第1章 横浜市大震大火災の概況

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第1節 激震の突発

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九月一日、この日は、夜明け頃から天候が穏やかでなかった。六時頃驟雨が急にひどく降り出し、風も多少出て来て、一時荒れ模様であったが、二百十日の前日だからと、誰しも思ったくらいのものであった。ところが、九時頃から雨はすっかりやんで、風も和いで澄みきった大空に、太陽は美しく輝いていた。初秋の気持をしみじみ感じた。よもやあんな恐ろしい大地震が来ようとは、誰しも思わなかったろう。それは午前一分十五秒の時で、丁度どこの家でも昼飯の頃であった。突然どこからか遠雷のような地響きがして来たと、思う間もなく大地は大波のように揺れ始めて、あの恐ろしい上下動の激震が襲って来たのである。表に逃げ出した時、総て地上の物が破壊されてしまったのを見ると、人間生活の終りではないかとさえ思わずにいられなかった。官公衙・会社・工場・学校・寺院・大商店・住宅等は第一震で殆んど倒潰した。続いて水平動の激震に建物は全部破壊されてしまった。倒潰しなかったのは、コンクリートの完全な建物と、場末の好い地盤の上に立っていた家屋とであろう。正金〔銀行〕の建物はかなり破損したが、川崎銀行の建物だけはびくともしなかった。なおまた道路・軌道・空地等に亀裂・陥没の出来たことはおびただしかった。ことに川岸に多く道路が川の中へめり込んでいる所が少なくなかった。水道鉄管の破裂は勿論で、高島町・平沼町・横浜公園等は膝頭まで出水したのが、かえって避難民は幸いであった。橋は殆んど破壊するか、焼け落ちるかした。埠頭の大桟橋さえ一部破壊されて、海中に落ち込んでしまった。なお港の岩壁も所々亀裂を生じて、海中に落ち込んだところは少なくなかった。当時横浜船渠会社では、建造中の軽巡洋艦那珂の艦体を破損した上に、艦内を全部焼き払われた。水道・瓦斯管の破裂、交通・通信機関はいうまでもなくことごとく杜絶した。震動が如何に激しかったかということは、軌道レールの切断したことや、各所の電話地下線マンホールが数尺も位置を転じたのを見ても、また掃部山の井伊大老銅像が四十五度も横向きになったのを見ても知れる。家屋が倒れたのはトテモ早かったので、逃げるひまもなく下敷になった者が非常に多かった。しかし運のよい者は自分で這い出したり、人に助けられたりしたが、あるいはそのまま圧死し、あるいは生きながら焼死した無残な人達が沢山あった。市の中心である関内方面は、開港以来の埋立地である。従って地盤は弱かったので、倒潰が非常に多く、一建物で、十数名あるいは数十名の圧死者を出した所がたくさんあった。ことに横浜地方区裁判所などは所長以下の判検事・吏員・弁護士その他百余名が圧死を遂げた。横浜郵便局では局員九十名、税関では吏員・傭人約五十名が無残な圧死をした。当日大桟橋には、正午解䌫(カイラン:出帆)のコレア丸が横付けになっていて、数百人の見送人が船を見上げて別れを惜しんでいた時であった。その時轟然たる響きと共に、桟橋は半海中に落ちたので、見送りに来て溺死した人が多かった。元来海岸通りという地は、まるで西洋の港の町へでも行ったような優美な街であった。外人の邸宅や、外人倶楽部など、港に面してつらなっていた。中にもオリエンタル・パレス・ホテルや、グランド・ホテルの立派な建物が人眼を惹いていた。この二つのホテルは、各国外人の泊り場所であった。ある夜には華やかな舞踏会が催され、在留外人や旅の外人たちの楽しい遊び場とされていたところである。永い間外人達の楽しい夢を宿していた二つのホテルは、無残にも崩壊して、各々数十名の内外人も傷ましい圧死を遂げたのである。同町の一部で南京街といわれていた支那人の居留地は、とにかく横浜港の名所であった。道路狭かった上に、建物が古い赤煉瓦造りだったので、その被害は非常に大きなもので、総在留者の三分の一強、即ち二千人の死者を出したのである。町内でこれほど多数の死者を出した所は横浜市にはなかった。その他山下町に居留する欧米人の中に多数の死者を出し、その中には領事・紳商などもあった。埋立地である上に、家の入組んだ関外方面や、伊勢佐木町あたりもその被害同様に甚だしく、一家全滅の悲運に遭った家は少なくなかった。真金町・永楽町両街の遊廓では、一千人の娼妓の中、三百人の焼死を出したのである。高島町界隈の工場地帯でも数多の死者を出した。蒔田・大岡・滝頭・磯子・藤棚・神奈川・子安等丘陵近くの地域も、倒潰家屋を多く出したが、被害は割にすくなかった。市の三面をめぐる丘陵地の街々は、一帯に地盤堅かったので被害は甚だしくなかったが、欧米人の住宅地であった山手町の一帯は、丘陵地であったに係わらず、被害の甚だしかったという理由は、土を盛り上げた地面が多く、その上に病院・学校・教会堂・邸宅・ホテル等大建物が建てられているので、一堪りもなく倒潰したのである。そのために欧米人の教育家や、宗教家が少なからず圧死した。

第2節 猛火の襲来

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恐ろしい大地震に人々は生きた気持がしなくなっていたおりから、市内の数十箇所から殆ど一斉に発火した。早いのは直後、遅いのは一時間位して発火し、関内・関外・戸部・神奈川・山手到る所に黒煙が濛々と立ちのぼって来た。県測候所の調査によると、発火の場所は明確なだけでも二百八十九箇所という多数であった。その理由は丁度午餐の炊事時分であったからだろう。中には薬品の爆発から発火したものもあった。発火するや間もなく、強い西南風が吹いて来たので、火はたちまちに猛威を振って、全市を嘗めつくそうとかかった。この時さらに大旋風が各所に起ったので、火勢はいよいよ加って午後五時頃には関内・関外を初め、戸部・平沼・山手・蒔田・大岡・北方・根岸・本牧・神奈川・子安等全市の大部分は火の海と化したのである。県測候所の調査によると、当日の旋風が起ったのが明らかなのは三十箇所であったと云う。この恐ろしい火災の中に、人々が逃げ迷う姿は何という無残な様であったろう。あまりに火が早いために、親は下敷きになった我が子を眼の前に見ながら、どうすることも出来なかった。夫婦も兄弟も、骨肉はみんな一生にない苦しみを互にし合ったのである。あくまで助けようと思って、折角助け出したもの、逃げ遅れて途中に焼死した者も沢山あった。逃げ遅れた人でも、火の中をうまく通りぬけて、逃げ場を探し得て助かった人もあった。また港内に碇泊中の船舶に助けられた人も沢山あったが、家屋が倒潰と同時に圧死し、焼死した者は数限りがなかった。避難地へ行く道となっている橋が焼け落ちていて、どうすることも出来なくなって、川岸の舟に飛び乗り、舟諸共に焼かれて死んだ者もあった。揮発庫・石油庫などが爆裂して、水面にも火が流れ、艀船や荷物船が多数焔に包まれて、これがために爛死をした者も多数あった。ここに各警察署の管轄区に分けた死者の概数を記載しよう。伊勢佐木署管内はその数約一万一千人、加賀町署管内は四千五百人、寿署管内二千三百人、戸部署管内二千二百人、水上署管内一千三百人、山手署管内七百六十人、神奈川署管内百三十人、合計二万二千余人、このほか行方不明の数は約二千人であった。右の死者および行方不明は、総計数に依ると、全市の人口を約四十五万として、百人に対して五人の割で死んだ訳である。こんなに多くの死者を出したのであるから、吉田橋と大江橋と同様に、万国・谷戸・山下・鶴・車などの橋々が焼失をしたとしたなら、どれほど出したかも知れない。それは各方面へ逃れた避難者にとって実に幸いなことであった。なお当日は、暑休明けの日であったので、各学校は、いずれも始業式を挙げ十一時前後には、全生徒は帰った後であったので、何より幸いであった。全市の小学児童数約五万四千人の中に死者九百十六人を出し、教員数九百九十七人の中、死者二十一人を出した。当時火勢の猛烈であったことはいうまでもないが、風力の強烈さには驚かざるを得なかった。横浜の記(シルシ)ある各種の印刷物などが八里九里の海上を飛んで、遠く房総地方に落ちて来たという事であった。県測候所員の談に、当時所長も不幸にして死し、観測器械もすっかり焼失してしまったので、風速は測ることは出来なかったが、最も強かった風力は、烈風五の程度で、旋風を生じた時には、颶風(グフウ)は六の程度あったとのことである。この日は大空に積雲(キムラス)が起こって、青空は深くとざされたので、人々はまた何か天変があるのではないかと一層恐怖した。黒煙と塵のために銅色となった太陽は、時々現れて、異様な光を放った。生き残った人々は、何かもっと恐ろしいことが起こる暗示ではないかと戦慄した。かくて猛火は威力をほしいままにして、当日八九時頃までには、市街地の約八分通りを灰燼と化し、焼失戸数約五万六千、その世帯数約六万二千の多きを算したが、余燼は容易に終息せず、三日も四日も燻り続け、高島町・中村町などの石油庫や揮発庫は、十日内外の間も盛に黒煙を吐き、山下町の前田橋附近並びに吉浜町の石炭貯蔵場の如きは、四五十日の永い間も炎々と燃え盛っていた。当時我が市役所は、どういう状態にあったかというと、庁舎は明治四十四年に新築された煉瓦三階造の堅牢なもので、さすがの大震にもよく耐えたので、執務中の吏員はみな無事で、一時市民が庁内に避難したほどであったが、間もなく火災は、たちまち附近一帯の家屋を焼き尽くし、刻々庁舎に迫って来たので、幹部以下吏員一同は、極力防火に努めて、一時は大事に至らなかったが、再び側面の川向うから火災が襲って来そうなので、万一をおもんぱかりて、先ず御真影を擁して間近の公園に奉還した。しかし、続いて防火に努めていたが、午後四時頃、突然屋根一面に火を吹き出だし、どうともなし難い状態となったので、書類・帳簿・等大切な品を焼いたことは遺憾の次第であった。本庁舎の吏員は無事であったに拘わらず、市内各方面の勤務所に居た吏員雇傭員の中で四十三名の犠牲者を出し、市会議員にも四名の遭難者を出したことは、まことに気の毒の至りであった。かような大凶変のことだったから、民衆を護るべき警察官庁とても大被害を受けた。県警察部を始めとして、加賀・伊勢佐木・山手・寿・戸部・水上の六警察署は何れも罹災し、残ったのは僅に神奈川署一箇所で、なお警察官吏の死傷も少なくなかった。ことに火に妨げられて、活動の自由をかき、十分な活動は出来なかった事は無理はなかった。しかし危険を冒して職務につくし、あるいは人命の救助に、あるいは避難箇所の指示指導に、あるいは避難地内の救護等に、多大の努力をなし、勇敢の行動をなした者は決して少なくはない。警察官が住民を指揮して、消防に努めさしたために、場末地域などは火を免れた所が沢山あった。西戸部町の両三箇所、神奈川町の下台などでは、警察官のこうした働きが特に著しく認められた所であった。圧死した妻と子との頭髪を手早く切り取って、ポケットに納めて、そのまま消防に赴き、数日間救護に尽くしたという奇特巡査も、戸部署の部内にあった。市内数箇所の消防署および分署としても、同様に救護のために尽くした。もっとも神奈川の消防分署のみは被害少なく、多大の活動をなし得られたようである。その他当時民衆の中にも危険を冒して人命の救助に努め、犠牲的精神を発揮した者が少なくなかったので、これ等奇特な行動をなした警察官吏、消防官吏および町民に対しては、後にその筋よりそれぞれ表彰したのである。根岸の横浜刑務所も、建物の大部分倒潰焼失して、数十名の死者を出し、煉瓦積みの外塀もことごとく崩壊して、拘禁設備が不可能になったのみならず、食料も欠乏したので、収容者の全部一千余人を一時解放するの已むなきに至った。かかる事は今を距(サ)る百六十年前の寛文七年に、江戸伝馬町の牢舎に於いてその例があって以来、始めてのことだといわれている。

