日本女性美史 第十七話

第十七話 編集

鎌倉武士と女性 編集

鎌倉武士あつてこそ、鎌倉女性であつた。その、武家の女の眞隨をあらはしたものに北條政子があつた。
政子は北條時政の女。源賴朝に嫁した。時政は平貞盛八世の孫、伊豆の北條を領するによつて北條の姓を名乘つた。平氏の出でありながら、賴朝の人物を見込み、源氏復興の一大原動力となり、賴朝、鎌倉に幕府を設くるにあたつては政所の別當となつた。政務財政萬端をつかさどる。その女だから賴朝も將軍になつてのちも一目(もく)置いた。但し、嫁してのちまで北條姓を名乘つたのは舊姓によつて土地を領したからである。
もつとも、賴朝は初めから政子をもらふつもりではなかつた。前に、伊東氏の女と通じて不幸な結果に終つたので、美女はもうこりこり〔ママ〕だとばかり、北條氏の次女の綺量が惡いのを聞いて、特に望んで時政に書を送つた。それを持つて行く役の、家來の安達盛長が考へた。あの綺量では賴朝公の情好も長くつづくまい、と。そこで勝手に美人の姉、政子を所望の手紙に書きかへた。妹が夢にそれを知つて姉に吿げた。政子、化粧鏡を妹に與へてなだめ、進んで賴朝の妻となつた。安達盛長という男もえらいが、鏡で夢のお吿げをあきらめた妹は大にえらいと思ふ。政子、時に年二十一、賴朝は三十。二男、二女が生れた。
賴朝はほかにも愛人があつたので、政子は自分の嫉妬心を持てあましながらも、賴朝をよく愛した。賴朝の軍振はずして敗れたころなど、政子は堅忍の心をもつてよく仕へ、良人の志業を援けたのである。賴朝が征夷大將軍となつてのちも、一門の華奢をいましめ武家の家庭を引きしめさせた。
賴朝は五十三歲で死んだ。政子は四十四歲で後家となつた。その哀しみと信仰とから、彼女は黑髮をおろして尼となつた。賴朝の死後二年の正治二年に、發願(ほつぐわん)によつて龜谷(かめがやつ)に壽福寺を建て法會に出席して法談を聽聞した。そのほか佛事に盡したこと並々でなかつた。建保六年には熊野詣をした。その時、從三位をたまはり、宮中から御召をうけたが、「妾は關東の老尼、禭義もわきまへませぬ上、出家の身として龍顏を拜するは、長こりも憚りあること」とつつましく御辭退申上げた。また後年、賴朝追福のためには一寺を建立して供養した。惡病流行の年には寫經供養をした。日ごろ法然上人に歸依し、念佛の功德を尋ねたりした。
案ずるに、鎌倉時代、武士の精神鍛鍊に力となつた宗旨は禪宗であつたが、一ぱん庶民や女性の信仰を導くものは念佛を說く淨土宗であつた。そして、法然上人はその開祖である。上人は、お寺の建立などに重きを置かず、「念佛を修せんところは貴賤を論せず、あまが苫屋までも、みなこれ余の遺跡なるべし」と云つたくらゐだから、政子にも念佛のありがたいことを說いた。然し政子に限らず、何か美くしい形に信仰があらはせられるなら、あらはしておきたかつた。寺々、ここにおいてか建立された。
政子の信仰はこのやうなものであつた。彼女の政治手腕はもつと現實的で、もつと效果的であつた。
賴朝の沒後、二代將軍賴家は若くして放縱、次男の實朝はいまだ幼少、天下の英雄は、すきあらば取つて代らうと虎視耽々たる有樣であつた。この間にあつて、政子はよく二兒をまもり、父時政とともに天下の英雄を抑へた。
先づ苦勞の種は賴家の放縱である。政子はたびたび訓戒したが、利き目がなかつた。そこで、建仁三年、賴朝の死後五年目、强いて賴家に職を退かしめ、天下を二分して、關東二十八國をその子一幡に治めしめ、關西三十八國を弟の實朝に治めさせた。のちに、賴家を修善寺に幽居させて、實朝を立てゝ將軍とした。
實朝が八幡宮の石段で、公曉に殺されたので源氏のあとは絕えた。政子は京都から藤原賴經をむかへて將軍に立てた。賴經、時に年二歲。政子、思ふままの政治を行ひ得たのは一に、賴經が赤んぼの美德を發揮したるによる。
政子の權勢はあながち父時政の聲望によるものばかりでなく、彼女の善處、果斷によるところが多い。されば時人、政子を呼んで將軍と稱した。いつの世でもあだ名は端的にその人をあらはす。尼將軍は蓋し傑作である。
木曾義仲が京師から平氏を追ひ拂つたすぐあとで、賴朝が院宣によつて義仲を討つたことは、鞆繪御前のくだりで記した。その時の義仲討伐の一方の大將は賴朝の弟義經であつた。もう一方の大將義經の兄範賴(のりより)。さて、義經は京師にとどまつてゐる間に美人を發見した、美人、名は靜御前。
靜御前の氏、素姓はわからない。讃岐の志津加(しづか)に生れたのでこの名があるとのこと。母は磯(いそ)の禪師として、娘をつれて京師にのぼり住んでゐた。時に、藤原通憲(みちのり)、舞の極意を傳へのこさうと磯の禪師を招いた。靜は側で見習つてゐるうちに母よりも上手になつた。たまたま、日でりがつづいて雨乞が行はれたが少しも降らない。靜、選まれて神泉苑で舞ふと天にわかに曇つて雨沛然として下つた。靜の名、洛中に聞こえた。義經、靜御前を入れて愛人とした。さて同棲してみると舞だけの上手ではない、とても總明なのである。
賴朝は義經を疑つて、土佐房昌俊(とさのぼうしやうしゆん)を遣(つか)はし義經の館を攻めさせようとした。昌俊、先づ樣子を探らうと義經の館に訪づれると、あべこべにその肚の中を見破られた。靜御前、義經の身邊にあつて助言し、よく、昌俊を討たしめた。
義經は賴朝の害意を避けて、靜とともに吉野山にのがれたが、一身の安危を說いて從者をつけ、金を與へて靜を京に歸らせた。從者は義經が靜に、鏡や、立派な鼓を與へたのを知つてゐるので、金ごと、みんな持つて逃げてしまつた。吉野山の山僧は逃げる靜を怪しんで捕へ、かねて鎌倉からの下知によつて義經の居所を糾問したが、靜は口を開かないので、鎌倉に送つた。
鎌倉で賴朝の前に引出されたが、ここででも云はなかつた。靜はこの時すでに、義經の子をやどしてゐたのでお產所に入れられた。靜の舞の上手なことはすでに知られてゐた。政子は賴朝に、靜の舞を見たいと賴んだ。靜は、私は判官殿の妻でございます、見世物にはなりませんと拒んだ。政子はいよいよ靜の舞を見たくなり、鶴ヶ岡八幡宮に奉納のことに寄せて舞はせることとした。八幡宮の社殿をめぐつて武將星のごとくならぶ。畠山重忠笛を吹き、梶原景季銅拍子を合せ、工藤祐經鼓を打つ。裝束は、京より召されたる母の、磯の禪師が心づくし。舞ふは「しんむしやうの曲」。祐經、靜の胸中を察して途中で曲を變へて早く仕舞はせた。今一つとの所望に、「せんずる所敵の前の舞ぞかし、思ふことを歌はばや」(「義經記」による)とて
しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこひしき
と、歌つたので、賴朝大に不興であつたが、政子がよくなだめて、ほうびを贈つた。靜はのちに尼となつて念佛往生を遂げた。


