日本女性美史 第十八話
第十八話
編集吉野朝の女性
編集- 鎌倉幕府は倒れた。建武中興となつた。足利尊氏の大逆によつて、かしこっくも皇室は吉野におうつりになつた。忠臣、南朝のために、蹶起し、狂瀾を既倒にめぐらした。まことに南朝の歷史は壯烈の極みである。その間に、女性の凛たる婦德とやさしい心ばえがあつて吉野朝忠臣の事蹟をいろどつてゐる。
- 楠木正成の室、正行の母。その名は慈子(しげこ)。ここは吉野朝の下、かんばしき婦德の花は開いてゐる。しばらく日本外史を朗讀して、正行に訓誡を與へる母慈子の精神をしのばうではないか。
- 「尊氏京師に入り、正成の首を河內に送る。一家、あつまり哭す。正行、起ちて室に入る。その母、尾(び)して之をうかがへば、すなはち父のさづくるところの刀を執りて、まさに自殺せんとす。母、直ちに入り、刀を奪ふて泣いて曰く、汝なんぞまどへるや、乃父(たいふ)の汝に歸らしめたる、豈、汝を自殺せしめんためならんや、汝、遺命をふくみ、歸り來りてわれに吿ぐ、而して汝先づ之を忘る、なんぞよく王事に任ぜんや、と。正行大に悟り、國賊を討つて父の讐を復するを以て志となす」
- 正行は長じて後醍醐天皇の君側に侍する身となつた。天皇崩御ののちは、後村上天皇に御奉仕した。吉野の宮居(みやゐ)に奉仕する女官の中に、辨內侍があつた。才色ならび備はつてゐた。ある時、吉野の行宮でおさかもりがあつた際、內侍も待つてゐたが、手にしてゐたお盃を落して二つに割つた。內侍すかさず、
- 「さか月のわれてぞ出づる雲の上」
- と上の句を詠むと、天皇、御機嫌和らがせたまひ、下の句を、と命じられた。四條宗房これにつけて
- 「星の位のさきをへばや」
- と詠(よ)んだ。これで月、雲間より出でて群星、光うすきを詠じたことになり、天下の形勢定まらんとするの歌意もめでたく、天皇大に嘉し給ふた。
- これほどの才女であつたこととて、多くの人に注目されてゐたが、賊の高師直が最もきつい執心であつた。內侍、もとよりなびくわけもない。師直、家來をして內侍を奪はしめようとしたが、正行、通りかかつて內侍を救ひ、御殿にお送りした。天皇、內侍を正行の妻に下しおかれようとの御心であつたが、正行は
- とても世にながらうべくもあらぬ身のかりの契をいかでむすばん
- と歌を以て奏し、謹んで拜辭した。然し、辨內侍はこの時から自分は正行の妻であると決心し、正行、四條畷で討死ののちは、尼となつて正行の後生を弔ふた。
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