鎌倉丸の艶聞 (三)
本文
編集此 に廣氏 は信子 は豐壽 が今際 の枕許 に結 ばれし夫婦 の緣 といひ之 を海外 に伴 はずして空 に打過 ぎぬるは日頃 心苦 しく思 ひ居 りし所 なるに今 彼方 より遥々 の波路 を越 えて我 を尋 ね來 るとは嬉 しき真心 と信子 より日本 を出帆 の電報 に接 せしより俄 かになつかしさの愈 增 り着船 の日 を指折 り數 へて待 ちわびしがいよ〳〵其日 も近 づきしにかくて桑港 に待 ち合 して知 らぬ異境 に上陸 せし信子 のいかに心細 さを感 ずるならんと態々 着船 の數日前 シヤートル迄出迎 へに赴 き船影 波路 の末 に見 ゆるより早 くも波止場 に立 ち出 でゝ艀舟 の着 くを今 や遲 しと待 つ夫 のやさしさ心盡 しを信子 は知 るや知 らずや軈 て艀舟 は岸 に着 してドヤ〳〵と立出 づる一群 の船客 、廣氏 は信子 は何處 と見廻 せどもそれらしき影 も見 えず漸 くにして他 の客 は上 り切 りし最後 に見知 らぬ紳士 に手 を引 れながら上陸 せし信子 はさまで船中 の疲勞 の狀 も見 えず何 か樂 しげにもの打語 りつゝ近 くに廣氏 は案外 の思 ひはしながら却 りて其 健康 を喜 び其傍 に近付 きて絕 えて久 しき面會 に長 き航途 の面窶 れせし樣 もなきは何 よりなり船中 は定 めて心細 き事 なりしならんなどかにかくと慰 め問 へば信子 は天外 にこの良人 に逢 ひし程 の喜 びの色 も浮 べず俄 かに打萎 れたる樣 裝 ひて物 も碌々 に得云 はずに只 この人 に船中 にて一方 ならぬお世話 を受 けしとのみいひて彼 の事務長 の武井 を紹介 せしに廣氏 は猶 武井 に厚 く禮 を陳 べ兎 に角 宿 も取 りあれば其家 に至 りて寛々 休息 すべしと先 に立 ちて案内 すれど信子 の顏 は猶 晴 れやらず一種 の面白 からぬ色 は見 ゆれど廣氏 の眼 には映 らざりしならん斯 てこの異樣 なる夫妻 は只 ある海岸 のホテルに投 じて打解 けたる物語 もあるべきに廣氏 の至 り盡 せる親切 の慰 めにも信子 は一言 の嬉 しき言葉 を報 ゐず一日二日と經 る内 に彼 の武井 事務長 は再々 訪 ひ來 りしが信子 は船中 よりの病気 は異境 の風土異 りより一層 重 りしとて床 に就 くばかりの有樣 に廣氏 の心配 は大方 ならず土地 の醫師 に診察 せしめといへど信子 は堅 く拒 みて廣氏 に對 ひて、とてもかゝる病身 のこの地 に留 まる程 ならば醫藥 の費用 も莫大 にて只々 夫 の患 ひとなるばかりなれば折角 こゝまで來 りしかど此 まゝ此船 にて立歸 り身 に適 へる日本 の風土 に今 暫 し靜養 し壯健 の身 となりて再 び渡航 する事 をしたしと流石 に氣の毒 げに言出 しに廣氏 も繊弱 き女 の身 と思 へばかく云 ふも無理 ならずと餘 りに勝手 なる言分 も深 くは咎 めず外國とは云 へこの地 は季候 も日本 と大差 なければ長 けて歸國 は思 ひ留 り此地 にて醫師 にかゝらばいかに、妻 となり夫 となりて醫藥 の斟酌 はいらぬ他人行儀 なりと言葉 を盡 して留 めれど信子 は更 に聞入 れるべくもあらず枉 げて歸國 したしと言張 るにさまでは廣氏 も引留 え難 く終 には其請 を許 して直 ぐ鎌倉丸 にて歸國 せしむる事 となれり