第3章 教育

編集

第1節 官立諸学校

編集
横浜高等工業学校
編集

市内大岡町なる横浜高等工業学校は、大正九年一月の設立に係り、震災前に在っては市内および県下に於ける唯一の直轄専門学校であった。今次の激震では、煉瓦造の書庫および鉄筋ブロック構造の動力室が倒潰し、他の建物も半壊ないし大破し、破損を見なかったのは講堂および印刷所だけであった。当時学校は暑休中で生徒は一名も居合わさなかったけれども、授業開始も遠からぬので、校長以下職員・傭人等二十余名登校し、夫々準備中であったが、何れも逸早く校庭に避難し軽傷者一名を出だしたに過ぎなかった。然るに震後数分にして、電気化学科実験室内の蓄電池および応用化学実験室の薬品よ発火したので、一同は直に消防に着手したが、水道が悉く断水していたので寸効なく、已むなく、破壊消防に努むるの一方、辛うじて重要書類の幾部を校庭に搬出したに過ぎなかった。そのうち火はおりからの強風に勢を得て、見る見る各建物に延焼し、遂に応用化学科実験室・事務室・講堂・書庫・普通教室・生徒控所・機械工学科教室を灰燼となして、僅に機械工学科の一部即ち実験工場の一隅・水力実験・職工控所等を半潰ないし破損のまま残存せしめたに止まり、全校の八分通りを挙げて烏有に帰せしめた事は、洵に遺憾の至りであった。以上の損害見積額は、建物で約百五十万円、備品・標本・器械・図書等で約四十五万円、計百九十五万円に達した。然し乍ら生徒・職員より雇傭人に至るまで、一人も犠牲を出ださなかったことは実に不幸中の幸で、後の調査によれば、京浜その他に散居せる卒業生にもまた一人の死傷を見なかったのであった。職員中で類焼に遭った者八名、倒潰に遭った者十名を算した如きは、他と一列一斎の損害であったのである。

僅かに焼残った校舎は、災後暫く罹災民の避難所として提供し、収容者日々二百人内外を算したが、二十日頃には全部退散した。

授業開始に於いては、困難の多大なるものがあった。他校に併合されるとか、市外に移転さるるとかの声もあったが、教職員は一致協力、百難を排して焦士に踏止まり、罹災市民と具さに苦痛を共にし、相響応して復興の第一声を挙げんことを期し、九月十五日には既に市内の要所に木札を樹てて、十一月一日を以て授業を開始すべき旨の宜伝を為し、ここに背水の陣を布くに至った。爾来努力奮闘の結果、計画は順調に進捗し、応用化学および電気化学両科の第三学年は神奈川なる横浜舎密研究所に於いて、他の各学年は、本校焼残りの校舎および急造掘立はバラックに於いて、何れも予定通り十一月一日を以て始業することを得た。此間、暑中帰省中の学生達は交通機関の不便にも、物査欠乏の脅威にも怖れず、続々帰校して、焼跡の整理、授業の準備等に助力したことは、真に愛校心の流露として感服に堪えない所である。その後本省よりは工費三十四万五千を以て仮校舎の建設に着手された。十二月中旬起工し、十三年三月上旬には,ほぼ落成を告げ、更に各科の設備は十三年度三十万円の予算を以て大体完整せらるることとなった。なお震災記念奨学資金六千円の募集に着手し、之に依って震災の為に学資支給の困難を訴える学生に対し、補給の途を開くこととなった。

第2節 中等学校

編集
イ 県立横浜第一中学校
編集

九月一日の激震に因り、本校建物の中武道場・図書庫・物置・廊下等は全壊し、その他は悉く半壊の状態と為った。中に就き本館二箇所に設けて有った高二丈余の煉瓦作の防火壁が崩潰して、その前後に在った校長室・事務室・図書室・教員室および教室は大破を受けた。

斯く害は甚大なりしも、幸に火災を免かれたので、罹災者の本校に避難した者が夥しく、校舎内は勿論校庭の隅々まで殺到し、一時はその数二万に達した。是等避難者の中には、物理実験室・化学実験室・博物標本室・図書閲覧室・参考館等、場所を択ばず闖入したが、学校では之を如何とも制することが出来無かった。震災で大破損を被つた器具・器械・図書・標本類は是等闖入者のために一層破損せられ、且つ乱雑にせられた。

災後間も無く、戸部警察署は校内に移転し来て、管内の警戒救護に任じ、本県救護班の一部および日本赤十字社奈良県支部の救護班も本校を詰所として、罹災者の救護医療に従事した。続いて市内の警衛・架橋工事・道路応急工事等の任務を帯びて来浜した水戸工兵第十四大隊の一部は、本校を宿舎としたので、戸部・西戸部方面の救護復旧に関する事務の中心は、一時本校にあつまったかの如き観が有った。

十月中旬に至り、校内運動場に罹災者収容のバラック八棟を建設せられ、校舎内に仮寓せる避難者を悉く之に収容し、戸部警察署も旧警察署跡に仮舎を建てて復帰し、救護班もまた池之坂はバラックに移転したので、此頃から校舎の応急修繕は工事急速に行われた。

震災当時は暑中休暇で有ったので、生徒はまだ登校し無かったが、職員は毎日登校して各其部署に就き、鋭意一面は生徒および生徒家庭の安否を探り、一面は器具・器械・図書・標本・書類等の整理復旧に努め、只管授業開始の準備に没頭したので有った。斯くて十月十五日に四五両学年生を召集して、組編成を行い、十八日より授業を開始し、二十五日に一・二・三学年生を召集して、諸般の注意を与え十一月より授業を開始した。

職員の中には不幸にして住宅類焼の厄に遇った者十名ありしも、死傷一名も出さ無った事は、幸甚と言うべきで有る。八百の生徒中、不幸圧死者十五名を出し、住宅類焼倒潰等の厄に遇った者約半数にも及んだ。

斯くして十三年三月迄には、校舎の応急修繕工事も竣り、十四年下旬には運動場のバラックも悉く撤退せられたので、同年四月には全く常態に復した訳である。今後十六年度に至れば、講堂および校舎の大部分を改築する予定であるから、その時に成って外観が始めて整備する筈である。

ロ 県立横浜第二中学校
編集

大震火災の当日は、学校はまだ休暇中であったがため、生徒は登校せる者無く、只学校長および書記二名と、外に宿直員一名、小使二名のみ出勤して居たので、随って学校内に於いて死傷者一名も出さなかった。しかのみならず、校舎・校具も屋根瓦の墜落、四壁の亀裂、その他の小破損と器械標本類に於いて相当被害があった位で済んだ。 御真影の奉遷と化学薬品室安全処置を為し得たるのは、最も幸福なることであった。

避難者の本校に避難し来たのは、僅に百名内外で、それ等の人々も鮮人来襲の噂を耳にし、漸次他方面に引揚げた為め、九月末日に於いては、一名の避難者の宿泊せし者もない様になった。但し此間に於いて学校保管の物品中、バケツ・瀬戸物類・窓掛・卓子掛等、衣食に必要なるものは皆避難者の使用に委せたのであったが、学校所在地有志者が多数の銃器を借り出して返却せず、これが回収には多大の苦心を重ねたのであった。

九月初旬から生徒並びに父兄の来訪漸次多きを加え、一時他府県に転学を願出づるもの多く、且つ本校の授業開始の予定を知らんとするもの相次ぐの状況に鑑み、兎に角十月一日生徒召集、引続き授業開始の方針を確定し、職員および附近の生徒を召集して、右準備の作業に従事し、応急工事、瓦壁の整理、器械標本の整頓を為し、雨天の際の防水工事は未だ完成せなかったが、予定の如く十月一日に生徒を召集した。然るに在籍生徒六百五十七名中、四百三十一名の出席を見、十一月一日に至りては四百七十九名となり、更に十二月一日には五百二十三名に増加した。

此の大震火災の為、職員二十七名中全焼四、全潰一、半潰七、合計十二名、小使六名中全焼三、全潰一、計四名、在籍生徒六百五十七名中全焼百三十八名、全潰四十名、半潰七十八名、合計二百五十八名に及んだ。而して死傷者としては、生徒中死亡者十三名、傷者十七名、計三十名を出した。此に於いて十一月十七日を卜し、在校生の死亡者十三名と卒業生の死亡者六名の為めに、本校講堂に於いて追悼会を挙行し、遭難者の家族をも招待した。

時の神奈川県知事安河内麻吉氏は、本校を巡視すること二回、殊に本校が化学薬品室の処理の宜しきを得たる為め、火災を免れ得、これによりて独り本校生徒のため逸早く授業開始をなしたるのみならず、県立第三中学校生徒をも収容して、授業に差支なからしめたるの功績を認められ、本校教諭須藤九郎に対し、表彰状を授与せられた。

ハ 県立横浜第三中学校
編集

本校は大正十二年四月七日を以て始めて開校せられ、大岡町なる県立商工業実習学校の一部を仮教室に充てられて居たので在ったが、八月に同建物が火災に罹り、止むを得ず第一中学校内に移って居たのである。然るに九月一日の震災に依り、同校建物は大破に至りしを以て、同月二十八日に第二中学校内に移って、十月一日から第二学期の授業開始したのであるが、大正十三年十二月に本牧の本校舎建築が落成したので、直に之に移転した。

ニ 神奈川県女子師範学校 神奈川県立高等女学校
編集

九月一日大震と同時、本校は本館理化室を除き、全部崩潰し、附属小学校は焼失した。職員家屋の全焼は二十四、全潰は十四、半潰は九の多数に及び、難を免かれ得たものは、僅に郊外在住の者のみで、生徒の家屋の全焼せし者三百余戸、圧死者二十四名に及んだ。初め大震の起るや、校長は早速学校に駈付け、数名の教諭と共に余震を犯して本館に入り、扉を破って 御真影の箱を取出し、一先ず中庭に安置し、次いで重要書類を取出し、 御真影はやがて浅間山下の軽井沢なる結城教諭の宅に奉移した。三日に教諭二名圧死の事が知れた。六日は第二学期始業の日に相当するので、本校附属の職員十数名、藤棚の下にて臨時職員会議を開いた。十四日に理化室は終に倒潰した。生徒召集の宣伝を為した結果、十月一日、第一回の召集には、女子師範・高女生合せて四百六十名応じ来つので、各学級分担して、震災調査取調をなす事とした。その後尚二回の召集を経、仮校舎が出来たので、高女は十一月十二日、女子は同月十九日、各開校式を挙げた。 (同校報告および花たちばな霊災記念号)

ホ 神奈川県立工業学校
編集

九月一日の大震と同時に、生徒食堂は倒壊し、既に食事に就いて居た生徒十四五名は下敷となったのを、心付いた者が四五人駈附けて、砂塵の中から救い出した。次いで物理室から出火したのを、大勢駈け附けて、大事に至らず消し止めた。一体校舎はその初水田を埋め、盛土をして校舎を建てたので在ったが、倒潰校舎の少なかったのは、一の奇蹟と云っても良い位である。損害の程度を云えば、図案部および中の教室二棟は使用に堪えぬ大破損である。本館は事務部・当直室・玄関・第一教室に掛けて最も甚しく、今一寸で土台から辷り落ちる処であった。玄関のセメント・ポーチには幅五六寸もある亀裂が二三筋出来た。この辺一体に地盤が低下したらしく、階段は地中にめり込んだ形で崩れ、庇の柱は四五寸も宙に浮上って居る有様である。又長い廊下も大蛇ののたうち廻るに似て教室とは一尺以上も裂切れて弓形に垂れ下り、窓全部は一帯に内側に二三十度ほど倒れ、所々天井の落かかったのが発條の様に彎曲して居た。職員室・事務室・その他の書棚・机は大方転倒し、書類・書籍の散乱せるも物凄く、加えるに余震に窓ガラスが破れ落ちた。門柱は一本転倒し、敷地を周って下水は悉く埋没れて、道路一面に濁水が膝を没する程度に漏満して居た。

仕上工場は幸にして機械類の損害なかったが、地盤は機械の基礎より三四寸も低下したのが多く、柱はいずれも皆二三寸も梁より抜け出して居た。鍛冶工々場は火床の煉瓦積悉く振落され、蒸汽鎚の蒸汽管は捻ぢ切られ、鋳造工場との間仕切に大穴が開いた。鋳造工場の屋外のキウポラは、建築科の渡廊下の屋根を打破って倒れた。真鍮炉のコンクリート煙突も、屋根を破って十五度許傾斜した。中央の起重機は翌年一月十五日の再震に、終に転覆した。原型工場の隣接タンクは、根元から傾斜し、蓋は二間余附近に飛んで居た。

変事突発と同時に寮生六十余名それぞれ手分して、急救薬品携帯、学校附近住人一帯の慰問に努め、之が救護に当り、不逞鮮人襲来の報一度伝わるや、直に武装して徹宵校舎内外の警備に寝食を忘れて尽くした。斯くして五・六日目に陸続と軍隊が到着し、本校は炊事班の駐屯する所と為り、一個小隊の警備隊が配置せられて、附近一帯の警戒に当り、次いで甲府その他の連隊区から召集を受けた在郷軍人数百名、寄宿舎を始め教室工場に仮泊して、焼跡の整理に奔走して呉れたので、十日に寮生は漸くに帰省した。(神工震災記念号)

ヘ 県立商工実習学校
編集

当校は大正九年三月設立認可せられ、校地約三千六百坪にして、校舎建坪約千八百坪を有したのであるが、大正十二年八目十六日午前五時、二階建校舎二棟を焼失し、ここに収納してあった理化学器械を始め、教具の全部および図書の大部を烏有に帰せしめ、僅に工場一棟、倉庫二棟、ボイラー室一棟、便所一棟が災を免かれたのみであった。然るに猶また数日にして今回の大震災に因り、残存校舎四百二十二坪は、殆んど全部倒潰した。ただし機械・器具類の一部は、半潰舎ボイラー室に搬入収納し、散逸並に汚損を避け得た。震災当日は職員一同出勤して、第二学期授業準備執務中であったが、すわ地震よとの叫声に鷲き、一同校庭に飛出し、些々たる負傷もなくして脱出するを得た。その後避難者十名、鋳工場・倉庫・校庭に居住して居たが、十月末引揚た。九月十日には授業開始の準備、または生徒召集、家庭訪問等をなし、十一月一日より県立横浜第一中学校に生徒を召集し、始業式を行った。震災前には四百七十九名であった在学生徒が、今回は四百四十九名に減った。而して翌日から残存校舎・物置・ボイラー室、石鹸の一部、鍛工場等を教室に充て、なお不足の分は野外授業を為した。その後応急建築物七十六坪のバラックが竣工したので、十一月十九日から二部教授を開始した。十二月から建築中の仮校舎が、翌十三年一月十六日完成したので、漸く平常の授業をなすに至った。然し設備尚不足で、実験実習をなすに至らなかった。年度も更まり、第五学年を生じ、生徒総数五百四十六名と為り、仮工場も竣成し、教室共総建坪千百八十三坪と為り、先づザット教授に差支え無く為った訳である。(神奈川県立商工実習学校報告)

第3節 市立諸学校

編集
第1項 横浜市立商業学校
編集

九月一日は同校の昇格問題で、実行委員が活動する最終の日であったので、私は唯一人学校に来て、委員に送る通知状を謄写版で刷っていた。そこへ私の次男の真男がやって来て、手伝ってくれたので、予定より早く出来上った。で、私はー昇格運動のことに就いて、若尾氏等に電話をかけてから、家に帰った。もう少し遅くいたなら、私は倒潰家屋の下敷にされるところであった。帰ると直ぐ、電話だと小使が迎えに来たので、玄関まで出ると、あの恐ろしい大地震が起ったのである。何より先に学校のことが心配になったので学校の方を見ると、大空には砂塵が上っていたので、学校の姿は見えなかった。そこで、私は逸散に駈け出して、学校へ行って見ると、千三百六十坪の建物の中、僅に雨天体操場八十坪、柔道場四十坪、記念図書館二階建四十坪、倉庫四棟を残して、他は全部無残にも倒潰していた。その他備えつけの器物等は大破壊して、使用に堪える物は僅かであった。

私は火を恐れて、第一に 御真影をお出し申上げなければならないと思ったので、直に破壊した校長室の屋根に飛び上った。幸に屋根に漸く這入れる位の穴があいていたので、何より好都合であった。そこへ訓導浅野峰次郎君も駈けつけて来た。書記および小使五名も手伝いに来た。

