鎌倉丸の艶聞 (五)
本文
編集武井 勘 三郎 は歸宅 してよりもそは〳〵して落着 ず大方 っは家 を外 にして信子 の宿 にのみ入浸 り居 り信子 は又 外國 より歸 り來 りし事 さへ何方 へも通知 せざるばかりか渡航 の際 いろ〳〵世話 を爲 せし人々 にも顏出 しせず又 歸 りしを聞傳 へて訪 ひ來 る人 にも面會 せず只 對山舘 の一室 に身 を隱 して武井 と快樂 に耽 り居 たるが其内 信子 は婦人病 にて大學病院 に入院 せしに武井 は朝 八時 より夜 の十二時 まで其傍 に附 き切 りの世話 介抱 は殆 ど至 れり盡 せるものなれど家事向 の事 は一切 放擲 して顧 みずとめ子 は漸 く信子 との仲 の疑 ひを堅 くしそれとはなしに夫 に異見 せし事 度々 なれど勘 三郎 は其 都度 空耳 走 らして聞入 れざるのみかとめ子 に對 する處置 は次第 に手荒 くなり何事 にも目角 立 て叱 りつけつひには手 を下 して打 ち叩 く事 もあり二言目 には離緣 するなどの事 を口走 るに至 れるがとめ子 は子 に惹 さるゝ女 の情 何事 にも我慢 に我慢 して柳 に風 と受 け流 しゐたるを勘 三郎 は中々 に齒痒 く思 ひいかにせばとめ子 が愛想 盡 して自分 より離緣話 を持出 さんかとその仕向 けに苦心 し信子 との關係 も今 は隱 さんともせず現在 の妻 の前 にて其 情交 の程 を公言 するに至 りとめ子 を邪魔者 扱 ひにすれどそれすらとめ子 は堪 へ〳〵て何 一 つ口應 へせず唯々 と聞居 るには張合 拔 け却 つて勘 三郎 の憎 しみは增 すに至 り其後 は多 くは家 へ歸 りし事 もなく信子 が病氣 全快 して退院 するを待 ち芝公園 の靑龍寺 といふに信子 の名前 にて家 を借 りしは昨年 十二月中 の事 なりき其後 も勘 三郎 は我家 の家財道具 より夜具 布團 の類 に至 るまで目欲 しき品 は殘 らず運 び來 りしがとめ子 は夫 が万 一の改心 を氣長 く待 たんと諦 めてこれにも拒 みさへ爲 さゞりし其 心中 を察 すれば憐 れなり妻 がかくまでやさしき心懸 けも戀 に魅 せられし勘 三郎 の鬼心 は少 しも思 ひやりの情 なくしてそれよりは一切 我家 には歸 らず音信不通 に打過 ぎしがとめ子 は幸 いに我 が手 一 つにて自活 の道 の立 ち居 れば母子 二人 の活計 を立 つるにはさまで困難 をも感 ぜず至 ちて節儉 しく暮 し居 れば相應 の貯蓄 も銀行 に預 けあり情 けなき夫 の心 のいつかは和 らぐ時 もあらんと子 を相手 に心細 く過 す内 勘 三郎 はこれまでの酷 さ仕向 けに慊 らでや叉 もや一日臆面 なく我家 に歸 り來 り妻 を欺 きて金 を持出 せし一話 あり