シリヤの聖イサアク全書/第一説教

苦行的説教

第1説教 編集

<< つることおよ修道士しゅうどうし生涯しょうがい。 >>


かみおそるゝは道徳どうとくはじめなり。ふあり、道徳どうとく信仰しんこう所産しょさんなりと、かれ放心ほうしんよりとほざかり、飄々ひょうひょうとして旋回せんかいするおもいまとめて、未来みらい興復こうふくかんがふるに集中しゅうちゅうするときこころうえけらるゝなり。ひと道徳どうとくもといかんとほっせば、おのれ操持そうぢしてうきこととほざかり、聖詠者せいえいしゃ聖詠二十二の三百十八の三十五詩編二十三の三百十九の三十五)〕がしんもつしめかつしょうしたるごとただしくせいなるみちり、光明こうめいほうとどまるにくはなし。品性ひんせいおいてはてん使ひとしきものもあるべしといへども、そのたっときをぞくひとありや、あるいはあらん、いなまったくあらざらん、あるひとごとへんすみやか感受かんじゅするよりしょうずるなり。

生命せいめいみちはじめは、つねもつかみことばまなぶとまづしきに生活せいかつおくるとにあり。いつもつおのれうるおすは、成全せいぜんするにたすけん。もしかみことばまなぶをもつおのれうるおさば、まづしきに進歩しんぽするのたすけすべくして、無慾むよく進歩しんぽするはかみことばまなぶに進歩しんぽするがため閑暇かんかときなんぢあたへん。かれこれとの方法ほうほう道徳どうとく完全かんぜんなる家屋かおくすみやかたかむるにたすけん。

とほざからずんば、たれかみちかづくあたはざるなり。しかれどもとほざかるとは肉体にくたいよりうつるのいいにはあらずして、世事せじとほざかるをいふ。しかして道徳どうとくひとのそのため占有せんゆうせしめざるにあり。五感ごかんひと勢力せいりょくゆうするあいだ寧静ねいせいとどまり妄想もうそうなくしてそんするあたはず、あらずんば肉体にくたいじょうよく休止きゅうしいたらざるべく、あくなる思念しねんおとろえざるなり。霊魂れいこんみづから感動かんどうするちからけてかみしんずるに酣酔かんすいするにいたらざるあいだ五感ごかんよわきをいやさざるべく、ないぞくするもののため障礙しょうがいとなるべき有形ゆうけい物体ぶったいちからもつあっするあたはざるべく、自由じゆうれいてき所産しょさんかれこれとの結果けっかかんぜざるべし、すなはちあみよりすくはれざるなり。第一者だいいつしゃ[1]なくんば第二者あらざるべく、第二者だいにしゃ[2]ただしく進行しんこうするところりては第三だいさんしゃ[3]あたか勒轡ろくひごとむすけらるゝなり。

恩寵おんちょうひと増殖ぞうしょくするときは、ねがいにより、おそるゝことはひとため重視ぢょうしするにらざるものとなるべくして、かみおそるゝがため患難かんなん忍耐にんたいすべきおほくの理由りゆうひとはそのこころ発見はっけんせん。見見みすみす身体しんたいためには有害ゆうがいにして、にわか人性じんせい影響えいきょうおよぼし、したがっひとくるしむるすべてのものは、これらいのぞところのものとくらぶればごうもその眼中がんちゅうらざらん。誘惑ゆうわくゆるさるゝなくんばわれしんみとむるあたはざるべし。しかれどもひと此事このことける確證かくしょう発見はっけんするは、かみひとためおほいおもんばかりてかみ照管しょうかんもとにあらざるひとなしとの概念がいねんおいてすべくして、かみたづねてかみためなん忍耐にんたいするものこと分明ぶんみょうこれることたなごころすがごとくならん。さりながら恩寵おんちょうすいひと増々ますますくははるときはのすべてのものはひとおいほとんこれ反対はんたいなる状態じょうたいにてあらはるゝなり。かれため知識ちしき研究けんきゅうゆえ信仰しんこうよりおほいなるべく、かみらいするはいづれのことにもこれあるにあらざるべくして、ひとおけかみ照鍳しょうかんべつ了會りょうかいせらるゝなり。かくのごとひとつねもつんとしてくらきに埋伏まいふくするもの聖詠十の二詩編十一の二)〕のけいおちいらん。

