<< 黙想を愛する一兄弟に遣す書。 >>
予は汝の黙想を愛するを知り、又悪魔が汝の心の望を知りて善行に口を籍り、多くの事を以て汝を累し、善の多くの種類を含有する道徳を修むる汝を挫折し、且之を妨礙するに至る迄は已まざるを知る、ゆえに善なる兄弟よ、汝と密着の肢だる予は有益の言を以て汝の善なる望を助けんが為に、賢明道徳の人々より、神父等の書より、及び自己の経験により自から得たる所のものを汝に書さんことを心懸けたり。けだし人は名誉も不名誉も軽んじて、黙想の為に陵辱、罵詈、損害、又は打撃をさへ忍耐するなくんば、笑具となるなくんば、見る所の人々をして痴人愚者と思はしむるなくんば、黙想の善なる企図に止る能はざるべし、何となれば人は或る縁由の為に一度戸を開くならば、悪鬼は此等の縁由中或るものを多くの口実により現はすを罷めずして、人々と限りなく会見するを頻繁ならしむればなり。故に兄弟よ、もし汝は古の人が放心も分裂も分離も自から容忍せずして贏ち得たる所の黙想の道徳を確として愛し、神父等に擬して彼等の行状を自己に表はさんとするならば、かかる場合に於ては賞讃すべき願の達し得らるべきを発見せん。彼等は完全なる黙想を至愛して、近者の愛を失はざらんことをば慮らず、彼等を安んぜんが為に力を用ふることを勉めず、尊敬すべき人々と認めらるる者との会見を避るを耻とはなさざりき。
かくの如く彼等は進行したりしも、賢明にして達識なる人々は、彼等を非難して近者を軽んずる侮慢者とはせず、或は懶惰者又は理性を失ひし者ともなさずして却て人々と交際するよりも黙想と遁世的生活を尊敬する者に対しては彼等を弁解して言へること左の如し、曰く『己の庵中に於て黙想の美を実地に学ぶ人の近者と会見するを避くるは、彼を軽んずる者が避くるごとくなるに非ず、黙想によりて拾集する果実の為なり』。試に問はん、『父アルセニイが何人にか遇ふあるや、逃奔して彼の為に止らざりしは何の為なるか』。又父フェオドルは何人をか迎へしならば、其迎ふるや剣を迎ふる如くなりき。彼は庵の外に在ても誰にも挨拶を為さざりき。然して聖アルセニイは問安の為に来りし者にさへ問安をなさざりき。けだし某神父あり、一日父アルセニイに遇はん為に来りけるが、老人アルセニイは彼を己の従者と思ひ、戸を開けり、然るに来者の誰たるを認むるや、其面を俯しぬ、而して来者が祝福を受けて去らんことを証言し、次で彼に起たんことを久しく懇願するや、聖者は之を峻拒して言へり、『去らざる間は起たず』と。而して其者の去るに至る迄は起たざりき。そも福者の此く為せるは、けだし一たび彼に手を與ふるならば、再び己れに帰り来らざるが為なり。
言の続きを見よ、然る時は汝はアルセニイを以て此神父或は他の人をば其微なるが為に軽んじたれど、別人には其高位の為に偏頗をあらはして、彼と会話せしなるべしと言はざらん。之に反してアルセニイは小なる者をも、大なる者をも、すべての者を一様に避けたり。彼の目前にはただ一あるのみなりき、即黙想の為には大なる人小なる人に論なくすべての人と共に交るを軽んじ、黙想と無言とを尊崇する為には衆人より責を受るとも辞せざること是なり。大主教なるフェオドルが聖者を見て尊敬を表せんとの意を有し、地方の裁判官と共にアルセニイを来訪せしことは我等の知る所なり。然るにアルセニイは彼等と共に座するや、彼等がアルセニイの言を聞かんことを甚だ願ひしに拘はらず、少しの言を以ても彼等の高位を尊ばざりき。而して大主教が此を請ふや、善なる老人は暫時沈黙して其後言ひけるは、『もし予は汝等に言ふあらば、予の言を守るか』と。彼等答ふ『諾』以て同意を表せり。老人は彼等に告げて言ふ『もしアルセニイ此処に在りと聞かば其処に近づくなかれ』と。老人の奇なる品性を見るか。彼が人間の会話を軽んずるを見るか。視よ、これ黙想の結果を認識したる人なり。福者は此の全世界の師にして教会の首長たる者の来れることをば料らずして、左の如く思浮びぬ『予は世の為に一次永遠に死せり、生者の為に死者は何の益やある』と。父マカリイも愛を満てる詰責をもて言ひけるは、『如何して汝は予を避くるか』と然るに老人は奇なる賞賛すべき弁解をあらはし、答て言へり『予が汝等を愛するは神の知る所なり、然れども予は神と人々と共に一所に居るあたはず』と。彼が此の奇異なる認識に導かれたるは、他の何人をも以てせしに非ずして神の声を以てせり。けだし彼に告げて言へり、『アルセニイよ、人々を避けよ、然らば救はれん』。