第3節 災後の市中

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帝都の関門の、本邦随一の輸出港として、繁栄を誇った横浜市が、一夜のうちに灰燼に帰して焼野を現出したことは、実に遺憾なことであった。罹災戸数は災前約九万三千の内、焼失約五万六千、倒潰約一万八千、計七万四千の多きに上ったことで、少なくとも元の横浜市は、殆んど文字通りに全滅した訳で、開港六十有余年来、栄々築き挙げた街も、整頓した港湾設備も、すべて影を没し、横浜市全財産は烏有に帰したのであった。北は野毛山・伊勢山・御所山、南は山手町・北方町の丘陵地にまでも広く連なって、見渡す限り荒寥たる焼野原と変じ、所名も判らない程になった。異国情景のみなぎっていた山下町・山手町一帯も、会社・商店等軒を並べ車馬の交通が盛んであった商業中心の関内各街も、市民行楽の巷であった伊勢佐木町界隈も、ことごとく消え失せて、残るは僅に神奈川・子安の高台、久保山の高台、藤棚方面、中村町の高台、岡村・弘朋寺・井士ヶ谷方面・浅間町・軽井沢方面、磯子・滝頭・堀ノ内・根岸・本牧の高台等、場末または丘陵地の街々ばかりであったが、その廻も全潰れ半潰れの家屋が多く、満足の家屋は数える程しかなく、横浜はまるで黒船来航以前の一漁村の横浜に帰ったような寂しさがあった。誰か大息をしない者があろう。海岸から望見すると、残った家がないと、震災後三日横浜を視察した大麻内務事務官の復命書に認めてあったのは、決して誇張ではなかった。しかし当時市の復活は誰が考えても、容易ではないと思われたばかりでなく、港湾設備の破壊と、貿易機関の全滅とに因って、横浜港の生命である生糸輸出の商権も、あるいは神戸港に移るのではないかと不安を抱いた人もあった。さて震災後の市中で焼け残ったのは、社会館・中央職業紹介所・海外渡航検査所・寿小学校・三井物産会社倉庫・川崎銀行・税関新港倉庫・高島駅・渋沢商店倉庫等の建物や、内部を焼尽した不燃建造物なる県庁・市役所・露亜銀行・正金銀行・開港記念会館・基督教青年会館・中央電話局・横浜駅・農工銀行・専売局倉庫・横浜海上火災保険会社・十五ビルデング・岩井商会・野沢屋呉服店等の残骸が寂しく立っているばかりであった。港内にはいつも無数にある外国客船も貨物船の姿も見えなかった。道路には、焼けた電車や自動車などが所々に倒れていた。その間に惨死体が転がっていた。馬車道には、焼けた電車の中に焼け死んでいるものがあった。護岸の崩れたところにも、溺死体が無数横わって心地悪い異臭が四辺に漂っていた。これら惨死体の集団した場所とその数を挙げれば、吉田橋附近に八百十五、柳橋附近に百四、東本願寺別院附近に百十八、同境内に百七十三、末吉橋附近に三百八、宮川橋附近に百六十二、省線敷地内に四百余、正金銀行附近に百四十、川崎銀行附近に八十、南太田町天神坂に二百七十五、吉浜町空地に九十二、大江橋より都橋までに百十七であった。夜は一層物凄かった。全市は人間が住む所でなく、死の国である様に、恐ろしく静まり返っていた。暗黒の焼野原には所々に残火が燃えていた。

いうまでもなく大震災被害は、東京・横浜の二大都市に最も激しかったのであるが、特に横浜の惨害は東京よりも、一層ひどかった。東京と比較をする訳ではないが、火災を免かれた地域に於ける全潰半潰の世帯数は一万百五十八で、横浜市は二万五百三十二であったことによっても解るわけである。とにかく東京にては所によりては避難するまで猶予があったが、横浜には全然猶予はなく、命からからがら逃げたのが事実である。

第4節 被害の諸計数

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ここに被害の大要を具体的に記述する。横浜市の全面積は約千百四十万坪であって、そのうち、宅地が四百九十万坪を占めているが、今次の大震災による被害総面積は三百九十万坪で、宅地面積の八割に当たっている。家屋焼失区域が五割八分で二百八十万坪、倒潰区域が二割二分で百十万坪である。災害は全市にわたっているが、中枢地たる関内・関外を始め、山手・蒔田・戸部・平沼方面の一帯は火災のために烏有に帰し、根岸・本牧・子安・神奈川の方面は一部焼失した。かくて市内住居の約六割は焼失、約二割は倒潰して、残存住家は僅に二割に過ぎない。それも多少の損壊は免かれなかった。その被害を数で現わせば災前戸数数九万三千八百四十の内、焼失住家数五万五千八百二十六、倒潰住家数一万八千百四十九、計七万三千九百七十五を算し、更に罹災人口では、災前四十四万八千五百四十(大正十一年十二月横浜市調査)の内四十一万二千二百四十七となるのである。この罹災人口は、震災地一府六県全体の罹災入口三百四十万四千八百九十八の一割二分を占める震災地全体の人口一千百七十五万八千に比べると、僅かに四分四厘の人口にしか当らない。横浜市が、罹災人口に於いては震災人口の一割二分に当たるのであるから、横浜市は他の震災地に於ける被害平均三倍弱に当たる被害を受けたようなこととなるのである。港湾設備の損害中、その主なるものは、繋船岸壁には総延長一千百間の中、やや元のままのもの僅に二百二十九間で、その他は全部崩落した。大桟橋は全長二百七十二間の中、前方の両側拡築部二百二間を危うく残して、他はことごとく破壊し、陸地との連絡は遮断された。防波堤は東が九百間、北が千百三十間、計二千三十間あったが、その中東五百間、北二百三十間、計七百三十間が平均八尺沈下し、突端の両灯台も十一尺沈下した。

市内に於ける建物の被害に於いて記せば、市内の諸官衙公署その数四十三の内、神奈川県庁・横浜税関・横浜地方および区裁判所・航路標識管理所・生糸検査所・絹業試験所・横浜税務署・横浜郵便局・横浜駅・桜木町駅・県測候所・横浜市役所・市立図書館を初め、三十三は焼失して、残存したのは神奈川駅・横浜市電気局・市立万治病院・神奈川警察署等僅かに十で、しかもいずれも半潰の程度ばかりである。英国・米国・仏国・伊国・支那を初め、二十六箇国の領事館は全部焼失した。市内小学校三十六の内、焼失十七、全潰三、一部焼失一部倒潰一、その他大部分大破、児童の死者九百十六人を出した。この他横浜高等工業学校を始め、各種男女の中等学校、大小の私立学校等、その大半は罹災した。伊勢山太神宮・厳島神社・増徳院・玉泉寺・東福寺・野毛不動堂・東西両本願寺別院等を初め多数の神社仏閣、各宗派の教会堂も烏有に帰した。各新聞社並びにその支局、市立十全病院を初め、難波・近藤・渡邊等の各病院、グランド・ホテル、オリエンタル・ホテル、テムプルコート等外人向および国人向の旅館も多数焼失した。横浜座・喜楽座・数多の娯楽場、一流呉服店も烏有に帰した。災前三百二六を算した諸会社・銀行、その主なるもの、日本郵船・大阪商船・東洋汽船・パシフィックメール・ジャーデンマデソン・スタンダード石油・ライジングサン石油・原合名・キリンビール等の諸会社、正金・興信・左右田・辛酉・農工・渡邊・第二・平沼・商業・台湾・第三・十五・住友・香港上海・インターナショナル・露亜等の諸銀行(以上本店あるいは支店)、横浜取引所を初めその数三百九、すなわち九分通り焼失した。さらに工場に就いて見るに、災前市内にあった工場約三千の内、約二千七百すなわち九割は焼失したのである。土木方面に関しては、二百六の橋梁中、七十四は被害を受け、全墜落六、全焼三十四に及んでいる。崖崩約五十箇所、護岸の崩壊約二万間、総延長の約四割に達している。そうして市の地盤は平均一二尺低下したようである。死者の数は二万一千三百八十四人、行方不明者の数は一千九百五十一人、重傷者の数は三千百十四人を算する。当時陸路または海路による避難者はすこぶる多く、災前約四十四万二千の人口中、直後には約その半数が郡部および他府県に赴いたと想われるのであるが、その実数は計上し難い。災後程経たる十一月十五日の調査によると、現在者約三十一万一千人を算したによって見ても、その大体は推知し得るのである。ことに外国人の他地方に立退いた者は極めて多く、災前に於いて支那人約五千人、欧米その他の外人三千百九十四人、計約八千人であったのが、九月中旬の調査によれば、現存者僅に支那人百三十一人、他の外人百九十八人、計三百二十九人の少数に激減した。右の内支那人の特に激減したのは約二千人の死者を出だしたのもこれに入っているからである。もしそれ建物およびあらゆる財貨財産の減失による損害高は、出来ないのであるが、その中調査し得た分のみを挙げれば、貿易業者の損害高は蚕糸の九千八百四十七万九千余円、この中で生糸の焼失に因るもの約五千五百万円余を筆頭として、合計一億四千三百六十五万四千円を算し、内国商工業者の推定損害高は合計四億二千七百九十五万二千余円に上ぼった。なお別に調査した工場法適用工場の推定損害額は、二億四千三十四万円を算する。港湾に関係ある倉庫並びに上屋の損害坪数は、災前総計七万五千百三十六坪の内五万八千五十五坪すなわち約八割に達した。我横浜市役所関係の有形損害額でも概算三千一百万円に達し、このうち水道事業費の損害だけでも四百二十五万五千余円を算する。一例なれども電車百四十三輌中焼失および大破九十一輌を算した。かく列挙しきたのを見ても、我横浜市の被害は第一位を占めたのであって、当時世人がこの惨状を形容するのに『全滅』と二字を使ったのも最もなことであった。

