横浜市震災誌 第三冊/第1章

横浜市震災誌 第三冊

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横浜市役所編


第3編 各方面の被害と復興

第1章 横浜市役所

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第1節 震災と市役所

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前横浜市助役 芝辻正晴 述
市庁舎の焼けるまで−御真影奉還の顛末−公園内の市役所仮事務所−東京市へ救援隊派遣の疑義議およびその経路−仮事務所の移転−諸係の組織

それは僕の人生に於ける悲愴な追憶の一つであり、人類の記録に最も悲惨に書かるべき出来事の一つであろう。彼の日に僕は自分の助役室で、松本社会課長と何かのことに就いて話をしていた。もう昼飯を注文して、直きに来るだろうと思って居た所へ、彼の地震である。僕は、元来余あまり地震には狼狽しない方であったから、さほどにも思わず。社会課長は両手で卓子を掴まえて体を支えながら『オォャ・・・地震ぢゃないか』と話し合った。その瞬間で、彼の第二震の大揺れの来たのは・・・。僕は椅子に掛けたまま、椅子諸共床の上へ転がし出されたのであった。床は波のように揺れる。天井から下っている大きな電燈が振り廻すように揺れて、頭を打ちそうである。『こんなものに当って怪我をしても詰らない』と思ったので机の下へ頭を入れ、大揺れの去るのを待った。先ず大揺れが去ったので、ようやく立上ってみた。器具その他のものは皆投出されて、散乱しているが壁には毛程の傷もないので『これなら大丈夫であろう』と先ず庁舎の模様を調べることにし、内記課から市長室へ、そして廊下を一巡したが、何処にも破損箇所はないので、さらに戸外を見ることにした。戸外を見て鷲愕したのは、その被害が想像を許さぬ激甚さで、−水道は破裂して吹上げて、道路を泥海にしている。電車の軌道は飴のように捻切れている。一種異様に濁った空気が、異様に渦を巻いている。これ等が総て頻々たる余震に波のように揺れている中、−避難者の叫びが右往左往する。公園の一隅にあった衛生課の建物が押潰されているのを指さしながら、山田内記課長が『下敷になった者を助けに行け』と命令している。こうした惨憺たる撹乱の巷は、何に依って言い現わすべきかを知らないのである。僕は更に庁内に引返し、善後の相談をすることになったが、要するに大袈裟な罹災救助を行わねばならないと思ったので、田村君呼んで『県庁\行って安藤地方課長に罹災救助の打合せをして来てくれ給へ』と頼んだ。田村君は直に出かけて行った。此の頃から重傷、軽傷の避難者が、続々と市役所へ押掛けて来た。市の吏員でも皆屋外に避難して建物の中には十四五人残っていた。その人々で負傷せる避難者の手当に当り、カーテンを裂いて包帯としたり、それを敷いてベッドの代りにし、ウィスキー・葡萄酒・水等を以て薬の代りに与えると共、市役所の表玄関へ『臨時救護所』の貼紙をした。此の頃に田村君が県庁から帰って来たが、『県庁の前で安藤地方課長に合って話したが、方法は無いと言っていた』という復命である。それも已むを得ない事である。が、救護所の貼紙を見て、庁内に避難するもの、数百名の多きに達し、その救護は如何にしてもやり切れない有様であった。その時は丁度一震後一時間も経ていた頃であろうと思う。こうした不完全な救護に全力を注いでいたのは、要するに『この建物は大丈夫だ』と思っていたからであった。所が直ぐ後ろから火事が起ったというので、更に廊下を一巡した。庶務課・商工課などの窓からもう火が入りかかっているので、直ぐ備付けの消化器で消し止め、市吏員たちが主として公園に避難していたので、助役室の窓から大声に怒鳴って、皆を呼入れて、窓という窓は皆閉塞し、風の入らぬ様にして、『もう市役所は焼けない』と想った。それで更に県庁と打合せを行なおうとしたが、打合せた所で如何とも方法の執るべきはないのみならず、後ろからは盛に焔を浴びているので、万の防火に努めることにして、県へ行くのは中止した。

