鎌倉丸の艶聞 (二)

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下卑はしたなき婦人ふじん振舞ふるまひ片腹かたはらいたひそかにまゆひそむる一等船客とうせんかくの中にはあたか鳩山はとやま法學はふがく博士はかせ夫人ふぢん同伴どうはんにてエール大學だいがく學位がくゐくるため乘合のりあはせたりまたことこの船客せんかく婦人ふじん下等かとう社會しやくわいならんには狼連おほかみれんともはるべき野心やしんいうする紳士しんしれんかこまれていかにくならんときやうがるもありひとさまこゝろもつてこの婦人ふじん振舞ふるまひそばだてつゝあるうちの一しつにぎはしさはそのまゝに幾日いくか航途かうとてシヤートルにぞちやくしけるしつくわいせし紳士しんし杉山茂丸すぎやましげまるはじ某々等ぼうたがひ同婦人どうふじんりて面白おもしろなが航途こうとたるをよろこたがひにこひ失敗しつぱい表面おもてあらはさず他日たじつ再會さいくわいしてその波止場はとばそでわかちしなかなほ同婦人どうふじん短艇はしけ乘移のりうつるより上陸じゃうりくするまでまめしくいたはりたすけしは同船どうせん事務長じむちやう武井たけゐかんろう(三十七)といへるひとなりきさてもこの婦人ふじんはいかなるものいまつつむにもおよばねばここにその素性すじやうしるすべし同女どうぢよ佐々木ささき信子のぶこ(二十六)といひてはゝ仙臺藩せんだいはん儒者じゆしやむすめとして閨秀けいしうほまれたか熱心ねつしんなる耶蘇敎信者くりすちやんとして婦人矯風會ふじんけうふうくわい創立員さうりつゐん一人ひとりたる佐々木さゝき豐壽とよじゆ遺子ゐしなるが豐壽は中村なかむら敬宇けいう先生せんせいもんまなのち北海道ほくかいだう敎育けいうくちからそそぎしなどその操行さうかうつとところなるが信子のぶこははおごそかなる家庭かてい成人ひとゝなやうより築地つきぢ居留地きよりうち十三番館ばんくわん女學校等ぢよがくかうとうまな相應さうおうがくおさめたるも性行せいかうはゝことな靜寂せいしゆくなる女子ぢよし美德びとくくるところありかつぼうといふに私通しつうしてはゝいか自害じがいをせよとまでせまられしこともありしがかゝる性行せいかうなればはゝぬる今際いまはまでそのすゑ氣遣けづかゆふべせまいきもとねてれと見立みたてたる北海道ほくかいだう札幌さつぽろ選出せんしゆつ代議士だいぎしもりげん三氏の一ひろしといへるに內祝言ないしうげんさせてくれ貞操ていさうまもはゝきずつけなこれのみが冥途よみぢさはりなりといふを名殘なごりいき引取ひきとりしが其後そののち信子のぶこはまだ公然こうぜんひろしとは結婚けつこん披露ひろうさず廣氏ひろしゝ其內そのうち農學校のうがくかう卒業そつげふ農學士のうがくし學位がくゐつい農商務省のうしやうむしやう囑託しよくたくうけ桑港さんふらんしすこ渡航とかうせしが事情じじやうありて其際そのさい信子のぶこ同伴どうはんせざりしに今回こんくわいはゝ豐壽とよじゆしたしかりし人々ひと心配しんぱいしいつまでとおうみへだてて夫婦ふうふとはのみにて打過うちすぎぬるはためにもしからんとさてこそ今回こたび海外かいぐわいをつともと便たよこととなり萬旅程りよていにはのぼりしなりけりさても廣氏ひろしゝ信子のぶこ海外かいぐわいにても再會さいくわいよろこいをもつてするか、不快ふくわいもつてするか
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。