<< 世を棄つる事及び修道士の生涯。 >>
神を畏るゝは道徳の始なり。言ふあり、道徳は信仰の所産なりと、彼は智が世の放心より遠ざかり、飄々として旋回する思を纏めて、未来の興復を考ふるに集中する時心に種附けらるゝなり。人は道徳の基を置かんと欲せば、己を操持して浮世の事に遠ざかり、聖詠者〔聖詠二十二の三、百十八の三十五(詩編二十三の三、百十九の三十五)〕が神を以て示し且称したる如く正しく聖なる路に由り、光明の法に止まるに如くはなし。品性に於ては天使と等しき者もあるべしと雖、その尊きを持続し得る人ありや、或はあらん、否、全くあらざらん、是れ或人の言ふ如く変化を速に感受するより生ずるなり。
生命の路の始は、常に智を以て神の言を学ぶと貧しきに生活を送るとにあり。一を以て己を潤すは、他を成全するに助けん。もし神の言を学ぶを以て己を潤さば、貧しきに進歩するの助を為すべくして、無慾に進歩するは神の言を学ぶに進歩するが為に閑暇の時を汝に與へん。彼と此との方法は道徳の完全なる家屋を速に高むるに助けん。
世に遠ざからずんば、誰も神に近づく能はざるなり。然れども遠ざかるとは肉体より移るの謂には非ずして、世事に遠ざかるをいふ。而して道徳は人のその智を世の為に占有せしめざるにあり。五感が人に勢力を有する間は寧静に止まり妄想なくして存する能はず、野に非ずんば肉体上の慾は休止に至らざるべく、悪なる思念は衰えざるなり。霊魂が自から感動する力を受けて神を信ずるに酣酔するに至らざる間は五感の弱きを愈さざるべく、内部に属するものの為に障礙となるべき有形物体を力を以て圧する能はざるべく、自由と霊智的所産と彼と此との結果を感ぜざるべし、即網より救はれざるなり。第一者[1]なくんば第二者あらざるべく、第二者[2]の正しく進行する処に在りては第三者[3]は恰も勒轡の如く結び付けらるゝなり。
恩寵が人に増殖する時は、義の願により、死を畏るゝことは人の為に重視するに足らざるものとなるべくして、神を畏るゝが為に患難を忍耐すべき多くの理由を人はその心に発見せん。見見身体の為には有害にして、俄に人性に影響を及ぼし、随て人を苦しむるすべてのものは、之を未来に望む所のものと較ぶれば毫もその眼中に入らざらん。誘惑を許さるゝなくんば我等は真理を認むるあたはざるべし。しかれども人の此事に於ける確證を発見するは、神が人の為に大に慮りて神の照管の下にあらざる人なしとの概念に於てすべくして、神を尋ねて神の為に苦難を忍耐する者は特に分明に之を見ること掌を指すが如くならん。さりながら恩寵の衰微が人に増々加はるときは此のすべてのものは人に於て殆ど之と反対なる状態にてあらはるゝなり。彼の為に知識は研究の故に信仰より大なるべく、神に依頼するは何れの事にも之あるにあらざるべくして、人に於る神の照鍳は別に了會せらるゝなり。かくの如き人は常に矢を以て射んとして暗きに埋伏する者〔聖詠十の二(詩編十一の二)〕の詭計に陥らん。
人に於て真生活の始は神を畏るゝなり。然れども人は才智の高超と共に之をその心中に守るに堪へざるなり、何となれば神を楽むを自から失ひつゝ五官に勤むるが為に心は散乱すればなり、けだし人々言ふ如く内部の思想は此らを感ずるを以て之に勤むる官能そのものに結び付けらるゝなり。
智の疑は心中に畏を引誘す然れども信念は肢体を截断せらるゝ際にも自由の意思を確固不抜ならしむるを得べし。肉体に対する愛の汝に優勢なる程は汝が愛する所のものを囲む多くの抵抗に対し勇敢にして戦慄せざる者となる能はず。
己の為に栄誉を希ふ者は哀みの原因を少くするあたはず。境遇の変化と共に眼前に在る所の事に関して変化をその心に感ぜざる人はあらず。もし慾念は人々の言ふ如く五感の所産ならば己を主張して引誘の際にも心の平安を守らんと言ふ者は終に黙止すべし。
