日本女性美史 第十六話
第十六話
編集源氏の女、平家の女
編集- 平安時代の末期は卽ち、源、平の爭霸時代である。
- 平安朝の貴族は莊園を地方の農民中の家柄である名主に管理させた。任命するものと、土着の地主(名主)が委托されるのとあつたが、名主の方が勢力をもつやうになり、家の子郞黨を武裝させて土地を守り、またお米の運搬を警備させた。武士が上京して貴族の家で奉仕する、卽ち「侍(さぶら)ふ」ことから、「さむらい」階級ができた。さむらいの中にも二大名門が尊敬された。淸和天皇の出である源氏と、桓武天皇の後である平氏とがそれである。
- 源、平二氏は京都で長い間戰つた。それにはいろいろの入りこんだ原因があつた。まことに、保元、平治の戰は、肉親の間のいたましい爭でさへあつた。戰爭がすんでみると、藤原氏(貴族)の無力なことがわかり、源、平双方の强いこともわかつた。
- 二つ强ければ、どつちの一つかが一方を倒さないと權力が保たれない。平氏が勝つた。勝つても人情こまやかで、敵の源氏の大將の子供をゆるしておいた。それが母親に抱かれて旅行したり、お寺で天狗に劍述を習つたりして、たうとう平氏をほろぼした。
- この戰爭と人情、政治と人情の間に、源、平二氏の女性の特色が發揮されたのである。而して、女性としてその特色と發揮せしめた半面の力は武士の精神であつた。男に武士としての修業があるところ、そこに女のやさしさと强さとが發揮されたのである。
- 武士の修養は要するに、粗野、素朴の武士が、自己の實力と地位(社會上、官位上)とを自覺するにいたつて、自から、より高い人間たらんと努力したことに外ならぬ。そのころの武道の一つとして、武士は强いことのほかに、「民を安んじ、衆と和し、財を豐にす」ともあつた。(「古今著聞集」の中にある)
- それに加へては、平安朝末期に佛敎の弘められたことによつて、人々、念佛、祈願によつて後世の安樂をねがふ、と云ふ素朴の信仰生活が行きわたつてゐた。更に加へては、社會一ぱんの思想が亂れて、下位の者が上位の者に從はなくなつてゐた。庶民が貴族に抗爭することさへあつた。同時に、假名交り文の流行なども原因となつて庶民の敎育が進んで宇治拾遺物語には、木こりの子が題詠に名歌をよんだことを書いてある。
- 上流の間に風流の催し事があると、民間から遊女が招かれて席をにぎはしたが、その遊女の敎養がまた、たいしたもので、舞踊もうまいが、歌もよく詠んだ。彼女たちは貴族の家に平氣で御機嫌伺ひにまかり出た。
- 貴族の子女は幼ない時から佛敎々育を受けた。それだけにまた、生活に迷信も浸透しており、物の化(け)がのべつあらはれ、何かにつけて祈禱が行はれた。
- このやうな時代の女性として、源、平、二氏の一、二の女を見るとしよう。
- 袈裟御前。左衞門尉源渡の妻で、本名を阿都磨(あづな)と云ひ、また、袈裟女ともよばれた。とても、きれいな女であつた。ふり返つて見ると後姿も凄艷であつた。されば、一族の武士遠藤盛遠、彼女に熱き思慕を寄せずにはゐられなかつた。袈裟女の母衣川(きぬがわ)は娘の身に間違があつては、と、ある日盛遠に道理を盡して說き、あきらめてくれと說いたが、盛遠は聞き入れなかつた。衣川は袈裟女をよんで、事の仔細を語ると、袈裟女はひそかに決心して母を安心させた。
- 次の日、袈裟女は、會ひに來た盛遠に、今夜、良人に髮を洗はせ、酒に醉はせて早く寢かせるから、ぬれ髮を目あてに忍んで來るやうに、と吿げた。盛遠は喜んで去り、夜、忍び込んで、ぬれ髮をつかみ首を斬った。月光にかざして見ると戀しい袈裟女だつた。哀しみの極、渡に懺悔した。渡も武士であつた。かくあつては汝を殺すもせんなきこと。すべて因緣とあきらめ、ともども袈裟女の後世を弔はう、と云つた。かくて、二人とも剃髮して、渡は渡阿彌陀佛となつた。盛遠は盛阿彌陀佛、のちに改めて文覺となつた。賴朝を說いて兵を擧げさせたのは彼であつた。
- 常盤御前。父も母も氏、素姓がわからない。九條院の雜仕(女中役)であつた。長じて義朝の愛妾となつて、今若、乙若、牛若の參院の男の子の母となつた。平治の亂に義朝やぶれて死するや、常盤は難をのがれて雪の中を伏見の田舍に向つた。三人の子を、懷に抱いたり連れたりしてゐる姿がよく描かれてゐる。平淸盛は常盤を探したがすでに都を去つたあとだつたので常盤の母を捕へた。常盤はそれと知つて六波羅の役所に自首して出た。淸盛も可哀さうに思つて、母も子もゆるしてやり、三人の子は出家させるつもりでお寺に入れた。牛若は鞍馬寺に入れられた。寺の裏の杉で天狗が牛若に劍術を敎へたことは歷史家は默殺してゐるがほんとうの話である。
