<< 心を神に近づかしむるために人に益するものの事、如何なる真実の源因は人に助けを窃に近づかしめて、如何なる源因は人を謙遜に導くか。 >>
己の弱きを認識する人は幸いなり。何となればこの認識は人のためにすべて善良なる進歩の基礎となり、根本となり、また源因となればなり。人は己の弱きを確知して実にこれを感ずるならば、直にその霊を認識を暗ます衰弱より起して、警戒の心を備へん。しかれども、もし人は或は身体、或は霊魂を疲らすものを以て些少の試惑なりとも放たるるあらずんば、己の弱きを決して感知する能はざるべし。これを放たるる時は己の弱きを神の助と比較してその助の大なるを直に認識せん。これと同じくその使用したる多くの方法と警戒と節制と庇蔭とその霊魂の保護とを研究し、これにより霊魂の安全を得んことを望めども見ずして、その心は畏懼と戦慄のために安静を有せざらん時は、人の心のこの畏懼は人のために他のある協力者の必要にして欠くべからざるを顕し、且證するものなるを曉るべく、かつこれを認識すべし。けだし心はこれを撃ちてその内部に格闘するの恐れにより何か足らざる所あるを證してこれを知らしめ、安然として居る能はざるをこれをもって明示せらるるなり、何となれば予が既に言いしごとく神の助けはこれを救へばなり。さりながら神の助の必要なるを認識したる者は多くの祈祷を行ふべくして、祈祷を増加する程はいよいよ心は謙遜ならん。けだし、すべて祈る者と願ふ者は謙遜にならざる能はざればなり。『砕けて謙る心を神は軽んぜず』〔聖詠五十の十九(詩編五十一の十七)〕といふ。故に心は謙遜にならざる間は舞揚して止む能はざれども、ただ謙遜は之を纏めて一に集中するなり。
人は謙遜になるときは、直に憐みは人を繞るべくしてその時心は神聖なる助を確知せん、何となればその心に惹起さるるある確信の力を看出せばなり。しかして人は神聖なる助の実に人を救援するを感知する時は、その心は瞬間に信仰に満たさるるなり。
此よりして人は了解せん、祈祷は助を求むる者の避難所なると、救済の泉なると、安全の宝なると、大なる暴風より救はるる港なると、暗黒に居る者の光なると、無力なる者の支柱なると、誘惑の時の保護なると、病の分離期における救助者なると、戦闘における救命の盾なると、敵に向つて砥がれたる矢なるとを了解せん。簡短に之を言へばすべて此らの幸福の多きは祈祷により人に近づくを発見して、今より後人は最早信仰の祈祷を以て楽まん。人の心は希望により光明なるを得べくして、如何にしても口頭一片の言顕により従前の昏蒙に止まらざるなり。さりながら、かくのごとくこれを了解する時は、宝物の如くなる祈祷を霊中に求め獲て、大なる歓喜により、祈祷の状態は変じて感謝の声とならん。されば視よ、各物にその固有の方式を定めたる者の諭したる言は左の如くいへり、曰く『祈祷は感謝を捧ぐる喜びなり』と。是れ即ち彼は神を認識するにより行はるる祈祷、即ち神より遣はさるる祈祷をいへるなり。何となればその時人は祈祷するにすべてこの恩寵を感知する以前に祈祷したるごとく労と倦むとを以てせざればなり。すなはち中心の喜びと嘆美とをもって数ふ可からざる拝跪により、謝恩的動作をたえず顕はし神の恩寵の前に認識と嘆美と驚愕とを多く喚起せらるるにより、俄にその声を高め、神を歌頌讃美しつつ感謝を捧げ、非常の驚愕によりその舌を動かさん。
実にこの所に到達し、妄想を以てせずして、多くの標識を実に心中に置き、久しく自から己を試みて、多くの特徴を察知したる者は、予が言ふ所を知らん、何となればこれ真実に違はざるによる。ゆえに今よりして後無益なることは思ひ止むべく、不断の祈祷により、畏懼と戦慄とを以て神の前に退かず止まるべし、神の大なる助を奪はれざる為なり。
