日本女性美史 第二十七話

二十七話 編集

樋口一葉 編集

さて女では――。
ここに一代の天才が現はれて、明治女性のために不滅の塔をきづきのこした。それは樋口一葉であつた。
樋口一葉は明治五年、東京の麴町山下町東京府廳官舍に生れた。父則義、母瀧子、ともに山梨縣の人である。則義、事業に失敗して二十三年に長逝したのちは、貧困の生活をつづけた。はじめ、歌を中島歌子の歌塾に學び、のち小說に精進して、二十九年一月、代表作の一つである「たけくらべ」が「文學界」から(前年、二十八年一月から十二月まで、「文學界」に連載された)「文藝俱樂部」に轉載されるにおよび、文壇の人氣を一身にあつめた。これより先、二十八年に、すでに他の二つの代表作、「にごりえ」と「十三夜」とは公表されてゐたのである。そして、二十九年の十一月二十三日には、もう病沒した。「たけくらべ」は一葉が一時住んでゐた下谷龍泉寺町の界隈を舞臺にした小說である。この作を、鷗外、露伴、綠雨の三人が匿名で合評した中から、どうも鷗外と思はれる「第二のひいき」の評語の要處を引いて、この作のすぐれてゐることをしのぶとしよう。
「大音寺の前とはそも〱いかな所なるぞ。いふまでもなく賣色を業とするものの群りすめる、俗の俗なる境なり。この作者がその物語の世界をここにえらみたるも別段不思議なることなからん。唯だ不思議なるは、この境に出沒する人物の、ゾラ、イプセン等の寫し慣れ、所謂自然派の極力模倣する、人の形したる畜類ならで、吾人と共に笑ひ共に哭すべきまことの人間なることなり。われらは作者が捕へ來りたる原材と、その現じ出したる詩趣とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われはたとへ、世の人に、一葉崇拜の嘲を受けんまでも、此人まことの詩人といふ稱をおくることを惜まざるなり。「たけくらべ」出てまた大音寺なしといふべきまで、彼地のロオカル・コロリツトを描寫して、何者の窘迫せる筆痕をも止めざるこの作者は、まことに獲易からざる才女なるかな」
「にごりえ」は、お力と云ふ酌婦の心の惱みを中心として、銘酒屋の女の生活、お力に戀しておちぶれた源七の生活などを描いたもので、女性描寫にきわだつた才のひらめきを見せてゐる。やはりお力を好いて通ふ結城と云ふ男の前で大酒あふつてわが身の上を述懷するくだりを讀まう。
「何より先に我が身の自墮落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘ならねば、少しは察して居て下さらうが、口綺麗な事はいひますとも、此あたりの人に泥の中の蓮とやら、惡業(わるさ)に染まらぬ女子があらば、繁盛(はんじよう)どころか見に來る人もあるまじ、貴君(あなた)は別物、私がところへ來る人とても、大抵はそれと思し召せ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるにいつそ九尺二間でも、きまつた良人といふに添ふて、身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出來ませぬ、それかと言つて來るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの見初めましたのと出たらめのお世辭をも言はねばならず、數の中には眞にうけてこんなやくざな女を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいが、添ふたら本望か、それが私はわかりませぬ。そも〱の最初(はじめ)から、私は貴君(あなた)が好きで好きで、一日お目にかゝらねば戀しいほどなれば、奧樣にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるのは厭なりよそながら慕はしし、一口に言はれたら浮氣者でござんしよう。あゝこんな浮氣者には誰がしたと思し召す」
文調はこの社會の女の持つた言葉ではなく、一葉の人柄と文品とがうすもののやうにかかつてゐる。一葉がもし銘酒屋の女に一ど身を落してゐたなら、こんな生ぬるいお上手は書かなかつたにちがひない。鷗外もこの社會を知らないから一葉を詩人にまつり上げた。
一葉の文學についての後世の批判はもつと嚴肅である。湯地孝氏の「樋口一葉論」によると、「一葉の文學はその中にこめられてゐる思想に何の創見があるといふのでもなく、その中に含まれてゐる趣に何の奇異があるといふのでもない。只、社會生活の一局をとらへて世俗にありふれた平凡なことを書いたまでである」とし、(もちろん表現その他においてすぐれたことを十分みとめて)「暗愁を含んだ可憐の文學で」であるとした。
一葉自身、當時の名士、文人たちに親しまれ、圍繞されてゐた。のちに代議士になり損ねたが敎育評論家として盛名ありし樋口勘次郞のごときは、「われ勿體なく君をこひまつること幾十日、たちがたき思ひ日ましに增さりて」と、めんめんたる情緖を書いて送つたのが、あはれや日記にそのまま書き寫されて、百世にわたり氣の毒がられてゐる。思へば勘次郞ぬしも純であつた。
小說、日記、隨筆のほかに、持ち味すぐれてよろしきは「通俗書簡文」の文例である。平凡な題の下にこまやかな人情をのべたる完璧の書簡文ばかりである。
最後に樋口一葉については、湯地孝氏の「樋口一葉論」が國文學硏究叢書の第六編として出てゐる。一葉硏究の第一の文獻である。私はこの一項は同書を參考とした。
 

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