鎌倉時代の代表的女性として、松下禪尼の名は百世にかんばしい。しかもその原因の單純なこと、女の鑑中の第一である。
禪尼は、秋田城介安達景盛の女で陸奧守北條時氏の室となつた。北條時賴の母である。禪尼は平常甚だ質素、儉約を旨とした。これは賴朝以來、鎌倉武士の士道の一要素となつてゐる。のちに、北條泰時、執權となるや、貞永式目を作つて武人をいましめ、自からは儉約を守つて衆の手本とあつた。さう云ふ時代だから、松下禪尼が儉約の權化のやうな女性としてあらはれたのも偶然でなかつた。
ある日禪尼が障子の切り張をしてゐると、兄の義景が話しに來て、そんなに一間づつ切張すると手數がかかる上に、紙にまばらが出來るでせう、と云つた。すると禪尼は仕事の手を休めずに云つた。何でも、初めのうちに直すことにすれば手間もとれないし、お金もかからない、それを若い者に知らせるために切り張をしてゐるのだよ。義景これを聞いてそれでは若い者に自分から知らせてやらねば、折角の切り張がお手本にならんと思つた。かくして今の世まで、禪尼の切り張は修身の敎材となつてゐる。
子の時賴が母の禪尼の敎をうけて、儉約の範を示したことも有名である。かくて、天下の人心北條に歸し、幕府の財政も豐となった。元寇の大難には祈禱と國防にだいぶ費用がいつたが、よくまかなふことができたのは、さかのぼつて考へれば松下禪尼の切り張も小なる一原因となつてゐた。


鎌倉幕府のころ、鎌倉武士は敎養低く、漢文の素養も乏しかつたので、佛敎徒も假名交り文で敎文で敎旨を書き示した。然し、京師にあつて文化いまだ必しも衰へず、女性にして歌文にすぐれたものもあらはれた。それは平度繁の女、藤原爲家の室、のちに出家して阿佛尼と云はれた人である。
その著「十六夜日記」は良人爲家の死後、相續のことで執權に訴へることがあつて、東下りをした、その時の日記である。道すがら、信仰する法華經の敎を思ひ、今の身の上を詠じた。その歌二つ。
たのもしな身にそふ友となりにけり妙なる法(のり)の花のちぎりは
むすぶ手に濁る心をすゝぎなばうき世のゆめや醒ヶ井の水
阿佛尼はこのほかにも二の著作がある。その中でも、乳母が姬君に敎へる言葉として書かれたる「庭のをしへ」は、このころの貴族女性の敎養をしのばせるものである。ここにその一節を拔く。
「たゞ、なべて、よきほどに、人とうらうらとむかひて、(朗らかに對座して)御顏の置き所、つ(つま)しやかに、姿、美くしく居なして、水鳥の浮きたるさま覺えて(これは處女の氣の持ち方をたとへて絕妙の句である)御袖の置きやう、思ひはづさず、こころをそへて(細心の注意をくばつて)几帳のはづれ、床しきさまにもてなして(几帳を背景に上品な姿でゐよ、との意)御髮(ぐし)のかゝりも、おほどかに(ゆるやかに)すたれぬさまながら(亂さぬほどにして)あまり由ありと、わざとめかしからぬやうに、はづかしきかたを添へて、おほどかに用意加へて御ふるまひ候へ」
そして、男の人が訪づれたら、よく話題をえらみ、男の人の服裝のことなどで笑ひ興ずる女があつてもそれと一緖に興じてはならぬ、と云ふやうなことを敎へてある。このほか歌のこと、文字のことなど、こまかいところまで注意を與へてゐる。
 

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