『さあ、這入れと』と、言ったが、誰一人入る者がないので、私が先に入った。浅野訓導に続いて、皆入って来た。奉安所の扉を打ち破って、中から無事安全に 御真影を取り出すことが出来た。外へ出て見ると、避難民が帽子を盗んで行ったのには驚いた。忽のうちに、避難民が約三千人余集合し来た。その中には負傷者も沢山あったので、手当をしてやりたかったが、 御真影を安全地に奉還することに焦慮していたので、直に美沢校長の宅に走って、同宅に還し奉った。

斯くて再び学校に戻って、避難者の手当にかかった。倒潰家屋の中から薬品を取り出し、窓掛を包帯の代りに、負傷者の手当にかかった。ところが負傷者たちは、私を医者だと間違えて、引っぱり紙鳶のありさまであった。気絶している者などには、つねってやれと言って刺戟を与えて蘇生させたものもあった。手常をしている傍から、避難民が来て、医療器を掠奪して行くのには呆気にとられた。なお倒潰家屋の屋根板、木材、バラック材料になるものを始め、畳・寝具・机等を掠奪された。掠奪が激しかったから、重要書類は全部一日に宅へ持ち帰った。二日は書類の整理と、掘出しに従事した。職員並びに生徒の安否を調べ、救済の方法を講じた。

来ないようにと止めたが、校長は責任感の強い人だから、老体にも構わず、五日に学校に来た。校長が来たので五日は渡邊市長を訪ねて、学校の善後策に就いて、種々相談し、一日も早く復興させるように意見を述べて帰った。

学校のことを余り心配したために、校長は十一日の午後から病気になられた。人を軽井沢にやって暫く氷を買って来た。医師はないので、困っている時、岡山県から紡績会社の救護班が来たので、手当を受けたが、効なく十六日、四十二年の間学校のために身を捧げた校長は、傷ましくも永眠された。葬儀は九月本校仮教室に於いて、校葬で執行された。

校長は脳溢血で死んだのであるが、人事不省になってからも、在外卒業生が多額の金を送って来るから、それで学校を建てよと、言っていた。瀕死の状態に在っても、学校のことは、校長の頭から去らなかったのである。

私は教員・職員等を集めて、軍司令官が倒れたからって、意気を消沈しては駄目であると、鼓舞督励して、十月半までには、授業が出来るようにするから、諸君は十分活動してくれと頼んだ。

先づ第一に、工兵五大隊に教室を建ててくれと頼んだところが、余力がないから駄目だというのを無理に頼んで、十月二日より着手し、同月十日はバラック教室一棟の完成を見た。工事の材料は総て市の建築課から供給された。人夫は毎日市役所から供給された。大工若干名は職員督励の下に、総ての掃除並に工兵工事の助手に服せしめ、大工は専ら生徒用机、その他教室備えつけの教具の新調、修繕とをさせた。

予定の通り十月十五日から、七教室で授業を開始した。当時在籍生徒六百八十五名の内、登校した生徒は四百三十名であった。而して全教室は震災前四千坪であったのが、千六百に減じたので、生徒を入れるのにずいぶん苦心した。二十六坪五合の一教室に、一年生を百二十人入れ、上級生の方は八十人宛、工兵はバラックと、柔道場に入れたが、狭いので、教壇の傍に生徒がいるという始末であった。登校した生徒は四年生と、五年生が一番多かった。尚、避難民が倒潰家の中へ掠奪に入って、薬品瓶をひっくりかえした為めに、火を発したが、浅野訓導と小使とが協力して砂をふりかけて消しとめた。(教頭唯野真琴氏談)

第2項 各小学校
編集

震災前の学校数は三十六校であった。その内十九校は全焼し、十五校は倒潰した。残った二校だけは大修繕さえすれば使用出来た。教室数は震災以前に七百九十九室あった。而し震災後僅の修繕で、直に使用し得るものは三十九室に過ぎなかった。しかし幸にも六箇の雨天体操場が、少しの被害もなかったので、之を区割して、普通教育に使用することにした。且つその他大修繕によって、使用出来るものは百二十六で、両方を合せれば、都合百六十五室を使用し得ることになった。

震災前の教員数は、九百九十七名であった。内死亡十五名、負傷者八十九名、行方不明七名、住宅を焼失せるものが四百六十四名、全潰せるものが百九十六名、半潰せるものが三百四十四名という被害であった。

震災前の児童数、五万四千三百九十六人であった。このうち横死したものが七百九十五人、負傷者が八百九十七名、行方不明が百二十一名であった。幸に当日は第二学期始業式の当日で生徒が帰った後だったので、数師や生徒の死傷が少なかったのである。

斯の如く学校の被害も大きく、教員の家は六百五十五戸焼失・倒潰したのである。故に教員の数九百九十七名の中、六百六十名が着のみ着のままの惨状に落ちたのであった。これ等に対する応急策は全く困難であったが、此際校長並びに教員等は協議の結果、取敢えず被害調査救済事務に従事することの方策を樹て、教育課はその中心となって、活動を開始したのであった。交通機関の絶滅した時に際し、よく地方区域の事情に精通した教育家が、実際調査に当ったことは、当を得た方法であったので、事務の敏速と、利便とを得た。その調査事項中、応急処理の基礎とすべき有益な資料を二十余種も得ることが出来たが、最も有益なものは九月十八・十九・二十日の三日に亘って行った人口並に学齢児童の調査であった。

学校の善後策を三つに分けて述べると、前記の残存教室を利用し、一刻も早く授業を開始する準備は、第一の応急策である。それ故に残存三十九教室を修理し、雨天体操揚を区別して、三十八教室を設け、尚急設バラック七十九室を新造し、二部三部の教授により、国語・算術等主要な学科を教授することとした。漸く十月十五日に決行したが、併し木材の供給、工事の進行が思うようにならなかった為め、教室数は予定の如く出来なかった。しかし兎に角十九校の開校をすることが出来た。次に第二の計画は、方面の児童数に応じて、所要のバラックを建設して数年間を支持することが出来るように、七十九の新バラックと、修繕せる教室二百四十九室の外に、百七十四室を築造して、合計五百二室を得た。雨天体操場は共同的に使用すべき特別教室等に専用した。尚お児童数の増加地方には必要に応じて増設せんとする方針であるが、材料が不足の為め、その完成は遅いので、これが欠陥を補わん為に、罹災民のバラックを使用したものであり、又震災事務局から天幕を借用などして、父兄の熱心を無にしないように、児童には勉強させるように、極力努めた次第であるが、幸いに此種の計画が良き結果を得た。又教科書を十分に得たのは、震災後直に文部省が各十都市に向って教科書の寄附を依頼してくれたお蔭と、教員連が亦熱心寄附を募った努力の賜である。これに依って三十六校を開校することが出来たのである。十三年十二月は二万九千余の児童を算するに至った。

第三期の計画は所謂都市計画に基づいて建設すべき理想案で、その復興案である。この理想案こそ、最も慎重なる計画を要することはいうまでもない。(大正十四年三月発行震災と教育)

1 横浜尋常小学校
編集

その日は始業式当日のであったので、例の如く午前十一時から職員会を兼ねて、会食を二階の講堂で開いた。十一時五十分頃には食事も済んで、茶を啜りながら種々の雑談に耽って居た。その時突如大地を覆えすような大激動が起った。百余坪の大講堂は今にも破壊しそうに思われたが、一同は逃げ出す余裕もなく、多くの者は卓子の下に這り込んで、運を天に任していた。併し幸に事無く、第一震は静まった。一同は階段を駆け下って職員室に行って見と、本箱や衝立やその他総ての物は倒れ、棚に載せてあったものは皆落ちていた。壁は砕けて砂煙が、四辺を鎖していた。間もなく火が本町方面に起ったので、すわ一大事と教員・小使一同は協力して、御真影初め、重要品を運動場の砂地附近へ運び出した。砂地は運動場の西北隅にあって、校舎かち六十間離れ、北は海岸に近く東西は裁判所と、蚕糸倶楽部との建物があった。空地は可なり広いので、安全な地として、火災の際には此処に 御真影を御移し申す処と、平素から定めてあったのである。教員・小使等は我を忘れて懸命に働いたので、約十分もして、大抵のものはもう出せた、火は早くも両天体操場に延焼した。一同鷲いて運動場へ出て見れば、石塀は倒れ、大きな地割れには、水が出ている。隣の裁判所は全部崩壊していた。四辺は悲嗚を挙げて逃げ迷う人々で混乱を極めていた。二階緑ペンキ塗の校舎は、少しも破壊はしなかったが、見る内に講堂の一角露台の辺から火煙は起って、忽ち校舎は火に包まれてしまった。これ等の凄惨な光景を眺めつつ、学校と一町程を離れている所へ、重い荷物を持って、三四回も往き来をして、職員・使丁、殊に女までが一人残らず、懸命な活動をしてくれたことは、実に感ずべきことである。

火勢は一層加って、いよいよ危険は追ったので、御真影は足立訓導が捧持し、二三職員は重要品を携えて岸壁さして避難した。一二時間後には再び帰って来られようと、呑気なことを考えて、大部分の重要品を置いて行ったので、いうまでもなく焼失してしまった。校長以下十四の職員・使丁は岸壁に逃げて大阪商船パリー丸に救助された。足立訓導以下四名の職員・使丁は、運動場裏手の入江、その他に避難して、とにかく一同無事なるを得た。

商船内の職員・使丁中、男子は二日夕景、本牧・神奈川方面へ二人上陸したのを初めとして、漸次上陸する様にしたが、船内に宣伝された陸上の不安と危険とは、事実以上であった。校長は家族の安否も全く分らなかったが、頭上にかかって居る重大責任は御真影を安らかに安置さることと、女子職員とを安全に保護することに力を尽くした。

斯くてようやく七日朝、校長は 御真影を捧持し、女子職員の多数を伴って上陸、海軍下士・水兵保護の下に、 御真影を無事に仮市役所に安置することが出来た。

尚、当時大阪商船ロンドン丸の船長神足竹次郎氏と、同商船の船長今井三二氏とが、 御真影の擁護に限りなき誠意を捧げられたることは、吾々の深く感謝するところである。

2 老松尋常小学校
編集

始業式や職員会が終って、十一時頃には職員室には、自分の外鵜養・大塚・大矢・伊東の五人と、別に幼稚園階下室に辻・西城・岩田・大森の四人の教員が残って居た。地震と同時に、職員室のものは直ちに運動場に出た。見る間に運動場は亀裂を生じて大波の様に揺れた。茂木邸との境の所にある煉瓦の大土蔵が物凄い音を立てて、一たまりもなく崩潰した。眼も口も明いて居られない。市中を見下すと、物凄い音を立てて家屋が崩潰している。黒い砂煙が全市を蔽って、天忽ち晦瞑、今思うさへ、恐ろしい光景であった。第一震が終ると、幼稚園室にいた四人が続いて出て来て、互に無事を喜んだ。幼稚園室では壁が落ち、重戸棚が飛び、床は波の様に動いて立つことが出来なかったので、四人とも突伏して、机の脚をしつかりと握って居って、激震が少し鎮まった時、やっと逃げ出して来たのであった。二階の薬品戸棚が倒れたので、四人とも硫酸を浴びて居た。

風はますます吹つのって、早くも宮川町と野毛二丁目に火の手が上っているので、万一を思って 御真影を奉還すべく、大塚訓導は屋内へとって返した。屋内は混乱して足の入れ場がなかったが、大塚訓導は危険を冒して、 御真影を持ち出した。伊東訓導が責任を以て、安全の地に奉遷すると云うので、鈴木使丁を伴わし、西戸部の実家に避難させた。

建物は、小使室が崩潰したのみで、その他は瓦一つ落ちなかった。而し舎内は壁が落ち、戸障子や器具が散乱して、到底這入ることが出来なかった。只僅かに玄関から運動場に廊下が通れた。取敢えず使丁にひばちを消さした。校門に沿うた石垣と士堤は、全部崩れて居た。小使室の倒れたのは此の為である。

学校は高台でもあり、道路大邸宅の庭で囲まれていて、殊に樹木が多いので、火は大丈夫と見たので職員は一先ず自宅の安否を確めて、再び学校に集合する事にした。

午後一時半頃、木村邸の崖を攀じ登って、避難者が続々校庭に入り込んだ。然し半僧坊の方面から、火が市長公舎の前通りを筒の様にして、熱い煙と火の子を吹きつけるので、熱さに耐えられず、遂に学校を出た。前の平沼邸は避難者で一杯であった。二時頃になって、西校舎の屋根が一時に燃え上った。この附近で第一に燃えたのは学校であった。 野沢の森から水道山に出て見ると、中村邸や増田邸が盛んに焼けて居るが、市長公舎はまだ安全であった。四時頃学校の様子を見に戻ると、校舎は全く焼け落ちて居た。

学校の焼跡に来て見た時、校舎は跡方もなく、敷地は焦土と化していた。残るものは只肋木と鉄棒だけであった。焼け残りの掲示板をさがして、仮事務所を辻訓導の宅に置くことを掲示して引上げた。

3 南吉田第二尋常小学校
編集

此の日、我が校は授業も済み、仕事の了えた者は、任意に退散した。後には二階に二三の職員と、事務室には校長と、内田・尾形の三人がいた。折しも大地震が襲来したので、一同は驚いて、入口迄転び出し、柱に鎚っていた。校舎は二階の一室が落ちただけで、幸いその処には誰も居なかったので、校長以下二階に居た人は、皆無事に逃れた。校長は内田・尾形の両訓導と協して、 御真影を運動場に奉遷した。内田訓導は使丁と共に劇薬の始末に掛っが、戸が明かないのでどうすることも出来なかった。やがて、火の手はひろがり、危険は,いよいよ迫って来たので、校長は、 御真影を小林・前田・山口・市川・井上・関の各職員に警護させて、石川の山に避難した。内田訓導は学校に留って、警戒をさせられた。時は午後一時、分校の運動場は安全地帯と見られて、避難民や、荷物で塞った。併し火の手はますます接近し、学校は所詮助かるべき見込みがないので、内田訓導は校園に重要書類を埋めんとしたが、鍬がないので、止むなく運動場に立ち退いた。真金町方面から風に逆って来た火焔は、南部から来た火と合して、学校を包囲した。南の校舎は忽ち燃え始め、使丁室に延焼した。応接室の一角は黒煙を挙げて棟さえ認められなくなった。時は午後二時。内田訓導は中村使丁を督して、学籍簿丈け携え、中村町の崖に逃れた。そして児童の迷えるものを導いて頂上に登らした。 御真影は校長および職員に衛られて、久良岐郡日下村の校長宅に奉遷せられた。

4 日枝第一尋常小学校
編集

当日は午前八時、第二学期の始業式挙行の後、各教室に於いて暑中休業中の課題成績品の取纏め、第二学期開始に対する諸般の訓話をして児童を退散せしめた。職員は事務の整理を終えて、十一時半頃迄にそれぞれ退出した。 大地震が襲来すると同時に、校舎は大音響と共に全部倒壊した。当直員は、身を以て辛うじて校庭にのがれ、四方を見るに、人家は倒壊し、火煙の挙がるのを見受けたので、危険を冒して、倒潰した校舎に潜込んで、漸く奉安所より  御真影をとり出して、お三の宮に避難した。しかしここも又危険になったので、堀内町加藤訓導住宅の一室に遷し奉った。爾後六日間、職員交互に護衛の任に当った。 当局からの命至るに及んで市役所へ奉遷した。

5 南太田尋常高等小学校
編集

午前に第二学期の始業式を終え、職員は体暇中の整理をしてから、昼食を認めようとする刹那、大震動が起って、書棚は倒れ、机は転び、戸外に逃げようとしても、動揺の激しさに歩行することは出来なかった。その瞬間二年前新築した堅牢の大校舎は両天体操場丈けを残して、他は悉く南面の道路へ倒潰した。階下に在った十数名の職員・使丁の内五名は、逃げる暇もなく、打ち伏せられて、柱に敷かれ、硝子戸に傷けられなどしたが、圧死したものは一人もなかった。階上には執務中の数名の職員は、生命を賭して階段を飛び下りたが、出口の扉が堅く鎖されて動かないので、全く絶対絶命であったが再び来た震動で、戸が偶然に開いたので、一同は戸外に飛び出す事が出来た。又不思議に助かった一女教師があった。その人は下駄置場で梁の下敷となったが、梁が石段のために支えられて、空隙が出来たので、徴傷も受けすに逃げることが出来た。当校児童千三百余名の内、只一人自宅で焼死した。職員中鵜飼訓導が自宅で圧死を遂げた丈けで、他には一人も死者を出さなかったのは、幸であった。

