↑前年 莊公六年(紀元前688年) 翌年↓ < 巻の三 莊公 < 春秋左氏傳
【經】 六年、春王の正月、王人子突、衞を救ふ。夏六月、衞侯朔、衞に入る。秋、公、衞を伐つより至る。螟あり。冬、齊人來りて衞の俘を歸る。
【傳】 六年(周ノ莊王九年)春、王人、衞を救ふ。夏、衛侯入る。公子黔牟[1]を周に放ち、甯跪[2]を秦に放ち、左公子洩・右公子職を殺して、乃ち位に即く。君子、二公子の黔牟を立てしを以て度らずと爲せり。夫れ、能く位を固くする者は、必ず本末を度りて、而る後に衷[3]を立つ。其本を知らざれば謀らず、本の枝せざるを知れば強ひず[4]。詩[5]にも『本枝百世[6]』と曰へり。
冬、齊人來りて衞の寶を歸るは、文姜、之を請ひしなり[7]。
楚の文王、申を伐ち、鄧を過ぐ。鄧の祁侯曰く、『吾が甥[8]なり』と。止めて之を享す。騅甥・聃甥・養甥、楚子を殺さんと請ふ。鄧侯許さず。三甥曰く、『鄧國を亡さんものは、必ず此人ならん。若し早く圖らずば、後、君、齊を噬ま[9]ん。其れ之を圖るに及ばんや。之を圖らんとならば、此れを時と爲す』と。鄧侯曰く、『人將に吾が餘を食はざらんとす[10]』と。對へて曰く、『若し三臣に從はずば、抑〻社稷だも實に血食せじ。而るを君焉くにか餘を取らん[11]』と。從はず。還る年、楚子、鄧を伐つ。十六年、楚復た鄧を伐ちて、之を滅せり。
- ↑ 黔牟、衞侯たること十年。
- ↑ 甯跪は衞の大夫。
- ↑ 衷は適當なる者。
- ↑ 其本の強弱を知らざれば、其人の爲めに謀らず。其枝葉を生ずるに堪へざるを知れば、強ひて爲さしめず。
- ↑ 大雅。
- ↑ 本末倶に榮えて百世に及ぶを云ふ。
- ↑ 公親ら齊と共に衞を伐ち、事畢りて還る。文姜、齊侯に淫す。故に其の獲る所の珍寶を求めて、魯に歸らしむ。魯を悦ばして以て慙を謝せんと欲する也。
- ↑ 甥は姉妹の子。
- ↑ 齊は臍なり。及ぶ可からざるを云ふ。
- ↑ 甥を害せば、人より賤められん。
- ↑ 君、復た餘無からん。