鹿兒島縣史 第一巻/序説/第一章 地理概説

鹿兒島縣史 第一巻

序説

第一章 地理概説

 本縣は九州の南部に位して、大隅・薩摩の兩半島を以て鹿兒島灣を抱き、西南諸島中、與論島までを管轄し、東は太平洋に面し、西は東支那海に臨み、舊日本の南門を形成してゐる。此の地理上の位置よりして、自ら支那及び南洋諸國との交通上の要衝となり、古來對外交渉の上に恒に有力なる地位を占めて來たところである。

 東西は大海、北は熊本縣に、東北は宮崎縣に接し、西北は不知火海を隔てて天草島と相望み、南は沖繩列島と連る、極東囎唹郡志布志町後谷、東經百三十一度十二分二十九秒より、極西大島郡與論村茶花の西端、東經百二十八度二十三分五十秒に至り、極北出水郡東長島村タグイ崎、北緯三十二度十八分四十秒より、極南大島郡與論村與論崎の南端、北緯二十七度〇分五十二秒に至る。南北百四十九里、東西七十七里にして、總面積九千百〇三平方粁八一(五九〇・二五方里)に及んでゐる。

 豊豫海峡の西岸より南西に走る九州第一の山系たる九州山脈も、人吉盆地の南縁以南は餘り顯著でなく、本縣の大部分は白堊紀層から成る丘陵性の地體に據つて占められてゐるが、霧島火山脈は本縣の南北を縦貫し、更に西南諸島の西側を走ってゐる。 この影響を受けて火山岩に覆はれた山塊が尠くない。また全縣下に百米内外の特有臺地をなすものは火山砂礫層にして、笠之原・十三塚原・城山等の如きその例であり、縣下の畑地として利用せられてゐるものは多くこれである。 この臺地が河川に開析せられたる低地が即ち沖積層の平地で、海岸に於て砂丘として發達し、吹上の濵や有明灣岸のものは、その代表的のものである。

 先づ肥薩の國境には矢筈嶽(六八七米)を始めとして、國見嶽・宮ノ尾山・間根ヶ平等があり、更に南して黒園山に至る、これを矢筈嶽山脈とも、國見山脈とも稱へ、牛尾金山・高熊山も之に屬してゐる。その南には紫尾山を中心とする山塊があり、南九州山脈の餘脈で、紫尾山脈とも出水山脈とも稱へ、一度海に没してさらに甑島を起してゐる。 この内、紫尾山は薩摩第一の大山嶽で、其の主峰を上宮嶽(一〇六七米)と云ふ、中古以來霊山として崇敬されてゐる。 次に其の東には烏帽子嶽を主峰とする山脈(火山脈)がある、薩隅兩國の境界をなす山々で、北には安良嶽・花屋ヶ岡・中ノ嶽等があり、烏帽子嶽の東南には長尾嶽がある。 更に南すると國境線に沿うて子貫嶽・眞黒山・瀬戸平山・雄嶽・天ヶ鼻・中嶽・ 牟禮ノ岡等となつて鹿兒島灣で絶えてゐる。 瀬戸平山より西するものは、八重山・重平山・矢岳・冠嶽・辨財天山等となつて西海で盡き、南するは花尾山・三重嶽となつて居る(矢岳山脈)。カフリ嶽(五一六米)は東岳・中岳・西岳の三峰より成り、三岳共に熊野神社を祭つて、秦の徐福が來て、玉冠を留めた山との傳説を残してゐる。 また、花尾山も霊山で、山頂に熊野神社、南麓には花尾神社がある。 冠嶽山脈は火山系で、概して金鑛に富んで居り、串木野金山が其の最たるものである。薩摩半島は多く丘陵、若しくは臺地状を成し、火山岩が多い。田布施に金峰山があつて、其の邊からは東西二脈となり、萬瀬川以南には藏多山・下山岳・國見ヶ岳・磯間山・陣ノ尾等があり、野間崎には野間嶽があつて、野間神社が鎮座し、種々の傳説がある。半島の東部には烏帽子嶽・尾巡山・大野岳等があり、最南に開聞岳が秀でゝ居る。