市役所は焼けないと云う確信は、最後まで持っていた程であったから、防火の仕事を一段落着けてから、更に万一の場合を想像し、市長室から御真影を下ろし、イザという場合には直に背負うはかりに準備すると共、内記課長は公印全部を腰に吊して、愈々という際の用意をした。その頃には何逼となく窓を開いて見たが、外は殆んど焼け落ちて、煙はかりであったため、役所は助かったという確信は強められた。で『今晩は籠城して徹夜だ』と皆に言い渡し、守衛の藤井に蠍燭を探させた。藤井が丁度百挺はかりも探して来たので、愈々籠城の準備をなし、市長室で青木助役と共に如何に善後の処置をなすべきかを協議した。しかしそれは『暫く形勢をみるの外あるまい』と言うことに決した。

その頃誰言うとなく『三階の市会議場に火が入っている』と言うので、三階へ上って見ると、議長席の後の窓から対岸の焔が吹き込んで、窓枠を焼いている。消さなければ大変である。藤井が消火器を持って来て振り掛ける。僕と田村君とはカーテンを千切り取ったり、机を隅へ持って行ったりして、火の附き易いものは全部片付け、しばらく火が消え掛けた時に、消火器の水が終って仕舞った。藤井が『消火器が未だ一つある筈だ』と言うのに力を得て、窓が閉っているため、闇の様な廊下や室を、燐寸を灯しなら探してみたが、消化器は無い。仕方がないので、更に三階へ行って、『燃ゆる窓枠だけ燃やして仕舞おう』と、燃えるのを看視して、後に鉄扉を閉し、しはらく此の防火を終って、青木君と二人で『愈々大丈夫だ』と話し合ったが、なお万一をおもんぱかって、御真影だけ避難させることにした。使丁二人に米を一升持たせて、御真影を背負わせ、内記の大塚を之に付き添わせて、公園の池の附近を選んで避難させた。書類の事も考えたのであったが、この前の火事の際、市役所の対岸が皆焼けたに拘わらず、市役所は燃えなかったというので、今後も焼けない自信はあり、あちこちに書類の整理と言ってはさせなかった。

午後四時頃の事だ。避難して来た負傷者の看護をしたり、青木君と今後の処置について話し合っていると『市役所の三階へ火が入った』という。それは誰言うとなく言われ、囁き合われ、誰からともなく吾々の耳へ入って来たのであった。それで青木君と二人で、三階へ上って見ると、三階はもう煙で充満している。窓だけは前に話した程完全に消火したのであるから、大丈夫だと思ったのであったが、煙は対岸から吹付けて、空気抜きの塔から燃えて、三階の天井裏を這い、やがて天井に燃え移ったものらしく、天井は焔々として、最後と頼んだ市役所の建物も、ついに絶望を思わせるに至った。

いよいよ、庁舎が駄目と観念した時には、『臨時救護所』である。市役所の数百の避難民を、如何にすべきかの問題に逢着した時である。青木君は直に避難者に対して『火が三階から燃えて来る。市役所は助からない。皆市役所を出なければいけない』と告げたが、誰も外に出ようとする者がない。外は只焔の渦を巻いている事と、誰でも思っていたのであろう。で僕は青木君と二人で二階から下りて見ようとした。所が階段から降りられない。下は濛々たる煙に閉されているからである。駄目だ。玄関からも出られない。窓から降りる外に途はない。『縄を出せ。縄で窓から出よう。』誰かが縄を出して窓から下した。しかし降りようとしても網が熱くなっていて持てない程で、到底降りる訳には行かない。焔に囲まれて逃れる途なく、最う絶対絶命である。と思った。窓からは到底降りられない。玄関を突破するより外に途はないということに一決した。皆もう死ぬつもりで、『手を取り合って行け』と、僕は田村君と二人で転ぶようにして煙の中を突破して、大玄関まで出た。外部の様子は何うであろうと思うので、大扉を少し開けてみた。するとその間から冷たい空気が流れ込んで来た。『外は大丈夫だ』と、そこで避難者の数百名にこのことを告げ、裏門も開いて全部が市庁舎を見限ったのであった。そして河岸に出て見ると、川の中程に焼けない機械船が一艘ある。『乗せて呉れ』という、『乗せない』と返す。『今まで市役所に居ったものだが、火が入ったのだ。是非乗せて呉れ』と、押問答をしたが、結局『駄目だ』という。そこに時事新報の大島君がいて、『乗れ乗れ』というので、ようやく乗る事が出来て、田村課長も一所に船に乗った。男は全部で河の水を汲んでは船に掛けて、燃えないようにし、船の中にいる婦人たちにも水を浴びせて、焼死しないように努力した。青木君達は他の船へ乗ったが、吾々は船の中で市役所の燃え落ちるのを見ていた。幾つもの天井が焼けて落ちる音を聴いていた。やがて市役所の焼け落ちたのを見届けて、船から上って、御真影のある筈の横浜公園へ行ったのは、午後の五時か六時であったろうと思ったが、時間の観念などは少しもなかったので、大抵その頃であったろうと感ぜられるだけである。