奮闘苦行の時に於て労の為に、耻づべき思念はその時絶滅すと自から己の事を称する者は、貞潔なる者にあらず。その心の真実を以てその智の直覚を浄むる者は是れ貞潔者なり、けだし彼は放蕩なる思念に無耻にして心を留めざればなり。その良心の尊正が一見して貞信の為に證を為す時は、耻は思念の秘密なる納所に掛けられし幕の如くなるべし、彼の無玷は貞潔なる処女の如く、ハリストスの為に信を以て守らるゝなり。
霊魂を豫め占領したる放蕩の傾きを遠ざけんが為、又は肉体に起りて逆焔を漲らす騒がしき記憶を除かんが為に充分なるは、神の書を学ぶを愛するに己を埋めて、その意の深きを理会するに如くはなし。言中にかくるゝ睿智を理会するの楽みに思を没するときは、之より解明を引出すに随ひ、人は世を背後に棄つべく、すべて世にあるものを忘るべく、すべての記憶とすべて世が具体化したる勢力ある象様は霊魂に消滅して、常に天性を見舞ひ来れる思念の要求を頻りに貶黜せん。されば霊魂は聖書の奥義の海に於て見る所の新なる顕現により大に悦ばん。
もし智は水面に浮び、即神の書の海面に浮びて、その意の深きに透徹し、その深処にかくるゝ悉くの宝を了解することは能はずと雖も、聖書を了解せんとする熱心に占領せらるゝならば、是れその最も驚くべきことを考ふる独一の思考を以てその意思を堅く緊縛する為にも、或る抱神者の言ふ如く、意思が肉体の性に突進するを妨ぐる為にも、これを以て充分ならん。然れども心は劣弱にして内部と外部の戦の時に起る所の残害に堪ふる能はざるべし。されば悪なる思念の如何に苦しきことは汝ら之を知らん。もし心は知識を以て占領せられずんば、肉体的突進の擾れを忍耐するあたはざるべし。
掛けらるゝものの重みは風の暴きにより天秤の動揺する速力を妨ぐる如く、耻と畏は智の動揺を妨ぐるなり。畏れと耻の欠乏するに随ひ、智は断えず旋転せしめられん。されば霊中より畏の遠ざかるにしたがひ、智の秤衡は自由を得たるものの如く彼方此方に揺々として定まらざるなり。さりながらもし秤衡は甚だ重き貨物をその盤上に載するならば、最早風の吹くが為に易く動揺せざるべし。かくの如く智も神を畏るゝ心と耻との積載の下にあるときは、之を動揺せしむる者の為に転倒せらるゝこと難し。然れども心に畏の乏しくなるに随ひ、転動と変改とは之を占領し始めん。故にその進行の基に神を畏るゝの心を置かんことを学ぶべし、さらば途上に於て旋回するを為さず、日ならずして天国の門にあらん。
凡そ汝が聖書に於て見る所のものは、言の主旨を探求せよ、聖なる意義の深きに透徹していよいよ精確に之を了解せんが為なり。神聖なる恩寵を以てその生命を光明にみちびかるゝ者は恰も或る聡明なる光線ありて句々節々に記されしものを通過する如くなるを感知すべくして、智は空言と大なる思想を以て心の認識に告ぐるものとを区別せん。
もし人は著名なる句々節々を思を潜めずして読むならば、心も貧しくなり了るべくして、霊魂の奇異なる了解により最甘美なる趣味を心に得しむる聖なる能力は彼に消滅せん。
すべての物は常にその親しきものに向ふ。神の分前を己れに有する霊魂も、奥妙なる神的能力を含有する言をきく時は、その言の旨趣を熱心に己れに引誘するなり。霊神を以て言ひ奥妙にして大なる力を有するものは、すべての人を覚醒して驚嘆せしむるには非ず。道徳に関する言は地の為及び地と近く交るが為に占有せられざらん心を要求す。道徳は暫時なるものを慮るが為に心を苦めらるゝ人の思を覚醒して道徳を愛せしめず、之を領有するを尋ねしめざるなり。
物体より解脱するはその成立に於て神と結合するに先だつ、恩寵の摂理により、或者には後者の前者に先だちてあらはるゝことも屡々之ありといへども前者は後者に先だつ、けだし愛は愛にて覆はるればなり。摂理に通常なる秩序は人間社会の秩序と異なるあり。さりながら汝は一般共通の秩序を守るべし。若し汝に於て恩寵の先だつあらば、是は恩寵の事なり。しかれどももし先だたずんば、すべての人々が互に進行する途によりて汝も霊塔の高きに昇るべし。
