鹿兒島縣史 第一巻/第一編 神代/第二章 三代の御經論


第二章 御三代の御經論

 天孫瓊瓊杵尊は高千穂峰に天降り給ひて後、膂完之空國ソシシノムナシキクニを御通過あらせられて、吾田長屋笠狹の碕に幸せられた。 膂完之空國は、日本書紀の一書に膂完胸副ムナソヒ國と載せて居るが、背上の肉の少い様な、不毛の地と云ふ意味であらうが、同書仲哀天皇八年の條の神託に、新羅國を寶國とするに對し、熊襲を膂完之空國である事から、これも熊襲の國を指すのであらうとも説かれている。

 吾田長屋笠狹の碕は、日本書紀の一書に「到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋乃巡纜其地」と載せて居る。吾田と云ふ名稱は、和名抄に薩摩國阿多郡阿多郷とある地より起りしものならむも、日本書紀の天武天皇紀、持統天皇紀等の各所に大隅に對して、薩摩の總名として用ひて居る故、廣き地域の汎稱として用ひられた事が明白である。 笠狹は阿多郷の南隣河邉郡加世田とする説が、最も有力であつて、長屋は其の西に突起する長屋山(俗稱長永山)に其の名が残り、古へは此の邊一帯の總名かと云ふ。竹島は孝徳天皇紀白雉四年の條に「於薩麻之曲、竹嶋之ミナト、合船没死」とある竹島にして、更に其の西の海に突出する野間岬かとも云はれている。

 天孫が笠狹の碕に到りませる時に、この地に事勝國勝長狭なる者があつた。天孫に其の土地を獻じ、天孫は此處に宮殿を營み給ひて、大山祇神の女鹿葦津姫を納れさせられ、やがて、火闌降命と彦火火出見尊とが御降誕あらせられた。鹿葦津姫は日本書紀の註に「亦名神吾田津姫、亦名木花開耶姫」と載せ、また一書には神吾田鹿葦津姫・豊吾田津姫などと記し、古事記には神阿多都比賣、亦の名木花之佐久夜毘賣と見える。其の御名の吾田(阿多)は地名に因み給うたものであらう。彦火火出見尊の御降臨の折、尊の御臍を截り奉つた竹刀を棄てた所が竹林となり、その所を竹屋と號するとある。 而してその御降臨地は前引塵袋に閼駝郡竹屋村とあり、加世田の内山田に竹屋ノ尾と稱する地ありて特種の竹あり、又近くの宮原に高屋神社があつて、往古この地から遷座したと傳へられて居る。

 さて天津彦彦火瓊瓊杵尊は久しくましまして崩じ給ひ、其の御陵は、日本書紀に「筑紫日向可愛之山陵」と載せ、延喜式の諸陵寮に「日向埃山陵 天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向國、無陵戸」と見えて居る。阿多附近について云へば、其の東南

可愛山陵

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に頴娃郡があるが、之は續日本紀文武天皇四年の條に衣評エノコホリと載せ、和名抄には頴娃を江と訓じ、郡内に頴娃郷を収めて居る故、本居宣長を初めとして、御陵は此の方面かと説く學者もあつたが、其後の學者の0研究は、多く高城郡水引郷宮内村八幡山であるとみなし、明治七年七月十日御裁可を經て、八幡山即ち今の薩摩郡川内町大字宮内に御治定を見るに至つた。

 御陵に續きて中陵・端陵の二陵があつて、これは尊の御近親の陵墓かとも説かれ、又此の地方の傳説に、尊は阿多地方より此の地に遷御あらせられ、大宮を營み給うたと傳へてゐる。 此の地の新田神社については、同社所藏寶治元年十一月の文書に「薩摩國遷御之後者、龜山峰奉□神御躰、以此社新田宮」とあり、又建長・文永以降の文書にも同様な記事を載せて、古くから新田宮は瓊瓊杵尊の崇廟にして、日城無雙の霊廟と傳承せられてゐた所である。同社は承安三年正殿巳下炎上し、同四年山麓より山頂に移し奉るべきか、否かの事を奏聞し、其の後山上に社殿を建立せられたのである。