公園の池の辺へ移した御真影は山下町の焼ける焔に追われて、ベースボール・グラウンドのスタンドの所へ移されていた。ここには当時の税務課長相良君などもいて、ここが臨時市役所となった形であった。一先ず落着いたけれど共、そのこの如き状態で如何にして市民を救済し、如何にして善後の策を樹つべきか、殆んど見当もつかないので、青木助役と相談した結果、

  1. 概況を内務省に報告すると共、東京市の援助を乞うこと。
  2. 水道は全部破壊されているので、川崎か鶴見から水を供給して貰うように取計らうこと。
  3. 電気局から提燈を取寄せて、夜間の準備をすること。

等を決定した。勿論東京市が彼の様な大きな被害を受けているとは想像しなかったし、また電気局は焼失を脱がれたということを聞いたからでもあった。で此の任務を果たさすべく、東京へ依田・長谷川の二人(三人の予定であったが一名はどうしても都合がつかなかった)を向わせるため、青木助役と二人で金を出し合って、四十円を二人に渡し、

『先ず東京市役所へ行って援助を乞うのが第一である。内務省の報告はその次ぎにするが好い。そして川崎か鶴見には水の供給を依頼せねばならない。水のことは東京へ行き、道に此れを相談して、その返事は誰か横浜へ来るものに托するようにして呉れ。』と命じた。

二人が出発すると共、一方では電気局から持って来た提燈をスクンドに掲げて、『市役所仮事務所』と書いた貼紙をしたが、その貼紙は新聞紙であった。真夜中の十二時頃。青木君が『自宅の様子が気になるから、一寸帰って見よう。しかし直ぐ出掛けて来る』と帰って行った。かくて彼の大震災の日は終り、混乱極まりなき裡に二日の早朝を出迎えたのであった。

青木助役は又二日の朝早く公園へ出掛けて来た。暫すると東京へ出した使からの伝言である。といって、川崎から『水の供給』についての報告をもようしてきたが、それは『六郷川がある。のだから、水は何程でも送ることが出来るから、水舟を持って来て貰いたい』というのだ。これは何にもならない訳で、此の混乱と総ての破壊された今、横浜市で一艘の水舟だって手に入る筈は無いのであるから、残念であるが、此の方法は断念するより外に途は無かった。

善後策に就いて青木君と相談し、先ず情報局のような仕事を始めることにした。ようやくにして貧しい紙や墨を備えて、各地からの情報を掲出したり、迷子−尋ね人を貼り出してやったり、一方には、水・氷・米等を手に入れて、そこに蝟集している病傷者の手当をすると共に被害の少なかった万治病院から医者を呼んで、手当てを加えることにした。医者の来たのが午後三時頃で、傷病者は一昼夜を過ぎて、ようやく医師の治療を受けたのであるが、それは治療と称することは出来ない程に不完全なものであり、また単に公園に居たものという一少部分に限られていた。

警察部長の所在は未だ分らない。知事も部長もどうしているか判然しない。他地方からの情報は一つも入らない。如何に善後の処置をなすべきか、全然見当さえつかない有様で、県庁の中心が判らないため、一日夜から公園に集って来た多くの警察官は、皆御真影を中心に屯して、宛然たる警察部の観を呈すると共に、ここが横浜の仮政府であるの実情を現出した。二日もこの状態で、警察官諸君は公園を中心とした情報に依って、総ての行動を執っていたのであった。

