鹿兒島縣史 第一巻/第一編 神代/第一章 天孫の御降臨

第一編 神  代

第一章 天孫の御降臨

 高天原にましませし天照大神は天孫天津彦彦瓊瓊杵尊に三種の神器を授け賜ひ、中臣の上祖天兒屋命・忌部の上祖太玉命・猨女の上祖天鈿女命・鏡作の上祖石凝姥命及び玉作の上祖玉屋命の五部神を以て天孫に配侍せしめ給ひ、勅してのたまはく、

 葦原の千五百秋の瑞穂國は是れ子孫ウミノコキミたるべきクニなり。宜しくオマシ皇孫スメミマいてシラせ。行矣サキク。寶祚の隆えまさんこと、當に天壌アメツチと窮り無かるべしと。こゝに於いて、天孫即ち神勅を奉じて天の磐座を放ちて、天の八重雲を排し分け、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂の峰に天降り給ひ、時に大伴連の祖天忍日命・久米部の祖天槵大來目は天の磐靭を取り負ひ、稜威高鞆を著け、天の梔弓を取り持ち、天の羽々矢を手挾み、八目鳴鏑を持ち、頭槌劔を佩いて天孫の御前に立ち仕へ奉つたのである。 この天孫の御降臨に就いては、日本書紀に

降於日向襲之高千穂峯矣既而皇孫遊行之状者。則自槵日二上天浮橋。立於浮渚在平處

とあつて、その一書には、「筑紫日向高千穂槵觸之峰クシフルノタケ」とあり、或は「日向槵日高千穂之峰」と載せ、或は「日向襲之高千穂槵日二上峰」と、又は「日向襲之高千穂添山峰ソホリノヤマノタケ」などゝ記して、古事記には「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣クシフルタケ」と載せてゐる。

 此等の事は太古以來の神話の事とて、古事記・日本書紀の編纂當時、既に上述の如きいくつか異稱があつた程で、高千穂之峰と、久士布流多氣、即ち槵觸之峰と、二上峰と、或は添山峰など云ふものが、或は凡べて同一地域に存する廣狭大小の山岳名の如くにも思はれるのであるが、一方から考へると、古く色々に異つたものとして傳へられたものを、其の後、混淆して一つに考へられて、それが上述の如き數種の傳へとなつたとも見られる。 又高千穂の久士布流多氣、或は高千穂槵觸之峰と云へば、高千穂なる地域内の槵觸峰の意であり、槵日と同一語とすれば槵觸峰即ち二上峰とも考へられるが、また槵觸峰と二上峰とは別の傳であつたものが、槵觸を槵日として二上に冠することによつて、同一山岳名となつたとも観察され、更に添山峰と云ふは又別の傳かとも思はれる。而してこの天孫の御降臨の地に就いては種々説があるが、その内で、これを宮崎縣臼杵郡の高千穂の地とするものと、或は霧島山に比定するものとがあり、なほこの二説いづれとも解釋出來ると考へて、巳むなく兩山を共に其の霊地とする学者[1]も存するのである。

高千穂の地名に就いては、續日本後記承和十年九月甲辰の條に、日向國無位高智保皇神が無位都濃皇神と共に從五位下に進み給ひし事を載せ、次いで三代實録天安二年十月廿二日の條に、日向國從五位上高智保神が同じく都農神と共に從四位上に進み給ひし事を載せて居る、共に郡名を擧げていない。また續日本後記承和四年八月壬辰朔の條には、日向國諸縣郡霧島岑神が官社に預るとあり、三代實録天安二年十月廿二日の條には、霧島神とあつて從四位下に進められてゐる。 これ等に據りて考へるに、霧島神と高智保神とは別々のものであるが、延喜式には高智保神の記載はなく、日向國諸縣郡に霧島神社を収めてゐる。

 然るに、釋日本紀八巻並に仙覚の萬葉集註釋十巻に引用せる日向國風土記の文に臼杵郡の知鋪の郷を説明して、天津彦彦火瓊瓊杵尊が、日向之高千穂二上峰に天降りまして、後人この地を改めて智鋪と號したと載せて、即ち天孫御降臨の地を臼杵郡知鋪郷の高千穂であるかの如く傳へて居る。 なほ和名抄は日向國臼杵郡に知保郷を収め、其の地と相接する肥後國阿蘇郡にも知保郷を載せてゐるが、前者は後世長く高千穂庄と呼ばれてゐた。

 特に此の日向國風土記から見ると、天孫の御降臨と傳へられた地は日向國臼杵郡の高千穂かと思はれるのであるが、この風土記はたゞ、智鋪の地名と高千穂の語との近似を以て地名傳説に引用したものではなからうか。

 日本書紀に襲の高千穂と言ふ襲が、同書景行天皇十二年及び十三年の條に見ゆる襲國即ち熊襲の襲、又豊後國風土記・肥前國風土記及び肥後風土記[2]等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨 囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であらうから、その地域はよし時によりて多少廣狭の差があつたとしても、後世永く霧島山の西に遺つてゐる囎唹郡に比定するに支障のないことであらう。日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遥か北方に隔つた日向國臼杵郡の高千穂を指すものとは考へられない。 即ち襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云はれやう。

