<<眞の富は何れにありや>>
善行と共にする富は宣しきなり。彼は何時宣しきものとなるべきか。不幸を慰むる時と貧しきに助くる時とにあり。約百の言ふ所をきくべし、曰く『われ盲目の目となり跛者の足となり、貧き者の父となる』〔イヲフ廿九の十九〕。視よ富を、かれは罪を以て富むに非ず、貧きを愛するを以て富むなり。我が家の『門を我は街衢に向けて啓けり』〔イヲフ三十一の三十二〕。視よ富の使用を、アヽこれ名のみに非ずして、実際に富を使用するなり。富には或は此の富の僕たるあり、或は実行なくしてたゞ富の名を冒すあり、然れども此は名に於ても実際に於ても眞の富なり。如何なる富ぞや。徳行の富、矜恤の富なり。如何して富むか。我れ此をつげん。人の物をかすむる富者あり、己の物をまづしきにあたふる富者あり、彼は聚めて富み此は散じて富む、彼は地に蒔けども、此は天を耕す、天の地より勝るが如く、地を得るは天を得るより劣ること甚し、此はかぎりなき許多の人々の愛情を得れども、彼は衆人に非難せらるゝなり、且や掠奪者と貪利者とを憎むはたゞ彼より辱められし者のみにあらず、彼より何の害をもかうむらざる者といへども、たゞ其のかうむりし者を憐むが為に彼を憎まんとす、然れども憐ある者を愛するはたゞ彼より恩を被むりし者のみにあらず、彼より恩をうけざりし者も彼を愛さんとするはこれ実に驚くべきなり。兄弟よ、徳行は邪悪よりまさることかくの如し、邪悪は辱をうけざりし者をもその敵となせども、憐憫は恩をかうむらざりし者よりも愛情を得んとす。憐ある人の事は人皆言はんアヽ神は彼に報い給はんと。そも汝はいかなる恩を彼よりうけしや。我に非ず、我が兄弟なり。我に非ず、我が同朋なり。彼になしゝ所の善を我は己に帰すと。徳行の如何なるを見るか、彼はいかに慕はしく、いかに愛すべく、いかに美はしきや。憐ある人は公同の湊なり、衆人の父なり、高年者の扶助なり憐ある者の事はもし彼れ何の不幸にか遭ふあらば、人皆祈りていはん、神や、彼を憐み、彼を守り、善を以て彼にあたへ給へと。さりながら試みに掠奪者の家に至り見よ、さらば汝はいかに彼の事を言ふをきかん、曰く悪者、曰く狡猾者、曰く無法者と。そも汝はいかなる辱めを彼よりうけしや。我は何もうけず、然れども我が兄弟これをうく。彼に対するおびたゞしき怨言を毎日きかざるはなし、彼もし倒るゝ時は、人皆彼を攻撃せんとす。是れ生命なるか、是れ富なるか………。