閑散にして談論を好む人たりとも、アルセニイの言を顛倒して、之を非難する程無耻なるものは一人もあらざるべし、又之に逆ひ之を以て『是は人間の想出にて、黙想を益する為に想出せるなり』と言ふ者なかるべし。反つて是は天上の教なり。願くは我等はアルセニイに此事を告げられしを見て、是は彼をして遁れて世に遠ざからしめんが為にて、兄弟よりも遁れしめんとの旨意には非ざるべしと思はざらん、蓋彼は世を棄てたる後、行て修道院に居り、更に神に祈祷して問ひけるは、如何にせば道徳を以て生活するを得べきか。『主よ如何にせば救はるべきか、其途を我に示し給へ』と。彼は思へり、何か別事を聴くあらんと、されど第二次にも亦同く主宰の声をきかり、曰く『遁れよ、アルセニイよ、黙せよ、無言者となれ。兄弟と面会して共に談ずるは益多しと雖、彼等より遁るる程汝に益あるに非ず』と。福なるアルセニイは神の黙示に於て之を受け、まだ世に居りし時に遁るることを命ぜられ、其後兄弟と共に居りたる時にも同く此を告げらるるや、其時彼は善なる生活を得んが為に世の俗人より遁るるのみにては不充分なり、悉くの人より一様に遁れざるべからずと確信し且認識したりき。けだし誰か神の声に反抗して之に違言するを得るか。然るに神聖なるアントニイにも黙示に於て次の如く告げられたりき『もし無言者とならんことを願はば、ただワィワイダに行くのみならず、深く野の奥に至るべし』と。此によりて見れば、神は我等に悉くの人より遁るるを命じ、神を愛する者が黙想に専なる時にさへかくの如く沈黙を愛すべきを命ずるならば、誰か人々と共に談じ共に相近づくが為に或る口実を設くるを得んや。遁世と戒慎とはアルセニイとアントニイにさへ益ありしならば、況て劣弱者には殊に有益なるにあらずや。言を以ても面会を以ても、助けんことを挙世必要とする其者を神の貴びしは彼等がすべての兄弟社会に助くるが為なるよりも、確言すれば全人間に助るが為なるよりも黙想の為ならば、黙想は己を善く護る能はざる者の為には殊に必要なるにあらずや。
予は他の或る聖人の事をも知る、其兄弟病重かりけるに彼は別庵に籠居して出でざりき。けだし聖者は兄弟の病中己の憐情を制し、来りて面会せざりしかば、病者は生命の終りに臨み、使者を以て左の如く言はしむ、曰く『今に至る迄汝は予に来らざりき、然れども今は来るべし、予が世を去るに先だちて汝を見ん為なり、或は夜間なりとも来れ、然らば予は汝を接吻して寝ねん』と。然れども福者は天性が我等相互の憐憫を常に促して意思の定限を踰えしめんとする此時にも肯んぜずして言ひけるは、『もし出れば、我が心は神の前に潔からず、何となれば霊的兄弟を訪問するを疎にしてハリストスよりも天然を重んずればなり』と。兄弟死して彼は終に遇はざりき。
故に何人も意思の怠慢により、此事を能はざるが如く想うなかれ、神の照管を斥けて其黙想を破るなかれ、之を空しきに帰するなかれ。天然は如何に強くとも、聖者は其天然に勝ちしならば、ハリストスの子の軽視せらるると同時に黙想を尊崇する時に、ハリストスは愛さるるならば、汝は此事に遭遇するとき、之を軽視する能はざる他の如何なる緊要ありや。『汝の主神を愛せよ』〔マトフェイ二十二の三十七〕と言へる彼の誡命は、黙想を守る時に全く遂行せらるべくして、近者を愛することの誡命は自から其中に在り。福音の誡命に従ひ、近者に対する愛を其心に得んと欲するか。彼より遠ざかれ、其時は彼に対する愛の焔は汝に燃えて、彼に対面するときは、之を喜ぶこと聖なる天使を見るときの如くならん。又汝を愛する者等が汝の対面を願ふを汝は欲するか。ただ一定の日に於て彼等と対面せよ。経験は実に衆人の為に師なり。康健なれ。我等の神に感謝と光栄は世々に帰す。「アミン」。