当校の職員は、此の恐るべき生死の間に在って各自重要書類の保管、残存校具の整理に克く意を致し、一方に於では、互にその家族を慰め合って、更に児童の安否を気遣って、それぞれ手配を怠らなかったことなどは、良く行届いていた。同校附近には、一も避難すべき場所がなく、唯僅かに当校の残存した雨天体操場だけ、唯一の避難所であったが、極度に恐怖心にかられた避難民は、此の屋内に入ろうとする者が一名もなかったのである。そこで同校校長は市民の健康を害してはならぬと考え、懇ろに諭して校舎を開放し、収容に力をつくした結果、此所に三十八家族二百余名の避難民を収容したのである。更に部下職員・使丁を激励して、極力教具・校具の整理、残存品の保管等に努力した。病気の避難民は特に手厚い世話をした。

九月五日、初めて報知新聞の号外を見て、内外の情勢、各地からの同情、救護の状況等が 判ったので、それ等のことを、ことわけて話したので、只今まで恐怖と不安とに極度に昂奮して居た人の心も、漸く安らかにされたのであった。それ以来校長は、復興その他人心を励ます講演をして、人々の覚醒を喚起した。配給品の分配にも心力をそそいだので、非常に秩序のある自治的な生活をするようになったのである。

斯ように、非常の場合に採った周到なる注意と、精神的に人心を鼓舞した事の結果は、避難民の衛生状態を比較的良好にし、唯一名の腸チフス患者があった丈で、他に伝染することなく全治した。勿論幾分健康を害したことは言うまでもなかった。現に校長自身も体重七百目を減じたのであるから、部下職員の疲労衰弱もひどかったのであろうと思う。その後は唯だ今後如何にして復興を観るべきかが、念頭から去らなかったのであった。

6 平楽尋常小学校
編集

第一震で、凹字形の大校舎は右側の部分を残しただけで、平家建の使丁室と、その他の二階建教室の全部とは倒潰した。直ぐ近くの自宅にいた私が駆けつけて見ると、首席の軽部雅太郎君と当直の秋山陽雄君とが運動場の一部に 御真影を安置していた。一度帰った軽部君は、予て病気で近所に住んでいる友達を見舞うべく、使丁室から裏木戸へ出るところで地震に遇った。そして校舎が倒潰したのを知り、生命がけで廊下に飛び込み、 御真影奉安室に向ったが倒潰した物が四辺を塞いでいて進むことは困難であった。然かも室内は一面の土煙で息もつけない苦しみの中に、夢中になって探し廻わると、外れ落ちていた 御真影棚に探り当ったので、そのまま箱を抱えて、僅の隙間から這い出して運動場に出たのである。同君が破壊した校舎の中に潜り込んだ時は第二震の真最中だったので、君の勇敢決死の振る舞いは、真に賞すべきものであった。

次に六人の使丁の一人も見えなかったので、圧死したものと思われたが、皆助って附近の空地に避難していた。その内に火は共潰れになった隣接の民家から発し火、悠ち校舎に燃え移って、間もなく焼失した。鎮火後恐れ多けれども取敢えず 御真影は危く類焼を免れた自宅に奉遷する事として、軽部・秋山両君の労を謝して帰宅して貰った。

7 江吾田尋常小学校
編集

大地震のため、屋根瓦は殆んど剥げ落ちた。第三号から第五号までの教室の柱が折れ、階上の二室は危険であった。運動場には亀裂が出きた。当日居残ったのは校長井上節・井上永・松本喜・金子訓導などで、児童は一人も居なかった。使丁は井上才次郎・中村角蔵・清水松五郎・井上アサ・中塚チヨ等で、皆掃除中であった。中塚チヨは壁の下敷となろうとしたが、漸く机の下にのがれ、僅に打撲傷を負っただけで助かった。井上才次郎は使丁室の炭火を消し、また職員室の火鉢が倒れて大事に至らんとしたのを消し止めた。校長は居残った前記訓導と使丁等と協して火の元を警戒して、万全を期した。

御真影奉安所には、まだ 御真影の御下附がなく、勅語の謄本もなかったが、緞帳と御真影奉安所に要する額縁を載せる函があったので、之れを検べた所、異状がなかったので、再び奉安所に納めた。校舎の北側はだんだん傾いたので、職員室・宿直室・第一号教室等の階下の五室だけはやや安全であったが、階上は危険であった。

職員室には、重要書類・図書・重要備品を収め、鍵をかけて、絶対に他人の出入を禁じ、他の予備品も同様保管の手配をした。使丁室は危険であったから、応接室を充てた。そして宿直室にいた教員と連絡を取らして、非常時の警戒をさせた。且つ避難者の慰撫監督に当らせた。宿直・日直に関しては緊急を必要と思って、即日訓導松本次郎・使丁井上才次郎両名へ委嘱して、混乱に乗ずる暴漢の襲来を警戒した。

本校に避難したものは、午後六時までに約百二十名に達した。当日は多くは運動場で雨露を凌いだが、後には屋内に入った。依って校内に自警班を組織して警備させたが、蝋燭の欠乏には困難した。

校具室に整理した理化学用薬品類は、全部倒れて破潰したので、黄色燐・アルコール・塩酸加里・強酸類の発火し易い薬品三十五種を、備品戸棚中から取り出して、一箱に納め、更に之を運動場の一隅の砂中に二尺余の穴を掘って埋没した。

居残っていた職員は、午後二時頃、それぞれ帰宅したが午後三時頃になって近隣に一二箇所に火を発したが、本校舎は安全であった。

8 戸部尋常高等小学校
編集

九月一日、第二学期の始業式を挙げ二時間の授業を終えて、児童は全部帰った。職員も職員会の後、翌日の準備をすまして、職員の過半も帰路に就いた。時将に十二時に垂んとするに当り、突如大音響と共に大地は激震し、校舎は恰も怒濤の中に翻弄せらるる小舟の如く、倒潰せんとしては、また立直り、屋根瓦は雪崩をなして落ち、その音響さながら地球の破滅、現世の終局かと思われて、当時の物凄いことは、実に名状しがたかった。職員は倉皇校庭へ飛出した。附近の避難者は忽に校庭へ集って来た。僅かに九死を免がれて北ものもあった。

校長は最先に  御真影の奉遷を計り、強震の真っ最中、 御真影室に駈け入った。逸早く 御真影と御勅語を奉持して、運動場へ出で、三四の訓導をして、奉遷の任に当らしめ、自ら職員を董督し、大声を挙げて「 御真影は既に安全の地に奉還し、扈従の職員死を以て護衛することになって居る。最早安心である。残る所は重要書類の搬出である。火の用心をせよ。理科の薬品に注意せよ。学校から火を出しては責任上済まないぞ。夫れ之出せ。あれを運べ。」と激励し、続々起るすさまじい震動の中で、用意周到に指揮するのであった。当時居残った職員と、使丁とは、実に一身一家を忘れて、最善の努力を尽くしたのである。重要なる書類や、器具機械は、山の如く校庭に積まれた。之れに加えて避難者の運べる衣類その他のものも校庭に充ち充ちて、足の踏み場もながった。職員・使丁は飛火を防ぎつつ庭隅の器械体操場の下なる砂場を掘って重要書類を埋め、之れが焼失を免がれんことを計った。その時一訓導が大急ぎで走って来て、「隣家の火は既に南校舎屋上の一角に延焼して来た。火勢は激しく、最早や防ぐに道はない。一刻も早く此処を逃れなければ逃路が杜絶す。る」と報告したので、見上ぐえれば、南校舎は一面に火となっていた。時に一警官が馳せ来つて、「危険だ、早く逃げないと活路がなくなる。」と急き立った。一同は最早是れまでと断念し、心を残して離散した。時に午後三時頃であった。猛火は東西南の三方から迫って来た。嗚呼午前までは二千二百有余の児童共に学び共に遊んだこの楽しき学び家も、今や猛火の為に灰燼となったのある。

横浜全市は忽ち廃墟と化して、全く一毫を止めざるものが多かった。然るに我校では職員の機智と活動とに依って、砂場に埋めた学籍簿の大部、訓練簿・沿革誌・奨励旗・青年修養団旗・その他の数種は幸に無事なるを得た。是等は当時残っていた職員の犠牲的精神と、能く職責を重んじ、その本分を尽くされたるによるので、永く感謝に値するのでる。 尚本校児二千二百有余人中、圧死せる者男女二十四人、父を喪える者、家族を喪った者総計百十名であった。

9 西戸部尋常小学校
編集

九月一日は第二学期の始業式当日であったので、児童の帰った後で職員会を開いて、終ったのが十一時五十分であった。それから間もなく、大地震が起った。けれども我校は建築の基礎工事がよかったので、硝子一枚こわれなかった。教室はそれたために、明日から大掃除をしようなどと呑気な事を考えながら、運動場に出て、四辺の惨状に初めて鷲いた。職員等は直に重要書類を校庭に持出し、 御真影は職員三名で逸早く神中校庭に御還し申し上げ、万違算無きを期した。

校長として当日取りたる処置を述れば、火は午後零時半頃学校の四方に起ったので、職員・使丁・共力、重要書類とピアノとを地下に埋めようとした。警察からの注意には「西平沼瓦斯タンク爆発の憂あり」との事で、家族ある男教員は帰宅せしめ、女教員は全部神中に避難せしめた。

魔の火は三時十五分校舎の北西から炎焼し、四時全く焼きつくされてしまった。折角備えたピアノは無論のこと、土中の重要書類も、何一つ残らす影を失ってしまった。而し 御真影の安泰は何よりの幸とよろこびであった。また職員の一人も徴傷だも負わなかったことは何よりの欣びであった。

10 西平沼尋常高等小学校
編集

例により九午前七時三十分、児童は各教室に入って始業式を行い、同九時退散、十一時には職員も大部分退出したのであった。十一時五十八分、大震動大鳴動が一時に起った。職員一同は運動場や、街路に夢中で逃げ出したのであった。この時早く運動場は一面の泥海と化していた。引続く大震動にタークレーはピチピチと音して破れる。裂れ目からは盛に泥水を噴出する。日除の鉄骨は形なしに曲りくねって、鉄柱はポキポキと折れた。隣の瓦斯タンクからは妻い唸りを揚げて黒煙を捲き起した。唸りは瓦斯局で応急タンクの瓦斯をぬいたためで、黒煙は附近のコールタールの燃えたためだと、後になって判った。その時校舎は倒れなかったが、柱はゆがみ壁は落ちた。

御真影は荒波・佐藤・遠藤・角田・石塚訓導は挺身 御真影室に飛び込んだ。校長が玄関に駈けつけた時、 御真影は安全に玄関から奉遷された。同時に猛烈な第二震は来た。轟然たる大音響とともに、向校舎は倒壊したのである。流石に堅固に築かれた、 御真影室も倒れたのであった。校長は上記五名の職員と協力して、倒壊校舎を探し、人なきを確め得たので、全員 御真影を奉じて、校舎前の安全地帯に避難した。それから震動の合間合間に、辛うじて学籍簿および重要書類を取り出した。うねりの如くに大地は揺いて、やみそうにもない。その中を只一人玄関から飛び込む者があった。暫くして出て来たのを見れば、志村訓導であった。彼は夢中で下宿から駆けつけて、 御真影を出すためにとび込んだものと分った。互に無事を喜んで、見ると志村君は箸一膳を腰にさして居た。

折から「瓦斯タンク爆発せんとす。市民は早く立ち退くべし」との報しきりに来る。火は八方に起った。近くは平沼町数箇所に火の手揚り、岡野町は今火焔に包まれて居る。戸部・西戸部方面も盛んに延焼しつつある。一同は荒波訓導の家の危険に迫れるを思い、すすめて帰らせたのであった。

これより五人の職員は逃路を東海道線路に取るべく相談を定め、 御真影を奉じ、学籍簿類を負い、線路に避難した。線路は各方面の避難者を以て充満されて居る。各方面の火はますます猛威を逞うし、一同は全く火焔の包囲中に陥ったのであった。斯る中にまたもや流言あり、「瓦斯タンクは今まさに破裂せんとす」と。かくなりては、一刻後るれば逃路のなくなる恐れがある。否生命も心許ないのである。更に相談の結果、角田・佐藤・遠藤・石塚・志村訓導は「吾等死を以て 御真影を守護し、安全の地に避難すべし。校長は今一応学校の前途を見届けられよ。明朝は如何にもして 御真影を校長の許にまで奉安せせん」とてここにそれぞれ分担を定め、直ちに東海道路を保士ヶ谷方面に向って駈け出した、避難者もまたこれに従って行くもの、二百名許りであった。校長は唯一人学校に取って返したが火は既に校門前一帯の家屋を舐めて物凄く、瓦斯局方面よりの黒煙は校舎全部を覆いて、運動場さえ定かに見透せなかったのである。窓を透して職員室内を見れば、戸棚・本箱・机の類顛倒散乱して形容すべらざ有様であった。黒煙は全校を包み、火は門前より迫り来る。時方に三時三十分、校長はここに校舎と分れ去ったのである。平戸橋方面は一面の火であったので、岡野町(既に焼け落ちて余燼がなお熱かった)を浅間町に避難したのであった。

かくて五訓導は 御真影を奉じ、後についた一般避難者と共に、保士ヶ谷に走り、山中に夜を明かし、翌二日午前九時、 御真影安らかに校長宅に奉遷したのであった。 人々は全く灰燼に帰したものとあきらめていたわが西平沼小学校は、奇蹟的にも、附近五十戸の民家と共に、類焼を免かれたのであった。二日に校長はじめ職員が学校に参集したときは、罹災者続々と学校に集りつつあった。かくて 御真影の御無事なるを祝し、学校の焼け残ったのを喜び、職員児童の上を案じながら、学校で一名の怪我さえなかったことを感謝したのであった。

11 宮谷尋常小学校
編集

九月一日、震災の襲来に逢うた。第二の強震で校地の一角は崩壊し、校舎の一部六教室と物置・便所等は忽ちにして倒潰した。三教室は半ば倒れ、その他職員室・使丁室等は旧態を存するも、壁は破れ、天井は墜落して、室内に入ることは至難であった。当時児童は既に帰って、職員の大部分も帰宅の途に就いて居た。居残った職員室に三名、学校長もその一人であった。直に職員・使丁を督励し、共に応急の処置を採った。須くにして職員二名登校して助力した。市役所へ此惨状を報告しようとした。電話は不通で、使丁は市役所へ急いだ。然し中途市中の惨状を目撃し、驚いて帰って来た。

それも校舎倒潰の刹那、学校附近には倒潰家屋も見えず、初めは斯る大事変とは思わなかったからである。刻々襲う強震の間に、職員室・使丁室の火気を見廻った。職員室は今しも火鉢が顛倒し、炭火は散乱して居た。最初に之に気付いたのは幸であった。理科室の薬品も散乱して居たが、発火の憂はなかった。然し危険な薬品は他に取纏めて保管した。 忽ち学校より南方に当って火災を認めた。 御真影と、 勅語謄本とを運動場の広場に奉遷し、当直員をして警護せしめた。夜に入っては避難者の喧騒が甚しかったから、更に指揮壇上に奉遷し、高張提燈を点じて、当直員二名不寝番を命じた。

火災の延焼を気遣い、一旦散乱した書類の中、最も重要なるものを取纏め、運搬し得る用意さ手配をしておいた。

強震頻々として襲来し、避難者が門前を通過するを認めた。直に運動場を開放し、有合せの筵百数十枚を敷き天幕も張って暑熱を防がしめた。避難者の多くは素足であったから、草履を与えた。平沼町・岡野町・南幸町方面が劫火に襲われた頃には、避難者ますます増加し、混乱も一層甚しかった。少時にし青年修養団員の有志も来校して斡旋してくれた。避難者中渇を訴えるものもあったから、団員をして飲料水を汲み来つて、一般に与えた。夜に入って高島町の石油タンクの燃える頃は、紅焔天に沖し、附近の山林に映じて、悽愴の状何とも形容が出来ない。その都度避難者は附近に延焼し来りしものと誤認して三沢方面に避難せんと焦るものも多かった。職員は交互町内の状勢を視察し来つて、報導し、その安全地帯たるを知らせ、人々の安堵に努力した。又附近路傍に進退の窮せるものを認めた時は、学校に伴い避難せしめた事もあった。深夜北河視学も来校して、此現状を視て帰られた。

