鹿兒島縣史 第一巻/第二編 國造時代/第一章 熊襲の服屬
第二編 國造時代
第一章 熊襲の服屬
神武天皇の御東遷より七百四十餘年を經た景行天皇十二年八月、熊襲が反して朝貢せざるを以つて、之が御平定のために天皇は御親ら軍旅を率ゐさせられて筑紫へ發御あらせられた。 熊襲は、豊後・肥後の兩國風土記及び釋日本紀巻十引用の肥後國風土記等の所々に球磨 囎唹・球磨 贈於・玖磨 囎唹等と記され、又天皇御征の記事中にも、襲國と熊國との事が見えるのである。 故に熊即ち球磨は肥後國球麻郡の地方であり、襲即ち囎唹は大隅國囎唹郡の邊で、熊襲とは此の兩地方に亘る山間に蟠据して居たものと考へられるのである。
さて、日本書紀の記事に據れば、天皇はまづ、周防の娑磨より豊前に渡り給ひ、次いで豊後を經て、同年十一月、日向に至り給ひ、高屋に行宮を營まれ、其の地を根據として襲國御平定の籌策を運らせ給ふたのである。 時に襲國の渠帥は、
その後、天皇の廿七年八月、熊襲が再び反したので、十月、日本武尊をして之を討たしめ給うた、此の時の熊襲の魅帥は取石鹿文、一名を川上梟帥と云ふものであつた。尊は十二月、熊襲國に到り、賊酋を平げ給うたのであるが、地理的記載がない爲に、どの邊での出來事か判明しない。 國分地方の傳説に據れば、景行天皇の御代、大人の隼人なるもの容貌夜又の如く、隼人城と上井城とに據つて皇命に随はず、仍て天皇親征し給ひて御子日本武尊を副将とし、遂に拍子橋にて討取ると云ひ、その賊酋を大人
以上の如く景行天皇の御代に於ける二度の熊襲征伐中、地理的記述のあるのは、天皇親征の時の記事だけで、その内、襲國討伐の根據地となつた日向高屋宮は兒湯郡に其の遺址と稱するものを傳へて居る。 此の宮に御駐輦中、子湯縣丹裳小野に遊び給うたが、子湯は即ち兒湯であり、丹裳小野は妻町西都原の南端三宅神社に程近い處だと云ふ。 因に三宅神社の所在地三宅は古く屯倉であつた地であらうし、日向の國府を置かれたのも此の附近である。
天皇は高屋行宮御駐輦中、
上來説くところによつて襲國は、後世の傳説の如く、國分地方ではなく、日向大隅の界の山地であつたと想像すべきである。霧島山の東から北の地は諸縣君の領するところとなつて諸縣の名で呼ばれ、襲の國の名は大隅囎唹の地名として傳はつたと考へられる。其の後、仲哀天皇の御代の熊襲征伐の際には、葦北國造の祖鴨別をして討たしめたと云ひ、葦北國の故地は肥後國葦北郡一帯であらうから、熊襲はやはり此の附近の山地に據つてゐたと思はれる。
以上の如く、景行天皇の御代より仲哀天皇の御代に至る熊襲征伐は、本縣の北隅より宮崎・熊本の二縣の南方に連亘する山嶽地帯に蟠居した虜酋の征討であつて、或は殆んど直接本縣と關係がないと云つてもよいのである。 しかし景行天皇の高屋宮御駐輦は六年の長きに亙り給ひしと傳へてゐるのであるから、大隅地方に御巡幸あらせられたとの傳説があるのも必ずしも否定することは出來ないのであらう。 天皇が、熊襲親征より御歸京の御巡路の如きも、風土記の記事が、日本書紀の記述と大いに趣を異にして居る故、簡單に日本書紀のみ據つて斷ずる事が出來ないであらう。 從つて景行天皇及び日本武尊が大隅の各地を御巡歴あらせられたと云ふ傳説も多少據り處があつたかも知れない。
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