聖金口イオアン教訓下/第21講話

第21講話

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<<じょうおいおほいなる慎戒しんかいまもるべし>>


なんぢもろもろあみあいだき、まち圍牆かこひしたがつすぐるをるべし』〔シラフ九の十八〕。アヽげんは、これにぜんこもること幾何いくばくなるや。各々おのおのこれを己の心にしるし、つねにこれをおくにとめん。さらばわれやすくはつみおかさゞるべし。われこれをしるさん、さりながらまづこれをまった子細こまか研究けんきゅうせん。かれは『あみあいだくを』るべしといはずして、るべしといへり。そのへらくあみかくるゝものなり、しかれども公然こうぜんとあらはれず、ほろびも顕然けんぜんきたらずして、いづれの方面ほうめんよりもえず、かくれてまえときは、またあみにあらずや、ゆえるべしといふなり。おほいなる慎戒つゝしみ子細こまかなる注意ちゅういとはなんぢ要用ようようなり、けだしどうあみつちにておほふがごとく、魔鬼まきつみうき満足まんぞくにておほふなり。さりながら子細こまか考究こうきゅうしてるべし、さればもしえきのあらはるゝあらば、たゞにえきずして、えきうちつみとのかくれらざるやいなやを子細こまか考究こうきゅうせよ、しかしてもしこれ発見はっけんするときはとほはしくべし。またたのしみと満足まんぞくのあらはるゝあらば、たゞに満足まんぞくずして満足まんぞくめんなにほうかくるあらざるやいなやを穿鑿せんさくせよ、しかしてもし発見はっけんするときはとほざかれよ。たれなんぢすゝめんか、あるいへつらはんか、あるいつとめんか、あるいめいまたそのなんなりともやくするあらんか、すべて子細こまか考察こうさつして、八方はっぽうより点検てんけんせよ、すゝめにより、あるいめいまた好勤よきつとめにより、われなんがいあらざるか、またなんあやふきあらざるかと、しからばたやすくかつはからざるにいざなはるゝことあらざらん。もしたゞ一二のあみのみならんには、これを用心ようじんすることもたやすかるべし、さりながらいまソロモンあみすうなるをしめさんがために、如何いかにいふをるべし、かれは『あみあいだくをるべし』といへり。『あみかたはらく』といはずして、『あみあいだく』といへり。われには左右さゆう深淵ふかきふちあり、ぜん詭計わるだくみあり。或者あるものじょうきたりててきはんか、かれ一見いっけんによりて、忿怒いかりこころおこさん、或者あるものけんおこなはるゝともんか、さらば猜忌そねみこころおこさん、貧者ひんしゃんか、軽侮あなどりこころしょうぜん、富者ふうしゃんか、欣羨うらやみこころおこさん、じんんか、こころうばはれん。愛者あいしゃよ、なんぢいくあみんとす、ゆえ智者ちしゃはいへり『あみあいだくをるべし』と。それいえにもあみあり、食膳しょくぜんにもあみあり、集会しゅうかいにもあみあり、或者あるもの朋友ほうゆうあいだおいて、なに発言はつげんすべからざることばかろがろしく証言しょうげんするあらんか、ぜんくつがへほどわざわいまねくことしばしばこれあらん。ゆえ八方はっぽう注意ちゅういして、ぶつさつせん。不注意者ふちゅういなるものためにはつまあみとなることしばしばこれあり、も、朋友ほうゆうも、また隣人りんじんあみとなることしばしばこれあるべし。なんぢはいはん、何故なにゆえあみはかくのごとおほきやと。これわれしたむかはずしてうえにあるものをたづねんがためなり。それとりたか空中くうちゅうかけあいだは、これをとらふることたやすからざるなり、かくのごとなんぢうえにあるものむかあいだは、あみまたのいかなる狡計こうけいもつてもたやすくとらへられざらん。魔鬼まき捕鳥者とりさしたるあり。さればなんぢたかかれ係蹄わなよりうえにあるべし。たかきにのぼりしものうきことおどろかざらん。われやまいただきのぼときは、がい城壁じょうへきわれにはちいさくえ、じょう往来おうらいする人々ひとびとありごとゆるなり。かくのごとなんぢてつたかそうのぼときは、じょうにあるものはいつとしてなんぢおどろかすことあらざるべし、かへつなんぢてんにあるもの注目ちゅうもくするにより、とみも、さかえも、権勢けんせいも、そんも、のすべてこれにるいするものも、みななんぢにはちいさくえん。かくのごとパウェルにもすべてはちいさくえたり。現生げんせいこうがいよりもようなるものゝごとくにえたりき。ゆえかれよばはりていへり、『ため十字架じゅうじかくぎせられたり』〔ガラティヤ六の十四〕。ゆえかれわれにもすゝめて『うへにあるものおもへ』〔コロス三の二〕といへり。うえにあるものとはなんぞや。うえにあるいかなるものをいふか、われげよ。日邊にっぺん月處げっしょしていふか。いはいな、さらばなんところなるか、しん使しん使ちょうヘルウィム セラフィムところなるか、いはいなしからばなんところなるか、これ『ハリストスかみみぎするところ』をいふなり〔コロス三の一〕。ゆえわれあみかゝれるとりこときゝ如何いかなるをだんおもはん、はねえきなく、つばさつもむなしくぜんならん、かくのごと悪慾あくよくけんおちいりしならば、れいなんぢえきなかるべく、なんぢいくばくつばさつともなんぢとりことならん。とりつばさあるはあみのがれんがためなり、人々ひとびとれいあるはつみのがれんがためなり。されどわれ言者げんしゃよりもおろかなるときは、なん宥免ゆうめんなん弁解べんかいもあらざらん、ひとたびあみにとらへられてこれより飛逃とびのがれたるとりと、またあみかゝりて其後そののち逃去のがれさりたる鹿じかとは、ふたゝびこれにかゝることたやすからざらん、何故なにゆえなれば実験じっけんかれため用心ようじんとなればなり、しかれどもわれはしば〳〵同一どういつつみとらへられて、おなじくこれにおちいるのみならず、しかあるをもつたつとところものは、言者げんしゃかい用心ようじんとさへならはざるなり………。ゆえわれあみり、これよりとほはなれてかん、巌牆いわがきみとめて其下そのもとちかづかざらん。われはたゞにつみくるのみならず、たとへ判然はんぜんわくるあたはざるも、われため失脚ふみはづしてつみおちるのおそれあるものは、これくるときはまった安然あんぜんならん。