教員しばしば区内を巡視し、児童の避難せる様子と刻々の惨状とを視察し来たりて避難者に報導した。二日の晩を告ぐる頃、破損した校舎内に潜む者も生じたから、その危険を訓した。又一方には備品の散乱を憂いて、一切室内の出入を差止めた。然し翌日校具の保管に細心な用意をなし、比較的安全な教室を開くことが出来た。斯くして震災当時の一日は経過したのである。

12 青木尋常小学校
編集

大正十二年九月一日午前八時、第二学期の始業式を終え、児童退出後、各職員は新学期の準備を了え、順次退出して、居残ったのは本職の外、落合・明石・富田・垣迫・中山・大川の六訓導と使丁六名とで、それぞれ執務中であった。午前十一時五十八分、俄然彼の大震災に襲われていずれも運動場に避難したが、継続しての激震で、校舎は恰も怒濤に弄ばるる船舶の如く、今にも倒壊せんはかりであった。本校は若し校舎の倒壊した場合、火災の突発せん事を憂い、先ず使丁に、湯呑所の消火を命じた。そして直に 御真影を奉還せんと奉安所の前に立つと、裏壁のスジカイは突然折れて、 御真影は不思議にも本職の掌上に落ちたので、その儘奉持して、再び運動揚に出た。此時既に一旦帰宅した理科研究主任藤井訓導は、再び出校して、垣迫・中山両訓導と共に、激震中の危険を冒し、階上の理科教材室に入って見た所、貯蔵して置いた赤燐より、濛々たる白煙の昇るを認めたので、他の職員・使丁と協力して、運動場から砂場の砂を運び、燃えたてる焔に浴びせかけ、辛うじて、失火の危険を防いだが、尚他薬品の発火をも憂い、総ての薬品は全く之れを運動場の中央に搬出した。

かくて激震の漸く静まるのを待って、校舎の内外を巡視したるに、各所の壁は壊れ、スヂカイは折れ、窓硝子の破損多く、校地北側の石垣は崩壊して、地盤低下し、ために使丁室と北側校舎とは大傾斜をなし、頗る危険の状態を呈していた。が、最早や焼失の憂はないので、避難所に充つ可く示した。

午後二時頃から避難者は続々と集まって、その数実に六百名に達した。そこで、最も危険の少ない屋内体操場と、児童昇降所とに収容することとし、爾後男教員半数づつ昼夜交代して当直警護の任に当ることとした。

13 二谷尋常高等小学校
編集

震災に因りて、校舎全部は地盤と共に、やや東方に傾いたが、割合に損害は少い方であった。而かし屋根瓦は殆んど全部を振い落した。又壁の崩壊したもの約三十坪余あった。その他柱と梁または土台との間に喰違を生じた箇所が三四程あった。物置と男児便所とは、やや半潰の程度であった。当時居残った数人の職員は、協力して 御真影を校庭安全の位置に奉安して、護衛の任に就いた。また一方薬品室の危険を想い、発火の惧ある薬品全部を取出して、安全な場所に埋蔵した。夜に到るまでに約二十世帯の避難民が来たから、それ等に対する便宜等も取計らった。学校長として当日取りたる処置は当時居残って居た職員を督励して、危険薬品を取り出し、安全なる処置を為し、避難民を収容し、出来る範囲に於いて便宜を与えた。当夜は数人の職員と共に校庭に夜を明かして、 御真影を護衛し奉った。奉安所には翌二日に至って、漸く天幕を張ることが出来できて、やや完全に設備を為し得た。此夜十二時過ぎ、南吉田第一尋常高等小学校長石黙保義氏、同校の 御真影を奉戴して当校に来られ、奉安方を依頼せられた。此時校庭には避難民等の為めに甚だ混雑していたから、恐れ多いことと思ったが、切なる依頼でもあり、又あの際誠に已むを得ないことであったから、本校の奉安所に共に奉安する事にした。

14 子安尋常小学校
編集

震災の為め本校舎の大部分は破壊されて、殆んど使用に堪へない様になった。二階建校舎は倒壊し、平家建瓦葺校舎は亀裂し、廊下は墜落したが、幸にも屋根兎が大部分振落された為、僅に顛覆の厄を免れた。又平家建亜鉛葺校舎は、被害がやや軽かったけれども、土台の動揺を来し、校舎は東北部に向って八寸移動し、従って床は安定を欠き、人数の収容には甚しく危険であった。その他各校舎とも窓硝子は過半破損し、壁は脱落して、殆んど教室の用をなさない。校具・備品類は半破損し、消耗品類は大部分使用に堪へない様になった。尚運動場の日除は大半潰滅し、校地の両側には大亀裂を生じて、陥落四尺ないし六尺に至り、横に樹木が倒れた。

震災当時はたまたま鎮守一ノ宮神社の祭典で、学校は休業であった。職員のみ全部出勤して、明日よりの授業開始の準備をなし、それが済み次第、随意に退散する事となって居た。 校長は児童総代を引率して鎮守を参拝し、丁度式が済んで児童を帰し、学校の職員と残って居た所、時にあの激震、幸に本校は倒壊を免れたけれども、戸棚類の顛覆したものが多いから、校長は理化薬品中火災を生じ易いものは、清田訓導・西山訓導並に野本教員をして、之を箱の中に整理させて、運動場の一隅に移し、特に燐およびナトリウムは、土中に埋没して、保管させた。一方校長は 御真影および勅語謄本を奉安所より運動場に移し奉りて警護し、その間駆け着けたる附近の職員は、学籍簿・考査訓練簿、その他重要書類を一括して、運動場に出し、以て非常の用意をした。使丁室の練瓦竈は破壊したが、釜の水が散乱して、燼中の火を消すのには、却って好都合であった。斯くして発火の憂なき様になって、一同運動場に集まり、附近の避難民と共に一夜を明かした。

15 本牧尋常小学校
編集

大正十二年九月一日は、我が国史の上に、永久に忘れることの出来ない日であった。此の校もその災に罹り、校舎の大部分は倒潰し、その少部分および使丁室の一部分のみ、倒れんばかりに傾斜して、僅に名残を止めた。机・腰掛等の器具類を始め、理化標本類も殆んど破損し、運動場の日除の鉄柱の如きも、或は折れ、或は曲がり全く用をなさない様になってしまった。併し当日児童は全部帰宅後であった為、学校から一人の負傷者をも出さなかった事は不幸中の幸であった。

校長および職員がそれぞれ手わけをして、 御真影および勅語謄本の御奉遷、その他重要書類の取出し、重傷者池田訓導の手常等に努め居る中、東南に近く黒煙上り、猛火は忽にして附近一帯をなめ尽くし、まさに校舎に迫ろうとした。職員・使丁は学校附近の人々と共に、数町隔たれる井戸より水を運搬し来り、必死とな、防火に努め、辛うじて火災の難を免れた。一方使丁室その他の火気に注意し、理化室内の危険薬品の処置をなし、ようやく火災の憂を除いた。そこで全職員は再び 御真影並に勅語謄本を安全な場所へ御奉安申上げようと努力したるが、当時は、一挺の鋸、一箇の鉄槌さえもなく、剰さえ堅牢に出来た二階建倒潰校舎の下敷となったため、十二分の努力もその効を奏せず、遂に日は暮れて手の尽くし様もなかった。その所で遺憾ながら職員全部で御警衛申上げることに努めて、遂に夜を徹した。明くれば二日万難を排しても御奉還申上ぐべく、警察署を始め、青年団等の援助を乞うたが、当時は全市を挙げて混乱の状態であったので、その力を借りることは、到底出来なかった。しかし職員引続いての苦心努力により、遂に畏くも御尊影は勿論、御額椽に至るまで、少しも御異状なく安らげく御奉還申上げることが出来た。職員一同恭しく 御真影を拝し奉った時、その喜びは、たとえんにものなく、感極まって思わず万歳を叫んだ。

斯くして、六日市内の秩序やや整えるを幸、市役所へ御奉遷申上げることにした。即ち同日午後五時人見校長は堤首席訓導と共に 御真影および勅語謄本を奉戴し、山手本町警察署勤務巡査秋沢武氏御警衛、全職員奉送の裡に校門を出で、午後六時半、無事桜木町仮市役所に奉遷することが出来た。

16 北方尋常小学校
編集

始業式を終え、一同は十一時退した。当日の日直平松訓導は、転倒した椅子・テーブル、破壊された戸棚を乗り越え、転がる様にして窓から運動揚に飛び出た。震動は一先ず止んた。運動揚には大きな亀裂が出来ていた。それは西から東へ、幅は約一尺位もあったであろう。瓦葺の校舎(新校舎)は恰度上部から押し潰ぶされたように壊れ、途端トタン葺の旧校舎は全潰こそ免かれたが、古いだけに軒は落ちて、奉安室兼応接室の方へ寄りかかって居た。職員室から逃れ出た日直員は、唯自然の偉大さを驚嘆するばかりで、手をつけかねて茫然としている所へ、石原訓導が駈けつけて。応援によって、力を得た日直員は半潰した奉安所から 御真影と勅語謄本を取り出し、石原訓導に手渡して、窓から飛び下りた。

校長は当夜の宿直員である北村訓導、日直員に 御真影と、勅語謄本との奉還を托してから、部下職員と共に書類を運動場の真中に出した。午後二時頃、校舎の東南隅から火が燃えて来て、諸所に延焼した。水もなく、消防に従事することも出来なかったので、どうする事も出来ない。かくて遂に午後三時半、全く焼失してしまった。

御真影および勅語謄本、北村・平松二訓導により大鳥・泉と転々数度に一亘り、奉還して、泉なる吉田政太郎氏宅に奉安した。

顧うに校舎・校具は、全く烏有に帰して、何一つ残すものは無ったのに、 御真影および勅語謄本だけは幸に安泰なるを得たのは、衷心喜ばざるを得ない。

17 大岡尋常小学校
編集

大正十二年九月一日午前十一時五十八分、突如として起れる未曾有の激震に因り、瞬間に本校の建物、木造瓦葺三棟三百五十坪の建物は全部倒潰した。その時西北隅の便所の柱数本と東隅の児童出入口約三坪を残して、あたり一面に砂煙は濛々として舞上った。

此の日は恒例の職員会を開く筈であったが、都合によって延期して、職員等は概ね退散し、唯近藤善太郎氏とが居残ったが、身を以て逃れ、幸に徴傷だに負わなかった。倒れた家の屋根上を走って、自宅に帰り、家族の無事を確めた近藤訓導は、引返して、直に兵藤訓導と共に、 御真影を掘出すべく、校舎の屋根に上った。先に屋外に逃れ出た兵藤訓導、使丁を指揮して、埋没した 御真影その他を掘出すべく努力しつつあったが、此時近藤訓導の来合せたるを幸いに、倶に力を併せて瓦を除き、屋根板を破り、天井を剥いだ。けれども厚い壁士に圧され、更に戸棚の下積となった 御真影は、容易に掘出せなかった。二人が疲労困憊して居る所へ、訓導菊地原助一氏が駈け付けた。同氏は本年四月、一箇年の兵役を卒り就職せるもの、学校を距る数町の下宿に居たが、地震と同時に下座数が潰れて、二階が平家になり、下宿の妻女は圧死した。天井を破り、屋根上に抜出た同氏は梁の下から妻女の死体を引出し、狼狽せる家族を裏の畑に避難せしめた。また前の写真館から人の悲嗚をきいてこれを救助した時には、火は既に下宿に廷焼せんとしていた。それを眺めながら、単衣一枚のまま学校に馳付けたのである。二訓導に協力し、丸太を以て壁を打破り、 御真影および勅語を安全に取出すと共に、三学年以上の学籍簿と、校長の卓上戸棚を搬出した。此の時火はしばしば倒潰校舎に飛火して黒煙をあげた。附近住民は自家に延焼するを恐れて、必死と鎖火に力めた。依って一刻も猶予すべき場合にあらずと、直に校舎裏の田園中に天幕を張り、 御真影および重要書類を移し終った。時既に校舎の一部は高工方面の火に延焼し、烏有に帰し、他の一棟は附近住民の力によって火災を免れた。その夜は附近一帯に飢えたる人、子を探す母、傷者のうめき、喧々囂々たる中に、遥に天に沖する火焔を見入りながら、菊池原・兵藤二氏が 御真影を擁護申上げた。

翌二日払暁、山本校長・矢野・保谷・菊池原・秋本訓導等にり、運動場東隅に、今も残れる約三坪の児童出入口を整理して、学校の本部とし、ここに田園中の 御真影その他を移した

18 本町尋常高等小学校
編集

大正十二年九月一日は、午前七時半から第二学期の始業式と、鳥居訓導の新任式を行い、引続き第二学期の行事、その他につき職員会議を開き、同十一時終了後、或者は同学年打合せ会を開き、或者は分掌事務の整理等に従事中、午前十一時五十八分、突如大震が襲来したおりから職員室に居合せたのは、校長・森・河瀬・長崎・鳥居の五名であった。忽ち轟然たる音響の裡に、運動場の鉄骨は倒潰し、職員室に砂塵を煽り、室内は濛々として、他人の姿さえ見えなくなった。続いて同室内にあった数台の重ね戸棚・机・椅子等算を乱して倒れ出した。すわ一大事と不安の絶頂に達した刹那、室外に出た森訓導から「理科室が火事だ」との叫び声が聞えた。校長は直ちに 御真影の取り出し、消火の手配を命じた。長綺訓導は逸早く奉安室に馳せつけて、 御真影、 勅語謄本を取り出して校長に渡した。講堂でオーケストラの練習中であった関屋訓導は、駆けつけて理科室に飛び込み、半ば焼けつつある薬品小戸棚を引き出して、窓外に投げ出した。森・長崎・烏居訓導・笹川使丁等は、消火器とホースを巻きつけてあった車とを引吾出して、水道の口に取りつけたが水道は破裂して、一滴の水も出なった。校長は更に校側の大岡川からバケツで水を運んで消火すべく命じた。河瀬・関屋・鳥居・石綿・三浦等の各訓導と、片倉・荻野・笹川使丁は、全速力で干潮の大岡川から何回となく水を運んで必死となって消火に努めたが、火は壁と壁との間から階上に燃え上った。一部の者は階上から数回壁間に投水した。第二震・第三震と続けざまに来る激震中を無我無中で運んで来た水は、半ば途中でこぼれてしまって、水が足ない。火勢は見る見る暴威を逞して手の付けようがない。今は万事休すだ。出火の通知をしようと思って、電話を廻して見たが、電話は通じない。弁天橋側の交番に出火を報ずると共に、一同は消火を断念して、書類・器物の搬出に移った。此の時既に池沢・鳥居両訓導は重要書類箱の内から最重要の書類をよりわけて、校庭へ運んで居た。坪内訓導は庶務に関する諸帳簿と参考書中の得がたいものを区別して運び出して居た。河瀬・長崎・本荘の三訓導は、原籍簿・訓練簿等を運んで、階段下約三寸傾斜せる中で、汗みどろとなって働いた。関屋・中島・三浦訓導、応接室へ飛んで行って、管弦楽器を運び出して、大岡川に繋いであった船に積み込んだ。約四十分間に室内の重要なものはあらかた出してしまった。

校長は 御真影を奉持して、傍を見ると、中村女使丁が校側の煉瓦塀の倒潰に打たれて、顔一面血だらけであるから、左手に 御真影を奉じ、右手に同使丁の手を引いて、玄関前に出た。折節、大岡川に繁留せる船上に田辺訓導の姿が見えたので、 御真影を同訓導に奉持させ、固く警衛を命じ、直ちに引き返して職員・使丁の活動を指揮した。校庭に出した書類は、戸板に載せて、大岡川の船内へ運んだが、三度目に運び出した時は、もう黒煙が渦まいて、川へ行くことが出来なかった。止むなく航路標識所の煉瓦塀の内側に戸板に載せたまま置いた。此の時には市中は悉く火に包まれてしまった。校長は是以上校内に入るのは危険と見たので、一同に解散を宜し、各教員は思い思いの方向に離散した。そこで校長は松山・赤地・上田・井上・鈴木の各教員と、時沢・中村女使丁とを率いて、東横浜駅構内へ避難し、対岸から猛火に包また校舎を見たときは、感慨無量、実に断腸の思いがした。

三浦訓導、田辺の船危険と見るや、ボートを操って 御真影と、同訓導とをボートに移し、自ら、 御真影を奉持して上陸し、校長に渡した。校長は如何にして 御真影と女教員・女使丁とを安全地帯に移すべきかと苦慮した結果、万難を排して、省電高架線を越え、紅葉坂を経て野毛山貯水池に避難した。