二日の夕方から雨が降って来た。取りあえず御真影を市役所前に焼残っていた電車内に奉安することとし、此の仮奉安所を巡査二名に警護させ、小使は御真影を背負ったまま電車内で眠ったのであった。その頃ようやくにして公園へは『市役所事務所』と書かれた、木札が立てられた。県庁が桜木町に焼残っている海外渡航検査所を事務所にしたということを聞いたのは、二日の夜で、それと同時に検査所に隣している市の中央職業紹介所が焼けていないと聞いた。それで三日の朝、公園の事務所を紹介所へ移した。午前十時頃には、平塚で遭難したという噂の渡邊市長がやって来て、此辺に多少の秩序が回復して来たのであった。

主だったものが集って種々協議したが、従来の局課制では全然此の変時の応急事務を執ることは不可能なので、新しい局課組織を試みようとしたが、それも駄目で、結局僕が当時の記録にも残っている通り、徴発係とか、車馬係りまたは給典係りという、小さな組織を無数に作って、各係長を置き、事務は係長の専権で、ずんずん進めるようにしたのであった。

× × × × × × ×

此れは公園にいた頃の一つの挿話である。が、僕や青木君は県との連絡もなし、一方市会議員は何うしているかも判然しない。成るべく速やかに市会議員諸君に集まって貰って相談したいので、各方面から公園の市役所事務所へ往来する人々に依頼して、『市会の召集』を伝言すると共に、各方面に『市会召集』の貼紙を行ったのであったが、あの混乱裡に在っては、誰が何うしているかさえ判らなかったのであった。こうした中に在って、真先にしかも一日の夜、公園へ姿を見せたのは大久保宇之助君だった。僕に握飯を二つと味噌を呉れて『喰へ』という。『皆が喰はずに居るのだ。僕ばかり貰えない』『そんな事はない。今倒れられると困る。市民のために困る。是非喰え』。『いや貰えない』。『何うしても喰へ』と。随分永い押問答の末、とうとう貰ったのを傍にいた人に与えて、一つを人に隠れて喰ったが、その味は何と言って良いか、恥かしくて堪らない気がした。しかし此れで随分元気が出た。僕はその時本牧小港に住んでいたが、家へ帰ったのは六日の夕方でそれまでは市役所にいた。只後になって考へて見ると、非常に緊張し切った責任感を持っていたことで、要するに市長が留守であったため、吾々が倒れれば市の中心もなくなるであろうと考えたからに違いないと思っている。

× × × × × × ×

水道は初め野毛山貯水池が助かっていて、市民の急場だけは救うことが出来ようと思っていたのであるが、矢張り破壊されて、また何の役にも立たないことが判明したが、能見・大野両技師、二日に全線を視察した結果、西ヶ谷までは大丈夫である。というので、急に久保町の材料置場を中心にして、古材料等を集めて、バラックを建築し、職工・家族等をこれに収容して、あのように急速に給水の準備が運ばれたのであった。

またガスは現在復興課長の渡邊技師が嘱託で、地震の時にガス局にいたであった。あの日の二時半頃、附近は最う一面の焔で、タール、石炭等が燃え出し、そのままに放置したらば、ガスタンクに火が移って、その爆発からさらに何んな惨事を惹起するかも知れないと、全員を召集して、マンホールを開いて、ガスを出して仕舞えと命令したが、皆近づいては附近の火のために戻って来る。最う少しの時間をも許さないので、技師は決死隊を組織して、燃える石炭の上に立って、クンクの横のボールトを切って、ようやく放出させた。花咲町のタンクは圧力を見る職工がいて、逸早くマンホールを切り、本牧のタンクは地震のため自然噴出をした。こうして何れも事前に防止するを得て、東京にあったような惨事を引起さなかったことは幸いであった。

これ等は只概略の記憶を辿ったに過ない。もし総ての細末な物語までするなら、何頁を費しても現わし尽くし得ない程もあろう。三日以後のことは記憶にも残っていると思われるから、ここには語らない積もりであ。