附 横浜市大震大火災の公報

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九月三日、神奈川県知事より内務大臣に申告した被害状況公報は、災害直後に於ける横浜市の状況を彷彿とせしめる好資料であるから左に記載する。

市に於ける本月一日の震災は、全市火の海と化し、市民若干は身を以て難を免る。その惨禍たるや、到底夢想だも為し能はざる底の悲惨事にして、一瞬にして天空冥蒙、骨肉相別れ、死生を異にするが如き状態なり。而も全市の震災は時恰も陰暦二百十日の厄日前に際会し、烈風火を吹き、火焔瞬時にして全市に拡大し、避難は殆んど行く處を知らざらんとす。仍って身を以て免れたる当庁員を以て、臨時救護所を横浜公園に設け、警察部長は警察部員巡査をして、各署長に非番巡査の召集を命じたるも、公園集合地に集まるに先立ち、すでに諸所に発生したる震災は、交通を途絶し、集合自由ならず、而も余震は絶えず継続し、揮発物・爆発物は、巨弾を放つが如き音響を発し、爆発管亦飛散し、殆んど戦争の状態と何等異なることなく、為に人心胸々として、殆んど死生を知らざるが如き不安の間に夜を徹し、警察官も亦殆んど不意の天災にして、如何とも手の施すべき手段なく、辛うじて警察官を以て避難民を保護警戒せしむると共に、負傷者の手当を施したるも、材料及医師に乏しく、遺憾の間に天明を待つ。当夜の市民は、附近の公園、広場又は高所等を選み、万一の僥倖を冀うて、避難したる者、逃走したる者、少なからず。而して当夜の避難民は、市公園に約五万、掃部山、伊勢山に約一万、本牧三渓園附近・磯子方両・久保山等に約一万ずつあり。其の他互に先を争うて適所に難を避けたるもの少なからざりしも、煙に捲かれもしくは焼灼に堪へずして、河海中に身を投じたるも遂に溺死したる者実に少なからず。其惨状たるやか実に筆紙に画し難し。被害の程度は其の惨禍拡大にして調査する能わざるも、戸数八万五千中殆んど九分焼失又は倒潰し、死者約十万、負傷者無数なるべしと思料す。而して官公署の如き、殆んど一として存在するものなし。横浜地方裁判長および検事正代理、福鎌検事其の他判事および税関・郵便局の高等官中にも多数の死者あるべきも、未だ判明せざるもの多し。震火一度到り、余震なお去らず、海嘯来襲の謡言盛に行われ、人心安定せず、然もその間生死不明の家族が互に之を捜索するの状態は、殆んど現世に於いて再び見る能はず。随所に起こる哀話非語は、流涕聴くに堪へざる事而已なり。然れども他面県下郡市の交通々信の杜絶に依り、之を知る能はざるも、県下到る処その惨禍の激甚なるは想像に難からず。よって差当り人心の安定、食料の供給は、最も急を要するも、之を市中より需むる能わず。濁水を飲みて僅かに飢餓を医するに過ぎず。已むなく船渠会社の貯米を開放して、之を罹災民に供興したるも、何分飢餓に頻せる罹災民は、平穏適切なる分配を受くる能わざるも、罹災民の共同生活的観念に依り、幾分か市は之が配給を受けたるが如しといえども、食料問題は時々刻々にその必要に迫られつつあり。依って庁中より職員を簡抜して上京せしめ、陸軍大臣・第一師団長に出兵の要求を為し、兼ねて貴官に口頭を以て報告せしめたる通りなるが、震災の翌二日は人心不安を除去する能はず、各所に掲示して謡言流言の打消、罹災民の救助、傷者の応急処置に努め、一面物資の来着を待つは、寧ろ物資の需給上可能性を有する郡部に避難するが得策なるを力説して、漸次避難せしめつつあるも、交通杜絶され、また市民は疲労困憊せるを以て、意の如くならず。止むなく船舶を徴発して、静岡および大阪・神戸地方に輸送を開始せんと欲し、努力中なると共に、当港碇泊船、コレア丸の無線電信を利用し、大阪・兵庫の長官に料食の配給を依頼せり。

第5節 罹災民の避難

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罹災した市民達は、倒潰した家を踏み越えて、黒煙の中を潜り抜け、生命からがら最寄りの公園・広場または丘陵地に避難して、燃え盛る猛火を眺めつつ、何の当てもなく、夜に入るを待った。中には逃げ遅れて、河中に飛び込み、橋杭に掴まって、水を頭から浴びて全身が焼けるような熱を凌ぎながら、一命を取留めた者も少なくなかった。断崖の上から帯や綱で吊るし上げられ、あるいは掴まり下りて、危うく助かった者もあった。破壊した桟橋の残存部分に辛うじて助かっていた数百名の者も既に危うく見えたが、その附近に碇泊していた大船小舟は、極力これが救助に努め、その大部分はこれに収容された。岸壁方面でも、その決壊した際、海中に墜落した者や、関内方面より火に追い詰められて来て、絶体絶命の態である者が数百名あったのであるが、これまたその辺りに碇泊していた汽船の、何れも舷門を開き、艇舟を出して救助に努めたので、多くは命拾いをした。避難地の主なる場所は、横浜公園・山手公園・中村町ないし根岸・本牧の丘地、磯子・滝頭の畑地、久保山・水道山・掃部山・高島山・神奈川台等の丘地、新山下町の埋立地、東横浜駅・高島駅の構内等で、人数の多い所は三万人にも四万にも達した。横浜公園は、市の目貫場所にあって、相当広くもあり、屈強の安全地帯と目されて、関内・関外の避難者殺到して、その数四万と註せられていたが、園内はたちまちにして四面環火に陥り、いずれも熱気身に迫るの苦を受けたのみならず、飛火は遂に園内の建物を冒して、一同の危惧はひとかたならなかったが、幸いにして園内の一部は水道破裂のために水が氾濫していたので、皆々それによって辛くも火熱に堪えたのである。

正金銀行表門附近の惨状は、場所柄とて特に目立ったのであるが、これは安全場所として逃げ込んだというよりは、火に追い詰められた結果とみなされている。

第6節 災後の悲劇

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炎塵に覆われて銅色に見えていた太陽も、ようやくにして没し、代わりに出でたる初秋の月は、不思議な積雲(キムラス)の間に、見えるようになった。火焔も次第に薄らいできた。各所の安全地帯に逃げていた罹災者たちは、夜の明けるのを待ちかねて、余燼が燻っている街々に帰って自分の家を探し、家人を尋ね廻った。死んだと思っていた父や兄弟・姉妹などと偶然出会って喜ぶ者もあれば、あるいは己の骨肉が無残にも焼死していた姿を身つけて、死体に抱きついて泣きいるものもあった。

第7節 震災後の不安

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すべての財産を灰にした、四十万の罹災民は、たちまち衣食住に窮した。残暑のおりから、衣と住とはしばらく忍ぶとしても、食料および飲用水の供給は得なければいられなかった。中には東京方面はこれほどであるまいと、時を移さず救援に来るだろうと思って居た者もあったが、東京も全滅同然だときいて落胆した者もある。三日、災後初めて、驟雨のあった際など、何れも天を仰いで此を吸い、蘇生の思いをなしたのであった。一日二日の絶食ぐらしは誰も彼も体験したことであったが、両三日を経て後は、県市斡旋の下に、港内碇泊の船舶より食料の配給があった。場末の残存地域および接続町村のここかしこからも食料を配給した。また船渠会社倉庫の在米も開放せられ、しばらくして五日となっては、横浜倉庫内に在る政府所有の外米も配給を始められて、各地方からも食料が送られたので、一同は餓えから助かった。倉庫開放の際には、群集が押しかけたために、若干の死傷をだした。港内の航舶に収容された人々は、何れも船内で養ってもらった。二日税関構内の焼残り倉庫で掠奪が行われ、引続き、根岸・本牧・神奈川その他の残存地域に於いても、なお同様の事があったのは遺憾であった。

第8節 災後の善後施為(その一)