すべて直覚的に行はるゝ事にして、之が為に與へられたる誡命に従ひ成就せらるべきものは、有形の目には全く見えず。而してすべて実験上に行はるゝ事は複雑なり。何となれば実体あるものと実体あらざる者との為にただ一なる誡命所謂実験なるものは彼にも此にも、直覚にも実験にも必要を有するによる。けだし一致とは直覚と実験との配合なればなり。
浄潔の事を配慮するの行為は既往の過を記憶するにより喚起せらるゝ感情を圧せず、却て之を記憶するときに感ずる所の哀みを霊智より借るべし。さらば此時より記憶の進歩は心中に益を生ぜしめん。霊魂が道徳を求むるに飽かざるは、霊魂と結合する身体の顕然たる願欲の一分を己の益に向はしめん。節度はすべての物を飾らん。節度なくんば最美なりと思惟せらるゝものも転じて害とならん。
彼の五官に役せらるゝにはあらざる楽みを己れに感じ智を以て神と交らんと欲するか。矜恤に勤めよ。矜恤が汝の内部にあらはるゝ時は彼の神に似たる聖なる美は汝の中に描かるゝなり。矜恤の事の包容せざる所なきは、光明の栄誉と一致するが為に、何等の時間も要するなくして、神性と交るを心に生ぜしめん。
霊的交通は印象す可らざるの記憶なり、此記憶は体合一致を守るが為にその力を誡命に違はざるより借りつゝ、人性を強ふるを以てするにあらず、又之に従ふに依るにもあらずして、奮熱なる愛により、不断心中に燃えん、けだし心霊の直覚を以て堅く体合に立つが為に支柱を彼処に於て見るなり。ゆえに肉に属すると霊に属する二様の感覚の閉るにより、心は驚奇せん。もし人は先づ我等の主が言ひし如く父の完全なるが如く博愛なる者となるを始めずんば、見えざる象様を心に印する霊的愛情に達するが為に他の路あるなし。けだし主はその従ふ所の者に此基を置かんことをかくの如く誡命し給へり。
実験の言は別にして、美言は又別なり。経験上何等の確知なくしても、智慧はその言を飾るを能くすべく、真理を知らずして真理を言はん。或者は道徳の行為を自から実地に試みずして、道徳のことを講解し得べし。しかれども実験より出る言は希望の宝なり。之に反し実験を以てその義を表さざる智慧は耻の言質なり。
壁に水を描きその水を以て己の渇を止むる能はざる技芸者と、美なる夢を見る人と、実験を以てその義を表さざる言とは同じかるべし。道徳につきて自ら実地に試みたる所を言ふ者はその聞く所の者に之を傳ふること、己の労を以て求めたる金を他人に與ふる者と同じかるべし。又己の労にて得たるものにより聴者の耳に教を蒔く者はその神子と言ふや勇気にして口を開くこと、高老なるイアコフが潔浄なるイオシフにつぐる如くなるべし、曰く『我れ第一の分を汝の兄弟よりも多く汝に與ふ、是れ我が剣と刀とを以て唖摩俚人の手より取りたる者なり』〔創世記四十八の二十二〕。
一時の生命は凡て不潔に生活する人には大に望ましかるべく、智識を奪はれたる者は之に次ぐ。死の畏は良心に責めらるゝ人を哀ましめんと或人の言へるは太だ好し、之に反して善なる證明を自己に有する者は生命を願ふ丈死をも願ふ。此の生命の為に己の智を恐怖と畏懼の奴たらしむる者を真の智者と認むるなかれ。すべて肉体と遭遇する所のものは善なるも、悪なるも、夢と思ふべし。けだし之より脱するは独り死を以てするにあらずして、死する以前にも、彼は汝を棄てて遠ざかること屡々之あり。しかれども此中汝の霊魂と或る関係を有するものあらば、之を以て此世に於る己の所得と思ふべし、彼は汝と共に来世にも行かん。而して此は善なるものならば、楽んでその心に神に感謝すべし。されど此は悪なるものならば哀むべく、嘆息すべくして、汝が此身を有する間に之より脱せんことを尽力すべし。
凡て汝の心中に行はるゝ善は、汝自らも念を入れて奥密に涵養せよ、けだし汝の為に之が中保となるものは洗礼と信仰にして、之により汝は我等が主イイスス ハリストスを以て彼の善なる行に召されたるなり。彼に光栄と尊敬と感謝と叩拝は父及び聖神と共に世々に帰す。「アミン。」