鹿兒島縣史 第一巻/序説/第二章 時代の推移


第二章 時代の推移

 本縣は畏くも天孫御降臨の霊地にして、神代御三代の御陵亦縣下に御治定になつた。 これ誠に縣民の最も光榮とし名譽とする所である。たゞ神代の御事ども、縡太古に屬して、神典に據つて窺ひ奉るの外更に詳にすること能はず、今猥りに説を樹つべきものでない。然れども天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊より御三代を經て、神武天皇の御東遷ありて後、帝都を去ること遥かに遠く、西海に在りて數百年、神代の霊蹤も漸く土豪跳梁の巷となつた事も巳むを得ざるものと謂ふべきである。

 その後景行天皇御父子三代の御巡狩があつて熊襲服屬し、皇室の徳化漸く洽く及ぶに至つて國造・縣主の設置を見るに至り、後國造時代を經て孝徳天皇の大化改新に及ぶのである。當時は地方制度未だ確立せず、各地の豪族が國造・縣主として朝廷の命を奉じて施政の任に當つた時代である。 たゞ本縣は大化改新と同時に他の地方と同一に取扱はれたものではなく、その後もなほ中央から特別なる行政區域として遇されてゐたが、大化改新は實に我が國史上の一大轉換の時であると共に、これより後は次第に中央の積極的開發があつて、施政の一變を來したことも言を俟たない所である。

 大化改新以降奈良朝時代から平安朝時代にかけて、後鳥羽天皇の御代に至る五百年は即ち律令制度による時代で、地方は中央から派遣された國司の統治下にあり、各種の地方制度は完備し、なほ中央の文化が移植されて大いに地方が開發された時代で、これを國司時代と呼ぶのである。併しながらその後半期は中央に於ける律令制度の頽廢と、地方に於ける國司政治の變遷とによりて、庄園の發達、地方豪族の擡頭興起等を促す時代である。

 次は守護時代と呼ぶ時代にして、後鳥羽天皇の文治元年より後柏原天皇大永五年までの間である。即ち源頼朝朝廷に奉請して諸國に守護を置き、軍事警察の任に當らしめ、庄園の地頭は次第に關東御家人として幕府の権を笠にし、爲めに、これより後、國司の勢力衰へ、政権次第に武士階級に移り、國司は有名無實となつた。然れども建武中興以降、殊に室町中期以降は幕府の統制地方に及ばず、政権全く守護の手に歸する時代であり、次でこゝに新なる豪族割據の端を開くに至つた。

 地方豪族は室町幕府の勢力失堕と共に、互に崛起して、各地は割據獨立の姿となつた。 その間、守護島津氏の勢力漸く四隣を壓して全盛時代を将來した。之を特に分國時代と呼ふ。島津貴久出でゝ薩・隅・日を完全に掌握し、更に少貳・大友の兩氏を倒して、殆んど九州を統一するの概を示すに至つた。 然るに豊臣秀吉の九州征伐に會ひ、島津氏一度膝を屈して薩・隅・日に退かねばならなかつたが、なほ一方に雄視することが出來たのである。

 天正十五年秀吉に屈した島津氏は、更に慶長五年九月關ヶ原合戦以後、徳川幕府の下に一諸侯として一藩をなした、即ち藩政時代である。然れども、その末期、嘉永・安政以降は一藩擧つて新時代の先鞭をつけ、勤王討幕の先鋒となり、遂に維新回天の偉業、皇権恢復に翼賛し奉つた。斯くして大政奉還となり、次の明治の時代に入るのである。

 次で島津忠義等の首唱により、明治二年、全國の諸侯は版籍を奉還し、明治政府は愈其の基礎を固め、同四年に廢藩置縣を断行し、七百年來の封建制度を全く終焉せしめた。此處に於いて、鹿兒島縣も創置されたのであるが、常時、縣内外の情勢から、縣政上他府縣と稍趣さを異にする處があつた。明治十年の西南役の結果、かゝる特殊事情は除去され、爾後中央政府諸制度の完備と相俟つて、縣政の發展愈著しく、以て今日に及んでゐる。

 本縣は現在薩摩・大隅二箇國、一市十二郡百三十九町村よりなる。 鹿兒島・揖宿・川邉・日置・薩摩・出水・伊佐の七郡は薩摩國に屬し、大隅國は姶良・囎唹・肝屬・熊毛・大島の五郡である。併し國郡の境域も名稱も時に依りて異なり、明治の置縣以降も幾多の變遷を繰返して今日に及んだ。

 本縣の地域は、もと宮崎縣の地域と併せて單に日向と呼ばれ、次いで日向國に管せられたが、その後薩摩・大隅の兩國として分離建置された、而もなほ永い間現在の囎唹郡の一部は日向國諸縣郡に屬してゐた。 また國司時代の薩摩國の十三郡、大隅國の八郡にも、庄園の發達と共に次第に郡の私稱分立したものがあつた。 而して明治四年廢藩置縣の後同年十一月大隅國及び日向國諸縣郡とを割いて都城県を置き、同六年都城縣を廢して宮崎縣を建置するに際して、大隅國の諸郡は鹿兒島縣に、日向國諸縣郡は宮崎縣に屬した。然るに明治九年宮崎縣を廢して本縣に合併し、同十六年に至つて再び宮崎縣を復活した時、日向國諸縣郡を南北に分割して、南諸縣郡を本縣に合同し、次いで南諸縣郡を廢して大隅國囎唹郡に併せたのが明治二十九年四月のことである。

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