ひとおい真生活しんせいかつはじめかみおそるゝなり。しかれどもひとさい高超こうちょうともこれをその心中しんちゅうまもるにへざるなり、なんとなればかみたのしむをみづからうしなひつゝ五官ごかんつとむるがためこころ散乱さんらんすればなり、けだし人々ひとびとごとないそうこれらをかんずるをもつこれつとむる官能かんのうそのものにむすけらるゝなり。

うたがい心中しんちゅうおそれ引誘いんゆうしかれども信念しんねんたい截断せつだんせらるゝさいにもゆう意思いし確固かくこ不抜ふばつならしむるをべし。肉体にくたいたいするあいなんぢ優勢ゆうせいなるほどなんぢあいするところのものをかこおほくの抵抗ていこうたい勇敢ゆうかんにして戦慄せんりつせざるものとなるあたはず。

おのれためえいこいねがものかなしみの原因げんいんすくなくするあたはず。境遇きょうぐう変化へんかとも眼前がんぜんところことかんして変化へんかをそのこころかんぜざるひとはあらず。もし慾念よくねん人々ひとびとごとかん所産しょさんならばおのれ主張しゅちょうして引誘いんゆうさいにもこころ平安へいあんまもらんとものついもくすべし。

奮闘ふんとう苦行くぎょうときおいろうために、づべきねんはそのとき絶滅ぜつめつすとみづからおのれことしょうするものは、貞潔ていけつなるものにあらず。そのこころ真実しんじつもつてその直覚ちょくかくきよむるもの貞潔者ていけつしゃなり、けだしかれ放蕩ほうとうなるねん無耻むちにしてこころめざればなり。その良心りょうしん尊正そんせい一見いっけんして貞信ていしんためしょうときは、はぢ思念しねん秘密ひみつなる納所のうしょけられしまくごとくなるべし、かれてん貞潔ていけつなる処女しょじょごとく、ハリストスためしんもつまもらるゝなり。

霊魂たましいあらかじ占領せんりょうしたる放蕩ほうとうかたぶきをとほざけんがためまた肉体にくたいおこりて逆焔ぎゃくえんみなぎらすさわがしきおくのぞかんがため充分じゅうぶんなるは、かみしょまなぶをあいするにおのれうづめて、そのふかきをかいするにくはなし。言中げんちゅうにかくるゝえいかいするのたのしみにおもいぼっするときは、これより解明かいめい引出ひきいだすにしたがひ、ひとはいつべく、すべてにあるものをわするべく、すべてのおくとすべてたいしたる勢力せいりょくある象様しょうよう霊魂れいこん消滅しょうめつして、つね天性てんせい見舞みまきたれるねん要求ようきゅうしきりにへんちゅつせん。されば霊魂れいこん聖書せいしょおううみおいところあらたなる顕現けんげんによりおほいよろこばん。

もし水面すいめんうかび、すなはちかみしょ海面かいめんうかびて、そのふかきに透徹とうてつし、その深処ふかみにかくるゝことごとくのたから了解りょうかいすることはあたはずといへども、聖書せいしょ了解りょうかいせんとする熱心ねっしん占領せんりょうせらるゝならば、れそのもっとおどろくべきことをかんがふる独一どくいつこうもつてその意思いしかた緊縛きんばくするためにも、抱神者ほうしんしゃごとく、意思いし肉体にくたいせい突進とっしんするをさまたぐるためにも、これをもつ充分じゅうぶんならん。しかれどもこころ劣弱れつじゃくにしてないがいたたかいときおこところ残害ざんがいふるあたはざるべし。さればあくなるねん如何いかくるしきことはなんぢこれらん。もしこころしきもつ占領せんりょうせられずんば、肉体的にくたいてき突進とっしんみだれを忍耐にんたいするあたはざるべし。

けらるゝもののおもみはかぜあらきにより天秤てんびん動揺どうようする速力そくりょくさまたぐるごとく、はぢおそれ動揺どうようさまたぐるなり。おそれとはぢ欠乏けつぼうするにしたがひ、えず旋転せんてんせしめられん。されば霊中れいちゅうよりおそれとほざかるにしたがひ、秤衡はかりゆうたるもののごと彼方此方かなたこなた揺々ようようとしてさだまらざるなり。さりながらもし秤衡はかりはなはおもぶつをその盤上ばんじょうするならば、はやかぜくがためたやす動揺どうようせざるべし。かくのごとかみおそるゝこころはぢとの積載せきさいしたにあるときは、これ動揺どうようせしむるものため転倒てんとうせらるゝことかたし。しかれどもこころおそれとぼしくなるにしたがひ、転動てんどう変改へんかいとはこれ占領せんりょうはじめん。ゆえにその進行しんこうもといかみおそるゝのこころかんことをまなぶべし、さらばじょうおい旋回せんかいするをさず、ならずして天国てんごくもんにあらん。