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市民の不安の夜は明けて、二日、震災地一帯に戒厳令を布かれて、横浜には四日、奥平少将の率いる三箇連隊が到着し、市内の各要所を銃剣で固めて、人心の安定を図り秩序の維持に努められた。この日群馬県からも、警察官百二十七名を以て成る応援隊が第一著に繰込んで、警察力を補充した。二日深夜、横須賀鎮守府よりは、いち早く軍艦五十鈴および駆逐艦二隻を派遣し来たり、陸働隊を組織して、新山下町埋立地に上陸し、警備と共に救護を始めた。引続き第三艦隊が来航して、食料の陸揚・支給・警備・救護等に努力した。なお二日、臨時震災救護事務局が設置され、四日横浜にその支部を置かれて、三矢内務監察官その他事務官以下の吏員約三十名来着して、桜木町の残存建物内で事務を開始した。初めて市役所は庁舎罹災の直後、居合せの吏員を以てとりあえず仮事務所を横浜公園内に設けて、救護事務を開始したが、三日、仮庁舎を桜木町の中央職業紹介所に設け、同日県庁も同じく仮庁舎を桜木町の海外渡航検査所に置いて、何れも市長以下吏員総出の下に各部署を分けて、組織的に救護事務を開始した。かくて桜木町は救護事務局支部、県庁、市役所三庁舎の設置によって自から県市救護事務の中心地となったと同時に、また県市行政事務の中枢地ともなった次第で、慰問の緒名士、関係諸員が来て、車馬の往復昼夜絶えず、その光景は戦地に於ける司令部の観があった。直後最も必要な仕事は、罹災生存者を飢渇から救うことと、傷病者の救護と、人身の安定を図ることとにあるので、すなわち先ずこれらの事に主力を注ぎ、無電・急使等により、政府筋に急ぎ申告してその援助を請い、物資豊富なる関西緒府県庁市に向かって、米穀・副食・衛生材料・その他応急物資の供給を依頼するの一方、とりあえず市内の残存地域その他近接町村に吏員を急派して、食料の収集に務め、残存倉庫および碇泊船舶の在米を配給するの準備をなし、飲用水を供給するの途を開き、また救護所を開設するなど、迅速機敏の方途を講じた。しかも直後は容器も艀船も車輌もなく、また人夫とてもなく、仕事が思うように出来ないので、何れも大に困惑したのである。救護所としてとりあえず高島町の社会館ほか場末十数箇所に残存した病院・学校等をこれに充て、罹災医師を募って、この係員に嘱したけれども、数千・数万の傷病者に対して、薬剤や手術具など揃う筈なく、場末の倒潰した薬舗を発掘して、それらを取り出すなど、或いは倒潰材を以て担架を造り、カーテンを裂いて、包帯を製しなどして、辛うじて、間に合わせるという有様で、その苦心は一方でなかった。なおまた仮庁舎を開いたとは云え、場所極めて狭きため、廊下・土間の別なく執務所に使用し、机は椅子なども不足なので、あり合わせのビール箱や石油箱までもこれに充て、一本のペン、一枚の紙にも事欠くという有様で不便その困難や推して知るべしである。されば何れの庁舎も、後に急造仮舎を建て、仮机や仮椅子を造り、しばらくにして補いをつけたのである。当時は、係員の中にも罹災者多く、住居や家財を滅失したはもとよりのこと、青木助役や横田主事の如くに、家族を喪った向きも少なからずあったのであるが、この秋この際、市長以下雇人・傭人に至るまで、何れも一様に心から尽くしたのである。この間、重要事務に関しては、会議を開く必要あるので、災後初めての市会は十一日に於いて開き、爾後もしばしば開会したのであるが、毎に仮庁舎屋上の露台に於いてこれを開いて審議を凝らしたのである。三日、市長より関西の主要府県知事・静岡県知事ならびに神戸市長に宛てた無線電信の電文は、当時の消息がよく知れることだと思うから左に記する。

本市危急に瀕しつつあり。食料品・衛生材料・自動車・水・ガソリン・大工道具・大型炊事用道具・薪・提灯・万年筆・紙・墨・謄写版・同付属品一式・懐中電灯・ろうそく等の供給に就き至急何分のご配慮を請う。

更に六日、市長より内務大臣に宛てた電文を記する。

市内の惨状今なお目も当てられず。手不足のため、生活必需品の配給すら手配届かず、人心ますます険悪に陥り、かつ衛生上にも由々しき心配あり。左記の事項御含みの上、すみやかに御配慮を請う。
  1. 戒厳令を布かれ、軍隊の派遣を得たるも、兵力不足のため、凶徒所在に出没し、市民は各自自衛のため、武器を携帯し、殺伐の気全市に満つ。すみやかに兵員を増加せられんことを請う。
  2. 食料は船便にて続々入港するも、小舟・船員および燃料不足のため、陸揚難渋を極め、かつ配給に当たるべき人夫なく、困難甚だし。
  3. 避難所の建設は目下の急務なるも、大工および用具なく、困難を極む。
  4. 道路・橋梁等全部破壊したるも、人夫および用具なく、応急施設をなし難し。すみやかに工兵の援助を仰ぎたし。
  5. 現金皆無。すみやかに送金を願う。
  6. 飲料水困憊を告ぐ。
  7. このさいあるべき多数他府県へ避難せしむるを得策と思考す。よって京浜および清水港へ連絡御手配を願う。

なおこれより先き五日、内務大臣に宛てた電請を記する。

現金皆無日々の支払い差支へ居るにつき、現金一万円借用したし。なるべく補助貨にて至急貸付方御手配を請う。

第9節 罹災民の応急行動

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かくて五日となり、六日となって、秩序はやや回復し、不安もようやく除去された。罹災民の多くは焼けトタンや煉瓦片や倒潰材などを拾い集めて、あるいは我家の焼跡やあるいは丘や、広場に仮小屋を立て住んだ。墓地附近では卒塔婆などは仮家材料として使用された。立往生したままの壊れ電車などは、真っ先に占領されてしまった。九月十日前後に於ける避難場所およびその人員の概数を列挙すれば、神奈川高等女学校に八百人、青木小学校に六百五十人、稲荷台小学校に一千百人、第一中学校に一千二百人、横浜商業学校に一千人、石川小学校に一千人、お三宮第一日枝小学校に三千人、北方上台早苗幼稚附近に一千百人、根岸競馬場に一千人、横浜公園内に一千人、中村町の遊行寺に七百人を算した。以上は市内のみの避難場であるが、郡部に避難した者も多かった。かくて、富めるも貧しきも、当初の程は一様に仮家の中に起臥して、市役所や村役場からの配給品に依って、生を繋ぐの外はなかった。このみすぼらしき仮住居こそ、実に市民復活の第一歩であって、永く子々孫々に語り伝える物語である。かくて幾十日かを経て、何れもは更に半永久的の仮家を元住みし地に建て、あるいは県市その他によって建てられたバラック式の仮家に漸次に引移ったのである。なおまた五日・六日の頃には、政府筋の艦船や各汽船会社の船舶が、新山下町の埋立地を臨時の埠頭として、避難旅行者の無賃輸送を開始した。鉄道も、工兵隊・鉄道隊等の手に依って応急修理を遂げられたので、六日には神奈川駅、七日には横浜駅、何れも廃残の駅舎を起点として、しばらくにして汽車を通ずることとなり、これまた無賃輸送が開始されたので、あるいは郷国に帰ろうと、あるいは職を求めるために、各方面さして避難旅行する人が多かった。であるから、埠頭や駅頭は、これら避難者が沢山集って雑沓を呈した。当時汽車に依っての避難者数は計上し出来なかったが、軍艦で避難した者の数は二十一日までに約七千七百人、汽船で避難した者の数は、四日発郵船ロンドン丸で大阪に向かった八百三十名を先頭として、三十日までに四万一千八百九十五人を算した。その落ち着き先は、関西地方で、神戸や大阪に往ったのが最も多く、外人は、多くは、艦船に乗って神戸に赴いた。以上罹災者の中、市内の残存地域その他に仮住まいした者の数は分からない。災後程経た九月廿五日調べの計数は、親戚知己を頼って、もしくは手蔓を求めて仮住まいした者一万四千八百九十二世帯、六万百八十三人、バラック・天幕その他に仮住まいする者一万七千三百五十三世帯、八万五千七十五人、計三万二千四十六世帯、十四万五千二百五十八を算した。右の外、本市以外の本県の市郡および各府県へ避難していた本市民の数は、災後七十五日を経たる十一月十五日社会局の調査によれば、総数十一万四千三百一人でその内五千人以上滞在していた地方は、本県下に二万一千四百六人、東京府下に二万四千二百七十二人、内東京市に七千六百三十四人、郡部および八王子市に一万六千六百三十八人、兵庫県下に一万一千七百十一人、静岡県下に七千六百十四人、愛知県下に五千二百人、大阪府下に五千四百五十六人を算した。直後に於ける最多の時は恐らく二十万人にも達したことと想われる。

第10節 皇室の御救助 各地から救援救護

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横浜大惨禍の情報は、当日あたかも碇泊中であった東洋汽船会社の所属船コレア丸の無線電信に依って、先ず大阪・神戸等に放送され、一日の夜から二日にかけて、神戸から全国各地に報知し、二日三日にかけて、日本の大震災をあまねく欧米諸国に伝えたのであった。当時コレア丸に於いて無電を放送することとなったのは、森岡県警察部長が身を海中に投じて附近の汽船に泳ぎ付き、更にコレア丸に駈けつけて、放送方を依頼したに因るのであった。なお本市長よりは、本市危急の旨の無電を米国桑港に放送した。