市の公共物損害高調
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名称 建造費 復旧費見込額 摘要
市庁舎 455,000 1,650,000 全焼
校舎 56,000 85,000 全焼
開校記念横浜開館 480,000 1,500,000
野毛山鐘楼堂 4,000 4,000
土木工作場 11,000 6,000 同(三箇所)
自動車庫 3,800 4,800
道路 不詳 4,455,067 407,352坪
橋梁 4,531,886 大小120橋
下水 1,785,247 69,300間
河川並護岸 9,531,800 9,810間
横浜公園 407,530
掃部山公園 101,500
港橋公園 9,000 113,400
各小学校舎 3,645,500 5,012,300 全焼17、全潰6、
半潰8、残存5
商業学校舎 189,000 517,490 全焼
図書館 32,550 49,741
建築課事務室 2,700 8,100
社会課事務室 5,000 8,000
職業紹介所建物 34,050 33,560 全焼4、半潰1
公設市場建物 243,224 229,108 全焼5、一部破損2
住宅 950,796 537,100 全焼1棟、半潰91戸、
全潰245戸、小破273戸
託児所建物 30,792 23,780 全焼1、全潰1
質舗 7,695 500 小破1
衛生課事務室 12,000 15,000 全焼
万治病院 435,025 300,000 半潰
療養院建物 131,770 162,680 全潰
消毒所建物 29,951 15,000
救護所建物 33,500 43,395 半潰
墓地火葬場 43,000 41,000 全潰
汚物取扱所及器具置場 13,450 31,560 全焼
共同便所 4,000 15,288 全焼45、全潰4
仮隔離所建物 9,167 21,500 全焼
糞尿貯蔵所 9,000 6,000 全潰
牛舎 6,400 11,162 全焼
6,887,370 31,202,434
十全医院建物(各病室共) 462,074 771,700 全焼
462,074 771,700
水道瓦斯局建物 2,306,979 4,531,886 全焼
水道布設鉄管並
水源林涵養事業
不詳 1,785,247 大破損
水道布設器械及器械 637,724 9,531,800 焼失又は大破損
瓦斯導管及器械 1,129,780 407,530
街燈並貸付器具機械等 462,469 101,500
副生物 7,350 113,400 焼失
4,544,302 5,012,300
電気局庁舎並
運輸課出張所其他
概算
8,318,345
539,000 焼失又は大破損
軌道 201,000 12哩45
電線路 118,000
車輌 1,300,000 全焼4、半潰1
発電所並変電所 155,000 全焼5、一部破損2
8,318,345 31,202,434
通計 20,212,091 43,708,605

第2節 戸籍簿並に寄留簿の再製

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横浜市役所は今次震火災のため、その保蔵に係る戸籍並に寄留に関する一切の帳薄並びに書類を焼失した。しかも之が回復に就いては、横浜地方および区裁判所もまた罹災して、その保存する戸籍に関する帳簿・書類の全部を焼失したので、已むなく市民一同より市役所に対し、災前に為した総ての屈出事項を更に申出でしめ、一面戸籍に関して市役所と往復したる全国の市町村長をして更に往復書類の送附を為さしめ、之に基づいて再製を為すの外に途なきに至ったので、本事務の監督官庁たる司法省に於いては、左の告示を発せられた。

