<<聖書を唯書籍として所持するは不充分なり>>
我等に聖書を與へられしは我等これをたゞ書籍として所持せんが為に非ず、我等の心に銘まんが為なり。誡命をたゞ書札の中に綴入めて、かゝる類のものを獲んことはこれたゞ猶太人の高慢に属するのみなり、然れども最初我等に律法を與へられしは此の如くならず、心の肉碑に記されたりき〔コリンフ後書三の三〕。我れ此を言ふは書籍を〈聖書を〉獲るを妨げんとにはあらず、翻て余は此を嘉奨し、且此事を願ふなり、たゞ我が願ふ所は、書札よりして其言と其意味とが我等の心霊に移らんこと是なり、さらば心霊は書中の智慧をもて己が有となすべくして、かくの如くして清められん。もし魔鬼は福音書のある家に侵入するを敢てせずんば、まして聖書の意味を己が有となせる心霊には魔鬼も罪も触れざるべく、又襲はざるべし。故に聖書を常に口にも心にも有して、汝の霊魂を聖むべく又身体を聖むべし。けだし耻づべき言は我等を汚して、魔鬼を呼ぶならば、聖書を心神にて読むは我等を聖にして、聖神の恩寵を引かんこと明なり。