鎌倉丸の艶聞 (四)
本文
編集信子 はシヤートルに僅 か一週間 滯在 せしのみにて夫 廣氏 がさま〴〵の心盡 しをも嬉 しと思 はず直 ちに鎌倉丸 にて歸國 の途 に上 りしがその歸 る時 の喜 びの色 は着 せし時 の不快 の樣子 とは打 て變 りし樣 なるもそれさへ廣氏 は氣 にも懸 けず日本 へ歸 る嬉 しさの餘 りならんと思 ひしが其實 信子 は他 の理由 ありてなる事 は當時 同地 発刊 の「日本人 」といへる日本人 執筆 の外字新聞 に「事務長 强姦 す」といふ標題 の下 に信子 と武井 事務長 との名 を並 べて怪 しき風説 を掲 げたるが火 の無 き所 に烟 は立 ぬ道理 、兩人 の間 には何 かの情實 ありしは明 かなり鎌倉丸 がシヤートルを出帆 せしは九月下旬 にして軈 て無事 神戸 に着 するや何 かにつけて親切 に介抱 るは彼 の武井 事務長 にて信子 は上陸 しても東京 へ歸 らんとはせず神戸 の常盤家 旅店 に宿 を取 り武井 と共 に一泊 し橫濵 へ來 りても伊勢山 の新松楼 へ投 じてこれも武井 と宿 を共 にしたるは愈 よ二人 が仲 も察 するに難 からず遥々 夫 を海外 に尋 ねんとしたりし信子 はその途中 ある物 に魅 せられて心 を變 じ直 ちに其船 にて歸國 したるなりき信子 と武井 は程 なく東京 に出 で京橋區 數寄屋町 の對山舘 を宿 とし恰 も夫婦 の如 き擧動 にて滯在 せしが武井 には其實 赤坂 に妻子 もあり妻 は武井 とめといひて某小學校 に女敎員 を勤 め子 は十一になりて父 が歸 ると指折 り數 へて樂 み待 ち居 るに武井 は橫濵 にて一通 の書面 を出 し事務 多忙 の爲 當分 は歸宅 出來 ずと申 し送 り自分 はかゝる宿屋 に信子 と樂 しみ居 るを妻 のとめは少 しも知 らず只 着船 しても會社用 の爲 に歸宅 出來 ぬならんと正直 に信 じゐたるが數日 を經 て夫 の許 より一個 の行李 屆 きたるを解 き見 れば中 には汚 れやる襯衣 洋服類 入 りありしが之 が打振 ふ時 その衣袋 よりばたりと落 ちし二通 の手紙 あるを何心 なく開 きて讀下 せばいと艶 めかしき女文字 にて佐々木 信子 と記 しあるにとめ子 をさてはと疑 ひの心 初 めて起 りもしや夫 の歸宅 せざるもかゝる者 の出來 たる爲 かと慎 しみ深 き女 だけに嫉妬 といふ程 の心 は起 さねど餘 りに無情 なる夫 の所爲 を恨 めしく思 ひ居 たるが武井 はさる秘密 の偶然 に妻 に知 られしとは心付 ず何氣 なき体 にて歸宅 したるにぞとめ子は靜 かに彼 の手紙を夫 の前 に出 しそれとはなしに父 の歸 りを待 ちわび居 る子 もあるに他 の樂 しみに家 を忘 るゝとは餘 りに情 けなきお心 と怨 じられては流石 の武井 もギヨツとせしがさあらう体 を裝 ひこの手紙 の主 は鎌倉丸 の船客 にてシヤートルより米國 へ渡 りし杉山 茂丸 といふ人 の關係者 なるが我 が歸國 に際 し日本 へ送 り屆 けてよと託 されて伴 ひ歸 りし者 にて決 してさる怪 しき事情 あるにあらず全く く會社 の用 に縛 られて歸宅 の遲 なはりしなりと百方 辯解 せしが猶 とめ子 の疑 ひを解 く由 もなかりき