司法省告示第二十六号
神奈川県横浜市役所および同県久良岐郡日下村役場、本年九月一日火災ニヨリ、同市役所および同村役場ニ保存スル戸籍簿除籍簿、其ノ他ノ書類全部焼失シタリ。左ニ掲ケタル者ハ大正十三年三月三十一日迄ニ同市長又ハ同村長ニ、大正十二年九月一日前ニ戸籍ニ関シ屈出又ハ申請ヲ為シタル事項ヲ申出、又ハ同日前ニ送付ヲ為シ、又ハ受ケタル届書申請書ノ写ヲ送付スヘシ
  1. 同市又ハ同村ニ本籍ヲ有スル者ノ戸籍ニ関スル届出、又ハ申請ヲ為シタル者。
  2. 同市又ハ同村ニ本籍ヲ有スル者ノ戸籍ニ記載セラレタル者。
  3. 利害関係人。
  4. 同市又ハ同村ニ本籍ヲ有スル者ニ関スル届書申請書ヲ、同市長又ハ同村長ニ送付シタル市町村長、並同市長、又ハ同村長ヨリ其ノ送付ヲ受ケタル市町村長。
  5. 本年八月一日乃至九月一日ニ於テ、同市長又ハ同村長ニ、同市又ハ同村ニ、本籍ヲ有セサル者ニ関スル屈出又ハ申請ヲ為シタル者。
町村長ノ送付スヘキ戸籍二関スル届書類ハ、市町村役場又ハ区裁判所ニ保存スルモニ付、市町村長之ヲ謄写シテ送付スヘシ。
戸籍ニ関スル事項申出ニ付テハ、特ニ左ノ事項ヲ注意スヘシ。
  1. 申出ハ口頭ヲ以テ為スモ差支ナキコト。
  2. 申出人ハ申出ニ於テ戸籍ノ謄本又ハ抄本ヲ所持スルトキハ、申出卜共ニ之ヲ市役所又ハ村役場ニ提出スルコト。
  3. 申出人ハ申出ニ因リ戸籍ニ記載セラルヘキ者ハ、大正九年十月一日ニ於ケル居住ノ場所ヲモ申出ツルコト。
  4. 方面委員其ノ他戸口ヲ調査シタルコトアル。向ハ、可成其ノ調査書類ヲ市役所又ハ村役場ニ提出セラルルコト。
  5. 尚申出ヲ為スニ付テハ、市役所村役場又ハ横浜区裁判所ニ於テ便宜ヲ計ルヘキニ付、詳細ハ同所ニ就キ承合スルコト
大正十二年十月三日
司法大臣 平沼麒一郎


尚戸籍の再製に関しては、十月四日横浜地方裁判所長より本市長に対して訓令があった。
十月七日市長は戸籍の再製に関して左の告示を発し、之を横浜市日報に掲載した。

横浜市告示震第三号
当市役所本年九月一日火災に罹り、当市役所に保存する戸籍簿、除藉簿、その他戸籍に関する書類全部焼失に付、大正十二年十月三日司法省告示第二十六号に依り、左に掲げたる者は、大正十三年三月三十一日迄に本職に、大正十二年九月一日前に戸積に関し届出又は申請を為したる事項を申出らるべし。
  • 本市に本籍を有する者の戸籍に関する届出又は申請を為したる者。
  • 本市の戸籍に記載せられたる者。
  • 利害関係人。
  • 本年八月一日乃至九月一日に於いていて本職に本市に本籍を有せざる者に関する届出、又は申請を為したる者。
戸籍に関する事項の申出に付ては、特に左の事項を注意せられたし。
  1. 申出は口頭を以て為すも差支なきこと。
  2. 申出人に於て戸籍の謄本又は抄本を所持するとき、申出と共に之を提出すること。
  3. 申立人は申出に因り、戸籍に記載せらるべき者の大正九年十月一日に於ける居住の場所をも申出づること。
  4. 方面委員其の他戸口を調査したることある。向は、可成其の調査書類を当市役所に提出せらたし。
  5. なお申出を為すに付て、詳細の手続は、当市役所又は横浜区裁判所に就き承合をせらるべし。
大正十二年十月七日
横浜市長 渡邊勝三郎

右申出は一に本人の記憶に依るの外なく、往々記憶違いをなすことなきを保し難い。したがってこれに基く錯誤遺漏を防ぐため、司法当局に於いては、内閣統計局と協議の上、各人よりの申出をば、さきに大正九年十月一日に施行された国勢調査の調査票と一々照査することとなった。 斯くて市役所は、従来の戸籍課員四十余名の外に、新たに臨時課員六十名を増し、弁天橋・本牧および神奈川の三箇所に戸籍課出張所を設けて、市民よりの申出を受け、出来得る限りは吏員に於いて代書の労を執った。各人の申出と内閣統計局保存の関勢調査票との照合に就いて、内閣より閣令を発せられ、戸籍再製事務に関しては、此際特に係官吏をして国勢調査票を閲覧せしむるを得ることとなり、その結果司法省部の官吏数名日々統計局に出張して該事務に当り、本市よりも之が補助として吏員三名を出張せしむるなど、種々の手数を累ねて以て本事務の進捗を図りつつある。なお災害直後七日まではその間に起りたる戸籍関係事項(主として検視埋葬等)は巳むなく略式の取扱を為したが、八日よりはやや正規に近く取扱い、さらに十月三日よりは平常通り取扱うこととなった。