此日職員・使丁は自身自家の危害を顧みるに暇なく、猛火の中に身命を賭したる活動によって、 御真影を無事に奉遷することが出来、六十余冊の重要書類と十余点の管弦楽器類とを残すことを得たのは、まことに不幸中の幸福であった。この半面に各自が払われた犠牲については、言うに忍びざるものが多かったと思う。

19 吉田尋常高等小学校
編集

災禍の中央にあって、最も悲惨を極めた我が吉田小学校の震災当時に於ける有様は、どんなであったろう。今、それを語るに先だって、附近の状況を一言して推測せられるよすがとしたい。

市内に於ける最も悲惨の場所といえば何人も梅ヶ枝町本願寺前を指すであろう。此所こそ我が校舎の直ぐ前で、数百の黒死体を出した所である。

伊勢佐木町方面の火は、若竹町・羽衣町をなめ尽くして、次第に電車道の方へ向って来た。東から南にかけては河岸を境に、蓬莱町方面の火に囲まれてしまった。南西の方が、僅かに長者町郵便局の建物に遮ぎられていたので、附近の人たちは、此所を目がけて集って来たが、そこも束の間、忽ちにして猛火に包囲され、数百の人々は全く逃げ場を失ってしまったのである。

大正十年増築したばかりの我が校舎は、新築された部分を残して、他は悉く倒潰した。内部には多数の職員が執務して居た。幸いに早く飛び出した二三名と他の室に居た数名とが、漸く運動場に出た。運動場には数條の大亀裂を生じ、水道鉄管は破裂して、四辺は水が一面に溢れていた。校舎の中では盛んに助けを呼んで居る。どうなることであろうか、全く夢に夢みる心地だ。校長は逸早潰れた校舎の屋根へ上って大音声に「みんな集まれ、一人も帰ってはならない」とどなった。全身血塗れ、泥まみれになって亀裂部に打斃れて呻吟している者もあれば腰部を挫折して苦悶の情を訴えつつ人の背に負さって出る者もある。女の先生などは、校長に固くつかまって、震えているのもあった。職員室の火鉢から白煙が上る。さあ大変、十有余名下敷となっている者を助け出すことが出来なくなると、一同は大騒をした。心ばかりは焦るが、障害物を取除く道具がないので、羽目板をはがしたり、柱をとったり、瓦をはいだりしたが、中々出すことが出来なかった。全く各自、中から這ひ出すより外に仕方がなかった。その中一人出で、二人現われ、それぞれ屋根裏の小孔や、緑の下から首を出す。「誰は」「誰は」と順次にしらべて行く。腰や足を圧せられた者は、出ることが出来なかった。幸いにその時、隣家から鋸を一挺探して来たので、これを持って中へ這いって行くことになった。一度揺れば共に出ることは出来ない、ぐずぐずしていれば、共に焼死するのだ。鋸を手に後の事をよろしく頼むと云って、小さい孔へ入って行く者、外で見張する者、全く生きた心地もしなかった。斯くの如っく生命がけの努力をして、全職員を救い出したのであった。中には逃るるに途なく、焼死するよりは自殺して終ろうとさえしたものもあった。

火は眼の前に迫って来た。残されているのは畏れ多くも 御真影であった。しかし奉安所は階下の中央にあって、二重張の二階の天井と屋根に押し潰されていたので、屋根を破壊して、そこへ達することは到底出来ないことであった。しかし一同は一度は取かかって、全く絶望で詮方なく、恐れ多いことながら、校庭から立ち退いたのであった。職員達は火の中を逃げて、辛うじて助かることが出来た。危険の中に倒潰した家屋の中へもぐり込んで、同僚を助け出した教員達の行為は、実に褒むべきものである。悲しいことには、当時下敷にされた教員達を助け、学校のために尽くされた校長川井氏は、大正十三年二月十五日逝去された。当時校長が云われたことをここに記す。

何とも語るべき言葉が、周囲の状況から推して、我校の当日状態を忍んで裁きたいのだ。人力を以て如何ともすることが出来なかったのは、かえへすがえすも遣撼である。唯恐憚措く所を知らない。地震後約一時間余に渉って、部下職員を督勘して、悉く救助するに至ったが、惜しい哉、 御震影奉還までには力が及ばなかった。せめて自分だけなりと、 御震影に殉じ、校舎と運命を共にしようと覚悟したが、他の者に促されて、やむなく火中を突破して、半町程距りたる蓬莱町の河岸にて徹宵泥水をあびて、辛うじて生を全うした。
思えば天殃である。何事も夢だ。骨を砕き肉を裂いて、悪戦苦闘を続けたが、その効は少なかった。その後進退伺いを提出して、その責任を謝したが、聖恩宏大にして仁慈冾く、加えるに当局の寛大なる庇護によって、辱くも不問の恩恵に浴することを得たのは、かへすがえすも有りがたき極みである。
20 寿尋常高等小学校
編集

激震襲来の一刹那、校舎の本館は約八寸地中にめり込んで、二箇所に大亀裂を生じ、大本の柱は大損傷をけた。屋内体操場の柱は、地盤上三分の二の箇処で鉄筋が曲って、鳥居形に開き、床面は約二尺五寸持上げられた。物置と、便所二棟とは、約一尺持上げられて、幾分破損した。女児昇降口と、湯沸場とには約一尺の浸水があった。運動場は平均二尺五寸程持上げられて、数多の亀裂を生じた。当時学校には当直の浅岡訓導と、女教員四名住込みの林使丁一家族がいた。帰宅の途にあった校長は、直に学校に引かえした。校長外職員一同は、先ず 御真影と勅語謄本とを捧持して、避難の用意をした。校舎南なる扇町の一廓の火が、男児昇降口に延焼するのを恐れて、その中の可燃質のものを片づけて、防火の用意をした。

午後三時頃、学校は全く猛火に包まれ、三時十分には南棟第二階第六号教室の窓から、校舎をなめ始めたが、消防の術がなかった。職員使丁の一団は、三時二十分に 御真影と勅語謄本とを捧持して裏口から出たが、熱さに堪へ得ず、一同日出川に入って、水を浴びて、火の熱さをようやくしのいでいた。

午後六時三十分頃になって、火熱もやや衰えたので、河岸に上って職員使丁の一団は 御真影を守護し参らせつつ一夜を明した。此の間に火は校舎北棟第二階の西方の窓に燃え移ったが、それは林使丁の奮闘によって消止め、また屋内体操場の内部に燃え広がった火は、我等の一団と避難者との力をかりて、場の中程までを焼いただけで、消し止めたが、南棟の十一教室と、その所属の内部、便所一棟、物置一棟、渡廊下は全く焼尽くされた。

翌九月二日午前五時三十分、我等の団は校舎内に入って、第三階の余燼を消し止め、 御真影と勅語謄本とを奉安室におさめ奉った。午前六時、避難者のために職員室、またその附属室と、使丁室とを除く外、校舎全部を避難者のために開放した。

21 石川尋常高等小学校
編集

震災当初、本校々舎は、倒壊だけは免れたが、傾斜した部分もあった。石垣は崩れ、瓦は落ち、壁・天井は破損し、器物は多く倒壊した。校長は職員と共に、先ず 御真影と勅語謄本とを校内の最も安全な所へ一時奉遷して、暫く形勢を見ていた。激しい余震は頻繁に襲って来る。附近の家屋は所々に火を発して、漸次校舎の近くに延焼しようとするので、校長は重要なる書類や、校具などの始末方を、職員に伝えて置き、職員の一部と共に 御真影および勅語謄本を奉護して、校舎外の安全地帯を選んで避難した。一方校舎内に留った他の一部の職員は、使丁と共に重要な書類や、校具などを取りまとめ、その中最も必要なものは、余震のやや鎮まるを待って、校外の安全な所へ搬出して、災害を免れしめた。

また校長は職員および使丁を指揮して、附近住民の避難し来るものを、なるべく多く収容した。初めは避難者を運動場に収容したが、日暮になって避難して来るものがますます多くなったので教室に入れた。夜の八時頃には三四百名に達した

夜になって附近に起った火災は、校舎に延焼しようとしたが職員・使丁および校舎内にあった避難者の大部は、協力して、防火に努め、また一方運動場内に植えてあった桜樹が、火焔を遮ったので、辛くも延焼を免かれたのであった。

22 元街尋常高等小学校
編集

九月一日午前七時半より八時半迄に、始業式を終って、児童を帰宅させた。同九時職員会開催、二学期に於ける教授上、事務上の協議をなし、十一時五十分終了し、四十三名の職員はそれぞれ事務を処理して、帰宅の準備をしていた。校長は応接室で衛生上のことで来校された繁田校医と会談中で、その処に若干の職員も来合せていた。時は正に十一時五十八分、大震は突如とし襲来し、校舎は激しく動揺し、硝子は砕け壁は崩れ落ちて、恐しき騒音と塵埃とは校内を暗澹たらしめた。一同は殆んど無意識に机側に止まっていたが、隙を覗い、思い思いに一号或は二号眺運動場に避難した。矢口首席訓専は玄関を出て、五六歩の所で女子部校舎の倒壊にあって之に打たれ、同僚に助けられて、一号運動場に運ばれ、青木訓導は打撲をうけて重傷を負うた。間もなく職員・便丁同じ所に集合した。女子部使丁校舎附凪使丁室にあった小笠原訓導、使丁二名とは、隙間から這い出た。女子部使丁室に在った使丁二名も、使丁室倒潰と共に下敷となったが、辛くも免がれ、いづれも怪我はなかった。職員中の一名所在不明な者があったので、一同は心配したが、後日無事避難と分った。矢口訓導は繁田校医の応急手当を受けたが、薬品も用具もないので、同校医は急ぎ持ち来るべく帰られたが、此時早や元町・石川方面に黒煙が見えた。雨天体操場・物置・手工室・便所等は悉く倒壊し、運動場には所々に大亀裂を生じた。此の間校長は職員を督して、 御真影と御勅語とを出した。一方矢口訓導を山手公園に連れて行った。再度校舎に入って重要書類を取出そうとしたが、女子部校舎も余震に倒そうで、非常に危険なので中止した。中村町の某洋館庭上竹村医師の避難所に、 御真影と御勅語とを奉遷し、負傷者も此処に移して、屈強の男職員五名と、附近居住者とにその守備を命じ、女職員三名には矢口訓導の看護を嘱した。校舎は午後三時頃になって全焼した。

23 立野尋常高等小学校
編集

震災当日は始業式で、今日は朝から天候が宜くなかった。児童は体暇前の注意をよく守ってか、時刻を違えず午前七時に千三百余名の児童が、何れも元気よくやって来た。運動場は雨に濡れて、一斉に始業式を行うことが出来なかった。直に各級の教室に入れて、休暇中に起った出末事を話したり、此学期に必要なことを極めたり、その他学課に関することに注意をして午前十時には児童、残らず帰宅さした。

引続いて職員会議を開いた後、食事を済まし、一同上衣を脱いで一休みしていると、大地震が襲来した。若い教員は真っ先に運動揚へ飛出した。二三の教員は辛うじて教員室を飛出した。その瞬間第五・六・七号の教室と奉安所二階の教室とが、往来の方へと向けて倒潰した。堅固な鉄骨の日除柱は、悉く根扱ぎにされて、而も中途から残らず折れた。職員等は崖下へ逃れて、肋木の支柱に捉って居た。三人の職員が下敷になったが、三人とも明き間から這い出して助った。 本校の校舎は道路に沿って鉤の形になって居た。それが入口の処から倒れたので、殆んど外へは出られなかった。外から中へ入ることも出来なかった。職員は一同運動場の片隅に円まって居たが、いくら御互に沈着にしようとしても、そうすることは出来なかった。而し何としても 御真影を奉安せねばならないので、数名の勇者は校長に従って、奉安所の前へと向った。梁はぷら下って柱は倒れかかって居た。硝子戸は鴨居に圧されて、とても開かなかった。戸を破って無事に 御真影は運動場の安全箇所へ奉遷された。

鉄砲場通りは家は倒潰したが、火災は免れた。稲荷湯から火が燃え出したが、幸に水があったので、近人が協力して消止めた。使丁室は幸に火の気がなかった。二三の教員が恐る恐る職員室を覗くと、危険、薬瓶棚は上から圧され、酒精瓶は倒れて居る。側に硫酸の瓶がある。小さい瓶が重なり合って戸に挟まれて居る。その中には恐ろしい黄燐の瓶もあったので、大に鷲き、硝子戸を打破して、危険物を他に移し発火の難を免れた。鉄砲場の通りは、悉く風下なので、若し学校から火を出したら、それこそ大変であった。職員達は当直者を残して、それぞれ帰って行ったが、既に遅く途中は一面の火で帰ることも出来なかった。五名の者は空しく立戻って、校長や、当直者と共に恐ろしい空を眺めながら、校庭に一夜を明かした。職員中には家屋全潰・全焼・家族全滅の者もあった。軍隊に召集を受けて、留守中に細君が産気づいて途方に暮れている者もあった。

24 大鳥尋常高等小学校
編集

当日我校では、職員室で職員会議の最真中、只ならぬ音響と共に強き振動を感ずると同時に、校舎が揺らぎ出したので、すわ大地震よと、各自外に飛び出した。併し全員が出終らない中に、西側の棟は倒潰して、屋根は地に着いた。これと前後して、東側の棟は倒潰したが、屋根は地に着くまでには至らなかった。西側の棟は運動場の方面に倒れ、東側の棟は正面の棟と接合せる部、陥没した状態で倒潰した。正面の棟は甚だしく北方に傾き、倒れそうで頗る危険であった。幸にしてスレート葺の講堂兼両天体操場と、トタン葺の物置と、便所だけは安全であった。

学校長は職員および使丁を運動場中央に集め、人員を点呼したが、幸全員無事であった。但し使丁只野庄之助のみは避難のため東部児童昇降口を出づる際、鉄筋コンクリートで作った左側の門柱が倒れかかり、これに押し飛ばされて、道路に転倒すると共に、齋藤文房具店の軒の下敷となって、腰部を打たれた。尚校長は学校から火の出ることを気遣って火気を消し薬品等の始末をした。余震にゆられつつ約一時間学校を警戒したが、幸火災は起こらずに済んだ。

本校には 御真影と勅語謄本は拜戴して居なかった。此の時既に市の中央部は大火災であり、学区内にも所々に火の手が挙がった。そこで学校附近に住める木村首席訓導を自宅に派し、その安否をうかがわしめた。幸無事であったので、同訓導を当直として、一旦各職員を帰宅せしめた。此際左の如く申合した。

  1. 一旦家に帰り家族の安否を確かむること。
  2. 家族に死亡又は負傷者あらば、相当の処置をして、急ぎ学校に帰り来ること。
  3. 家族が安全ならば家は焼けても、倒潰して居ても、直に学絞に帰り来ること。
25 根岸尋常高等小学校
編集

当地方は市街の中心から遠く離れて、至って閑静なる郊外地であり、且つ幸火災が発しなかったから、その惨害の程度も市内の他の夫れよりも比較的軽かったと思う。左に校舎被害の状況の概略を述べる。

最近(大正七年)建築に係る瓦葺二階建二教室の一棟は全潰。最古建築に係る亜鉛板葺平屋根建二教室の棟は殆んど半潰。その他の建物は屋根瓦は崩れ、壁は落ち大破損。 御真影奉安所から奉安の御函は落ちたが、異状なかった。此際に当って職員一同は皆々沈着に活動し、最善の処置をつくした。

当日、第二学期の初であったから、児童は既に全部退散した後で、残れる職員は皆屋外に逃げ出した。校長は校庭に職員・使丁一同を集めて諸事を打合せ、指示し鈴木訓導と共に校内に入り、 御真影の御安泰を確め、之を警固した。他の職員はそれぞれ各室を巡検し、使丁は火の元の用心をなす等、一切の処理を完結した。校長は今後の突発事項に処する臨機の方策につき、予め宿直員に指示を与えて、職員一同一先ず自家に帰宅を命じた。

26 磯子尋常高等小学校
編集

午前八時、鐘の合図で千二百の児童は一同屋内体操場に集って、第二学期の始業式を挙げた。蒸暑い式場であったが、生徒達は一心に校長の訓話を聞いた。式がすむと、一同は受持数師に伴われて、各自の教室に入り、教師から訓話を聞いてから、家に帰った。