畏き辺りにおかせられては、今次の大凶災を御軫念遊ばされ、三日御内幣金一千万円を下賜あらせられて、一府六県下に於ける罹災民救済の資に充てさせ給うた。横浜に割り当ての該金額百四十七万七百八円は、後あまねく罹災民に配与せられ、いずれも熱き涙を流した。直後侍臣を派遣せられて、被害状況を視察し、御慰問を下された。のみならず、十月十日には畏くも摂政殿下は行啓あらせられ、市内の主なる被害個所を、御視察御慰問あり、更に皇后陛下行啓あらせられ、親しく災害状況御視察、仮病院にまでも玉歩を運ばせられ、御慰問遊ばされた。なお市内の罹災社会事業に対して御下賜金あるなど、その御仁慈の篤きには、誰とて感泣しない者はなかった。各皇族殿下にも前後して御成あり、御慰問遊ばされた。関東大震災の急報が、無線電信・飛行機その他に依って全国各地に達した時、国民の驚愕と憂慮は一方でなかった。東京・横浜・横須賀等を初め幾多の町民がかような大惨害に遭ったことは、未曽有の大凶変であるとして、何れも深く同情して、内地・殖民地の津々浦々にいる人まで種々の品物を送って来た。また地方からは救援隊を組織して派遣して来た。引続いて救援費の支出を議決し、食料・被服その他救護物資の調達輸送、義捐金品の募集をなす等、適切の道が講ぜられた。よって、三日・四日以来、これら官公私団体から派遣された救療団・救援隊はそれぞれ救護材料を持って災害地に行き、救護事務局・戒厳司令部・府県郡市その他と連絡を保ち、その指図に従って各地各方面にわたって、応急救護の事に着手した。これら団体の主なるものは、府県郡市町村、府県の警察隊・在郷軍人会・青年団・消防組・赤十字社支部・愛国婦人会支部・済生会支部・協調会・医師会・看護婦会・各宗教団体・学生団体・各大会社の救援団等で、その団員も少ないものは十名内外から、多いのは数十名であった。引続き海陸両方面から米穀その他の救援物資が続々到着した。用のない者が多数入込むことは、食料を無駄にするばかりでなく混乱を増すことともなるので、各地方当局では厳重にこれを禁止した。災害の横浜はいうまでもなく、交通通信の機関が全く絶えているので、救援を頼むことが遅くなった。救援は東京に先立たれ、配給品も先ず東京に輪送されたのであったが、横浜の被害は東京以上であることが知れ渡ると、早くも別働隊を組織して、来浜し、続いて各地からも陸続救援隊が来たのである。配給品も同様到着した。かくてこれらの救援隊は協力者の救療物資の配給、罹災者の慰問、焼跡の整理および警戒警備等に活動した。救護隊は多くは九月中旬より下旬にかけて引揚げたのであるが、なお長く留まって、活動を続けた者少なからずあった。この間畏き辺り(カシコキアタリ)からの、思召しに依り、宮内省から特に救療班を差遣せられて、傷病者の診療に従事せしめられた。菊花御紋章付の自働車が医員・看護婦を載せて、焦土の市内を走るのを見た市民は、皇室の御仁慈心に喜び申上げた。各地・各方面からの救援隊が、あるいは天幕の病院内に、あるいは荒れ果てた街頭に、いずれも苦心して連日連夜の努力を続けつつある容子を見ては、人々は謝意を表した。なお各地方からの救援は、罹災者の総てをその対象として、誰彼の差別なく行われたのであるけれども、中には一般救援をなす外に、特にある県ある市の救護団をも設けて、その地出身の罹災者に、持って来た慰問物品や見舞金を与えた。人事相談、帰国の斡旋等をなし、あるいは出身者の安否を訪ねて、郷里に報告することに努めたものもあった。それを出身者に知らせるための広告が市内到る所に貼られてあった。大震災に対する各地の同情は大きなもので、義捐金の募集、物資の調達に極力運動した。多数の避難旅行者に対しては、多数の者が鉄道の駅々や、港の埠頭や、街道筋の要所要所に、昼夜出動して、慰問・救療・給与・案内・宿泊、進んでは人事相談、就職の紹介、学生の転学入学等までも親切に世話してくれた。当時の避難旅行者は我横浜市民が十余万人あったのにかかわらず、一人として厚意に浴しない者はなかった。なおまた関西諸府県にては、震災地救済のため、関西府県連合を組織して、住宅の供給や、病院を建設し、応急救護に尽くした。その他締盟諸外国も、日本に対し深い同情を寄せて、見舞金・食料・被服・衛生材料・運搬用具・建築材料等多額を寄贈してきた。英・米・仏・支等の東洋艦隊は、東京湾内に集まって、救援物資の輸送、あるいは仮病院の建設に、あるいは慰問等に特に多大の力を尽くしてくれた。人種の区別もない尊い他国人の真の同情に対して、吾人は心からの感謝を表するものである。また各国中移住の我同胞からも、多大の同情救援を寄せ来たり、横浜の罹災者も、なおひとしくそれらの好意に浴したのであった。かくて内外各地より寄贈された食料品・被服類・建築材料その他の物資は、海陸両方面より続々到着し、埠頭に駅頭に山積して、罹災者の心を強からしめた。

当時全国各地より来浜した救護団の数はすこぶる多く、その主なるもののみでも一時は八十以上に及び、更にその中救護機関のみでも、日本赤十字社神奈川支部施設分を合せ、一時約四十を算し、到る所にテント張りの救療所が設けられた。それらの活動した成績は、ことごとくは調査してないが、単に日本赤十字社神奈川支部の施設した一病院外十四救療所に於いて取扱った成績のみでも、九月二十八日までの延人員外科三万千九十七、内科三万一千二百二十八、その他一千七百三十、合計六万六千五十五の多きに上ぼったのである。災後程なく米領比律賓(フィリピン)より来援した赤十字団、これに代って米国本土より来援した赤十字団の活動もなおすこぶる目覚ましく、新山下町埋立地には、その大規模なテント病院が幾棟となく設けられて、その坪数一千二百坪にわたり、異彩を放っていた。

第11節 災後の善後施為(その二)

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災害直後の応急施為に就いては、概略は既に記載した。爾来市当局は引続いて救護事務局・県庁その他関係諸方面と力を合わせ、各府県から来援の諸団体とも連絡を保って、ますます救護の歩を進め、物資の配給、傷病者の救療・避難旅行者の斡旋、焼跡の整理、交通・水道・照明各機関の恢復当に関して迅速適当な道を講じたのである。また災民持久の生活を保護することにも尽瘁し、各方面の助力を得て、バラック住宅の建設、治療所・職業紹介所・簡易浴場・廉売市場等の設置、衛生・教育・社会事業等の恢復に至るまで、協力尽瘁した。

一日午後四時頃、遂に市庁舎が焼けたので、市幹部以下、居合わせの吏員を以て、取り敢えず仮事務所を、横浜公園内に設け、先ず災害の実情を報告して、救済を仰ぐべく、吏員を内務省に急派すると共に、応急救助を近接町村に請うた。傷病者に対しては、市立万治病院から医員を招き、二日よりは救療に従事せしめた。三日より市庁仮事務所を中央職業紹介所に移し、庁員全部を召集し、部署を分って直に救護事務を開始した。救護事務は多岐多項にわたるのであるが、その主なる数項に就いて概略を記せば、食料の供給に関しては、二日港内に碇泊せるパリ丸積込の外米を徴発して、三日より陸揚げをなし、市内を七方面に分って、市会議員・有志者および吏員を方面委員に依嘱してこれを配給した。続いて横浜倉庫内に在る政府所有の外米をも配給した。この間船渠倉庫の開放されたことは既に述べた通りである。七日大阪府および兵庫県から寄贈の米穀が到達したのを最初に、その後各府県から米穀その他の食料品が海陸両方面から続々入って来て、漸次豊富を告げたのである。これが運搬および陸揚作業は陸海軍筋の手に依ってなされたことで、その努力は実に多大なものであった。秩序が回復してからは、七方面に分けて、数十の救護区域となし、市会議員・青年団長・衛生組合長等をその代表者として、食料その他救恤品の配給を公平ならしめた。その後また公設市場十数箇所を設け、購買の便を計った。しこうして災民の依頼心を除き、復興意気を発揚させるため、一般の配給は九月二十七日限り断然打切り、翌日からは、自力または他の扶助に依って生活の出来ない者に限り、配給を続けることとし、さらに十一月二十一日よりは、一層配給の版図を縮小し、五箇所の配給所を設けて配給することとした。一面就職に関しても可及的の便宜を典へて、自活させる道を講じた。食料その他の物資の配給に就いて焼け残った町内の青年達の活動は、実に目覚ましきものであった。直後組織せられた誤った自警団は、その態度を変えて、何れも熱心に配給事務に助力したのである。

飲用水の供給に就いては、とりあえず水を港内碇泊の船舶に求めた。井水は検査を行った上、これを使用せしめ、さらに二台の撒水用自働車を以って供給した。十月四日よりは水船を使って各所に供給した。船舶より供給を得た水量は九月十日マラッカ丸よりの百三十噸と、同二十八日までに二十三隻一千四百四十五噸との多量なものであった。十月十日、野毛山貯水池より都橋畔に至る水道工事が完成したので、自働車に積載して日々一千石ずつ配水が出来るようになって、爾来漸次復旧に近づいて来た。

道路橋梁その他交通機関の復旧に関しては、まず主要道路の修繕および障害物の除去に努めると共に、破壊焼失の橋梁中、通行の要衝に当たるものの仮架橋に着手し、築地橋は六日、平戸橋は八日に何れも竣成を告げたのを最先として、他にも漸次に開通し、何れも車馬の通行が出来るようになった。内電車もその復旧を急ぎ、十月二日、神奈川・馬車道間の開通をみたのを魁けに、漸次復旧に近づいた。これらの作業は主として陸軍工兵隊の手に依ってなされたもので、その活動は実に目覚ましいものであった。

傷病者の救護に関しては、既述の如く二日とりあえず万治病院の医員を招いて、救護所を公園内に開いたのであったが、傷病者は数千もあるので、到底手に負えなかった。県当局と協議の上、極力救護所の設置に努め。四日には社会館・救療所の外十箇所を設けることが出来た。かくして六日には大阪府の救護班を始めとして、各府県から救護班も続々と来た。米国赤十字社寄贈の大天幕病院および関西府県連合寄贈の大病院、何れも多大の活動を為したのであるが、それらの事務はすべて県に委ね、市としては、主として傷病者の調査および収容に従事した。伝染病の予防に関しては、特に十分の努力をした結果、患者は予想外に少なく、恐るべき伝染病をおこさなかったのは幸いであった。

罹災者を収容すべき公設バラックの建設に就いては、先ず収容を要すべき者を調査し、市の取扱う分と県の取扱う分とを区別して、近県より数多の大工および青年団を招致し、県市相呼応して夜を日に踵いで建設を急いだ。なお数箇所の焼け残った小学校にいる罹災者を収容するに当たっては、とりあえず仮小屋を建てて補いをつけた。公設バラックには、国費支弁のもの、関西府県連合寄贈のもの、兵庫県および神戸市寄贈のもの、三井家寄贈のもの、四種類があって、十二月末日までに県および市によって建てたバラックの数は合計五百五軒、三万七百四十四坪、その収容世帯八千九百九十、人員三万四千九百十二人を算した。関西府県連合寄贈の公設バラックで集団的の大規模なのが、中村町の揮発庫跡に建設されたのであった。誰云うともなく関西村の称えら、村役場・学校・売店・公会堂なども揃って、すこぶる異彩を放っていた。兵庫県より寄贈によるバラック式公設浴場も七箇所に設けられた。

失業者の救済に関しては、最も活動を要すべき時期であったが、職業紹介機関が全滅したので、とりあえず五箇所のバラック紹介所を設け、なおまた兵庫県からも一箇所寄贈したので、九月十七日より事務を開始し、相当の成績を挙げた。

外国人に対しては、その外人は神戸方面に避難したのであるが、多少残留者もあったので、横浜外国人救済委員会と協力して、桜道下にこれが救済所を設置し、市内の居住者のみならず、湘南方面の罹災者をも救済し、食料品その他の生活必需品を配給した。

迷児・老人等の保護に関しては、初め市役所の取扱った迷児は八十名に達したので、とりあえずこれを社会館に収容して保護を加えていたが、多くは保護者あるいは身寄者が取り、残り少数は孤児院に収容した。頼るべなき老衰者に対しては、中村町の玉泉寺内に収容所を設けてこれを保護した。