 大隅の北部は霧島火山群があつて日向と堺を爲し、其の南には瓶臺山・白鹿岳等があり、更に南すると、高隈山脈があつて、大篦柄オホノカラ岳(一二三七米)・御岳(一一八二米)・横岳(一一〇二米)・白山等があり、北方には七岳・ビツサゴ岳・烏帽子岳等がある。高隈山は深山幽遽にして、古來民間の崇敬篤く、殊に三月四日には七岳参詣とて遠近の人士群集す。 高隈の東方、志布志地方には、宮田山・御在所嶽・笠祗嶽等があつて、日向に續いてゐる。大隅半島の南端には、東より國見山・甫與志岳・荒西山・六郎館岳・稲尾岳・木場岳等が連りて佐多岬に及ぶ、佐多岬は花崗岩より成り、南海を壓して壁立してゐる。

 以上薩隅兩半島の山塊の中間を南北に縦貫する鹿兒島灣より、更に東北吉松・小林附近に至る溝状の低地帯は陥没によつて生じたものと考へられてゐる。又東海の有明灣も陥没地帯と云ふ事が出來よう。  大隅半島の東縁部より、海を渡つて低山性種子ヶ島に至り、更に南方の喜界島等には第三紀層が發達し、此等の西南諸島中の主列と見るべき屋久島より大島・徳之島等を經て、沖繩島の北半から石垣島に至る島嶼は主として古生層、或は花崗岩より成り、其の内、屋久島は後者に屬し、島中の宮之浦嶽は海抜一千九百三十五米に達し、九州第一の高峰たる地位を占めてゐる。屋久島にはなほ多くの高山峻嶺ありて、總稱して八重岳と稱す、換言すれば、島全體を一つの山と云ふも適當である。

 火山は霧島山(韓國岳一七〇〇米)より南して、櫻島嶽(一一一八米)・開聞岳(九二四米)等の名山となり、南海に入りて、口永良部島・諏訪瀬島等の諸島となり、更にその南方、鳥島・久米島等に續いてゐる。 霧島火山は高千穂・韓國の兩火山群の並立により成り、多數の火口と圓錐峰とを列ね、幽遽なる霊地を形成してゐる。次に櫻島は鹿兒島市の對岸に聳えて眺望に富んでゐるが、其の東南隅は大正三年一月の噴火に因りて大隅半島に接續した。次に開聞岳は北麓に多くの爆發性火山湖(池田湖・山川灣・鰻池・鏡池・池底等)を残し、山は見事なる圓錐形を成して南海に臨んで聳立するが故に、附近の風物と和應して山水の絶景を一緒に蒐めた観があり、薩摩富士と稱へられて居る。 河川としては霧島火山の北麓、吉松盆地に源を發し、大口・宮之城等を經て東支那海に注ぐ川内川が最も大であつて、流域百五十八粁餘、船揖の便は三十九粁餘に及び、九州三大河の一に數へらる。 その他は地形上大河なく、僅に次の諸川を數へるのみである。先づ不知火海廣瀬川は下流を米ノ津川とも云ふ、其の西なる高尾野川と野田川とは下流が一となつて海に注いでゐる。次に西海に注ぐ川としては萬瀬川が最も大きく、下流に川邉盆地、下流には阿多・加世田等の古邑がある。鹿兒島灣方面では、谷山の永田川、鹿兒島市を貫流する甲突川、加治木地方の別府川、國分地方の新川、垂水地方の本城川、小根占の雄川等があり、有明灣方面では、串良・姶良の二川が肝屬川に入つて東流し、菱田川と安樂川とは共に南流してゐる。