職員一同は職員室に集って、第二学期初回の会合を開き、教授・訓育並に事務上の打合等、議事を終った。之と同時に、俄然恐ろしい大地震は襲来したのである。—同は驚いて運動場へ逃げ出した。屋外の動揺も甚しく、しっかりと歩くことさえ出来なかった。学校の附近の住宅は全部倒潰し、真照寺裏手の断崖は崩壊した。校舎階下の窓硝子は尽く砕けて四方の壁は落ちていた。校舎の中部は今にも倒れされに傾いていた。階下の柱は十数本折れ、玄開の庇は全く倒れて僅に門柱に支えられていたので、中へ入ることは頗る危険であった。而し幸にも雨天体操場だけは何等の損害をも被らなかった。運動場は各所に亀裂を生じ、場の一隅にあったコンクリート製の児童水呑場の塔までが、倒れてしまった。

午後一時頃、火は磯子埋立地方而に発し、おりからの烈風に煽られて、火勢ますます加わり、火焔は刻一刻学校の方へと近付いて来る。最早逡巡すべき時ではないので、それぞれ職員の部署を定め、重要書類、その他大切な物品の持ち出しにかかった。当校は未だ 御真影を奉戴していないが、教育勅語の謄本と、戊申詔書の謄本とが、下賜されてあった。余震は尚引続き止まないが、険を冒して半倒潰の屋内に入り、奉安所から勅語、並に詔書を奉持して、運動場の安全地に避難した。

男職員は屋内に闖入し、懸命に物品を提げて、窓口から屋外に拗り出し、女職員は屋外でそれ等を安全地に運び、窓掛布で包んだ。敏捷で勇敢な活動振りは、一時間はかりで重要な物件の殆ど全部を持出すことが出来た。理料室に在った発火性の薬品も、気懸りになって居たが、幸い休暇前何れも砂埋にしてあったため、何の事もなかった。これ全く当該係の周到な注意の賜である。息つく暇もなく、学校から東南の方僅に二町ばかりの所で、又もや火災が起った。その附近には同僚木村訓導の住宅があるので、男職員等は一斉に駈けつけた。そして火元の家の消火と、木村訓導宅の防火、家財の持出しとに努めた。而して火元は全焼したが木村訓導の宅は塀が焼けただけで、辛うじて災厄を免れた。若しこれが延焼したとすれば、学校は到底焼失を免れなかったであろう。埋地方面の火災も宮下方面に延焼し、五十有余戸を焼失して、川境で漸く終熄し、学校附近も全く鎮火し、最早火難の恐れはなくなったので、運動場に職員・使丁を集め、左の件を打ち合わせて、各自自宅へ帰ることにした。

  • 全校は不幸大破壊を受けたが、出来得る限りの程度で、戸締に留意すること。
  • 火に留意すること。
  • 当分の間当直員を二名に増員すること。但し学校附近居住の者で、成る可く都合して勤務に当ること。
  • 当直室は当分の内雨天体操場の一部に設くること。
  • 持退物品は両天体操場内に収容すること。
  • 家屋焼失・住宅倒壊等の罹災者は、申込に依り両天体操場に収容すること。但し当直員これを監督し、諸事の斡旋を掌ること。
  • 収容の避難者には、希望により家事科用器を貸与するも差支えなきこと。但し立退く際は*必返還せしめること。
  • 避難者収容に関する記録を設くること。

校長は校舎の破損状況を、教育課に報告するため、午後三時校を出発した。学校は市の場末にあったので、校長は横浜市が全滅しようとは思わなかったのである。

27 南吉田第一尋常高等小学校
編集

九月一日一大激震襲来と共に、鈎型二階建校舎の十六箇教室は、脆くも北西に四五尺跳り出て倒潰し、残八箇教室、職員室等の短き棟は、瓦一枚の残りもなく落ち、壁は砕れ、土台は外れて、床は甚だしく傾斜し、処々柱が折れた。殊に 御真影室附近の惨状は、目もあてられなかった。平家建の四箇教室と使丁室・下駄・傘置場・便所等の各室は辛くも倒潰を免れた。

運動場には二尺ばかりの高低起伏が出来て、所々に亀裂を生じ、泥水を噴き出して、広い八百余坪の運動場は泥海と化していた。

御真影は幸にも無事奉遷が出来た。児童は既に帰宅させた後であった。校舎・校具の全部類焼したのは、午後の二時頃であった。

此日各級教室で、始業式を行い第二学期の学課に就いての話をして、千六百三十七名の児童は、一人残らず帰えした。午前十時から教員会を開き、学制頒布五十年記念事業である児童遊園地寄附金募集情状況の報告、秋季運動会並に第二学期の行事等に就いて協議を遂げ、十一時から始業準備として、学年打合せ、教具その他の整理をしていた刹那、大震は襲来した。教員・使丁は期せずして運動場の中央に逃れ、同僚および使丁の安否を気遣うのであった。学校にいた職員は石黒校長以下十九名、使丁四名であった。

即時男教員は数組に別れて、校長組は 御真影・勅語謄本と、詔書等の奉還に従い、砂川 訓導組は学籍簿その他の重要書類の搬出、火気の始末をなし、他の組は万一同僚の中に下敷になったものはないかと、声を挙げて、倒潰した校舎の下を探し廻った。又学校附近の倒潰家屋に行って救助に努めた。訓尊府川勝蔵氏は左手頸を負傷した。各はその焦眉の任務は果したので、運動場の中央に山積した搬出物を何うしようかと憩う間もなく、学校の一方から火を発して、到底校舎は火を免れる見込はなかったので、 御真影詔勅語謄本、詔書は、石黒校長之を捧持し、学籍簿その他の重要書類は、他教員之を携帯して立退くことになった。折角持出した書類その他は地下に埋めるには、泥水があって、どうすることも出来なかった。詮方なく卓子三・四の上に置くより外なかった。学校を出た職員は、中村町の石油倉庫脇から稲荷山の絶対安全と認められた地帯に避難した。時に午後一時。「御真影はいかに奉安し奉るべきか」という問題が次に起った。平楽学校か、江吾田学校か、根岸学校かと、職員を派してうかがわしめたが何れも危険なので、唯磯子学校のみ割合に危険の程度がないので、午後七時、職員護衛の下に奉遷したが、近隣には火事はないが、校舎が倒れそうで、是また安全とはいわれなかった。かかる上は最早神奈川方面より外にないと、刑務所前ら市電線路を伝うて、日本橋・久保山・藤棚・水道路から省電線路に出て、平沼町から浅間町・青木台町を経て、二谷小学校に着いて、ようやく奉還し奉る事が出来た。校長が当日取った処置は激霙来ると共、先ず第一に 御真影を奉持した事である。次に火気の始末をして、重要書類備品を搬出した。—方職員・使丁の点呼をした。 御真影を安置する場所が定まってから、職員には帰宅を許した。女数員は能う限りその家庭又は知人の家に送った。

此の間明朋二日を期して、焼跡に集合し、応急の小屋を設けて事務所とし、日誌を備えて職員の罹災状況、立退先、罹災児童の調査等を行ってこれに記載し置くこと等を約した。

28 南吉田第三尋常高等小学校
編集

大正十二年九月一日、第二学期の始業日である。夜来の豪雨で運動場へは出られぬから、二回に渡って講堂で始業式をあげた。式後各教室の整頓をして、十時半に放課した。生徒全部の退散を待って、十一時から職員会議を開いて、本学期の陣容を整えることにした。

会議炉終って、或は事務に、或は学年打合に余念なき折しも、俄然大震動が起って立てば倒されるので、如何とも出来なかった。止むのを待って、運動場へ駈け出した。その校舎には異状なかったが、続いて来る第二回目の震動で、校舎本館の両袖は外側に向って倒潰し、運動場には大亀裂炉が出来た。

校長は一大事と思って職員・使丁全部を運動場の中央に召集した。時に二階の教室で打合せをして居た三・四の者は、両袖の倒潰した為に、降り口がなく倒れなかった棟の二階の教室の窓から、軒の排水樋によって滑り降り、又窓から飛び降りた。幸に何事もなく、三十八名の職員と、八名の使丁全員が無事であった。

此状態では市内の殆ど全部の建物は倒潰したと思って、校長は首席訓導と、居附使丁のみ学校に止めて、他の者には帰宅を促し、家庭の安全を問いて帰校する様に言い渡した。その後鳴動猶をやまず。午後一時頃になって校舎の東方、中村町北方、南吉田方面の三方に火災が起ったので、校長は居残り、職員と全力をあげて、勅語謄本、および重要書類を運動場に搬出し、火災の状況を憂慮して居ったが、川を隔てて中村町にある神奈川県揮発物貯蔵倉庫に爆発起こり、火煙朦々物凄き状況となった。時に附近からの避難者続々運動場に集り、約六百名を算するに至った。

四方よりの猛火はますます烈しく、校舎の危険刻々に迫るを認め、校長は勅語謄本を捧持し、職員に一部の書類を携帯せしめ、一部は校庭の一隅にある池の中に投入して、道場橋を渡って中村山の断崖を攀じ山上に避難し、校舎を俯瞰して居たが、遂に周囲より廷焼、忽ちの中に全部烏有に帰した。時に二時半、今は是までと校長は勅語謄本を捧持して、根岸競馬場に避難した。

29 日枝第二尋常高等小学校
編集

第二学期始業第一日、式と職員会を終り、並木校長は文部省に出頭するために第に、第一に退出し、その他の訓導中打合会等諸準備の了ったものは、前後して退出し、残った者は十六七名であった。大震起こるや、二階建の我校舎は、異様の大音響と共に瓦は飛び、校舎は上下に激しく動揺し共進橋に面した北側の校舎は、北方大通りに倒潰し、続いて東側校舎は南方校舎と共に、運動場側に、西側校舎また続いて運動場に倒潰した。不幸にも居残の職員、アワャという間に大半は建物の下敷きとなった。中にも神崎訓導は玄関口から大石・石井二訓導は職員室運動場出口から泰野・ 糸日谷・両使丁は使丁室から飛び出した共中に職員室運動場出口からは中田・小橋・北・永田・佐々木・松本・高田・山口・持塚・石垣・小野等の訓導が、相前後して這出し、また使丁室側から糸日谷使丁が這出して来た。どの顔も蒼白の上に、服も頭髪も塵や煤だらけ、中には顔や手に負傷をして、血だらけの者もあった。特に持塚・小野両氏は非常に疲労していた。持塚氏は、扶けられ体操教壇上に休息させた。一同はお互い無事であったことを喜び合った。此時近くは日枝第一小学校附近、遠くは蒔田八反目。廻坪の方面、南吉田町、南五ツ目等火の海と化していた。

突然松本訓導が『笠間君と高一の石丸・川井とが居ない』と叫んだので、一同は鷲いて倒壊した校舎の近くに駈けつけ、三名の名を呼ぶと、笠間訓導は応接室の廊下に近き所で、救いを呼び、川井等は二十五号教室の廓下に接した方に居る事が分った。その所で二手に分れて救助にかかった。その時秦野使丁は『オッ 糸日谷さん、使丁室から煙が出る、火事になる、火事に』といった。使丁糸日谷はその煙の出る所から入ろうとしたが、第一回は煙にむせて入れない。再び勇を鼓して、潜り込んで見ると、昼食の時起した火の上に、傍らに在った窓掛布と、置棚が倒れかかり、その布に火がついていたのである。火のついた窓掛を地面にすりつけて之を消し、なお火の上には灰をかけ、側にあったはバケツの水で消して出て来た。間もなく又煙が出るので、また這い込んで、薬罐に残っていた、水をかけて、全く消し止めて出て来た。一方松本・永田・佐々木・山口の諸氏は倒壊せる校舎材料の下から、潜り込むやら、下見板を外し壁を破る等して先づ石丸を出したが、川井誠一郎がまだどこにいるかわからないので、声をかけると、徴かな声で『先生早く助けて下さい。胸を挟まれて痛くて仕様がない』という。松本氏等は『おおよし、心配するな。しっかりして居れ。今直ぐに助けてやる』といって、いろいろ工夫して、板を破り、横木を折って、入ろうとしたが、大きな梁や、柱やいろいろな物が縦横に重なっていたので、容易に中へ入ることが出来なかった。此方笠間君の方も、ようやく近途を発見し、高田訓導が先導で、神崎・石井・石垣・小橋の諧君に、再び登校した松村・中沢二氏も加わって、板を剥ぎ、横木を折ったりして、居る所を見つけたが、矢張り大きな梁や、その他材料が重なり合って到底徒手では如何ともする事が出来なかった。鋸があれは中へ入れるのだがと、一同は探し廻ったが、どこにも見当らなかった。その中に石井訓導は大急ぎ、自宅に取りに帰った。一同は詮方なく石井訓導の帰るのを待つばかりであった。東北西の火勢は容赦なく近づいて来る。気が気ではない。その時佐々木訓導、何か得物はないかと諸所を探し、物置に入ってふと棚を見ると、二三日前まで物置の修繕に来て居た大工が残して行った鋸・鑿・金鎚があったので、大喜びで持って行った。その時小原訓導もかけつけた。而し彼は大男なので、中へ入る事は出来ないので、此所は高田・山口・石井・松村・石垣等に頼み、屋上に出て来ると、丁度松本訓導が出て来て、『オット小原さん此方を加勢してくれ』と頼まれたので、小原氏は二度運動場に下りて来ると、その処に六尺ばかりの鉄棒があったので、それを引っさげて、松本氏の方に行った。此所には永田・佐々木の両君が大きな障害物をのけて、段々下へ潜り込んで行く。それは中々の難工事であった。下に川井が哀れな声で『先生早く頼む』と叫んでいる。上では辛うじて逃れ出て火事見張の役を勤めていた児童の石崎が『先生早くしないと火が来ます。』と叫んでいる。それを聞いて中に居る者達は気が気でない。松本・永田二氏は下に、佐々木・石井・小原三氏は上に、木と木との間に鉄棒を入れてこぢ上げては下の重みを軽くし、下では之を伐りのけ、選りのけ、苦心惨憺、ようやくに下の二人から「サァもう一力頼む。」上の三人は「よし来た』と持ち上げた。川井が痛い痛いという間もなく助け出された。此時彼方で笠間君も已に救い出されて、西隣広場にいた。思わず一同は万歳を叫んた。尚念のため下敷になった者はないかと大声でよんで見たが、答がなかったので一同は 御真影奉安所のある所へ駈けつけて、板を剥ぎ、横木を折り、梁木をコヂ上げて中へ潜り込む道を造った。此時日枝第一学校の 御真影奉安に力を尽くした源波巡査も加勢してくれた。小柄の先生が中へ潜り込み、「アアここだここだ」と叫んだ。源波巡査は逸早く潜り込んで、両手で高く奉安箱と、勅語謄本箱とを捧げて、万歳裡に運動場に出て来て、本校の責任者は誰かと言ったので、小原訓導は小原と云って、 御真影と勅語箱とを御受取した。同巡査は 御真影の護衛に来た伊勢佐木署動務の人であった。小原訓導は一同に向かって、「諸君も各自家庭の様子御心配であろう。教員と生徒の生命は救助し、 御真影は無事奉遷せられた。各その職責を尽くされて十分であるから、速く帰って家庭を省みられよ」と叫んだ。一同は互に挨拶して家に帰った。残った者は永田・佐々木・高田・笠間・石垣・持塚等の諸訓導、児童石崎・川井使丁、糸日谷夫婦と子供一人であった。小原訓導は比較的家庭に憂いのない佐々木訓導に、今夜の 御真影の護衛を頼んだ。佐々木訓導はその言葉に感激して生命を賭けて引受けた。万一不安の場合は、使丁糸日谷等を連れて、橋を渡り、南堀ノ内町子の神社附近に避難し、なお危き時は、山中何処か安全な地域に避難せよと、小原訓導は言った。そして永田・高田、その他の諸訓導・使丁等にも頼み、家へ帰った。その後佐々木訓導等は暫く家に居たが、三方から襲い来る猛火迫って来るので、頗る危険であったので、相談の結果、高田訓導 御真影箱を負い、永田訓導勅語箱を捧持して之に従い、佐々木訓導は負傷児童川井を負い、笠間訓導· 糸日谷使丁母子、並に児童石綺之に附き添い、堀内町子の神社に避難した。岡視学その他有志から給食・給水を受けた。翌朝四時頃再び家に帰って、昨夜来東京からかけつけた並木校長と会って、僅かに焼け残った物置内の一部所を潔めて、その所に奉安し、一同ホッ卜息をついた。之れよりさき糸日谷使丁は単身学校に踏み止り、防火に尽力し、ようやくに便所と物置とを残した。之れは糸日谷使丁と、近隣の鈴木・池田氏等との尽力の賜物であるとのことである。学校南方側附近の延焼を免かれたのはけだしこれが為であろうと思われる。

