イェルサリム大主教聖キリール教訓/第一講話

正教のおもなる定理 編集

<< 神父かみちちこと。 >>

敬神けいしんためわれひとつにてれり、かみすなは独一どくいつかみあることをこれなり、かみものかつ永遠えいえんものにして[1]つねみづか平等びょうどう一様いちようなるものなれば、何者なにものかれにはちちたらず、何者なにものかれより有力ゆうりょくなるはなく、いかなる斯業しぎょうしゃかれくにうばはざるなり、かみはその本体ほんたいには異類いるいのものをえてれざるめいにして全能ぜんのうなるものなり。けだしかれぜんなるものなるもの全宰ぜんさいしゃ万軍ばんぐんしゅづけらるれば、種々しゅじゅことなるものはかれにあるべからず、すなは同一どういつ存在そんざいして、神性しんせいすうちからをあらはしかれあまりありて、これとぼしきあるにあらず[2]、すべてにみづか一様いちよう平等びょうどう存在そんざいして、ただじんおいだいにして、えいおいしょうなるにあらず、えいじん平等へいきん均一きんいつなるなり。ただいちぶんて、ぶんるのちからうばはるるにあらず、すべては、すべてはみみ、すべては智慧ちえなり。ただいちぶんかいして、ぶんらざること、われごとくなるにあらず。かくのごと見解けんかいかみけがすものにして、かみ本体ほんたいあたらざるなり。かみところ万物ばんぶつぜんするものかれせいなるものかれ全能ぜんのうなるもの仁慈じんじおいてはあらゆるものえ、あらゆるものよりだいにして、あらゆるものより睿智えいちなり。そのはじめもその形象かたちもその有様ありさまわれ名状めいじょうすることあたはず。かみしょにいふ『なんぢいまだそのこえかず、いまだそのかたちず』〔イオアン五の三十七〕。ゆえモイセイはイズライリ人につげて『なんぢふかみづかつつしめよ、なんぢいまなんかたちをもざりしなり』〔復傳律令ふくでんりつれい四の十五〕といへり。それかたちをさへまった想像そうぞうするあたはずんば、いかんして本体ほんたいおもちかづくことをんや。

かれひと何処いづこにもあらざるなし、……すべてを、すべてをさとり、すべてをハリストスによりてつるなり、けだし『万物ばんぶつかれによりてつくられ、かれなくしてつくられしものはいつもあらず』〔イオアン一の三〕。かれんでつききざることごとくのぜんいづみなり、恩恵めぐみかわなり、きずしてらす永遠えいえんひかりなり。われ劣弱れつじゃく適応てきおうするがたちからなり。われためにはかれをさへくことかたし。イオフふ『なんぢかみふかこときわむるをんや、全能者ぜんのうしゃつくりしものまったきわむるをんや』〔イオフ十一の七〕。それ造物ぞうぶついたりてなるものをさへ理会りかいするあたはずんば、いかんして万物ばんぶつつくたまひしもの理会りかいするをんや、『かみおのれあいするものためそなたまひしものいまだず、みみいまだかず、ひとこころいまだおもはざるものなり』〔コリンフ前二の九〕。それかみによりてそなえられしものだもわれ理会りかいためおよばずんば、これをそなたまひしものをいかんぞじんもつ理会りかいするをんや。『アアかみしきとのとみふかいかな、その法度さだめはかりがたく、その踪跡みちもとめがたし』〔ローマ十一の三十三〕。それその法度さだめ踪跡みちをさへ理会りかいするあたはずんば、いかんぞ自己じこ理会りかいんや。

しかれどもわれ独一どくいつかみしんずるをようするのみならず、独一どくいつかみわれしゅイイスス ハリストス独生どくせいしゃちちたることをも敬虔けいけんこころもつてうけんことをようするなり。かみ本来ほんらいをいへば衆人しゅうじんちちにあらず、本性ほんせいり、実際じっさいおいてただいつ独生どくせいわれしゅイイスス ハリストスちちなり。かれちちたることはいちこれをたるにあらずして、つねかれ独生どくせいしゃちちたるなり。

かみしょおよ真理しんりおしへは独一どくいつかみ承認しょうにんするなり、かれおのれちからもつ万物ばんぶつ扶持ふぢし、任意にんい衆人しゅうじん容忍ようにんたまふ。

一物いちぶつとして神力しんりょくはたらきほかにあるものはあらず。聖書せいしょかみことをいふて『ことごとなんぢつかふ』〔聖詠せいえい百十八の九十一(詩編百十九の九十一)〕といへり。さりながら『ことごとなんぢつかふる』も、ただかれとただかれ聖神せいしんとはことごとくのものほかにあり、さらばすべてかれつかふるもの独一どくいつ聖神せいしんとによりて主宰しゅさいつかへまつらんとす。

脚注 編集

  1. 原文注1:いふこころは、かみおのれに存在そんざいゆうして永遠えいえん存在そんざいすとなり。
  2. 原文注2:かみ殊異しゅい多様たよう完全かんぜん一様いちよう平均へいきんにあらはし、かれたいしてこれまさるあるにあらず。