 彦火火出見尊は、最初、御兄火闌降命と海幸山幸の事から爭ひ給うたが、鹽士老翁の勧めに從って海神綿津見命の宮に赴かれ、潮満瓊と潮涸瓊とを獲給ひて、兄命を逼悩し給うたことは有名なる神話である。 縡もとより神代の事で其の眞相は詳かでないが、火闌降命は日本書紀に隼人等の始祖と載せ、又「吾田君小橋等之本祖」と記し、古事記にも隼人阿多君の祖と見えるのであるから、此の神話は隼人族の歸服と云ふ事と密接な關係があるのであらう。 日本書紀の一書に「是を以て火酢芹命の苗裔諸の隼人等今に至るまでに天皇の宮墻の傍を離れず吠狗に代りて事へ奉る者なり」と云ひ、古事記に、兄命「稽首白、僕者自今以後、爲汝命之晝夜守護人而仕奉、故至今、其溺時之種々之態、不絶仕奉也」と見えるのである。近時の説に據れば、釣針の事を以て兄に報復するとか、魚の咽喉から釣針を得るとか云ふ話は、インドネジアンなどの南方の民族にもある話であると云ふ。 隼人族服屬と關連してこの南方的の説話が尊御兄弟の事として傳はつたものとも考へられよう。

 彦火火出見尊は高千穂宮に宮居し給ひ、綿津見命の女豊玉姫を納れさせられ、御子彦波瀲武盧茲草葺不合尊が御降誕あらせられた。この高千穂宮の御遺蹟に就いて種々説をなすものがあるが、その高千穂と云ふ宮名から、又は尊の御陵から、大隅の霧島山の近くに擬定されなければならないと云はれ、而か

鹿兒島神宮

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高屋山上陵

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も鹿兒島神宮の古傳に、此の地を彦火火出見尊の皇居のあとであると傳へてゐる。 鹿兒島神宮はいま官幣大社に列せられ、彦火火出見尊を奉祀してある。昔時は薩・隅・日三州唯一の大社であつて、延喜式神名帳には「桑原郡鹿兒島神宮大」と見えて居るが、中世は専ら正八幡宮と呼ばれて居た。兩者の關係については後章に述べなければならない。

 彦火火出見尊の御陵は古事記に「高千穂山之西」と載せ、日本書紀に「日向高屋山上陵」とあり、延喜式には、「日向高屋山上陵 彦火火出見尊、在日向國陵戸」と見えて居る。 此の御陵は神代山陵考や神代三陵志の如く、後世肝屬郡内浦郷北方村なる國見嶽の嶺とする説と姶羅郡溝邉郷麓村の北方神割岡とする説とに分れて居たが、明治七年七月十日御裁可を經て今の姶良郡溝邉村大字麓の地と御治定あらせられた。

 彦波瀲武盧茲草葺不合尊は西洲の宮にましまし、海神の女玉依姫を納れさせられ、彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命及び神日本磐余彦尊が御降誕あらせられた。西洲の宮の所在については詳かでないが、西洲は即ちたゞ西方筑紫の日向の事であつて、同じく高千穂宮を指すのでなからうかとの意見もあり、又神日本磐余彦尊も初め高千穂宮におほしましたと古事記にある故、高千穂宮は御三代の皇居であると云ふ説がある。 しかしまた盧茲草葺不合尊の御陵は吾平山上陵と稱し、神日本磐余彦尊の妃を吾平津媛と申し、其の吾平とはいづれも同一の土地の名に因まれ、其の地は後の姶羅郡の地であらうと思はれるから、尊は此の地方に皇居を奠め給ふたかとも考へられるかも知れない。 御陵は古事記には見えず、延喜式には「日向吾平山上陵 彦波瀲武盧茲草葺不合尊、在日向國陵戸」と載せ、御陵名は日本書紀と同様である。御陵の所在に就いては國内に異説殆んどなく、明治七年七月十日、肝屬郡姶良村大字上村と御治定あらせられた。

 神日本磐余彦尊は日本書紀の一書に狹野尊とある、蓋し神武天皇御幼少時の御名である。 古事記には「若御毛沼命亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波禮毘古命」と見えて居る。 御年十五にして皇太子に立ち給ひ、後に吾田邑吾平津媛を妃となし給ひて手研耳命が御誕生あらせられた。吾平津媛は古事記に阿多之小椅君の妹阿比良比賣と見える。 阿多の小椅君とは、日本書紀に火闌降命の御子孫であらう。吾

吾平山上陵

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平は大隅の地名であるのに、吾田邑の御方とするは元來、吾田君の一族の御方である故であらう。 神武天皇は御年四十五歳にして、御兄五瀬命と共に高千穂宮に議して大和の方に御東遷せられたのであるが、從つて天皇の御東遷にはこの地方のものが多く随ひ奉つた事は推測するに難くない。殊に外戚吾田君の一族は隼人族を率ゐて御軍にお供申した事と思はれる。 後に大和の朝廷に於いて兵衛の任に當つた久米部の部民が、即ち神武天皇に御随伴したこれ等のものゝ後であらうと説かれてゐる。

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