30 太田尋常高等小学校
編集

九月一日、始業式はすみ、第二学期劈頭の希望多き職員会議も了え、各学年の打合せ会も終って、明日からの準備は整ったので、職員の一部は残り十余名が職員室に雑談を交わし て居た。その時である。強烈なる大震は襲来した。その瞬間はじかれる様に椅子を離れて、様子を見て居たが、ますます強震となったので、皆手近の机の下に潜った。震動はますます強く継続して、机は上下三四寸とも思われる程躍り上ったので、脚をきつく抑へて之を防いだが何の効もなかった。壁は落ちて砂煙が上った。各員皆息の音をとめて、逃げ出す機会を待っていると、轟然たる大音響は我等の耳をつんざいた。東南校舎は倒潰したのである。ああ此次はこの棟かと思えば、生きたる心地もしなかった。暫くして震動が少し止んだ時、一同は一斉に飛び出した。広き運動場の中央に逃れ出た十余名の顔色は、皆土の様であった。続々と襲来する強き余震に、残存の中央西北の校舎は、左右に揺れて、その度にガラスが雨か霰の様に破れ落ち、今にも全潰しそうである。 御真影が全員の気遣う所であった。野沢・江原の両訓導は校長指揮の下に、開閉の自由を失った窓をこぢあけ、奉安所たる応接室に跳り入り、之を捧持して最も安全なる運動場中央に遷し、三名の訓導によって御警衛申上げた。

校長は直に火の元に就いての警告を与え、各員は特に使丁室・職員室・理科室に注意を払った。

震災に伴って必然的に起る火災を懸念しつつ、倒潰校舎の屋上に上って、附近を望見すると、早くも眼前の崖上に黒煙の上っているのを見た。お三の宮・道慶橋の附近にも発火し、風は頻りと此方に吹いていた。各員は手分けをして、重要書類の搬出にかかった。机・腰掛・箱・戸棚等の顛倒して混乱したる職員室に入り込み、散乱した書類を蒐めて、学校圍の一隅に徒した。

第一震で東南校舎一棟八教室は外側に向て倒潰し、階下敬室に在った机で二階の梁を支えたが、階上教室はメチャメチャに混乱した。残存校舎は、五寸以内東南に向って傾斜し、西北校舎は被害殊に大きく、階上・階下の接合部はくの字形を呈した。雨天体操場は被害最も少く、壁土落ち、基石が三四寸移動したはかりであった。校地は外柵約九十間破壊し、土留約九十間崩壊した。備品は八教室分机・腰掛・黒板・教卓等破損、楽器理科教授用具・地理標本・家事科教授用具、食事用土瓶・茶碗等、殆んど全部破壊した。

学校長が当日なされ処置は、先ず第一に 御真影と重要書類とを校舎内外に移したことである。校内の火の元を安全にし、校の内外の警戒にあたらした。続々と起る火災に対しては、倒潰校舎の屋上に立って、十二分の注意を払わせた。蓋し万一吾校に延焼した時は、久保山・一本松・境谷より、藤棚方面に至る一帯は一嘗めにされるからである。

当夜 御真影は訓導六名を以て、運動場に警衛せしめた。

続々校庭に集る避難者に対し、夜営の個所方注につき指示した。火傷その他の外傷者に対しては、居合せたる訓導に命じ、救急薬品を以って能う限り手当をなさしめた。

31 一本松尋常高等小学校
編集

大震災当日、各職員は明日の授業準備を終えた後、職員会議を開いた。会議は午前十—時に終っが、校長および五六名の職員は、猶居残って居た。午前十一時五十八分、轟然たる大音響と共に、猛烈な大震のために、校舎は使用に堪えざる損害を被った。校舎の屋根瓦は五分通り振り落され、建物は全部東南に約三度傾斜し西南に約六七寸移動し、小使室に隣接せる平家建の部分は殆ど倒潰し、その中間の物置は引き割られたるが如く押し潰され、格納品は校地外の道路迄押し出された。男女入口の玄関は全く倒潰した。校舎内部の壁は全部剥げ、室内の戸棚・本箱等は全部顛倒し、中には全く押し潰されたものもあった。

御真影および勅語謄本奉安棚は取付の支柱離れ、本箱の顛倒せる上に落下したが、幸に内部は何等の異常はなかった。校地は各所に亀裂を生じ、運動場の中央に設けたる煉瓦積の号令台は崩潰した。運動場の前面東南に面した部分は、約三十間程崩潰傾斜し、隣地の庭囲内に士砂を押し出した。校地の周囲の石垣は殆ど全部崩れたので、貰打棚は凡て破壊顛倒した。

零時十三分頃の第 第二震の直後校長は土屋・小川・早苗の三訓導と共に、 御真影および勅語謄本を運動場中央安全の箇所に遷奉還した。また潰れたる物置内からテントを取出し、学校の事務所および重要書類の置場を作った。腰掛およびマット等を取集め、避難者の露宿所を作った。学校附近に住んでいた渡邊訓導の令息と令妹は、崩落した士砂のために生埋めにされたので、掘り出したが、二人とも助らなかった。此夜は学校備品・重要書類を取まとめ、保管には全く手の附け様もなき困難を感じた。避難者は約二百余名であった。

32 稲荷台尋常高等小学校
編集

職員全部執務中、大地震が起ったので、急いで運動場に避難した。早くも理科室の一隅から青白い薄煙の立ち昇るを認めた。すわ一大事と駈け出して行って見ると、白煙は室内に濛々と立ち籠め、薬品瓶は破砕して、四方に飛散り、劇薬が流れ出して、床を数箇所焼いていた。そこでピアノの覆を掛けたりして、懸命防火に努めたがなかなか消えなかった。ふと砂の有効なのに気付いて必死となって運んで来て、ようやく消し止めた。而し再び発火する虞があるので、破れた瓶類を運動場に搬出して、ようやく安堵することが出来た。此等作業中も余震は頻々と襲って来て、壁土は崩れ、額面は落ち、その間を見て、飛び入り、遂に事無きを得たのは、一に職員の努力に外ならなかった。又類焼の恐れがあったので、重要書類を運動場に持出した。午後六時頃危険が迫ったので、再びそれを数名の職員で、五六町はなれた裏山に運び、一夜を過す決心をした。

而し幸い火を免れて、僅か壁の崩壊と、運動場の一部に亀裂を生じただけで、校舎の殆んど全部が完全に残ったのは、天佑とは言え、多数の職員が一身を犠牲にして働いたお蔭であった。その後避難者は続々とやって来たので、翌二日備品類の保管、自警団の組織、部屋の割当、宿直職員の臨時増加等の任に当り、三日始めて家に帰った。

33 西前尋常高等小学校
編集

職員会を終わり、大部分は職員室で休憩中、突如大地震に襲われた。職員は校舎外に逃るの暇もなく、各事務用の机の下に身を潜め、暫時様子を窺って居た。此の間に職員室の机・腰掛・本箱等は倒れ、戸棚の戸は外れて、内部の帳簿・書類等は散乱し、壁は崩れ落ちた。 やや静まって、一同ようやく運動場に逃れた。連動場の西北隅約半坪は一尺余り陥落し、八角の水呑所は崩壊して居たので、地震の激烈なことに驚いた。南側校舎は北側に傾き、続々起る余震に揺られ、今にも倒れようとして居た。此時他の教室に居た職員も一箇所に集まって来た。校長は危険を侵して、 御真影室に到り、 御真影を運動場に奉安して、之を警護し、各職員は手を分けて、校舎の内外を巡視し、舎内に一人の残留者もないことを確めた。後使丁室・理科戸棚等から火を発せぬ様、それぞれ適宜の所置をした。使丁室は第一震に倒潰し、使丁福田鉄之助は腰部を打たれたが、幸軽徴の打撲傷を受けたに過ぎなかった。

その後再び職員を集め、協議の上、家庭に比較的係累の少い鈴木・久我・犬塚の三訓導は校長と共に止まって 御真影の警護、妊娠中の島津訓導の保護に任ずることとし、他の職員は一先ず帰宅の上、適当に家事を処理し、成るべく速かに再び登校することとして解散した。

かかる間に久保町および横枕方面に起った火は、漸時勢を増し、次第に学校へ近づいて来たので、 御真影を一中校庭に奉安して、暫く様子を見て居たが、各所の火勢は漸次猛烈となる計りで、如何ともすることが出来ないと見たので、止むなく校長は島津訓導を鈴木・久我・犬塚の三訓導に托し、自信は保士ヶ谷方面を経て、 御真影を自宅に奉安した。一旦帰宅した職員中、家事の始末を付けて再び登校せんとした者少くなかったが、多くは途中猛火に阻まれて、空しく引返した。既に内田・吉川・平井の諸訓導が学校附近まで来たのみであった。辛うじて倒壊を免れた校舎は、午後四時半頃、遂に猛火に包まれて、全部焼失の厄に遭ってしまった。

34 岡野尋常高等小学校
編集

九月一日はいよいよ暑中休暇も終って、第二学期の授業を開始すべき日である。始業式も無事に済んで児童は八時頃にはすっかり帰ってしまった。昨日職員会で決めた通り、従来職員は各教室に散在して居ったのを、今度は又再び職員室に集合することになって、卓子や本箱などを持運び、舎内の整頓もすっかり出来たから、十時頃になると職員もぼつぼつ退出するものもあった。居残っていたのは田川・牧野・柴山・中村・岡部・北村・長江・鈴木・島津の諸氏で、暑いので上衣を椅子に引掛け、或は事務を執り、或は維談に耽っていると、大地震が襲来した。気早な者は悠ち外に飛び出したが、遅い者は逃げ場を失って、校舎の倒れた下からようやく這い出した。運動場の真中に出ると、運動場は数十條の亀裂を生じ、泥水を噴出して、四辺は水溜となっていた。四つ這になって漸く裏門に近づいた頃、校舎は中央から地煙を立てて倒れた。早くも火は西側の理科室から発した。すわ一大事と消化に努めんとしたが、如何せん水はなし、殆んど手のつけ様がなかった。折しも二階の理科室の中に新学期の準備に夢中になっていた岡部訓導は地震と感づいた時、教室の中央まで来て見たものの、逃げ場がないので、やむなく窓から外に飛び降りた。その飛び降ようとする刹那に、足は既に地面を踏んで居た。その時は夢中であったが、後で考えれば、階下が潰れたために二階が低くなったからである。

本校々舎はもと「コ」の字形の本造二階建の建坪九二六坪で、東の袖が小使室・裁縫室から雨天体操場に連続し、西側の袖の端の二階が理科室になって居た。大正九年十一月に公費拾五万壱千九百円で建て、未だ新らしいもので、敷地は岡野町一、一五六・一、三五六番地に当った地である。元此は岡野新田という埋立地であったから地盤は極めて弱く、そのため校舎は倒潰したのでもあろう。その倒潰した有様は、中央から両袖は割合に高く残って居た。殊に雨天体操場はそっくりそのままの様であったが、床板は波を打った様に凹凸を生じ、正面に掲げてあった開校当時の進徳修業と書いた本県知事井上孝哉氏筆の額面が独り淋しく架っていた。

失火は理科用薬品からで、火の廻り方も風に煽られて、随分早かった。雨天体操場から運動場に出ようとしても、既に火は西側の数箇教室をなめているので、熱くてとても出られなかった。重要書類や、必需品のある中央の各室は、殊に甚しく潰れているから、どうしても中に這入り様がなく、見る見る総てのものを燃いてしまった。新林・横山の両訓導は、雨天体操場までは這入ったが、如何とも手のつけ様なく、来合せた柴山訓導と共に傍観していただけのものであった。危きを免れて校舎より逃げ出した職員も、同様手のつけようなく傍観していた。発火より約三十分間位で、校舎は全く灰燼に帰し、久芳前校長初め二十数名の職員が、開校以来四箇年の間設備の完成と教育の徹底とに努め、漸く一廉の学校になりかけた矢先、此災厄に遭って、総てを烏有に帰したのは実に残念である。久芳前校長は全校焼失について、当日早速教育課長までその旨報告した。本校にはまだ勅語の謄本と 御真影の御下賜がなかった。校舎内に於いては一名の死傷者を出さず済んだ。しかし後になって調べると、職員中には一名の死傷も無かったが、使丁一名児童十一名の死者を出したことが分った。

35 神奈川尋常高等小学校
編集

校長は椅子を離れて立ち上がり職員室に入って行くと同時に、大地震は襲来した。室内の器物は一斉に転倒した。校長は窓際より数えて三ッ目のラーブルの下に潜った一刹那、大音響と共に二階建指金型の木造大校舎は脆くも倒潰し、東側は東に、南側は南に予定の方向に瓦解した。圧死を免れた校長は、意を決し、そろそろ体を起して、左右にある支障物に両腕をかけ、渾身の力をこめて躍り出した。此時第二震襲来したが、恐れては居られないので、散々に破壊した校長室へ闖入し、有合した鉄瓶を取るより早く火鉢に傾けた。更に職員室の大火鉢を見ると大鉄瓶がひっくり返って、火は消えて居た。横尾・北條の両女訓導は宿直室の寝台下に潜って居て、倒潰のために額面を圧し付けられたが、蒲団と寝台の鉄欄に支えられ、負傷は免れた。左右が暗く方角を失い、僅かに一條の光を便りに、掻き廻りながら、漸くの事で這って出て来た。顔色蒼く心神共に疲れ切って、歩くのもやっとなので、気絶でもしては一大事だから、いろいろ励まして、元気を取り取返えさした。安仲訓導は背部を打たれたが、急所をはずれ、職員室内を這い回り、救いを求めて居た。「若い者は自力に頼れ、横尾も北條も自分で脱け出した。』大声で叫んで元気を附けた。やがて彼は難関を突破し、他力に頼らず、遂に活路を開いて出て来た。

並木訓導は窓際に近いテーブルに執務中、一瞬の問に五寸角の大柱が倒れて来て、左腕は無惨にも確かと押え付けられた。「腕をはさまれている助けてくれ」と悲鳴を挙げて居る。校長は運動場に走出て、長九尺棒を二本小脇に引抱え来り、当の棒を挺として持ち上げようとしても駄目であった。二度切歯してやって見たが、矢張甲斐がなかった。「鋸」と校長が大声で呼んだので、横尾・北條の女訓導は京浜電車の高土手を匍い昇り飛び下り、「鋸、鋸」と連呼したが、更に応ずべき人がない。「先生が一人助かるのだから」と懇願すると、「なに先生が」と叫んで、大鋸を出して呉れた者があった。幸来合せたる寒川訓導が活動を始めた。水谷首席訓導は辞去して帰宅の途中、仲木戸停留場の石段を昇り終った時、突然大地が震動し始めたので、危く倒れかかった。左を顧ると黄塵天に満ち、神奈川小学校の姿は薄く見えて居たので、家に帰る時ではないと悟って、再び引返して学校に来た。手と足とで這う様にして帰校した。鋸は手に入るし加勢は出来たので、一同力を得た。水谷首席訓導は大活動をした。倒れた柱を真中から切り障害物を切り除けた。棒を二本重ねて突込んで、渦身の力を入れてこじり上げた。その機勢で並木訓導の右腕は柱から取れた。新井女教員は二階の教室でミシン裁縫中、逃げるも自由ならず、校舎と共に倒れる途端、幸い屈根が口を開き、逃路を与えてくれたので無事に裏庭に飛び降りた。袴を鍵裂したるばかりで、負傷もしなかった。三杉女訓導の生死は一同より憂慮せられたるも、同氏は直覚的の気転に出口に方向変換したるため、危き生命を取り留め、一心不乱に自宅に帰り、老母を慰めることが出来たとの吉報に接して安堵した。

当日は第二学期始業だったので式を挙げ、校長の訓話があって、午前十時迄に児童は全部退散せしめたことは、何よりの幸であった。職員二十余名は午前十一時半迄に帰ったので、災厄に遭った教員は校長外六名であった。引返して共力奮闘したる者は、二名である。全市が火の海に化した時には、教員は自由行動を取ったが、校長は只一人居残った。