此らの幸福はすべて己の弱きを認識するにより人に生ずるなり。けだし神の助を望むの大願により、祈祷に止まりて、人は神に近づけばなり。しかしてその望願を以て神に近づく程は、神もその賜を以て人に近づきてその大なる謙遜のために恩寵を人より奪はざるなり、何となれば裁判者の前における寡婦の如く、敵を防がんことを退かず呼べばなり。ゆえに宏慈なる神が恩寵の賜を止むるは、人のために神に近づくの源因とならん為及び人がその要求のために益となるべきものを流出する者の前に離れず止まらん為にして、神は或る願をば速に成就せしめ、即ち是なくんば誰も救はるる能はざるものをば速に成就せしむれども、他の願をば之を成すを遷延し、而して又或る場合には敵の焚尽す力を人のために拒ぎ且散らせども、他の場合には誘惑に陥るを許すは、是れ予の既に言ひし如く、此試が人の為に神に近づく源因とならん為なり。人の学んで誘惑に実験を有せん為なり。視よ聖書に言ふ所は左の如し、主は多くの民を遺し、彼らを滅さずしてナワィンの子イイススの手に付さざりしは、之を以てイズライリの子を教へん為、イズライリの子の裔をしてその教訓に注意し、戦を学ばしめん為なり〔士師記三の一、二〕。けだし己の弱きを認識せざる義人の行為は恰も剃刀の尖に在る如し、彼は墜堕と人を害する獅子とより全く遠ざからず、驕傲の魔鬼より遠ざからざるなり。而して又己の弱きを知らざる者は謙遜に乏しく、謙遜の足らざる者は完全に達し得ずして、完全に達せざる者は常に畏に居らん、何となれば彼の城郭は鉄の柱と銅の閾の上に確立せず、すなはち謙遜の上に確立せざればなり。されど謙遜は人が砕けたる心情と己を賤しんずる思念とを常に得らるる方法を以てするに非ずんば、受くる能はざるべし。ゆえに敵も人を迷はしめん為に蹤跡[1]を捜すこと屡々之あり。けだし謙遜なくんば人の行いは成る能はずして、その自由の手書に神の印を押されざるなり。之を確言すれば今に至るまで彼は僕にして、その行は畏を免れざるなり、何となれば謙遜なくしてその行を修め誘惑なくして学ぶことは何人にも能はざるべくして、既に学ぶなくんば誰も謙遜に達せざればなり。
これによりて見るに主は聖者に謙遜の為及び熱切の祈祷に心を砕く為に源因を遺置くは主を愛する者をして謙遜に由り主に近づかしめんが為にして、彼らを驚かすにその天性の嗜欲と耻づべき不潔なる思念に偏し易きとを以てすることしばしば之あり、且詰責と陵辱と人々より頬を批たるる事とを以てすることも亦しばしば之ありて、時としては疾病と身体の薄弱とを以てし、又他時には赤貧と欠くべからざる需要に欠乏するとを以てし、或は強き畏懼を以て苦しむると、放棄と常に彼らを嚇着[2]する顕然たる魔鬼の戦とを以てし、或は種々なる畏るべき出来事を以てするあり。是れ皆、人に謙遜に達する源因を有せしめんが為にして、或は病弱なる苦行者をして、その居る所の境遇により、或は未来の恐れにより、惰眠に陥らざらしめんが為なり。ゆえに誘惑は必ず人々に益あり。しかれどもこの事を言ふは人は耻ずべき思念を以て甘んじて己を弱らすべくして、その記憶は人の為に謙遜の発端とならんとの謂には非ず、また人は勉めて他の誘惑に陥らざるべからずとの義にもあらず、反つて人は善なる行為を以て何れの時にも謹慎し、その霊魂を守るべくして、人は即ち受造物なると、随て変化に属するものなるを思ふべしとの謂なり。けだしすべての造物は己を保護するに神の力を要すべくして、すべて他より保護を要する者は之を以て天然の弱きを顕はす。しかして己の弱きを認識する者の必ず謙遜ならんことを要するは、己の為に必要なるものをその與ふるを能くする者より受けんが為にして、もし人は最初より己の弱きを知り且目撃するならば、怠慢にならざるべくして、怠慢にならずんば睡眠に耽ることもあらずして、その覚醒により陵辱者の手に付さるることあらざるべし。
終に神の途を進行する者はすべて遭遇するものの為に神に感謝して、自己の霊魂を責め、且罵るべくして、照管者を以て之を許さるるは自己の或る怠慢により、或はその心を覚醒するが為なると、或は人が漸々高慢し始めたるが為なるとに外ならざるを知らんこと肝要なり。故に人は擾乱せざるべく、進行と苦行とを棄てざるべく、己を責むるを息めざるべし、二倍の禍の人に及ばざらん為なり、何となれば義を流す神に不義はあらざるによる。然り、此あらざるなり。彼に光栄は世々に帰す。「アミン」。
- ↑ 投稿者注1:足跡の意
- ↑ 投稿者注2:付きまとって恐れさせるの意