生活に困る罹災民で、郷国に帰省し、あるいは親戚や知辺を頼って他地方に旅行せんとする者に対しては、鉄道無料乗車券および汽船無料券を与えたが、その数は十数万に達した。

災害の状況が動もすれば誤り伝えられるのみならず、流言蜚語も伝えられ、貿易機関移転の説もまた云為されて、人々種々の不安に悩まされた。しかしそれらの真相を報道すべき新聞機関は、全くその機能を失っていたので、九月十一日より市内三新聞社の助力に俟ち、市に於いて横浜市日報[1]を発刊し、その第一号には復興に関する市長の声明を劈頭に掲載して、市民に奮起を促がし、毎号各方面に配布または貼付した。各新聞紙の復興するまで十一月下旬に及んだ。なお救護事務局に於いても、その発行に係る震災彙報の神奈川版をば、十一日より発行した。

死体の処置に関しては、直後なんら用具もなかったので、ようやく六日から着手し、かたまりとなった死体は、その場所ごとで火葬に付し、久保山・三ツ沢の両墓地に埋葬し、二十日までには大略片付けたけれども、なおその後焼跡整理の際、続々発見された。身寄者達もなおそれぞれ処置した。これが処置に際して各宗各派の僧侶達が、懇ろに読経回向した。

港内の岸壁・桟橋等の応急修理は、内務省および陸海軍省の手に依ってなされ、着々進行して、早くも十九日には天洋丸を桟橋に横付けし得るまでに至り、船舶の発着に支障なきことが明らかとなって、港湾復活の曙光は玆に仄見えて来た。聞くに港湾設備の被害は約三割見当で、案外甚だしくなかったということである。

警察警備に関しては、戒厳司令部・憲兵隊・県警察部および各府県より応援の警官隊に依って施為され、警官隊の数のみでも交代員を合せて八百四十三名の多きを算した。

京浜間の鉄道は鉄道省および陸軍省の手に依り、六日神奈川駅より七日横浜駅より途中徒歩連絡にて開通し、京浜電車は十一日より一部開通し、省線電車は十月二十一日より開通した。電話も六七日頃よりは各官公庁間に開通し、十五日よりは一般にはあらねど、東京とも通話し得るに至った。その他郵便は八日より横浜駅前で差立事務を開始し、十六日より一日一回宛の配達も開始された。電信は九日より青木小学校内に於いて不完全ながら受付を始めた。電燈も十一日夜には浅間町方面に点せられて、人の心をも明るくした。海軍では早く三日より東京・横浜・横須賀間の海上連絡を開たし、郵船会社では二十七日より横浜・清水間、鉄道省でも二十八日より横浜・清水間の海上連絡を始めるなど、善後措置は各方面に於いて着々実績を挙げたのである。

なお、その他各省各庁に於いても、それぞれ臨機の善後措置を講じた。その一例を挙げれば、司法省に於いては、横浜区裁判所の管轄に属する各種の民事事件を処理するため、市内四箇所に同裁判所出張所を置いて、特に地主・借地人・借家人相互の間に於ける各種の紛争続出 し、しかもその関係や多種複雑にして、法規を以て一律にこれらの解決をなす能わざる事情 あるものが多いので、主として借地借家調停法に依り、当事者相互の徳義と同情とを基調として、円満の解決を告ぐるよう努力した。なお登記回復・身分証明・戸籍および寄留籍再製等の事に関しても、それぞれ臨機機敏の取扱をしたのである。

当時焼跡の整理を始めた時、修繕の見込みのない大きな煉瓦建物は陸軍の手をかりて、爆発でやったのであった。かくて市内各街の中、港内に面する側の焼け屑および壊れ屑は、ことごとく山下町前面の水中に棄てられたが、他はこれを利用して、新たに埋立地を造ることになって約十箇月を費やして、その作業を終った。これに因って本市は新に長さ四百五十間、幅五十間、約二万坪の地面を増加したのであった。これが作業費は焼跡整理費百二十万円の内約七十万円を要した。焼屑の如何に多量であったかは、この一事によっても分ることである。しこうしてこの新地に震災記念の公園がやがて設けられることになっている。

第12節 復興の着手(その一)

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震災直後の本市は元の横浜の姿を失って、焼野原にでもなってしまうのかと思われたが、その国際市場たり、六大都市の一たる地位の依然としてなくならないことは、なお東京の大半が罹災しても永久に帝都であると同様に,横浜もの日本第一の開港場としての位置は失わない。しこうして復興事業は一に市民の意気と努力とに待たねばならぬとは、いうまでもないが、政府その他の同情援助を受けなければ、その万全を期すことは出来ない。当時渡邊市長・平沼市会議長、その他有志は、しばしば困難を冒して東上し、当路の間に奔走して復興の事に就いて、政府の援助を求めるべく務めたのである。九日に後藤内務・財部海軍の二相が、山本首相の旨を承けて来浜し、被災状況を視察した。十一日災後第一回の市会を仮庁舎の屋上に開き、横浜市の復興事業は、挙げて市長の自由裁量に委かす旨を、満場一致を以て悲壮の光景裡に議決した。さらに十四日開会の第二回市会に於いては、重要なる復興案件を審議々決せられた。超えて翌十五日には市長・市会議長・井坂商業会議所会頭および原貿易復興会長の四氏が揃って上京して、各大臣を歴訪し、帝都の復興と横浜の復興は、同一にしなければならないという事を力説し、頼もしい確答を得た。さらにその翌十六日には青木助役および市会議員数名上京して、後藤内相と会見し、救護上並びにさきに議決した復興案件に関して打合せをした。その後十九日には市内の有志三十余名、仮市庁舎に会同して、横浜市復興会の組織を議決し、有力有志の人士を全市より網羅して、これが委員に選定し、各部署を分けて、目的貫徹のために一同畢生に努力を傾倒することを約した。この間市役所は入港中の軍艦山城に依頼して、港底の調査を行い、引き続き原田内務技監並びに神鞭税関長もつぶさに港内を調査した結果、岸壁の被害は唯表面に止まって、深所の岩盤には及ばなかったことを発見し、同様桟橋も応急修理の見込み十分であるから、港湾設備の復興は案外容易なるべく、貿易港としての価値壱も減殺せられざる旨を声明して、とりあえず掃海に着手した。早くも十九日には巨船天洋丸が桟橋の残存部に横付けとなったので、調査の確実なことが証明された。さて市当局は引き続き応急救護事務、並びに持久保護事務に鞅掌すると共に、一面進んで復興事業の準備計画に着手することになった。震災地一般の復興事業に関しては、政府は早くもこれが準備を整え、九月二十七日、新たに帝都復興院(後組織を変更して単に復興局と称す)を設定し、横浜には出張所を高島町に置き、市の復興事業中、主として地上および港湾に関する事項に就き、国の経費を以てこの着手することになって、市の有力者たる原・若尾・大浜・平沼・井坂・児玉・上郎・池田等の賭氏は、何れも復興院評議員を依嘱され、その仕事にあずかることとなった。けだしさきに本市から政府当局に陳情建議したように、横浜港市復活の如何は、その関係単に一都市ばかりのことでなく、延いて国勢国力にも及ぶことであるからであろう。市当局は爾来復興院、その他関係筋と、連絡を保って、鋭意ますます計画の施行に努めている。市民の代表たる議員諸氏も熱誠に審議協賛の任を尽くし、市営局に助力して、今や各方面の計画は着々進められている。何れの事業も多くの資金を要するので、その総予算として要求される見込み額は、国費並に一部県費支出のものを合せ、一億六千八百七十四万円でこの内訳港湾費一千六百万円、鉄道費九百八十二万円、電信電話費一千七百十万円、道路橋梁費四千三百五十六万円、運河費一千七百十九万円、下水費四百五十九万円、上水道費四百二十五万円、士地区画整理費七百八十四万円、公園費二百七十三万円、小学校費一千六百万円、横浜高等工業学校並びに県立諸学校費四百九十八万円、図書館費五十万円、病院その他衛生費百九十万円、塵芥処理場費六十万円、社会事業七十五万円、中央市場費四百万円、瓦斯事業費三百万円、電気事業費一千三百万円、庁舎および公会堂費九十三万円の巨額に上ぼっている。その内国家負担として、復興局の直接行う事業をしては、幹線街路・運河・大公園・士地の区画整理・防火地帯新設当の全部もしくは一部で、その他政府の事業もこれ以外にある。市の負担として施行する事業は、前記国の施行する事業の一部の外、上下水道・電気事業・瓦斯事業・中央卸売市場・塵芥処分場・衛生・教育・社会施設等その他一切にわたるのであって、以上はいずれも大正十七年度中に完成の予定であるが、震災および財政困難の折、これだけの資本を捻出し、あるいは融通をするは、実に用意でないことであるので、市当局並びに議員諸氏、毎に一方ならざる苦心をなして、奔走を続けつつあるが、その結果、市債の総額は大正十二年度に二千八百三十七万九千余円であったが、十三年度には五千五百一万九千円に上り、さらに十四年度には七千万円以上、十五年度・十六年度を経て、十七年度には一億円を突破することとなる。市民の負担もますます重くなるわけである。

市内の復興状態を見ると、第一に横浜港の生命ともいうべき生糸輸出取引の魁となって復活したことは、何よりも先ず市民の心を強からしめた。市今次の震災では、港湾設備も破壊し、貿易機関も全滅したので、これが回復は至難であると見てとった関西神戸港の貿易商一同は、機乗ずべしとして、従来当港の独占していた生糸輸出の商権をば、この際に奪おうと企て、巧妙に飛語はじめ、共に計画に早くも進んで具体化したのであった。これを聞いた横浜蚕糸貿易同業組合員か大に憤慨し、一同相談して直に復興会を組織し、猛然躍起してこれが対抗戦を開始した。全国の主産地を奔走して、その間との持続を強固にする一方、金融・運輸・保険等のことに関して、主務官庁の諒解を得て、真先に生糸輸出貿易の復活に着手したのである。かくて当業者は、九月中旬頃、本町通の焦土を掻き分けて、一大バラックを建て、各々ここに仮の店舗を構え、とりあえず三井倉庫・渋沢倉庫棟に於ける焼け残り生糸一万五千梱の内四千梱を目標として、十七日には早くも市場を開いた。売方・買方互いに折衝して相場を建て、取引を開始したのであった。更に二十日には関東商業会議所神事連合会から横浜生糸輸出港維持の件を当路に建設せらるるあり、ついで横浜絹業復興会も組織され、その斡旋で十月八日、全国絹業連合会の臨時総会は、本市に開かれ、絹物およびその加工品は従来の通り横浜を輸出港とすべき旨を声明させた。この時の輸出業者当の活躍は実に堂々たるものであった。それより所謂生糸輸出二港問題は、容易に解決されず、盛に論議されたるのであったが、横浜側の対策が当を得たものであったのと、政府筋・各地生産者および一般の道場を得たとに依って、難関を切り抜けて、輸出港の首位たる地位を永久に保って、横浜市の生命を完全に繋ぎ得ることが出来たのである。これに依って復興も多大なる力を得たのであった。なお当時税関は保税倉庫を無償提供し、横浜正金銀行は、生糸・絹織物当の貿易取引に要する資金は極力融資することになったので、営業者は少なからず利便を得た。市内の主なる十八箇の銀行は、早く九月二十五日より一斉に営業を開始して、金融上利便を与えた。

