<< 悔改の事。 >>
恩寵に恩寵を加ふる如く人に洗礼の後悔改を与えらる、何となれば悔改は神により生まるゝ第二の更正なればなり。而して我等は信仰により聘質を受け、悔改によりその賜物を受くるなり。悔改は熱心を以て尋ぬる者の為に開かれたる憐れみの門にして、我等は此門により神の憐れみに入るべく、此入口の外には憐を看出さゞるなり、神聖なる使徒の言ふ如し、曰く『人皆罪を獲、義とせらるゝは彼の恩寵に頼る』〔ロマ三の二十三、二十四〕。悔改は第二の恩寵にして信と畏とにより心に生ずべく、而して畏れは霊界幸福の楽園に達するに至る迄は我等を統御する父の杖なり、然れども既に達するときは彼は我等を棄て去らん。
楽園は神の愛にしてすべて幸福の楽みは彼処にあり、是即ち福なるパウェルが代々相承る糧により養はれたる所にして、生命の樹の果を彼処に味ふや、彼は呼んで左の如く言へり、曰く『神が己を愛する者の為に備へしものは目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ入らざるものなり』と〔コリンフ前二の九〕。此樹の果は魔鬼の陰謀の故にアダムに禁ぜられたり。生命の樹は神の愛にして、アダムは之より離れたり、故にその時より彼は最早喜を見ずして、荊棘の地に労働辛苦せり。神の愛を奪はれたる者はたとひ正道を行くといへども、原人の陥りし後食ふを命ぜられたる汗の餅を自己の労により食はん。愛を受るに至る迄は我等が為す所は荊棘の地に於てすべくして、我等の種くは義を種くと雖も我等は荊棘の中に種き且之を刈りて、時々之が為に傷つけらるべく、己を義とするが為に何を為すありとも、面に汗して生活せん。然れども愛を得る時は、天の餅に養はれて、労働辛苦なしに力を堅められん。天の餅は天から降りて『世に生命を與ふる』〔イオアン六の三十三〕ハリストスなり。是れ即天使的食物なり。
愛を得たる者は毎日毎時ハリストスを食ひ、之によりて不死なる者とならん。けだし言へり、『此の餅を食ふ者は世々に生きん、我が與へんとする餅は云々』〔イオアン六の五十一〕。イイススなる愛の餅を食ふ者は福なり。しかして愛を食ふ者はあらゆる者の上に存在するハリストス神を食ふ所以なるをイオアンは証明して『神は愛なり』といへり。終に愛に生活する者は神により生命の果を産すべくして、猶此世に於て、茲に感ずる所のものにより彼の復活の空気を嗅がん。此空気を以て義人等は復活の後に楽まん。愛は即ち国なり、主は之を使徒等らと奥密に約し、其国に於て之を食はんことをいへり。けだし言へり『我が国に於てわが席に飲食せん為なり』〔ルカ二十二の三十〕と、是れ愛を示すにあらずして何ぞや。愛は食と飲とに代りて人を養ふが為に充分なり。是れ人の心を楽ましむるの酒なり。〔聖詠百三の十五〕。此酒を飲む者は福なる哉。不節制者は之を飲みて慙愧し、罪人は飲みて碍路を忘れ、大酒者は飲みて禁酒者となり、富者は飲みて貧者たらんを願ひ、貧者は飲みて希望に富み、病者は飲みて強健になり、無智者は飲みて聡明になれり。
大船と小舸となくんば大海を渡る能はず、此の如く、畏れ無んば何人も愛に達する能はざるなり。我等と心の楽園との間なる臭海は畏の舵師ある悔改の小舸に乗りてのみ渡るを得ん。しかれどももし此の畏の舵師等は此世の海を越えて神に移るべき悔改の大船を御せずんば、此の臭海に溺れん。悔改は大船なり、畏は其舵師にして、愛は即ち神聖なる湊なり。是故に畏は我等を悔改の大船に引入れ、生命の臭海を渡りて、愛なる神聖の湊にみちびくなり。凡て労苦して悔改を任ふ者は此の湊に到着せん。而して愛に達する時は我等は神に達すべく、我等が旅行は終を告げて、父と子と聖神のまします彼処の世界の島に至らん。彼に光栄と権柄は帰す、願くは我等をも其畏を以て彼の光栄と愛とに當るものとなさんことを。「アミン」。