日本女性美史 第二十五話
二十五話
編集- 幕末。
- 多くの國士、志士、烈士、劍士が入り亂れた。その蔭に多くの賢母、烈婦があつた。藝者もあれば尼もあつた。
- 維新を題材とした映畫を見ると、幕末の女は悉く美人である。もちろん、男は七割以上美男である。
- ここに、私は、維新の蔭にあつて勤王のために盡した女性を、ただ一人だけ記すであらう。撰まれた女性の名は野村望東尼。
- 彼女は初の名はもとと呼ばれた。父は福岡藩の人で、浦野十兵衞勝幸と云ふ。もとは幼ないころから悧發で、和歌を好み、大隈信道について歌學、習字を修めた。二十四で同藩士の村新三郞貞貫に嫁したが、五十四歲の時良人に死別した。剃髮して野村望東尼と稱した。望東尼の活躍を語るに當つて、時勢を大觀しておかう。
- この時、日本は內外多事であつた。アメリカの開港要求はいよいよ銳く、幕府はいまだ通商條約締結の敕許を得てゐない。井伊大老、獨斷をもつて調印し、あとになつてその旨を上奏した。大老は自分に反對の公卿、藩主、藩士を多く處罰した。安政の大獄である。天下騷然たり。水戶の志士、井伊大老を櫻田門外に斬つた。井伊大老に代つて立てる老中安藤信正は、公武合體でこの難局を打開しようとした。それには、朝廷の御威光を借り奉らねばならぬ。そこで將軍家茂のために、皇妹和宮親子(かづのみやちかこ)內親王の御降嫁を奏請した。
- 朝廷では初めこの奏請を御聽許にならなかつた。幕府は必死の努力をつづけた。岩倉具視この間に立つて至誠よく議をまとめ、遂に朝廷の御聽許となつた。文久二年三月、和宮御年わづか十五歲にして、十四代將軍家茂に御降嫁あらせられた。それから五年ののち、慶應二年に家茂は沒した。この五年間、和宮は眞に日本婦人の鑑として、上下の尊信を受けさせられた。將軍の形見として西陣織物が屆けられるや、和宮はこれを抱いて泣きくづれたまひ、
- 空蟬の唐織衣何かせん綾も錦も君ありてこそ
- と詠じたまふた。
- さて話はもとにかへる。望東尼は和宮御降嫁のことを傳へ聞いて、その御有樣を拜しようと、福岡から京都にのぼつた。海路、風すさまじく、船がおくれたため拜することができなかつた。そこで新町上立賣北の比喜多氏に寄寓して名處舊蹟を探つた。比喜多氏の分家の文英、望東尼を案內しながら大に國事を談じた。望東尼の見聞するところまた一として慷慨の種ならぬはなかつた。望東尼は翌年歸國したが尊王の念は抑えることができない。筑前の平尾村の山莊に住んで志士と交はつた。同藩の志士すべてこの山莊に會合して國事を謀つてゐた。
- 長州の騎兵隊長高杉晋作、潘中の幕府にしたがはんとする一派と爭ひ、身邊危ふくなつたので、國を脱して筑前にのがれ、望東尼の好意によつてこの山莊にかくれた。晋作を狙う者山莊をうかがふを知つてひそかにのがれ出た。のがれるに際して望東尼は新調の羽織と袷と襦袢をはなむけとした。寸法はきちんと合つてゐた。それにつけて贈れる歌。
- 惜しからぬ命長かれ櫻花雲井に咲かむ春ぞ待つべき
- 晋作卽ち一詩を賦してこれに答へた。
- 自ら愧ず、知君我狂を容る
- 山莊に留寓して更に情を深うす
- 浮沈十歲杞憂の志
- 閑雲野鶴の淸きに若かず
- 時に、福岡藩內にも、幕府に恭順ならんとする一派が臺頭して、多くの志士を捕へたがその際、望東尼もその家に幽閉せられた。次で同國志摩郡姬島に流された。望東尼、姬島にあつて同志概ね刑死したと聞き、指を刺して血をしぼり、般若心經を書寫し、自詠の和歌を添へてひそかに同忘の遺族にわかち贈つた。その歌の一つ二つ。
- おくれ居て書くもかひなし法(のり)のふみよみがへりこむ傳(つ)てならなくに
- 御世のため心つくしのもののふのいのちにかはるわが身なりけり
- 慶應二年九月、高杉晋作は長州の藩論が討幕に一定したのに安心したが、思ひ出ふれば筑前にのがれてゐた間に望東尼から受けた好意はなつかしかつた。今、聞けば、彼女は姬島に流されの身と云ふではないか。晋作、姬島を襲ふて望東尼を奪ひ、馬關にとどめて歡待した。しかるに望東尼は三年十月病床につき、遂に六十二歲で沒した。
- 辭世
- 花浦の松の葉白く置く霜と消ゆればあはれひとさかりかな
- 雲水の流れまどひて花浦の初霜とわれふりて消ゆなり
- 辭世
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