日本女性美史 第二十八話

二十八話

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奧村五百子その他

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さて、明治日本は政治的にも國際的にも躍進を重ねて目ざましく發展した。日淸戰爭ののちに北淸事變があり、東亞の舞台に歐米强國の兵と伍して、はるかに兵力の强いことを示した。この北淸事變をゆかりとして、女性愛國の大運動を起した人物がある。その人物の名は奧村五百子。
奧村五百子は弘化二年、肥前唐津の高德寺に生れた。父はその寺の奧村了寬、僧侶ながら志士と交はつてゐた。五百子は幼ない時から男まさりであつた。女が人から男まさり、と云はれると、その評判を保つために男らしく振舞ふものである。五百子のは天性であつた。その五百子にも失戀があつた。二十前後のことである。藩中一の美丈夫に戀ひこがれある日、その美丈夫をとらへて切なる思ひを打ちあけ、かき口說いた。美丈夫は右手を自分の鼻先にもつてきてはげしく打振り、どもる口をもぐもぐさせてゐたが、やがて頓狂な聲を出して、
「ま、ま、まツぴら!」
とやつた。
彼女の結婚生活は幸福でなかつた。
明治十年の西南戰爭では、三十三歲の五百子、同志とかたらひ、西郷のために火藥まで用意したが、時の縣令五百子の一味をだまして火藥を沒收したので、五百子も賊名を被ずにすんだ。
三十一年、五十四歲、彼女は朝鮮全羅南道の光州に、九州からの移民をつれてわたり、次女の光子の良人奧村時太郞が農業學校出身であるのを同伴して、農事を起し、實業學校を建てる計畫であつた。これには近衞篤麿公(現文麿公の公ママ[# 1])、小笠原子爵、大谷光演師が後援した。五百子は病んで、後事を人に托し上京した。そして三十三年一月、南淸(淸國)視察に出かけた。六月釜山から軍艦宮古(艦長八代六郞)に乘つて佐世保に歸つた。女で一個人として軍艦で旅をしたのは奧村五百子だけである。軍艦で水兵に支那、朝鮮の情勢を說き、「阿彌陀佛と俱(とも)にある者は死を恐れず」と佛の道を說いた。
この三十三年の淸國旅行において、五百子は北淸事件中わが將兵のいかに勞苦に耐えてゐるかを見た。歸國するや、彼女は戰死者の遺族のために、全國から主として女性のれいさいな金を集めて慰安の途を講じようと念願した。その募金の方法としては彼女自身街頭に呼びかけて、「半襟一掛の代の御寄附を」求めることとした。九段坂下に愛國婦人會の事務所が設けられた。五十七歲の五百子は切下げ髮、黑の木綿の被布、左手に珠數のいでたちで連日通行人に呼びかけ、日本陸戰隊の勞苦を說き、「半襟一掛」の代を寄附せよと說いた。更に全國行脚に出かけた。宿は東本願寺の末寺、泊り料五十錢ときめてゐた。
三十七、八年の日露戰爭の時は會員七十萬を突破し、軍隊の觀送迎、戰死者遺族の弔慰に女性ばかりの報國運動をつゞけた。
明治三十七年、皇室の御下賜金をいただいた。
日露戰後は戰跡をとぶらつた。
三十九年十一月、五百子は愛國婦人會本部から隱退し、唐津に歸つて靜養したが、四十年二月七日、六十三歲で沒した。特旨をもつて正七位に叙せられた。


明治の女性にして、信仰によつて國のために盡した者は、ひとり奧村五百子にとどまらない。
熊本が生んだ女傑矢島揖子は女性クリスチヤンとして國民の純化に努力したる一大先覺者である。明治十九年に日本キリスト敎婦人矯風會を創設し、廢娼に、禁酒禁煙に、熱烈なる信仰の活動をつづけた。小崎千代、守屋東、久布白落實などがその協力者であり、後繼者であつた。


佛敎の方では瓜生岩女がある。岩代國の貧家の女であつた。良人と母とに死別してから佛樣の力にすがつて貧しい人々を救ふことに心身を投げ出した。明治二十一年、磐梯山の大噴火で五百人も生埋になつた時、彼女は大供養を催し、永代供養塔を建立した。さうして、明治二十五年に、福島において瓜生會を組織し、二十六年福島育兒院をつくり、次で高貴の御婦人の御援助をたまはり、女官などの後援もあつて、私立濟生病院を設立した。
明治二十九年五月には藍綬襃章を賜はつた。三十年病臥するや、長くも皇后陛下の御內意によつて御菓子を賜はつた。この年、六十九歲で永眠した。死の二日前にのこした歌。
老いの身のながからざりし命をも助けたまへる慈悲のふかさよ
彼女の死後四恩瓜生會が組織され、その像は淺草公園に建てられた。つつましやかに座つて生きた鳩と子供を眺めてゐる。


村雲尼公は信仰婦人の巨大なる一の存在にておはす。伏見宮家の王女にましまし、安政二年の御誕生である。日露戰爭の時には、尼公は日本赤十字社京都支部篤志看護婦支會長として、布敎師派遣に盡力された。
村雲婦人會はこの戰役中、佛敎による婦人修養の機關として組織された。爾來、御みづから巡回敎化に力をつくされ、多くの人々をお救ひになつた。遷化遊ばされたのは大正九年三月二十二日である。

注釈

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  1. 父の誤植と思われる。
 

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