校長は獲物を提げて、倒壊校舎の胴腹に入口をこじり明けて火災の襲末に注意しつつ、目的に向って猛進した。 御真影奉置所はいつこかと探したが、思ったより奥深かった。梁が落ち重なって書類箱等がちらばっている所に不思議にも奉置所はあった。漸く奉置所に近づいて、謹しんで奉還の止むなきを言上し、勅語謄本と共に 御真影を袱紗に包み、捧持して校長の私宅に奉遷した。そのときの校長の心情は感泣以外何物もなかった。絶大威力の天災に遭遇して、僅かにテーブルの下に跼まって、万死に一生を得、職責を果して最後に妻子の安否を見た校長の行為は、実に立派なものである。尚校長は日光は如何、東京は如何と御案じ申して居た。

36 浦島尋常高等小学校
編集

一生涯に復とない一大悲劇が産み出された一瞬間であった。此日は鎮守祭のお休み日であったが、職員は夏休中から着手されていた教具の製作のため、四五名が職員室で一心に働いていた。そろそろ食事にするかなと、同僚が言っているのを、聞きながら私が体をテーブルから離したその一刹那、グラグラと大きな動揺と嗚動とが来た。「地震、地震」 そこにいた者達の姿は、いつもの地震とは異るような気がしたのであった。私は最初ハッと思った。たいしたことはあるまいと、テーブルの傍で躊躇していたが、すぐと外側の窓に飛び上って。柱につかまって形勢を窺っていた。もっと激しくなって来たら、柵を乗越して道路に飛下りる積なのである。

その時向側の倉庫裏の空地、女使丁が泣きわめく子供をかばいながら泣いていた。日直の女先生もふるえながら窓際に立っている。二三の人が混って、何れも青い不安な顔をして語合っている。乗っている窓がゆらゆらして六七秒間の後、大音響と共に表玄関の廂が微塵になって落ちた。一同は窓から飛び下りて道路へ飛び出した。

私は仲間を探すため、使丁室の入口から這って運動場へとぬけた。そこで不安な顔と顔とが見較べられ、度胆をぬかれたことを無言の中にいいかわされていた。復もグラグラ足元の大地が波をうったと思うと、大亀裂が生じた。校舎がつぶれでもしたら、此処に居るのは危除だ。何時まで揺りつづけることか。今に大地が抜けるのではないかと、前途甚だ不安を覚えざるを得なかった。

御真影も勅語も奉戴されていなかったので、とにかく校具を持出そうということになった。せめては重要書類だけでもと、職員室へとすすんだ。近よって見ると廊下側の柱は全部折れて、三四十度に傾斜している。天井は今にも崩れおちそうで有る。天井と床との間は鰐の口のようにもの妻く見える。勇気を起して、幾度かはいったが、小さな余震にでも脅かされたような気で、すぐ飛出すので、到頭何物をも持出し得なかった。火さへ出さなければ、品物を急いで持出すこともなからうと考え直した。それで理科室その他の発火の虞がある要所々々を検めることにした。

それで一先ず引上げて、踏切まで出ると、背後から「先生々々、学校は焼けます。製綱が火になりました」と、命からがらぬけ出した相な職工らしい男が注意してくれた。言われるまま、つ卜見ると、黒煙濛々として早くも紅蓮の炎は工場をなめつつある。一同は再び職員室にとって返した。今度は道路側から棚を破り、窓から闖入した。

皆々猿渡して取出す手配についた。這入って見ると戸棚は破れて、中味は八方に散乱して雑然名状すべからずという様である。戸棚を起す勇気もなければ、品物を鑑別する余裕も勿論ない。学籍簿を手はじめに、手当次第に持出された。午後三時恨めしくも製綱会社の猛火は校舎を焼きつくしてしまった。

(以上震災と教育)
(附)公立小学校被害一覧
編集
校名 被害程度 損害額 職員死亡 児童死亡 災前職員 災後職員 災前生徒 災後生徒
横浜小学校 全焼 219,000 85 23 21 1,193 454
老松小学校 192,700 40 30 27 1,395 535
南吉田第二小学校 210,700 1 50 31 30 1,797 800
日枝第一小学校 167,800 25 23 23 1,298 683
南太田小学校 大部倒壊
一部大破
182,200 1 2 23 21 1,376 1,880
平楽小学校 全焼 162,100 1 7 21 19 1,223 82
江吾田小学校 大破 82,500 1 16 14 906 840
戸部小学校 全焼 255,400 19 42 42 2,243 1,227
西戸部小学校 148,800 6 20 20 1,052 744
西平沼小学校 全潰 184,900 14 30 29 1,607 1,191
宮谷小学校 一部倒潰
一部大破
76,500 2 16 16 691 680
青木小学校 破損 65,900 2 32 31 1,923 1,885
二谷小学校 大破 21,000 1 27 25 1,552 1,493
子安小学校 95,500 15 15 893 904
本牧小学校 全潰 149,700 1 5 20 17 1,201 1,115
北方小学校 全焼 149,200 11 20 20 997 642
大岡小学校 一部焼失
一部倒潰
148,900 5 21 19 1,103 962
本町小学校 全焼 233,200 84 24 23 1,269 550
吉田小学校 278,600 3 137 45 38 2,554 1,176
寿小学校 一部焼失
一部大破
78,500 1 38 35 34 1,975 1,055
石川小学校 大破 118,000 12 28 25 1,585 1,264
元街小学校 全焼 271,600 2 145 45 41 2,602 1,044
立野小学校 一部倒潰
一部大破
124,200 5 26 26 1,387 1,064
大鳥小学校 大部倒潰
一部大破
183,700 6 24 23 1,189 1,033
根岸小学校 一部倒潰
一部大破
102,000 4 25 25 1,324 1,091
磯子小学校 全潰 172,800 8 21 20 1,189 948
南吉田第一小学校 全焼 198,200 84 31 27 1,684 805
南吉田第三小学校 290,800 19 37 37 2,000 1,316
日枝第二小学校 207,900 1 21 32 31 1,801 1,107
太田小学校 一部倒潰
一部大破
194,500 1 12 31 29 1,867 1,134
一本松小学校 87,000 8 32 29 1,777 1,062
稲荷台小学校 破損 41,600 5 27 25 1,503 1,127
西前小学校 全焼 165,200 5 28 25 1,449 1,066
岡野小学校 207,600 11 31 30 1,733 1,149
神奈川小学校 大部倒潰
一部大破
199,500 5 30 30 1,705 1,664
浦島小学校 全焼 243,900 6 34 34 1,919 1,714
(計) 36 5,912,600 15 903 997 941 54,962 37,515

第3節 私立学校

編集
(災前は八月末災後は十二月一日調とす)
校名 被害程度 学級数 生徒数 授業
開始
摘要
災前 災後 災前 災後
本牧中学校 半潰 8 4 389 283 10 15
中学関東学院 全潰 13 10 546 372 10 15
浅野総合中学校 全潰 11 5 423 304 10 1
神奈川高等女学校 傾斜 15 12 841 735 10 1
横浜高等女学校 全焼 18 18 802 395 12 10
横浜英和女学校 半潰 9 5 306 240 11 1
フェリス英和女学校英専 全焼 2 1 631 440 13 3 卒業すべき組は
11、15授業開始
同本 全焼 12 7
共立女学校 同上 6 1 230 11 8
紅蘭女学校 同上
捜真女学校 傾斜 9 9 312 316 11 6
日之出女学校 全焼 4 2 200 42 11 1 災後児崎高等女学校
ト改名
光華女学校 全損 130 70
横浜裁縫女学校 全焼 130 58
戸部裁縫女学校 同上 130 92
酒井助産婦学校 同上 140 40
横浜英語学校 半焼 230 120
三留義塾 破損 100 50
大同学校 全焼 380 13年2月には開校の
見込み立たざりき
中華学校 同上 117 13年2月には未開校の
見込み立たざりき
華僑学校 同上 245 同上
至成学校 同上 51 同上

備考 私立校は凡て生徒百名以上を有せるもののみを掲ぐ

第4節 横浜市図書館

編集

横浜市図書館の建設は、市民多年の希望に基き、大正八年十二月中、本市開港六十年および自治制施行三十年の記念として、久保田前市長が計画せられしに起原、本建築出来まで図書の蒐集、各般の準備に従事する外、兎に角その側ら公衆に対して読書の便を与えんと、大正十年六月より、横浜公園内の図書館建設事務所を仮閲覧所にあて、内外の閲覧を公開し、同十二年八月には、蔵書数概に約一万四千冊に達し、不日市会に本建築着工の議案提出せられんとした瀬戸ぎわに至り、突然古今未曾有の大震火災に遭遇し、建設一切の計画も準備も全然根底より覆滅せられたのは、意外とも遺憾とも、何とも言明のなしよう無き次第である。

当日は暁来蒸暑く、然も強風吹き荒み、驟雨至り、幸に九時頃に雨やみ、青空を見るに至ったが、風は尚お穏かならず.午前八時平常の如く閲覧を開始し、閲覧人は陸続入場して、直ちに満員を告げ、館員はそれぞれ分担の職務に就いて居た。既にして正午間近と思った刹那、何処よりともなく雷鳴の如き異様の一音響が起ると同時に、大地は突然波打つ如くに大震動を始め、次に上下動に数回烈しく激動てし、今にも家屋倒壊、棟梁整落し来らんかと疑われ、無意識に閲覧室に向って再三「早く逃ろ」と絶叫し、デスクの下に屈みて、ここなればたとえ梁木が落ち来るとも多少安全と、暫時辛棒した。時に正午過ぎであった。震動少しく止んで回顧すれば、図書室二室に装置の書架八列は悉く倒壊し、之に整置の図書は、恰も洪水の氾濫したるが如く、室内に散乱横溢し、閲覧室および事務室に据付けの貸付台・新着書架・閲覧用目録箱・雑誌棚・事務用戸棚等、一として顛倒せぬものはない。然して感心なりしは此の間に処し図書を貸付係に返戻して行った閲覧者もあったが、多数は卓上に遺したるまま、戸口または窓より飛び出して逃れ去った。なお閲覧人および館員にも一人の怪我人がなかったのは、まことに不幸中の幸であった。

激震と同時、水道の鉄管が破裂したとの事で、建物北東側の周囲、および湯沸所便所に濁流滔々と襲来して、忽ち脛を没する程となった。また向側市役所裏手と、外に三箇所より火の手揚り、スワ火事との報知に再び喫驚したが、市役所は煉瓦造の大建物なれば、火勢は之に支えられて焼け止まり、殊に道路を隔てて居れば、延焼は多分免かるるだろうと推測し、先づ館員を督して、壁間に図書器具等を取片付けさせ、各室の通路を開き居る中、意外にも豊国橋の発火は拡大し来り、加うるに南西の風力一層強烈となって、港橋向うより火片紛々飛来し、震動で破壊せし戸口並に窓の透間より舞込み、俄かに危険状態を呈したので、各室を駈け廻わって鋭意之が防禦に努めた際、道路に面した西側、社会課分室内よりいつし発火し、同時に南側の窓下に何人が持込んだものか箪笥の抽斗が二個あって、その内の衣類に飛火して、炎々燃え上り、その火焔は軒先の破れ目に移って燃え出した。是に至って最早一つの消防器具も持たぬ者には、何等施すべき手段なく且つ煙は既に室内に満ち、火気は身に迫ると云う有様であるので、無限の憾をいだいて少許の書類と館印等を携帯し、公園の中央さして避難した。

我が仮閲覧所はかく不可抗力の火災のために遂に焼失した。その損害高は建物・図書・備品その他、閲覧用器械器具を合せて、概算五万円に上る。建設資金寄附者に対し、将た図書寄贈者に対しては、甚だ遺憾の意を表する次第であるが、幸に未だ本建築に着手なき前だけに、その其損害の僅少であったのはせめてもの幸にして、之を以て諒承を請うの外はない。蔵書は前陳の如く三年末蒐集して、漸く一万数千冊に達した際であったのに全部燼滅に帰したのは、本市に取って真に一大恨事であった。今更言うも死児の齢を数えるものであるが、この焼失図書中には和漢書の部では、蒐集に多少苦心せしものがあり殊に、岡野町石川ゆき子夫人の寄贈に係る和装の群書類従六百六十六冊の如きは領収して二十三日目に焼けたのは、洵にお気の毒に堪えぬのである。また洋書の部には、千八百年より同五十年まで続刊された仏語註訳蘭人ジャン・コップス氏著のはバタヴィア植物史十冊、千八百四十年頃の発刊と思われた伊太利文の欧洲著名の寺院建築調査書の如き稀覯のものもあった。

さて図書館の復旧は、片時も忽緒に附すべきに非ざるは勿論にして、然も災後衣食住の救護は行届きたりとしても、耳目を悦はせ又は精神的に慰安を与える機関は一つもなく、又二つには荒びたる人心の安定を計るには、此際読書にしくもの無しと信じ、取り敢ず、収容はバラック二三箇所に、図書閲覧所の急設を提案し、先づ図書の蒐集に着手したが、何分京浜間の重なる書店は殆んど悉く惨禍にかかり、図書の蒐集に非常の困難を極めた。然るに佐賀図書館・大阪市立図書館等に於いて此の間の事情を洞察し、深甚の同情を寄せられて、本館救援の趣意書、ポスター等を作って、その地方地方に於いて広く一般公衆よ募集し、多数の図書維誌を寄贈せられ、また罹災を免かれた県下および市内の篤志家諸氏よりも寄贈を辱うせしを以て、右の中より閲覧用に適するものを選択し、基礎本となし、之に購入図書を加えて、十一月下旬、市内中村町石油倉庫跡の収容バラック第十三号内に閲覧所を仮設しし、十二月十六日より閲覧を開始した他の揚所にも開設の見込を以て多少奔走したが、何れのバラックも使用は既に約束済であったので、止を得ず中止した。

引続き本年一月、今の仮本館が公園内に建築せらるることになって、直ちに着工され、三月二十日竣工した。同建物は念入のトタン葺はバラック式平家建四十八坪七合五勺にして、内関覧室十八坪、図書室兼事務室十八坪、玄関児童室七坪、関覧人休憩室三坪その他は使丁室および製本室をかねた物置であって、あまり広くはないが、然し採光通風の点には注意を払い、冬季は暖炉を据付け、その他読書子の出入して差支なき丈けの設備は施してある。又閲覧人は児童を合せて、同時に四十余人を容るることが出来る。蔵書は全部震災後に蒐集したものであって十一月末現在にて七千四百余冊となり、(内寄贈書五千四百余冊、購入書二千冊)その他は児童図書分館備付並に整理未済の和洋書などであから、経済の許す限り、時代に順応の新刊書は勿論、閲覧人に必要と認める参考書等の備付けに努めて居る。和漢害の整理が一と通り終われば、洋書も備付けて閲覧に供する見込みであるが、手不足のため、諸事遅延するのは已むを得ぬ次第である。

ここに記事の順序として、閲覧状況を一言すると、客臘より本年三月末に至る、中村町閲覧所に於ける開館日数九十日間の閲覧人員は、二千九百十人、貸付図書冊数五千四百六十六冊、四月十六日、公園内仮本館に移転より十一月末に至る開館日数は二百十三日、内外閲覧人一万五千二百十五人、一日平均七十七人、之に貸付の図書冊数は五万二千八百十九冊、一日平均二百四冊、一人平均二冊七分の割合であって、この中、館外閲覧は九月一日より復旧施行し、日尚お浅きため、帯出承認を与えた人員七十余人で、三箇月間の貸付図書は千百七十一冊である。また中村町閲覧所も分館として、その後も引続き開所し、四月以来の閲覧人は累計五千三百五十余人である。尤も同所は館員の都合が出来ぬので、毎日半日の開館である。

閲覧人に就き震災後特殊の現象と認められべき事柄は、普通図書館には最多数である学生の数に比較して、商工業者・会社員・職工・船員・無職業者等の数が著しく増加し、去る十月十一日の如きは、統計面に学生の数を超過せる事実が現れ来たった事である。即ち十月は学生二割四分、商工業者二割九分、無職業者三割一分、十一月は学生二割、商工業者三割三分、無職者三割と云う計数を示して居る。是の二箇月は短日となり、学生は来会の余暇なきに反して、一面商工業者・会社員・労働者等、近来智識慾増進し、図書館の利用を認め末った結果、是の如く増進したに相違はないが、是等階級の人々にして、僅少の時間を繰合せ、来館するに至るようになったのは図書館のために、最も悦ぶべき現象にして、社会教育に対する図書館の効用が一層拡充されたる一つの例証と看らるるのである。

(震災と教育)

関連項目

編集