<< 霊魂は世と世慮に遠ざかりて沈黙するならば、神の睿智と神の造物を易く認識するに至らん、けだし其時は己の性と己の内部に隠るゝ宝とを認識するを得るなり。 >>
浮世の慮りの外より霊中に入るあらずして。霊魂が天性自然の状態に居るならば、その辛労は久しからずして、神の睿智を認識するに達せん、何となれば霊魂が世に遠ざかるとその沈黙とは、彼をして自然に神の造物を認識せしむべく、之により彼は神に挙げられ、驚嘆して神と共に止まらん。けだし心霊の泉に外より水の入り来るあらざるときは彼に溢るゝ天然の水は、神の奇蹟を考ふる思想を不断霊中に生ぜしめん。之に反して霊魂が此らの思想を有せざるものとして現はるゝならば、是れ或は他の或る記憶を以て或る源因を與へられたると、或は五感が外物と逢着したるにより、霊魂に乱れを引越したるとを示すなり。然れども五感が沈黙を以て鎖され、外部に突出するを許されずして、沈黙の助けにより記憶の衰ふる時は、霊魂の天然自然の意志は如何なるか、霊性そのものは如何なるか、如何なる宝は之に隠るゝかを発見せん。それ此宝は無形体なるものを識るの認識にして、之に先だつの意志あるなく、之が為に労することもあらずして、自然に心中に生ずるものなり。然のみならず人はかくの如き思念の人の性中に生ずるを知らざることさへ之あり。けだし誰か人の為に師となるか、或は智力により想像しつつ他の為に説明し得べからざるものを人は如何にして理会するか、或は人が少しも他より学ばざる所のものに於て誰かその嚮導者となるか。
霊魂の天性はかくの如し。ゆえに慾は或る附加物にして霊魂は自から之が本源たるなり。けだし天性によれば霊魂は無慾なり。されば聖書に於て霊魂の慾と肉体の慾の事を見るあらば、是れ慾の原因に関して言ふものなることは汝の為に明白なるべし。しかれども霊魂は天性に依れば無慾なり。外部的哲学を固守する者等は此説を採らず、彼と同じくその門徒等も亦然り。之に反して我等は信ず神は像によりて造る所のものを無慾に造り給ひしを。像によりて造る所のものとは肉体に関していふにあらずして、見えざる霊魂につきて言ふなり。けだし凡の像は眼前にある所の形状より描取らるべし。先づ眼前にあらはれたる同形なくんば、いかなる像をあらはすを得べきか。ゆえに我等が前文に述べし如く、慾は霊魂の天性に存するに非ずるを確信すべし。もし誰か之に抗言するならば、我等は彼に疑問を提出せん、彼は我等に答ふべし。
問 霊魂の性は如何なるか。無慾にして光に満たさるものなるか、或は有慾にして暗まされたるものなるか。
答 それ霊魂の性は有福なる光を己れにうけしものなるが故、嚮には光明純潔にして原始の秩序に回復せらるゝときも之と同様にあらはるゝならば、教会の教育者も断定する如く、慾に感動するあるや、霊魂はその本性の外にあることは最早疑を容れざるなり。故に慾は後来霊魂に輸入したるなり、されば霊魂はたとひ感動せらるゝも慾を以て霊魂の本性の中に之ある如く言ふは真実にあらざるなり。ゆえに霊魂が自己の固有にあらざる外物を以て感動せらるゝことは明なり。もし霊魂は身体の関係を離れて慾に動かさるゝにより、慾を以て霊に属するものと名づくるならば気渇も睡眠も霊に属するものとならん、何となれば霊魂は此等のものに於ても、之と同じく肢体を切断せらるゝ際に於ても、熱病、疾病及びその他の之に類するものに於ても、肉体と與にするにより、之と共に憂を分つは、猶肉体も霊魂と共に憂を分つが如し、霊魂は肉体の楽むときには共に楽み、その憂をも自から共にするなり。我等が神に光栄と権柄は世々に。「アミン」