日本女性美史 第十九話

第十九話

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戰國時代の女性

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南、北朝は一つになりまし、一系の天皇の下、武家の政治は依然としてつづいてゐた。室町幕府の將軍は豪奢な生活に時代の推移をも知らぬかのやうであつた。その豪奢な生活は、文化的な內容に乏しく、その飽くなき權勢は武力による地盤を確保してゐなかつた。かかる間に群雄蜂起の世とはなつた。
世相は二つの世界にわかれてゐた。上流支配階級の間では、互ひに勝たんがために攻め合ひ、だまし合つてゐた。だまし合ふ一つの方法は、政略結婚によつて相手國からの侵略をふせぐことであつた。それとても、もう侵略されない――自分に勝味があるとわかれば結婚させた肉親の女性の運命など考へずに相手方を擊つことさへあつた。のちに說く織田信長と淺井長政の場合がそれである。
さて、庶民階級にあつては、世はかりこもと亂れては、心ある者は佛の道に入り後生安樂を祈るのほかはなく、それは女性の心理によくあらはれてゐた。しかも、戰國の世となれば、寺そのものが尊さ、ありがたさを失ふて、餘りにも現世的になつてゐた。お寺で購母子が行はれて村々の金融機關となり、僧侶は、商品を持ち步いて商ひ出した。寺院では藥を賣つた。これらは佛神の世人を救ふ考から始められたものらしいが、この時代ではもうだいぶくろをとになり、儲け本位になつてゐたのである。
室町幕府の末になると京都市中に餓死した者の屍體が限りなく橫たはつた。將軍家としても見すてゝおかれず、時に銅錢を飢民にくばつたがこの世相をすくふべくもなかつた。これを見かねて、寬正二年二月、越中の人、願阿彌陀佛と呼ばれたる資產家が、市中で、大鍋十五に粟粥を煮(に)て窮民に與へたが、救はれた者の數は二月三月の凡そ二ケ月間、日々八千人にのぼつた。
このやうな世相の上に、戰國時代の群雄爭霸は展開されたのである。その準備工作の一つに政略結婚があつた。その犧牲の一人は――と、云つても終を完ふしたが――淺井長政の妻であつた。彼女は信長の妹である。
淺井長政の祖先は藤原氏。近江國の大部分を領し、越前の朝倉氏にはかねて恩義を受けた間柄である。信長は政略上妹おいちを長政にめあはせた。長政二十四、おいち二十二。信長は淺井池を遇すること懇切であつたが、信長が中央に進出するためには朝倉氏を討たねばならなかつた。淺井氏は中にはさまつて立場に困つたが、遂に朝倉氏に味方して信長に對して抗爭した。信長は不意を喰つて危ふく死地におちいつたが、辛くものがれた。かくなつては緣つづきなど問題でなかつた。信長は長政を攻めた。おいち、嫁して六年目である。長政は信長の幸福勸吿に對して、「貴殿の御取持(仲人になつたこと)世々未來忘れ難く存ずれど、當城にて尋常に腹を切り申すべし」と斥けた。そして、おいちには信長の許に歸るやうに切にすゝめた。彼女はもちろん良人と一緖に死なうと云ひ張つたが、二人の間に出來た三人の女と二人の男子まで一緖に殺すことの無用、不びんを說かれては、遂に心を變へて信長のもとに去るのほかはなかつた。そのあとで長政は城に火をかけ切腹した。行年二十九歲。のがれたおいちは信長によろこび迎へられた。然し信長は殘忍なまでに用心深かつた。おいちをだまして、助かつた長男の居所を云はせ內證で殺して了つた。娘は三人ともおいちの許で生長した。
信長はとても安樂に往生できない運命にあつた。本能寺は燃え落ちた。秀吉、光秀を討つたものの、信長の老將柴田勝家は秀吉何ものぞと思つてゐる。勝家のはやる心をしづめるには御苦勞ながらおいちが必要であつた。或ひは勝家がおいちに戀慕してゐたのだとの見方もある。谷崎潤一郞氏の「盲目物語」は、よりどころある小說であるが、その中に盲目のあんまが「武强いつぺんのおかたとばかりみえました勝家までがやさしい戀をむねにひそめていらつしやいましたとは、ついわたくしも存じよらなんだことでございます」とある。
とも角、勝家は單純だから主君の妹を三人の女の子つきでお嫁に貰つて幸福になれた。
いかにいはんや、この時おいち、卽ち小谷の方は三十六にして絕世の美女である。この年で美女ならほんとうの美女である。時に勝家五十三歲。しかも當然の歸結として彼は秀吉と戰はねばならなかつた。史家傳ふらく、秀吉も實は小谷の方に戀慕してゐたのだが、先輩勝家にしてやられたのであると。眞ならば卽勝家は秀吉の戀敵であつたのだ。賤ケ嶽の一戰に勝家やぶらる。天正十一年のことであつた。小谷の方は三人の女を秀吉の陣に送つて、勝家とともに自害して果てた。
秀吉は三人の女の子を引きとつた。長女ちやちやは母に劣らぬ麗人である。秀吉、しのびやかに迎へて山城の淀に住まはせた。卽ち淀君である。時に淀君二十三歲、秀吉は五十に近かつた。