第13節 復興の着手(その二)

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秋がだんだん深くなって、朝夕肌に冷たさを覚える時になって来た。罹災者に冷たい思いをさせまいと、ある限りの努力をした当局の苦心も、甲斐があって、しかも大体応急救護各種の施設も一通り出来ていた。それに復興の曙光がだんだん見えて来たので、各地に避難していた市民達も、追々帰って来た。斧や槌の音が勇ましく全市に響き渡るようになって来た。バラック建の商店住宅は日に月に殖え、トタン葺の神社仏閣なども建てられて、いつか焼野原であった寂しい姿も消えて、急に活気が見えて来た。山下町の焼跡にはフランス人がきどったテントホテルを真っ先に建てて、再び帰って来る外人のためにこの上もない便利を計った。米国仮領事館もいち早く出来て、アメリカの国旗が空に翻えっているのが、寂しい街路ながら生々とした気持ちを添えた。いままでの町の辻や空地に卒塔婆が樹てられ、町内の殃死者の名前が記され、香煙が哀しく流れて、惨禍の跡は四辺に刻まれていた。そうした悲しい情景の内に、復興の曙光は判然と見え来たのである。総ての者が活気づいて来たのは、貿易界の復活が力づけたので、市内も大に活気づいた。次に学校が復活した時、子供達はどんなに喜んだか知れない。彼等の心は急に生々とした気持になって、新しい希望を持つことが出きたのであった。市は早くから数育方面に眼をつけ、最初は露天や天幕内で授業をやっていたのであったが、総て二部教授をなすべく、仮校含の建築を終って、十月十五日各校一斉に授業を始めたのであった。当時机・椅子等は大阪府から供給を受け、なお教科書および学用品は、全国小学児童の同情に依って、文部省を経て寄贈された物を使ったのである。交通も漸次復旧し、十月廿一日からは、市内電車も幹線だけは全通した。当時バラック電車と呼ばれた屋根なしの車輌が運転された。省線電車も京浜電車も全通し、東海道線も馬入川鉄橋の修理が出来て、徒歩で渉る必要がなくなった。それらの作業は主として陸軍工兵隊・鉄道隊等の手に依ってなされたのである。十月二十四日、市役所も大部分は桜木町駅前の仮庁舎に移って、執務上大に便利を得た。市中は劇場・活動写真館等、市民の娯楽機関が殆んど全滅して居たので、県市の当局は何か清新なる娯築会を催しこれを公開して慰安を与えんものと企てたのであったが、漸次その運びとなって、十月九日の夜、活動写真会を横浜公園内で開演した。続いて二十四日には海軍々楽隊の演奏会を、同じく公園内で催した。この二つの試みは市民に取って災後始めての享楽であった。それは荒んだ市民の心をどんなにか和らげ静めたのであろう。その後も県市の主催でいろいろの催しが、公演や小学校で試みられたが、総て好成績であった。天長節祝日には、市庁でも、各学校でも、例年の通り厳に奉祝式を挙げて、聖寿の万歳を唱えた。

十一月二日には、県市連合主催の遭難者追悼会を横浜公園内で催した。畏き辺り(カシコキアタリ)よりは侍臣を差遣わされ、御供物を賜った。やがて静かな読経に連れて、追悼会は厳かに行われた。参列した人々は県下および市内三万二千の霊魂に対して、哀悼の涙をそそぎ、その冥福を祈った。その後街々にあった卒塔婆はすっかり取り纏めて、堀之内町なる真言宗宝生寺の境内なる松林の中に移し建てられた。近く回向所を建てた由である。なお久保山の日蓮宗川合寺の境内にも、無縁殃死者五千七百余人の一大記念碑が建てられた。

十一月十五日には、市役所の手で市内の人口調査が行われた。その計数は三十一万一千四百二人で、災前の人口約四十五万の三分の二強に当たるのである。

十五日にはさきに東京府下並びに本県下に布かれた戒厳令が撤廃され、警察事務は全く常態に復した。十二月に入って、その九日には市会議員並びに吏員等四十七霊の追悼会を仮市庁舎の楼上に開いた。十六日には平沼市会議長並に原復興会長の発企に依り、市民大会を復興会内に開き、非常の盛会裡に横浜港湾拡張に関する決議をなし、これを当路に建議することとなった。これより先き十一月十日、国民精神振作に関する大詔が渙発されたので、十二月二十三日、市長は市立各学校長・同職員および市内の各青年修養団長等を合せ約一千名を寿小学校に召集して、勅書奉読式を、御趣旨の貫徹に努めるよう、ことに災後の本市々民は一層覚悟努力を要することを、懇々と諭達する所があった。当時歳末の景況は如何であったかというに、中心地がしばらく表通りだけの体裁をつくったばかりで、所々になお空地が少なくなかった。裏通りの大半は焦土のままであった。然るに場末の残存地域は、災前よりもかえって活気を呈した所が多く、大雑貨店の臨時売場などもあちこちに開かれ、日常必需品の売行は実に飛ぶが如くであった。早くも活動写真などが出来て客を呼んだ。花柳界は大変な好景気であった。こうして景況が復興の歩に違いなかった。

かくて震災後四箇月は多端の中に、夢のように過ぎて、恐怖の年は行いて、新しい年を迎えたのであった。人々の心はようやく落ちつきを得て、したがって恐ろしい天災は彼等を眼覚めさしたのである。人々はある限りの努力を尽くして働き始めたのであるが、新年の儀礼とても多くは省かれ、門松も見えなかったことは云うまでもない。県市当局の努力は決して空しくはなかった。一時は挽回覚束ないとまで悲観されていた港にも、いつか前と同じように、大汽船が横付けされるようになった。貿易状態もなお順調に帰って段々盛んに、活気が全市に溢れてきた。一月二十六日の皇太子殿下御成婚の盛典の良き日には、市街各所装飾して奉祝の意を現し、今までにない活気を添えた。当日は県庁・市庁その他の宜公衙および各学校とも一斉に奉祝式を挙げ、小学児童の旗行列なども行われた。各街のバラックにも新らしい国旗が、新興の色鮮やかに翻って、災後日なお浅き横浜市は、ここに始めて喜色溢れ、歓声の湧くを見た。その後臨時震災救護事務局は、三月末日に廃止され、横浜出張所も撤退されて、残務は県市に於いて処理することとなった。九月一日は、丁度災禍の満一週年で、市内所々に追悼記念会が催され、市ではこの日に震災記念館を公開した。十三年から十四年までの間にも、市内の官公衙・会社・銀行・工場等各種の大建物が修築され、あるいは新築された。生糸検査所などは大規模な設計で十三年春から新築に掛ったが、その竣工の暁は、新たに市内に偉観を添える事であろう。

災後一年有半を経た、大正十四年三月には内務・大蔵両省から九百三十万円の巨費を投じて着手した。岸壁修築の工事も竣工したので、竣工式を挙げて、復興事業の先駆を示した。各街も大半トタン葺の半永久的の家屋がおよそ災前の約七分半まで建てられた。市営住宅もなお各地に増設された。関内や伊勢佐木町辺などは元の繁栄と賑かさとを取返し、ほぼ震災前とは違いはないようにまでなったので、人々も安心して、自分の業に楽しんで励むようになったのである。

市役所もやがて、元の港町の焼跡へ、本建築ではないが、感じの良い新装で建てられ、桜木町の仮役所から引き移った。

一般震災義捐金の一部で東京に設立された財団法人同潤会が、一千戸の長屋を立てて、一年半の契約で建てたので、市民は大に助かった。市役所では四十五万市民の戸籍と寄留とを全部焼いて困ったので、市民は全く無籍者同然であった。これを再製する事は緊急な要務であったので、これに依って司法省から告示があった。それは市役所が戸籍を届けよという告示や、宣伝等をやって、一般市民に洩れなく知らせるのである。

市役所でこれに極力尽くしたので、いうまでもなく多大の効果があった。焼野原の横浜市が二三年の中に復興に進んだということは、全く官民一致の協力に依るものである。今横浜市は日一日と復興に向かっている。やがて道路も改築されて、市街地の家屋も耐震耐火のものが多く建てられる時がくるであろう。その時には、震災前の横浜市より一層繁栄な大横浜市が生れるである。ただ山下町並に山手町の外人街町は復興が思うようにならず、一部は久しい間廃墟のままにされていることは誠に遺憾の次第であるが、これは外人が、横浜が元のように復興するかどうかを案じて、容易に帰って来ないためと、建築の容易でないためである。その上に区画整理企画も存外に手間取れたからでもある。しかし既に計画も進められて、外人を招く策として、ホテルの建築・外人住宅の建設等が実現されるようになれば、早晩は復興の時が来るであろう。かくて市内各域の区画整理も行われ、あらゆる営造物の復旧もなり、各街家屋の本建築も遂げられ、大廈高楼矗々として夢を競い、広壮華麗なるが上に、さらに堅牢にして利便を加えた理想的文化都市の建設せられて、街衝の面目を一新し、当年悽惨の跡は唯震災記念館にのみのこることとなるの日は、必ずや期して待つべきものがあるのである。