およなんぢ聖書せいしょおいところのものは、ことばしゅ探求たんきゅうせよ、せいなる意義いぎふかきに透徹とうてつしていよいよ精確せいかくこれ了解りょうかいせんがためなり。神聖しんせいなる恩寵おんちょうもつてその生命せいめい光明こうめいにみちびかるゝものあたか聡明そうめいなる光線こうせんありて句々くく節々せつせつしるされしものを通過つうかするごとくなるをかんすべくして、空言くうげんおほいなるそうもつこころ認識にんしきぐるものとをべつせん。

もしひと著名ちょめいなる句々くく節々せつせつおもひひそめずしてむならば、こころまづしくなりおわるべくして、霊魂れいこん奇異きいなる了解りょうかいによりいと甘美かんびなる趣味しゅみこころしむるせいなる能力のうりょくかれ消滅しょうめつせん。

すべてのものつねにそのしたしきものにむかふ。しん分前わけまえおのれにゆうする霊魂れいこんも、奥妙おうみょうなる神的能力しんてきのうりょく含有がんゆうすることばをきくときは、そのことば旨趣ししゅ熱心ねっしんおのれに引誘いんゆうするなり。霊神れいしんもつ奥妙おうみょうにしておほいなるちからゆうするものは、すべてのひと覚醒かくせいして驚嘆きょうたんせしむるにはあらず。道徳どうとくかんすることば為及ためおよちかまじわるがため占有せんゆうせられざらんこころ要求ようきゅうす。道徳どうとく暫時ざんじなるものをおもんばかるがためこころくるしめらるゝひとおもい覚醒かくせいして道徳どうとくあいせしめず、これ領有りょうゆうするをたづねしめざるなり。

物体ぶったいより解脱げだつするはその成立せいりつおいかみ結合けつごうするにさきだつ、恩寵おんちょう摂理せつりにより、或者あるものには後者こうしゃ前者ぜんしゃさきだちてあらはるゝことも屡々しばしばこれありといへども前者ぜんしゃ後者こうしゃさきだつ、けだしあいあいにておほはるればなり。せつ通常つうじょうなる秩序ちつじょ人間にんげん社会しゃかい秩序ちつじょことなるあり。さりながらなんぢ一般いっぱん共通きょうつう秩序ちつじょまもるべし。なんぢおい恩寵おんちょうさきだつあらば、これ恩寵おんちょうことなり。しかれどももしさきだたずんば、すべての人々ひとびとたがい進行しんこうするみちによりてなんぢ霊塔れいとうたかきにのぼるべし。

すべてちょくかくてきおこなはるゝことにして、これためあたへられたる誡命かいめいしたが成就じょうじゅせらるべきものは、有形ゆうけいにはまったえず。しかしてすべて実験じっけんじょうおこなはるゝこと複雑ふくざつなり。なんとなれば実体じったいあるものと実体じったいあらざるものとのためにただいつなる誡命かいめい所謂いはゆる実験じっけんなるものはかれにもこれにも、直覚ちょくかくにも実験じっけんにも必要ひつようゆうするによる。けだし一致いっちとは直覚ちょくかく実験じっけんとの配合はいごうなればなり。

浄潔じょうけつこと配慮はいりょするのこうおうあやまちおくするによりかんせらるゝ感情かんじょうあっせず、かえっこれおくするときにかんずるところかなしみをれいよりるべし。さらば此時このときよりおくしん心中しんちゅうえきしょうぜしめん。霊魂れいこん道徳どうとくもとむるにかざるは、霊魂れいこん結合けつごうする身体しんたい顕然けんぜんたる願欲がんよく一分いちぶんおのれえきむかはしめん。せつはすべてのものかざらん。せつなくんばさいなりと思惟しいせらるゝものもてんじてがいとならん。