寄留簿の再製に関しては、住民の大部分が他地方に避難していて、帰住するや否やの意思定まらざるの現状に察し、暫らくは之に着手せられなかったのである。が、その後十一月二十日に至り、司法省より之に関する左の告示が発せられた。

司法省告示第六十二号
神奈川県横浜市役所及同県久良岐郡日下村役場、本年九月一日火災ニ罹リ、同市役所並同村役場ニ保存スル寄留簿及寄留手続令第十一条ノ用紙焼失シタルニ付、現ニ横浜市又ハ日下村ニ寄留スル者、並同市又ハ同村ヨリ他ニ出寄留中ノ者ハ、大正十三年六月三十日迄ニ、寄留ニ関スル届出事項ヲ、更ニ同市長又ハ同村長ニ申出ツヘク、寄留地市区町村長ハ寄留者中、同市又ハ同村ニ本籍ヲ有スル者ノ寄留簿ニ基キ、寄留手続令第十一条用紙ニ記載ヲ要スヘキ事項ヲ謄写シ、之ヲ大正十三年六月三十日迄二、同市長又ハ同村長ニ送付スへシ。
寄留ニ関スル事項ノ申出ニ付テハ、特ニ左事項ヲ注意スヘシ。
  1. 申出ハ口頭ヲ以テ為スモ差支ナキコト。
  2. 申出人一於テ寄留簿ノ謄本又ハ抄本ヲ所持スルトキハ、申出卜共ニ之ヲ市役所又ハ村役場一提出スルコ卜。
  3. 方面委員其ノ他戸口ヲ調査シタルコトある。向ハ可成其ノ調査書類ヲ市役所又ハ村役場ニ提出七ラルルコト。
  4. なお申出ヲ為スニ付テハ、市役所・村役場又ハ横浜区裁判所二於いて便宜ヲ計ルヘキニ付、詳細ハ同所ニ就キ承合スルコト。
大正十二年十一一月二十日
司法大臣 平沼騏一郎


斯くて市役所は、左記戸籍・寄留申出に就いての注意書を印刷して、市内各方面に配布し、各要所に貼付して、一層これが周知を図り、申出を促がした。

戸籍寄留申出に就いての注意
今回の震害に伴う火災に因り、当市役所備付の戸藉・除籍簿・その他の戸籍関係書類全部燼減し、横浜区裁判所に送付済みの戸籍・除籍副本その他の書類もまた全部焼失致しましたから大正十二年十月三日、司法省告示第二十六号の示す所に依り、市内本籍者は勿論、その他の方に於いても、一日も早く戸籍の申出をなし、戸籍の再製を求められる様致されたい。
而してその申出が真実に反し、もし虚偽である。ときは、相当の制裁もある。ことでありますから、関係人はよくこの点に注意致されたい。他の市町村より転藉・分家・その他の原因で本市に本籟を有するに至りたる者、前戸籍または除籍の謄本を取寄せ、これを参考にするは、最も便宜である。のみならず、正確を期するに適当であると思います。
戸籍の申出は、此際何でも都合の好い様に出来ると想って居る向もたまたまある。ということを時々耳にすることもありますが、これは相続。入籍・復籍等の場合に差支を惹起するのみならず、他に利害関係人もある。ことであり、かつ申出の事項に付いては、相当の機関に依り必要なる調査をなした上で、事実と認められるに至って、始めて戸籍を再製する順序でありますから、訂正・再調等の煩のない様、また処罰などを受ける様なことのない様、特に注意せられたい。こと今度申出は、家族全部に就きての身分および戸籍事項に渉るのでありますから、可成戸主親権者後見人等総ての事柄の判かる方に於いて手続をしてもらいたいと思います。
再製の戸籍簿・謄抄本は、此際急速必要の向も少くないことと思いますが、以上の如く相当調査の上、戸籍を再製したる後、謄本を作製すのであますから、交付迄には大分時日を要します故、この点も予め承知を願いたい。
次に寄留に関する帳簿・書類も、戸籍同様全部焼失致しましたから、本市本籍者にて大十二年九月一日以前より、他の市町村に出寄留をなしおり、今年十二月二十日に於いても、現にそこに居住するときは、大正十二年十二月二十日、司法省告示第六十二号により、出寄留に関する事項を申出でられたい。又他の市町村より来りて本市に居住する方も、それぞれ寄留に関する申出をせられたい。戸籍申出書・寄留申出書用紙は、当所戸籍課および各出張所に準備してありますから、必要に応じて請求せられたい。なお申出等は出来得る限り当市役所係員に於いて無料代筆をなす積りでありますから、詳しく届出事項を調査して出頭せられたい。

