<<神の書を読むを常に練習すべし>>
大預言者太闢は聖書をよむの益を知りければ、常につとめて聖書を聞き、これを談論するを楽むものを、水の流れにそふて常に爛熳たる植物に譬へり、言ふあり曰く『悪人の謀に行かず、罪人の途に立たず、敗壊者の位に坐せずして、其心を主の法に置き、昼夜此法を思念する人は福なり、彼は水の辺に植る木の時に及んで果を結び、其葉萎まざるが如し、凡そ行ふ所皆遂げざるなし』〔聖詠一の一~三〕。けだし水源の近に植られたる樹は流れに沿ふて、不断これより灌漑をうくるにより、すべて不良なる時候の為にも無難なることを得べく、烈々としてやく光線〈太陽の〉をも乾燥したる空気をも恐れざらん、何となれば其の内部に十分の湿潤をたもつにより、すべて外部より迫る所の太陽の熱度の甚しきを拒ぎ且除けばなり、神の書の流に沿ふて不断これがためにうるほさるゝ霊魂も此の如くなるべし、此の流れと聖神の露とを己れに吸収し、もろもろの不良なる境遇より害をうけずして安然なるを得ん、假令疾病ありとも、假令凌辱ありとも、假令讒言ありとも、假令悪口ありとも、假令嘲弄ありとも、假令何か惰気の生ずるありとも、假令全世界のあらゆる災難が此の如き霊魂を襲ふことありとも彼は聖書をよむにより、十分の慰を得て、情慾の火焔をたやすく拒ぎ返さん。実に栄誉の大なるも、権柄の高きも親友の居るあるも、其他人間のいかなる事物も、決して神の書を読むほど憂を慰むること能はざるなり。これ何故なるか。此等の事物は朽ちて速に過ぎ去るが故に、これより生ずる慰も速に過去ればなり。されども聖書を読むは神と対話するなり。されば憂に居るものを神が慰むる時は現在の境遇の如何なるは彼を憂に沈むるを得んや。故に務めてこれを読むを習ふて、たゞ此の二時間〈即奉神礼のときに、聖堂に居る時間〉に止まらざらん、何となればたゞ聴聞するのみにては、安然を得んが為に不充分なればなり、故に不断にこれを習はん、もし人は易らざる且は十分なる益を聖書によりて得んと欲せば、おのおの家に帰りて、聖書を手に執り、書中に言ふ所の意味を研究すべし。それ水の辺にある所の樹の水と交通するはたゞ二三時間に非ず、毎日毎夜交通するなり。故に此の樹は、枝葉は青々として飾られ、果実は豊盛なり、誰もこれを潤すものあらずといへども、彼は水の辺にありて、湿潤を己れに吸収するに根を以てすること、恰も管を以てするが如くして、有益なる液汁を其の全体に傳ふるなり。神の書を常によみて、其の流れに沿ふ所の者もかくの如し、彼はたとへ何等の解釈者をも有たずといへども、常にこれを読むによりて大なる益を己れに獲ること根を以てするが如くならん。