かんえきせらるゝにはあらざるたのしみをおのれにかんもつかみまじはらんとほっするか。矜恤きょうじゅつつとめよ。矜恤きょうじゅつなんぢないにあらはるゝときかみたるせいなるなんぢうちえがかるゝなり。矜恤きょうじゅつこと包容ほうようせざるところなきは、光明こうめいえい一致いっちするがために、なんかんようするなくして、神性しんせいまじはるをこころしょうぜしめん。

霊的交通れいてきこうつういんしょうべからざるのおくなり、このおく体合たいごう一致いっちまもるがためにそのちから誡命かいめいたがはざるよりりつゝ、人性じんせいふるをもつてするにあらず、又之またこれしたがふにるにもあらずして、奮熱ふんねつなるあいにより、だん心中しんちゅうえん、けだし心霊しんれい直覚ちょくかくもつかた体合たいごうつがためちゅう彼処かしこおいるなり。ゆえににくぞくするとれいぞくするよう感覚かんかくとづるにより、こころきょうせん。もしひとわれしゅひしごとちち完全かんぜんなるがごと博愛はくあいなるものとなるをはじめずんば、えざるしょうようこころいんする霊的れいてき愛情あいじょうたっするがためみちあるなし。けだししゅはそのしたがところものこのもといかんことをかくのごと誡命かいめいたまへり。

実験じっけんことばべつにして、げんまたべつなり。経験上けいけんじょうなんかくなくしても、智慧ちえはそのことばかざるをくすべく、しんらずしてしんはん。或者あるもの道徳どうとくこうみづから実地じっちこころみずして、道徳どうとくのことを講解こうかいべし。しかれども実験じっけんよりいづことばぼうたからなり。これはん実験じっけんもつてそのあらはさざる智慧ちえはぢげんなり。

かべみづえがきそのみづもつおのれかつとどむるあたはざる芸者げいしゃと、なるゆめひとと、実験じっけんもつてそのあらはさざることばとはおなじかるべし。道徳どうとくにつきてみづか実地じっちこころみたるところものはそのところものこれつたふること、おのれろうもつもとめたるかねにんあたふるものおなじかるべし。またおのれろうにてたるものによりちょうしゃみみおしえものはそのしんふやゆうにしてくちひらくこと、高老こうろうなるイアコフけつじょうなるイオシフにつぐるごとくなるべし、いはく『第一だいいちぶんなんぢ兄弟けいていよりもおほなんぢあたふ、けんとうとをもつ唖摩俚アモリじんよりりたるものなり』〔創世記四十八の二十二〕。

いち生命せいめいすべけつ生活せいかつするひとにはおほいのぞましかるべく、しきうばはれたるものこれぐ。おそれ良心りょうしんめらるゝひとかなしましめんと或人あるひとへるははなはし、これはんしてぜんなる證明しょうめい自己じこゆうするもの生命せいめいねがだけをもねがふ。生命せいめいためおのれきょう畏懼いくたらしむるものまことしゃみとむるなかれ。すべて肉体にくたい遭遇そうぐうするところのものはぜんなるも、あくなるも、ゆめおもふべし。けだしこれよりだっするはひともつてするにあらずして、するぜんにも、かれなんぢててとほざかること屡々しばしばこれあり。しかれどもこのうちなんぢ霊魂れいこん関係かんけいゆうするものあらば、これもつこのおけおのれ所得しょとくおもふべし、かれなんぢとも来世らいせいにもかん。しかしてこれぜんなるものならば、たのしんでそのこころかみ感謝かんしゃすべし。されどこれあくなるものならばかなしむべく、嘆息たんそくすべくして、なんぢこのゆうするあいだこれよりだっせんことを尽力じんりょくすべし。

すべなんぢ心中しんちゅうおこはるゝぜんは、なんぢみづからもねんれて奥密おうみつ涵養かんようせよ、けだしなんぢためこれ中保ちゅうほうとなるものは洗礼せんれい信仰しんこうにして、これによりなんぢわれしゅイイスス ハリストスもつぜんなるおこないされたるなり。かれ光栄こうえい尊敬そんけい感謝かんしゃ叩拝こうはいちち及び聖神せいしんとも世々よよす。「アミン。」

脚注  編集

  1. 原文注1:世にとほざかること
  2. 原文注2:かみ宿やどするに酣酔かんすいすること
  3. 原文注3:自由