なお、その後も申出を促がすよう注意書を印刷配布した。此の如くにして、種々の手続を運び、努力を続けて、鋭意回復を図りつつある。が、災後多忙の際とて、その成績を挙げるは容易のことにあらず、災後一年七箇月を経たる大正十四年三月末日迄の取扱件数は、戸籍に関する申出五万五千六百三十八件、その内再製をおえたるもの二万九千三百十七件、寄留に関する申出一万五千九百八十六件(ことごとく終了)出寄留四千六百七十九件を算した。右は大体一件を一戸とみなすべく、災前の戸数約九万なりしと対照すれば、その進歩の程度如何をうかがいし得られる次第である。

第3節 横浜の土地台帳の発見

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横浜税務署の関係書類は、震災当時全部焼失し中で最も重要な横浜市内および久良木岐郡の土地台帳は、徴税その他の関係で、差当り必要に迫られていたが、横浜区裁判所の発記所の方、また発記簿を全焼しているので、手がつけられず、税務署では頗る弱り切っていた。ところが此の程偶然にも大正五年現在の士地台帳を標準として、土地に関する資料が発見されたので、税務署ではその資料を頼りとして、直ちに土地台帳の作成に着手したが、之に盤ると筆数約十万二千筆の内、半数は横浜市の分で、坪数三百余万坪となっている。勿論大正五年以降各所有者が他に売却した向も多いと見られているので、税務署では震災後に申告された登記簿に因って訂正して行くと共に、新たに各所有者から申告を受付け、翌年四五月頃迄には新たなる完全な土地台帳を作成することになっていたが、久良岐郡の分は笹下登記所が助かっているので、土地台帳の作製は比較的困難を感じないけれども、横浜市内の分は非常に困難であるから、各所有者は税務署に対して、自己所有土地を申告することになった。

第4節 震災以来の救護施設(会計事務)状況

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市役所は震火災後直に会計係を置き(十月一日会計課に復せり)救護に関する各種の支払金および寄附金、その他の牧入金受領等、主として直接に現金出納の事に当らしめたり。当時各銀行は未だ開業の運びに至らざりしを以て、神奈川県を経て政府より融通せられたる五拾万円を主なる資源とし、他に若干銀行預金を引出し、辛うじて一時を融通することを得た。此の間、関係職員は、或は銀行預金の引出方に就いて、当業者に難渋なる交渉を重ね、あるいは京浜間又は市内に於ける現金の輸送に、仮庁舎と十数町を隔つる旅団司令部との間に於ける現金保管方の委託に(当初現金を格納すべき禁固等の設備無かりしにより、特に現金保管方を該司令部に委託方を交渉し、毎朝夕此が授受をなした。)又は現金の保護管理に、必死の努力を為し、一方債権債務に関する収支證憑書類の調査整理および記簿計算に任じた。而かも救護に関する費用の支出は、その食糧費たると小屋掛費・材料費・救護費・運送費・維費たるとを問わず、国費支弁のものも、また市費支弁に属するものと併せて、その全部を本課に於いて支払いたるを以て(国費に属するものも便宜上その筋の諒解を得て総て本市に於いて立替支払をなした。)事務性質上只さえ煩雑なるに加えて、如上国費および及市費に属するものの全部を支払いたるにより、その取扱件数のみにても二千百八十六件に達し、繁忙の度はますます加わり、特に人夫賃等の支払に当りては、債権者の殺到と執務に要する設備の整わざりしとに因り、名状すべからざる混雑を来したが、幸いに無事なるを得たのは、実に関係職員の一致協力克く奮闘努力したる結果であると信ずるのである。

関連項目

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