 尚ほ、この天孫御降臨の地が襲の山であつたと云ふ傳は、懐風藻の序に「襲山降蹕之世」と云ひ、延暦十三年八月藤原継繩が續日本紀撰進の表類聚國史巻一四七に「襲山肇基以降云々」と見える、其の他新撰姓氏録の序に、「天孫降襲西化之時、神世伊開、書紀靡傳」と載せ、又は山城國風土記釋日本紀巻九所引に「日向會之峰天降坐神」とある。また、續日本紀延暦七年七月己酉の條に、大隅國贈於郡會之峰と記されてゐる。こゝに日本書紀一書の添山の文字を京都の向神社所藏の日本書紀古寫本にソホヤマと傍訓してゐることゝ、薩藩名勝志に「紀に襲之高千穂といふ今の囎唹郡をいふなり、一書に添山峰といふ囎唹山の峰をいへるならん」と述べていることを注意して置かう。

 然るに塵袋の六に引用する風土記に、

皇祖裒能忍耆命、日向國贈於郡高茅穂槵生峰ニアマクタリマシテ、是薩摩國閼駝郡竹屋村ニウツリ玉ヒテ、土人竹屋守ガ女ヲメシテ、其腹ニ二人ノ男子ヲマウケ玉ヒケルトキニ、彼ノ所ノ竹ヲカタナニ作テ、臍緒切給ヒタリケリ。其竹ハ今モ有リト云ヘリ。

と載せて居る。 この塵袋に引用せられたものは假名書にしたものであり、或は何處までが風土記の文であるか詳かではないが、塵袋編者の見た風土記に裒能忍耆命の天降りまいた所は日向國贈於郡高茅穂槵生峰とあつたのである。 果して然らば日向國風土記には、臼杵郡と贈於郡の兩處に天孫の御降臨に關する記事があつたであらうか、兩方とも逸文で今何れとも断じ難いであらう。囎唹郡以下の四郡が日向國から分れて大隅國が創置されたのは和銅六年四月であり、風土記撰上の詔が發せられたのはその翌月であるから、塵袋の引用した逸文はその以前のものか以後のものか決し難いが、日向國に二種の風土記があつたと云う事は疑問とされなければならないと云はれ、大隅國建置後の日向國から奉れる風土記に日向國囎唹郡などゝあるのも疑問であらうと。併し塵袋はたゞ「風土記ノ心ニヨラバ」として日向國贈於郡、薩摩國閼駝郡の傳説を載せてゐるが、或は大隅國風土記から抄録しながら、丁度釋日本紀に引用されてゐる山城國風土記に、「日向國會之峰天降坐神」とあるが如く、一般的な日向の襲の高千穂峰と云ふ知識から、日向國贈於郡高茅穂槵生峰と書いたものでもなからうか。併し、それは何れとしても、この塵袋所引の風土記の逸文を直ちに拒否して、たゞ知鋪郡に就いての釋日本紀等にある日向國風土記の逸文のみに據つて説をなすことは困難である。まして日本書紀以下最も信據するに足る文獻には、何れも襲山即ち襲の高千穂峰とあるを以てすればなほ更である。

〈〔補説〕高千穂の遺稱かと考へられてゐる智鋪・智保・知保の地名に就いては上述の外、大隅國に於いても三國名勝圖會巻之三十三に「此峰今霧島を以て通稱とすといへども、往古は高千穂と號す、因つて此邉を呼て智尾といふ(中略)。智尾の地名囎唹郡古領主の文書に見えたり、康暦三年五月廿日齢岳公弟子丸若徳賜ふ書に曾於郡智尾名事云々あり(中略)。弟子丸村は今囎唹郡内清水邑に屬す、其村内智尾神社あり(中略)。今にも此神祠近邉の地名を智尾といふ、又當邑重久村に智尾名といへる地名もあり(中略)、建久八年日向國圖田帳に、臼杵郡高智尾社八町、且文保元年幕府より邦君道義公を以て諸所地頭とする下文に、日向國高千尾庄と書す、彼此既に訛りて、世上に行はること此の如し」とある事を付記して置く。〉 以上を以てすれば天孫瓊瓊杵尊が天降りませし日向の襲の高千穂の峰は、後世大隅國にその遺稱を存する囎唹の郡高千穂峰にして、即ち今の姶良郡なる霧島山が其の霊地として傳へられてゐた事と断じて差閊へないであらう。

 霧島神宮は霧島山の西南山腹田口の地に鎮座ましまし、畏くも天孫瓊瓊杵尊を奉祀し、明治七年官幣大社に列せられ、もと西御在所霧島六所権現社と申した神社である。 初め社殿は霧島の山頂に造建されたが、山上噴火の爲め、火常峰の西麓に遷し奉り、後また山上の火に據りて再び地を相して現在の田口の地に遷し奉つたと傳へられ、東御在所・妻霧島・瀬戸尾・雛守・狭野と共に霧島六社と呼ばれて居た。神宮はもと正殿四座、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鵜鷀草葺不合尊・神武天皇を奉祀し、尚ほ東西二殿があつて、東殿には國常立尊・高皇産霊尊・伊弉諾尊・天照大神を合祀して一座とし、西殿には大己貴命・國狭槌尊・惶根尊・神皇産霊尊・伊弉冉尊・素戔嗚尊・天忍穂耳尊の七神を合祀して一座とし、合せて六所権現と呼んで居たが、明治の御代に至り、瓊瓊杵尊一座を祭神となして奉齋し奉るに至つた。

霧島神宮

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注釈 編集

  1. 補説:本居宣長の古事記傳の一説に、「初めに先づ降り著き給ひしは臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧島山に遷り坐して(中略)、かゝれば神代の高千穂と云ひし山は此の二處なりけんを」とあり、平田篤胤の古史成文に、「瓊瓊杵尊、於高千穂二上峰天降坐之時(中略)既而移幸襲之高千穂槵日二上峰矣」と
  2. 釋日本紀巻十所引
 

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