日本女性美史 第二十六話

二十六話 編集

明治時代の女性(一) 編集

「女大學と云ふ書に、婦人に三從ふの道あり、稚(おさな)き時は父母に從ひ、嫁入る時は夫に從ひ老ては子に從ふ可しと云へり。稚き時に父母に從ふは尤もなれども、嫁入りて後に夫に從ふとは如何にしてこれに從ふことになるや。その從ふ樣を問はざる可からず。女大學の文によれば、亭主は酒を飲み、女郞に耽り、妻を罵り子も叱りて、放蕩淫亂をつくすも婦人はこれに從ひ、この淫夫を天の如く敬ひ、尊び、顏色を和らげ、悅ばしき言葉にてこれを異見す可しとのみありて、その先きの始末をば記さず。(中略)佛書に罪業深き女人と云ふことあり。實にこの有樣を見れば、女は生れながら大罪を犯したる科人に異ならず。また一方より婦人を責ること甚だしく、女大學に婦人の七法とて、淫亂なれば去る、と明らかにそのお裁判を記せり。男子のためには大に便利なり。あまり片落なる敎えならずや。畢竟男子は强く、婦人は弱しと云ふ所より、腕の力を本にして、男女上下の名分を立てたる敎なるべし。
またここに妾の議論あり。世に生るゝ男女の數は同樣なる理なり。西洋人の實驗によれば、男子の生るることは女子よりも多く、男子二十二人に女子二十人の割合なりと。されば一夫にて二三の婦人をめとるは固より天理に背くこと明白なり。これを禽獸と云ふも妨なし。父を共にし、母を共にする者を兄妹と名づけ、父母兄弟共に住居する處を家と名づく。然るに今、兄弟父を共にして母を異にし、一父獨立して衆母は群を成せり。これを人類の家と云ふ可きか。家の字の儀を成さず。たとひその樓閣は巍々たるも、その居室は美麗なるも、余が眼を以てこれを見れば、人の家に非ず、畜類の小屋と云はざるを得ず」
これは、明治七年四月に出版されたる、福澤諭吉著はすところの「學問のすすめ」第八編の中から抄錄したものである。「學問のすすめ」は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と云ふ一句をもつて初まり、封建制度の嗅味いまだ拔け切らぬ明治の初年において、天より與へられた人間の權威を說いた名著であつて、日本全國津々浦々まで、老若男女賢愚貧富の間に愛讀された。賢人富豪の徒、讀んでここにいたつて顏を赤らめぬはなかつた。多分、この編だけは妻に見せなかつたであらうと思はれる。
まことに、明治の聖代に入つて、人々は直ちに陛下の赤子たることに目覺め、やがて大政に翼贊しまつることを念とするにいたつた。男子ばかりでなく、敎養ある女子の間にも憂國の志を抱き、經世の計を論ずるものが少なくなかつた。例へば、國繪開設前において黨派意識の最もさかんなりし土佐の高知では、女も手拭に國繪請願の文句などを染めた手拭を下げて錢湯に行き、板垣退助の運動を批判したりなど、なかなかさかんなものであつた。
明治十年代の末まで人心のむかふところはこのやうであつた。この時代には政治小說が多く世に出たが、その中には女性政治家の活躍する場面が珍らしくなかつた。
しかも、明治女性の覺醒は、先覺者福澤諭吉の平明無双の名文のほかに、更に、淸新潑剌たる文章によるキリスト敎主義の女性文化高揚に負ふところ大であつた。明治女學校長岩本善治が主宰する「女學雜誌」は卽ちその機關であつた。その愛讀者の一人であつた島田嘉志子は遂に岩本の妻となり、若松賤子の筆名で多くの翻譯と創作とを公にした。
女學校の最初に設けられたものは、明治五年設立の東京女學校で、その科目には英語を加へられた。英語は幕末までの唯一の西洋語であつたオランダ語にかはつて、歐米の文化をとり入れる方便として非常な勢でひろめられ、女學校の正科となつたのである。神戶のミツシヨン・スクールである神戶女學院では、數學、理科などもたいてい英語の敎科書によつてアメリカ人敎師が敎へた。五年ごろの女學生風俗は、頭髮は昔ながらの銀杏返しに結び、在來の幅廣の大帶をお太鼓に結んだ上に、男の袴を着け、駒下駄をはき、洋傘を手にした、異樣の風俗であつた。洋風はあらゆる方面に無批判、無反省にとり入れられ、昔ながらの日本の美術、建築、風俗はすべて惜しむことなく棄てられた。明治五年の「雜誌」に、府下(東京)異風變態二十種が擧げてある。その中に、婦人ジヤンギリ頭、婦人着袴乘馬、少女着袴洋書、などと云ふのがある。
女子敎育はそののちに、明治時代において長足の進步をした。ことに、民間にあつて、下田歌子、棚橋絢子、嘉悅孝子、山脇房子、その他多くの女流敎育家が私立女學校を建て、また、成瀨仁藏や安井哲子や津田梅子が女子專門敎育につくしたことは、明治時代の女子敎育における大なる功績とすべきである。


世相としての明治初年には何となく落ちつきを缺いでゐたが、このうちにこもれる進取の精神、更に大きく云へば、世界とともに進まうとする意氣込は、人々の心に燃えさかつてゐた。
然し、まことに人間が目覺めるためには、內なる心に萠す「我」の自覺を藝文の上に表現して、われ人ともにまことの人間を鑑賞せんとするその氣構へと技巧とが大切であつた。新日本には新しい文學が伴はなければならなかつた。そのためには先づ、文學の精神を、戲作的なもの、國士的なものから引き上げて、人間再現の新段階にのぼらせねばならなかつた。而して、その手引となつたものは坪內逍遥の「小說神髓」であつた。「小說神髓」中の「小說の主眼」の中に彼は說く。
「小說の主腦は人情なり。世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩腦これなり。夫れ、人間は情慾の動物なるから、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾をもたぬは稀なり。(中略)されども智力大に進みて、氣格(きぐらゐ)尙なる人にありては、常に劣情を包み、かくして外面(おもて)にあらはさざればさながらその人、煩腦をば全く脱せしごとくなれども、彼れまた有情の人たるからにはなどて情慾のなからざるべき」
このやうな人情を主眼とする小說はまた、次のやうな文學的方法によつて描かれるべきものであつた。
「されば小說の作者たる者は、專らその意を心理に注ぎて、わがつくりたる人物なりとも、一度篇中にいでたる以上は、これを活世界の人と見なして、その感情を寫しいだすに、敢ておのれの意匠をもて善惡邪正の情感を作り設くることをばなさず、只傍觀してありのまゝに模寫する心得にてあるべきなり」
この小說論にあらはれた明治十八年までの小說には、政治小說「經國美談」(西洋史に題材をとる)や、低級卑俗の筋を追ふ、世間噺めいた通俗小說(例へば明治十六年に出た「月行き花戀路の踏分」のやうなもの)が一ばん愛讀されてゐた。而して、逍遥の說くやうな小說は、逍遥自身によつては作られなかつた。作つてはみたがうまく行かなかつたのである。そして、男では二葉亭四迷、二十年に「浮雲」を出して、いふところの「活世界の人」をありのままに描いて見せた。つづいては、逍遥、紅葉、鏡花、柳浪など、いづれもその代表作を公にしてゐた。
 

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