 上述の如き地勢なるに依って、平野は割合に尠く、管内總反別九十一萬八千町歩、其の内耕地總面積は十八萬五千六百七十四町歩(内田は、六萬三千七百九町歩、畑は十二萬一千九百六十四町歩)である。多くは諸山脈の間及び海岸地方、河川に因つて開かれた土地であつて、北より云へば、廣瀬・高尾野・野田等の諸川によつて形成された沖積層の出水平原は煙草の産地として名高く、次に川内川流域には伊佐米の産地なる大口盆地、養蠶地として名高き宮之城盆地等があり、下流には川内平野がある。 川内平野は古く薩摩國府が在つた地で、今も本縣第二の都會川内町がその中心となつてゐる。 串木野以南、西海岸に沿ひても平野發達し、萬瀬川流域地方に至つてもっとも廣大である。次に鹿兒島灣沿岸では、国分平原が最も廣く、古く大隅國府が置かれた地で、後世煙草の産地として有名である。 其の他、蒲生川の中流に沿ふ蒲生盆地、その下流なる別府川及び網掛川に因つて形成された加治木平原があり、、この外甲突・永田・本城等の河川の下流には多少平野を見るが殆ど云ふに足らない。之に反して大隅半島の東側、有明灣に沿ふ地には、姶良・高山・肝屬・串良・田原・菱田・安樂等の諸河川に因つて形成された大隅平原が海岸より高隈山麓に及び、鹿屋・高山・串良・大崎・志布志等の名邑を包括し、縣下第一な廣大な地域を占めてゐる。 古代大隅の豪族の本據は恐らく此の地であらう。而して笠野原及び鹿屋臺地は其の西に位してゐる。

不知火海の南岸は、其の西方、長島・獅子島等が半島状をなして北方に延び、肥後の葦北郡と共に灣形の海を抱き、又蕨島・桂島等の小島が散在してゐる。米ノ津港は此の海岸に在つて内海航路の要衝となり、その西なる荘ノ津も古來海港として利用され、其の西、野田川の河口には砂州が發達して居る。長島との間を黒瀬戸と云ひ、南に突出する番所ヶ鼻を廻つた處に脇本浦があり、その南、元島・小島・桑島・大島等によつて灣形をなす地に、阿久根港がある、古來、漁港として名高い。 その南方、川内川の河口に京泊がある、これまた古く薩摩の國府に近くして、盛んに利用された所であらう。其の南、羽島崎を越えると串木野港に至る。これより南方萬世町小松原に至る四十粁の海岸が吹上濱であつて、高さ十五米より四十米に及び、幅は最長二粁半に達する九州第一の大沙丘が蜿蜒と連つて居る。其の内、八房川及び大里川の河口は此の沙丘によつて沮まれて入江の状を成し、其の一部が湊川となつて外海に通じてゐる。而して湊町・湊村及び湊川等の名によつても知らるゝ如く、古く湊として盛に利用されたが、今は其の繁榮、串木野港に移つた観がある。

 此の海岸の南方には小湊があり、其の西方には野間嶽が西に突出し、其の西端に野間港があつて、更に野間岬が突出してゐる。野間以南は海岸の屈曲に富み、久志浦・泊浦・坊ノ津等がある。坊ノ津は筑前の那津(博多)・伊勢の安濃津と並び稱せられ、日本三津の一として南蠻貿易の要津であつたが、今は全くの漁村に過ぎない。その東には枕崎・別府等の諸港があり、鹿兒島半島の東南隅には山川港がある。山川の地は開聞火山群中の爆發火口の名残でるが、外海と通じて良港を形成し、藩政時代は本縣の南門として琉球との交通貿易の衝に當つた地である。其の他より深く灣入する鹿兒島灣は長さ四十浬、幅は五浬より十一浬に及んでゐる、しかし陥没地帯の事とて、東西兩岸は断崖が多くして港灣としては價値大ならざるも、なほ鹿兒島・福山・垂水・古江・高須・小根占・伊坐敷等諸港を開いてゐる。

