横浜市震災誌 第一冊


横浜市震災誌 第壱冊 編集

横浜市役所

緒言
本誌は大正十二年十二月、市史編纂相談會の議を經、大正十三年度より編纂のことに決し、一名の専任者を設けて之に從事せしめしが、資料蒐集困難なると蒐集版圖の諸方面なるとに依りて、事業進捗せざるを以て、其年末より更に二名の擔當者を增員し、漸く十四年十一月を以て、編纂を結了するに至れり。而かも成書尨大にして當初の方針に適合せざる點なきにしも非ざりしを以て、其後別人の手に依りて削正改窟せしもの多し。抑も震災の当時に在りては一葉半塊の筆紙すら得るに難く、諸事を筆録して後代に傳へんとするが如き遠謀深慮の存せざりしは蓋し已むを得ざりし所なり。されば多くは生死の間に出入せし若干の人士に於いて其談話を聞書せし外は、悉く当時に遡りての追記なれば、記事正鵠を失へるものあらんことを恐る。今や假印刷成り、諸子の劉覧を仰がんとするに臨めり。乃ち一言を述べて緒言と為す。冀くば誤謬の點を一々指摘し給はんことを。
大正十五年二月

横浜市史編纂係誌 


横浜市震災誌第1冊 目次 編集

第1編 概説 編集

第1章 横浜市大震災大火災の概況 編集
第2章 震災と横浜市 編集
前横浜市長 渡邊勝三郎 述
第3章 本市を中心として見たる震災の諸学説および調査 編集
神奈川県測候所長技師 高木 健 述
県測候所調査
同上

横浜市震災誌 第一冊 編集

横 浜 市 役 所 編

第1編 概説 編集

吾々横浜市民として、一生忘れることの出来ない想い出は、去る大正十二年九月一日午前十一時五十八分、横浜、東京および神奈川、千葉、静岡、山梨等の諸県を襲った、あの恐ろしい残虐な大地震である。

その被害の大きかったことは、横浜と東京であったが、横浜はことにひどく、かつてなかった大惨害を受けた。

大地震で、市内の建物は殆んど全部倒潰した上に、つづいて起った猛烈な火災のために、殆んど横浜全市は、一夜の中に焼野原となってしまったのである。

東洋第一の輸出港としてほこっていた横浜も、復活することは出来ないと、絶望されたのであるが、やがて市民の心に、破壊に対する尊い建設心が眼覚め来た時、彼等はある限り力を尽くして、活動に向かって進んだのである。官民一致協力して、復興に努めた結果、いつの間にか新しい家が続々と出来て、一二年経つ中に、横浜は再び甦ったのである。破壊した桟橋も、岸壁も今日は改築されて、常に船舶で賑っている。

さてあの大地震の震源地は、何れであるかとの解説は学者の間に可成り論議され、今日では相模弱線の深き地下であると推定されている。この大正の地震と同じような大地震は、元禄と安政に江戸にもあった。それから後明治二十四年十月二十八日朝、濃尾にても大地震があって、これも、同じ程度の大地震であったといわれているが、大正の地震のように、火災が併発して、このような惨状を呈したことは、曾てなかった様である。

世界五大都市の一つである大東京と、我が唯一の輸出港の横浜との市街は、見る影もなく焼き尽くされ、過去の盛観は瞬く間に消え失せてしまったのであった。横須賀、その他神奈川県下の町村等、殆んど火災に遭わない所はなかった。

当時の被害世帯数は社会局で国勢調査の例に倣って、調査した結果によれば、全焼三十一万一千九十、半焼五百十七、全潰八万三千八百十九、半潰九万一千二百三十二、流失一千三百九十、大破十三万六千五百七十二、合計六十九万四千六百二十一で、人口は実に三百四十万四千八百九十八であった。

交通・通信等のあらゆる機関は、全く役立たなくなったので、長い間の悦楽の世界は暗黒の世界となってしまった。今その犠牲となれる者を統計するに、死者九万一千三百四十四人行方不明者一万三千二百七十五人、計十万四千六百十九人である。負傷者は数万で、その中の重傷者は一万六千五百十四人である。

申すも御いたわしき次第であるが、宮家にも御遭難遊ばされたお方がお三方もおありになった。在留外人でも無惨な死を遂げた人は沢山あった。親子・夫婦・兄弟が離ればなれになった者は沢山あったし、一家挙げて全滅したものも沢山あった。

震災後幾日かの間、三百万有余の罹災民等は、衣食もなく、住むところもなく、跡跡に逍遥っていたが、やがて食物の配給も受けて、生活する力も得た。

お慈悲深い天皇陛下には、たくさんの御内帑金を罹災民に御下賜された。

かようにして、罹災民の救護や、物質の配給は、県市当局の手ばかりでなく、各地から来浜した救護団から受けた。英・米等から種々の物質を送付して来て、罹民の救助に資してくれた。

今、横浜市は、着々復興に、復興にと急いでいる。やがて耐震耐火の建物が建てられた時の市街地は、震災前の市街よりは、一歩進んだものであろうと信ずる。

関連項目 編集


 

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