↑前年 莊公八年(紀元前686年) 翌年↓ < 巻の三 莊公 < 春秋左氏傳
【經】 八年、春王の正月、(魯ノ)師、郎に次り、以て陳人・蔡人を俟つ、甲午、兵を治む。夏、師、齊の師と郕を圍む。郕、齊の師に降る。秋、師還る。冬、十有一月癸未、齊の無知、其君諸兒を弑す。
【傳】 八年(周ノ莊王十一年)春、兵を廟に治むるは、禮なり。
夏、師、齊の師と郕を圍む。郕、齊の師に降る。(齊、魯ト其功ヲ共ニセザルガ故ニ)仲慶父、齊の師を伐たんと請ふ。公、曰く、『不可なり。我實に不德なり。齊の師何ぞ罪あらん。罪は我に由れり。夏書[1]に曰く、「皋陶邁めて德を種う」と。德あれば乃ち降る[2]。姑らく務めて德を脩めて以て時を待たんか』と。秋、師還る。君子是を以て魯の莊公を善しとす。
齊侯[3]、連稱・管至父[4]をして、葵丘を戍らしむ。瓜の時[5]にして往く。曰く、『瓜に及びて代へん』と。期まで戍る。公の問[6]至らず。代らんと請ふ。許さず。故に亂を作さんと謀る。僖公の母弟を夷仲年と曰ふ。公孫無知を生む、僖公に寵あり。衣服禮秩、適[7]の如し。襄公、之を絀く。二人之を因りて以て亂を作す。連稱、從妹あり、公宮に在り。寵無し。公を間はしむ[8]。(無知)曰く、『捷たば、吾、女を以て夫人と爲さん』と。
冬十二月、齊侯、姑棼に游び、遂に貝丘[9]に田し、大豕を見る。從者曰く、『公子彭生[10]なり』と。公、怒りて曰く、『彭生敢て見ゆるや』と。之を射る。豕、人のごとく立ちて啼く。公懼れて、車より隊ち、足を傷り屨を喪ふ。反りて、屨を徒人[11]費に誅[12]む。得ず。之を鞭ち、血を見る。費走り出づ。賊に門に遇ふ。(賊)劫かして之を束ねんとす。費曰く、『我奚ぞ御がんや』と。袒ぎて之に背を示す[13]。(賊)之を信ず。費請うて先ず入り、公を伏せて出でて(賊ト)鬪ひ、門中に死す。石之紛如[14]、階下に死す。遂に入りて、孟陽[15]を牀に殺す。曰く、『君に非ざるなり。類せず』と。公の足を戸下に見、遂に之を弑してす、無知を立つ。初め襄公立ちて、(政令)常なし。鮑叔牙[16]曰く、『君、民を使ふこと慢りなり、亂將に作らんとす。公子小白を奉じて、出でて莒に奔り、亂作る。管夷吾・召忽[17]、公子糾を奉じて(魯ニ)來り奔る。初め、公孫無知、雍廩[18]を虐げき。(→莊公九年)
- ↑ 夏書は逸書。
- ↑ 我に德あるときは人之に降る。
- ↑ 襄公。
- ↑ 皆齊の大夫。
- ↑ 瓜の時は七月をいふ。
- ↑ 問は存問。
- ↑ 適は太子。
- ↑ 公の間隙を伺はしむ。
- ↑ 姑棼、貝丘は皆齊の地。
- ↑ 公子彭生は魯の桓公を殺して誅せられし力士。從者は無知の黨なり。大豕を彭生と云ひて、公をおどかしたる也。
- ↑ 徒人は徒歩の從者。
- ↑ 誅は責む。
- ↑ 齊侯に鞭たれし創を示して、君を憾むものと見做されたるなり。
- ↑ 齊の小臣。
- ↑ 孟陽も齊の小臣なり。孟陽、公に代りて牀に居りたる也。
- ↑ 小白の傅。
- ↑ 管夷吾は管仲。夷吾と忽は公子糾の傅。
- ↑ 齊の大夫。