災後百三十余日経った十三年一月十五日午前五時五十分二十四秒強震があった事をついでに記しておく。十二年大震とは比較にならないが、市民は戸外に避難したこと、多少の倒潰家屋あったこと、十数名の死傷を出したことでその程度が知れる。その震原地は本県の丹沢山であったと謂われている。越えて十四年五月二十三日の午前、兵庫県および京都府の一部に激震があった。その被害地域は広くはなかったが、二三の町村は家屋の倒潰と火災とに因って、甚大の惨害を呈した。我横浜の市民達はいずれ先年の体験に顧み、同憂の念に堪えず、創痩は未だ新たなれど、黙視するに忍びないということで、それぞれ相当の金品を出し合って送ったのである。市はこれが斡旋の任に当たって、慰問使を派遣した。復興途上にある間に於いても、実にこうした事はあったのである。

第14節 罹災世帯数並びに罹災人口等の統計

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震災に因る罹災世帯数、並びに罹災人口の調査は当時府県や市町村警察署等で、それぞれ調査されたのであるが、臨時震災救護事務局では、国勢調査の例にならって、一定標準の下に、 震災被害調査をなすこととなって、災後七十五日を経た十一月十五日夜半を期し、震災地ばかりでなく、全国各府県にわたって一斉に所帯数の調査を遂げ、完全な統計報告を発表したのである。この完全な報告に依って、震災当時の被害を明かにするため、その該統計報告の中から、我横浜市の分だけを抜いて左に記すことにした。

1 罹災世帯数

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罹災とは全焼・半焼・全潰・半壊および大破をいう。
全潰・半壊・大破のあと、さらに火災に罹りたるものは、単に全焼・半焼に計算せられ、全潰・半壊・大破の数には計算せられず。
イ 罹災世帯の実数および他との比較
実数 比例 現在世帯100に
付被害世帯数
罹災一府六県下 694,621 100.0       30.0
右の内神奈川県下 237,338 34.2(100.0の内) 85.5
右の内横浜市 94,883 13.7(100.0の内) 95.9
ロ 横浜市に於ける罹災の種別(以下横浜市)
震災当時の
世帯数
全焼 半壊 全潰 半潰 以上計 大破 合計
98,900 62,608 - 9,800 10,732 83,140 11,743 94,883
震災当時の世帯数は大正九年の国勢調査によりて得たる数に、更に増加率によりて得たる数を加えたるものなり
ニ 震災当日現在世帯数100に対する罹災種別の比例
全焼 半焼 全潰 半潰 以上計 大破 合計
62.71 - 9.82 10.75 83.27 11.76 95.03

2 罹災人口

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イ 罹災人口種別および全体の比較

甲 死傷者の数
死者 行方不明 重傷 軽傷
罹災一府六県下 91,344 13,275 104,619 16,514 35,560 52,074
右の内神奈川県下 29,614 2,245 31,859 6,187 13,336 19,523
右の内横浜市 21,384 1,951 23,335 3,114 7,094 10,208
乙 死傷者その他罹災者の数
震災当日の
現在人口
死者並びに
行方不明者
重軽傷者 全焼半焼全潰
半潰流出罹災者
大破損罹災者
罹災一府六県下 11,758,000 104,619 52,074 2,548,092 700,113 3,404,898
右の内神奈川県下 1,379,000 31,859 19,523 781,492 342,135 1,175,009
右の内横浜市 442,600 23,335 10,208 338,615 50,089 412,247
震災当時の世帯数は大正九年の国勢調査によりて得たる数に、更に増加率によりて得たる数を加えたるものなり。
軽傷は一週間以上休養治療したるものにして、重傷にあらざるものなり。
ロ 横浜市に於ける震災当日現在100に対する罹災種別比例(以下皆横浜市)
死者 行方不明 重傷 軽傷 全焼半焼
全潰半潰
大破
4.83 0.49 0.71 1.60 74.24 11.32 93.14
ハ 罹災者100に対する罹災種別比例
死者 行方不明 重傷 軽傷 全焼半焼
全潰半潰
大破
5.19 0.47 0.76 1.72 79.71 12.15
ニ 死傷者の体性別
   死者行方不
明者総数
死者 行方不明 重軽傷者
11,417 10,343 1,074 5,838
11,918 11,041 877 4,370
ホ 死者並びに行方不明の年齢
死者 行方不明
当歳より14歳まで 6,817 399
15歳より59歳まで 12,901 1,353
60歳以上 1,666 199

3 罹災者の職業

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イ 罹災者の本業従属者別

本業者とは収入を得て一家を経営するものをいう。
従属者とは本業を有せざる家族および家事使用をいう。
総数
罹災者総数 412,247 212,441 59,806
本業者 167,870 136,640 31,523
従属者 244,440 76,157 168,283
ロ 死傷者の本業者従属者別
本業 従属
死者 4,204 17,180 21,384
行方不明 889 1,062 1,951
傷者 6,767 3,441 10,208
ハ 罹災本業者の職業概別(本人を基としたもの)
職業概別 総数 死者 行方不明 重傷 軽傷 死傷行方不明以外の罹災者
農業 3,130 24 6 15 41 3,044
水産業 1,148 6 2 7 1,133
鉱業 301 1 3 4 5 288
工業 50,741 957 289 596 1,380 47,519
商業 54,725 1,849 343 741 1,789 50,003
交通業 16,554 290 60 161 360 15,683
公務自由業 13,748 439 65 188 455 12,601
その他の有業者 17,484 500 107 207 481 16,189
家事使用人 217 7 1 3 6 200
無職業 9,759 131 15 96 230 9,287
167,807 4,204 889 2,013 4,754 155,947
ニ 罹災本業社の職業概別(世帯を基として観察したるもの)
職業概別 罹災者総数 全焼 全潰 半潰 大破 以上計 無破損
農業 3,130 946 389 698 1,104 3,138 2
水産業 1,148 638 82 128 296 1,145 3
鉱業 301 170 42 51 27 290 11
工業 50,741 36,125 4,757 4,558 5,243 50,683 58
商業 54,735 42,592 3,911 4,000 4,153 54,656 69
交通業 16,554 11,810 1,419 1,634 1,677 16,540 14
公務自由業 13,748 8,897 1,594 1,643 1,578 13,712 36
その他の有業者 17,848 11,433 1,880 1,954 2,214 17,481 3
家事使用人 217 141 19 19 18 197 20
無職業 9,759 6,154 1,038 1,222 1,304 9,718 41
167,807 118,906 15,132 15,898 17,614 167,550 257
本業なき従属者 244,440 151,622 27,345 31,479 33,761 244,216 224
合計 412,247 270,537 42,477 47,377 51,375 42,766 481

ホ 罹災者本業者の職業中分類

右罹災者本業者を職業中分頻に依りて示せば左の如くである。
農耕・畜産・蚕業 3,064
林業 66
漁業 1,148
採鉱冶金業 210
土石採取業 91
窯業 563
金属工業 5,671
機械器具製造業 4,618
化学工業 1,044
繊維工業 5,113
紙工業 745
皮革・骨・角・甲・羽毛類製造 176
木竹類に関する製造業 4,669
飲食料品・嗜好品製造業 3,332
被服・身の廻り品製造業 6,363
土木建築業 10,031
製版・印刷・製本業 1,922
学芸・娯楽・装飾品製造業 1,030
瓦斯・電気および天然力利用に関する業 2,366
その他の工業 3,096
物品販売業 37,788
媒介斡旋業 1,147
金融・保険業 2,489
物品賃貸預かり業 652
旅館・飲食・浴場業 9,974
その他の商業 2,675
通信業 1,526
運輸業 15,028
陸海軍人 141
官吏・公吏・雇傭 4,604
宗教に関する業 719
教育に関する業 1,736
医務に関する業 2,849
法務に関する業 225
記者・著述業 292
芸術に関する業 1,428
その他自由業 1,754
その他有業者 17,484
家事使用人 217
収入に依る者 711
無職業 9,048
本業なき従属者 244,440
412,247

ヘ 人口の異動

大正十二年九月一日推計人口442,600 死者及行方不明者23,335 十一月十五日現存人口311402 九月一日と十一月十五日との差(減)131198
災後本市の罹災者で、本県郡部本市以外の市および他府県へ避難した者の数どれ程であったか。九月上旬頃には必す二十萬人もあったであろう。しかしその正確な数は到底計上出来ない。災後七十五日を過ぎた十一月十五日午前零時現在に於いて、本市の罹災者で本県郡部本市以外の市および各府県に避難していた者の、明らかな総数は十一万四千三百余人であった。この内東京府下に避難した者が最も多く、その数二万四千余人、これに次いで紳奈川県郡部および横須賀、川崎両市に二万一千余人、兵庫県下に一万一千余人、これらが最も多い所である。左に各地方への避難数を記す。
散在地方別 総数
東京府へ 24,272 12,515 11,757
内東京市へ 7,634 4,316 3,318
郡部および八王子市へ 16,638 8,199 8,439
神奈川県郡部および
横須賀、川崎市へ
21,406 10,298 11,108
千葉県へ 4,891 2,105 2,786
埼玉県へ 2,308 1,050 1,258
静岡県へ 7,614 3,409 4,205
山梨県へ 2,710 1,301 1,409
茨城県へ 2,173 937 1,236
京都府へ 1,513 752 761
大阪府へ 5,456 2,069 2,387
兵庫県へ 11,711 6,231 5,480
長崎県へ 488 199 269
新潟県へ 2,424 1,090 1,334
群馬県へ 2,104 983 1,122
栃木県へ 2,106 944 1,163
奈良県へ 242 117 125
三重県へ 1,740 960 780
愛知県へ 5,208 2,625 2,583
滋賀県へ 521 262 259
岐阜県へ 1,202 629 573
長野県へ 1,673 955 718
宮城県へ 1,443 614 829
福島県へ 1,692 751 941
岩手県へ 254 125 129
青森県へ 349 169 180
山形県へ 664 302 362
秋田県へ 244 118 126
福井県へ 856 413 443
石川県へ 1,298 620 678
富山県へ 954 430 524
鳥取県へ 125 62 63
島根県へ 118 55 63
岡山県へ 357 163 194
広島県へ 418 189 229
山口県へ 357 169 188
和歌山県へ 225 113 113
徳島県へ 113 63 50
香川県へ 117 58 59
愛媛県へ 277 137 140
高知県へ 139 70 69
福岡県へ 483 263 220
大分県へ 157 69 88
佐賀県へ 131 66 65
熊本県へ 169 78 91
宮崎県へ 31 16 15
鹿児島県へ 191 103 88
沖縄県へ 330 271 59
北海道へ 1,090 557 533
総数 114,301 56,258 58,043

脚注

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関連項目

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