- 常盤御前は日ごろから觀音さまを信仰してゐた。三兒をつれて世をしのんでゐる間も、一心に觀音さまにお祈りしてゐた。ゆるされてのちは、これひとへに觀音菩薩のおかげと信仰いよいよ深く、佛の道を念じた。
- 鞆繪御前。平家の專橫に抗爭して第一に起つた者は木曾義仲であらる。義仲の乳兄妹の一人に鞆繪があつた。美くしい上に力もあつた。
- さても、平氏を討つて京師に入つた義仲の餘りに暴れいなるため、源賴朝、院宣によつて義仲を討つた。元曆元年、義仲やぶれて京師から木曾へ逃げる途中、粟田口の戰で從ふものわづかに七騎。
- その一騎は鞆繪である。東軍、追擊急である。中にも二騎鞆繪と組まんと追ひかける。一人は六十人力を自慢する內田家吉でる。家吉あはや勝たんとず〔ママ〕るその一瞬、鞆繪が聲をしぼつて、「武士が女の髮を握るとは卑怯であらう、汝は武士の作法を知らぬニセモノよな」と云ふと、家吉、ほんものであることを示すためにひるんだ、そのすきに家吉を馬上に組み伏せ、首を斬つた。義仲はその强さに感心もしたが、「義仲が最後の軍に、女を具したりなど云はれんこと、口惜しかるべし」(平家物語)と鞆繪に落ちさせようとしたが聽かない。次に來た武藏の住人、御田(おんだ)の八郞師重と云ふ大剛の武士を「無手と組んで引き落し、わが乘つたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつとも働らかせず、首ねぢ切つて捨てんげり」(平家物語「木曾の最後」の中)そののち、武具をぬぎすて、飄然として戰場を去つた。尼になつたと云ふ說もあり、賴朝に愛されたと云ふ說もある。願はくば前說のまことならんことを。
- 小督(こごう)の局。さるほどに、彈正大弼(だんじゃうのたいひつ)仲國は小督の局いづこと、明月に馬をすすめて龜川のあたりに來た時、かすかに琴の音が洩れて來た。仲國、橫笛を吹いて門を叩くと果せるかな探す小督の局であつた。のちに淸盛のために尼にされた。彼女の身の上については平家物語で見られたい。私は淸盛の大不敬をいきどほりここに詳に記さないことにした。
- 妓王、妓女と佛御前。三人とも白拍子、卽ち平安朝末期に出でたる遊女である。もと神佛の緣起を歌つたものだが、のちに戀歌などを歌ひ、宴席の興を添へた。淸盛が愛した白拍子に妓王、妓女の姉妹がある。母親に每月、米百石、錢百貫を贈つた。三年目に佛と云ふ白拍子があらはれた。よほどの自信があつたらしく、ある時西八條殿に推參した。淸盛は怒つたが、試みに招き入れ、舞はせてみると凄いので、佛に心を移した。佛が妓王に氣がねするので、淸盛は岐王〔ママ〕に暇を出した。岐王〔ママ〕は障子に、
- 萌え出づるも枯るるも同じ野邊の草何れか秋にあはで果つべき
- と書いて嘆いた。翌年、淸盛に召されて、佛をなぐさめよと云はれ、
- 佛も昔は凡夫なり、われらも終には佛なり、何れも佛性具せる身を、へだつるのみこそ悲しけれ
- と泣く泣く三ぺん歌ふたので、淸盛も心を打たれた。妓王はそののち、尼となつた。岐女〔ママ〕も母と同じ姿となり、三人ともども嵯峨の奧に引きこもつて念佛三昧の生活に入つた。尼になつた年は妓王二十一、妓女十九、母四十五。
- 橫笛。これもさる院の雜司(下女の役)の一人である。氏、素姓はわからない。齋藤瀧口時賴と云ふ侍に見染められた。父は、身分が違ひすぎるのでゆるさなかつた。時賴曰く「人、長命といへども七十八十に過ぎず、その中、身の盛なるはわづかに二十餘年也。醜き者を片時も見て何かせん。思はしき者(好きな女)を見んとすれば父の命に背く。これ善知識也。如かじ、まことの道に入りなん」と。十九の年に僧形となつて嵯峨の往生院に行ひすました。ここまでは平家物語。ここから先は樗牛の「瀧口入道」で行く。
- 橫笛、かくと傳へ聞いて、「ああ、かなはずは世を捨てむまで、われを思ひし人の情こそありがたけれ」と、一人、院をあとに嵯峨野に入る。やうやく、誦經の聲を探り當てて、「瀧口殿にておはさずや」と尋ねると、瀧口入道、「よしやその人なりとても、この世の中に心は死して、のこるからだは空蟬のわれ、遇うて益なければこのまま歸り給へ、聞きわけしか橫笛殿」と去らせた。(この最後の一句は作者樗牛のいまだ文に若きを示す)
- 橫笛は一夜を門の外に立ち明かして、のち間もあく行く方知れずなつた。瀧口入道、女の「またも慕ふことありては」と、更に去つて高野に入つた。
- 兵士のほろびるとともに、多くの女房たちが、或ひは海に入り、或ひは斬られた。たいてい、西方の淨土に旅立つ信心のうちに死んだやうである。
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