する打撃の度の優勢にあらざるものをば恐れざるべし、何となれば神は霊魂を堅むればなり。彼に光栄は世々に帰す。「アミン」。