 大隅半島の南端は即ち佐多岬で、附近に大輪島・枇榔島等がある、それより東北、半島の南海に臨む地は断崖に因る急斜面で断崖が多い、佐多より東北に大泊・邉塚・岸良を經て内之浦灣に入る、これも陥没した地であるが、肝屬川口から志布志港に至る海岸には砂州が發達してゐる。而して志布志港は當方面海陸の要衝で、沖には枇榔島等の小島が點在して美観を添へて居る。

 本縣は三面海に圍まれて島嶼多く、殊に西南諸島は沖繩・臺灣に連る地理的環境にあるを以て、大に將來が期待されてゐる。先づ出水郡の西北には黒瀬戸を隔てゝ長島があり、其の東北には獅子島、及び伊唐・諸浦等の小島があつて天草島に續いて居る、此等は内海地溝の沈水によつて本土と分離したもので、薩摩郡の西海中の上下甑島を主とする甑島諸島も一個の地塊たりしものの上部のみが沈水を免がれたのであらうと說かれてゐる。港としては下甑の手打港、上甑の中甑港があり、又附近からは珊瑚が多く採集される。

西南諸島は琉球列島と共に弧状をなして、臺灣の北端に近づいてゐるが、此等は東支那海大陸棚の邉縁が、太平洋底の深淵と界する部分で、隆起して姿を海上に現はしたものと說明されてゐる。 その中、種子島は平地が多く猶ほ開拓の餘地を残し、西之表を主邑とし、其の他、浦田・濵津脇・島間等の諸港がある。次に屋久島は面積約三十五方里、殆んどが屋久杉以下の大森林で、島の東から北にかけて、宮之浦・安房・一湊等の諸港がある。次に大島は丘陵性の島で、海岸屈曲に富み、その名瀬港は良港として名高く、又南方加計呂麻島との間の大島海峡に臨む古仁屋港も有名である。其の南、徳之島・奥永良部島を經て本縣の極南與論島に達してゐる。

 北より東北に山を負ひ、三方海に臨むのみならず、黒潮が南より來つて海岸を洗ふため、氣温は高く雨量が多い。 鹿兒島の最低氣温は零下六度七分、雪は極めて稀で、大島名瀬の最低氣温は三度一分で、雪は全くない、最高氣温は鹿兒島三十六度二分、名瀬三十五度五分にして、平均氣温鹿兒島十六度七分、名瀬二十度九分である。而して鹿兒島にては一年の半數までが曇及び雨で、名瀬に至つては快晴の日は極く稀れで、多くは曇と雨のため、「一月に三十五日雨が降る」と云ふ諺さへ存する程である。

 上述の如き地勢の關係から縣下各地温泉頗る多いが、大體は霧島火山脈に沿うてゐる。 霧島山には霧島温泉、其の南には日當山温泉、櫻島火山の南麓には古里温泉、垂水に垂水温泉、鹿兒島市の南に鶴崎温泉、揖宿郡に指宿温泉、半島の南端に山川温泉がある。又霧島山の西北には栗野岳温泉・吉松温泉、其の西南に鵜泊・湯之尾等あり、出水郡には白木川内・湯川内・阿久根温泉等、薩摩郡には湯ノ元・入來・砂石・諏訪・市比野・湯田温泉等あり、また鹿兒島市の西北に河頭温泉、其の西日置郡に市來温泉、其の南に伊作温泉などがある。要するに霧島火山系並に其れを横断する東西支脈上に存在するが如く考へられる。
  昭和十年十月の國勢調査の結果に據れは、本縣人口總數は百五十九萬一千四百六十六人にして、密度は一方里に付二千六百六十七で、郡別にすれば、揖宿郡の四千二百十六人を最高とし、熊毛郡の九百四人を最低とする。


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