次は武田勝賴の妻。
武田勝賴の妻は、小田原の北條氏康の女である。氏康は武田信玄と戰つて勝つてゐるが、政略のために武田に娘を、妾腹の子勝賴に娶らせたのだ。勝賴、必ずしも凡庸ではなかつたが父あつての諸將であり、諸將はよく統制に服しなかつた。しかも勝賴、よく信長に抗爭し、家康と戰つた。織、德聯合して武田に當つた。信長の軍に鉄砲隊の精銳あり、長篠の戰に武田軍潰ゆ。
勝賴はもう討死ときまつた時、妻の身の上を案じて、早く小田原にのがれるやうすすめた。妻はもとより聽き入れなかつた。黑髮を切つて小田原の實家に送つた。つけて送れる歌。
黑髮のみだれる世ぞ果しなき思ひにきゆる露の玉の緖
やがて勝賴討死と聞くや、持佛堂にこもつて合掌念佛し、自刄して果てた。よみのこした歌。
西を出で東へ行きて後の世に宿をしばしとたのむみほとけ
行先の賴みぞうすきいとゞしく心よはみか宿ときくから
のこりなく散るべき春の暮なれど梢の花の先立つぞうき


戰國時代の女性の鑑として、今の世に修身の敎材になつてゐるものに、山內一豐の妻がある。
一豐の祖先は藤原氏、田原藤太秀鄕の後裔である。のち分れて鎌倉の山內に住んだので山內姓を名來る。父は但馬守盛豐、尾州岩倉城主信安に仕え〔ママ〕、城の落城とともに落ちぶれて美濃、尾張のあたりをうろついた。その子が一豐である。
夫人が一豐に嫁した時は山內家の極貧時代で、爼のかはりに桝を伏せて底を使つた。その貧乏はよくよく骨身にこたへたらしく、のち、土佐二十五萬石の大名になる時、その桝を持つて土佐に行つた。今、高知市の藤竝神社に保存してある由。
一豐は秀吉に仕へ、のちに家康の臣となり、土佐に封ぜられた。振り出が二千石で馬の買へぬ身分ではない。然し父とともに落魄した時代に工面してまで馬をほしがることもなかつただらうから仕官初期のことであらう。妻の鏡函に仕舞つてゐた金は十兩である。戰國時代、諸大名は領內に傳馬制度を設けて、貢物の輸送にも用ゐたから馬も容易に手に入らなかつた。いかにいはんや、一豐のほしがつたのは奧州產の名馬である。しかし、十兩はしなかつただらう。一豐の妻はそのお金を良人の大事に時に備へてゐた。もちろん、買ったものが馬であつても鎧であつてもよかつたのである。彼女はまた小切をぬひ合せる手藝にもすぐれ、作品を宮中に獻納したことがある。
 

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