新約聖書譬喩略解/第六 眞珠を尋るの譬
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第六 眞珠 を尋 るの譬
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また
- 〔註〕この
譬 と前 の譬 とはよく似 たれどもその意味 同 じからず前 の譬 は意 なく偶然 宝 を見 出 せるなり此 譬 は求 むる心 あるによりてわざわざ尋 てこれを得 るなり意 なく宝 に遇 て之 を得 るはサマリアの婦 井 の辺 にありて水 を汲 み居 たりしに偶然 イエスに遇 ことを得 てこれこそ眞 の基督 たるを信 ずるが如 し〔約翰 四章〕求 むるに心 ありて往 て尋 るはポーロの少 き時 邪説 を闢 き正 しき道 を崇 ぶことを急 務 となせしが後 に救主 を見 てはじめて眞 の神 たるを悟 るが如 きなり また此 譬 と前 の譬 とはユダヤと異 邦 との如 し異 邦 の人 は救主 あることを知 らざりしが後 に至 りてイエスの弟子 諸国 に分散 して四方 に傳道 せしに因 ておほくは図 らずその教 を聞 ことを得 たり ユダヤの人 は日 毎 に救主 の世 に臨 みたまふを待 て後 に漸 くイエスの言 たまふこと行 たまふことを見 て信仰 するものもあれど大半 は律法 に由 るの功 を捨 ることあたはずして一心 に之 に頼 れるなり故 にポーロ曰 く義 を追求 めざる異 邦人 は義 を得 たり是 れ信仰 による所 の義 なり されど義 の法 を追求 めしイスラエルは義 の法 に追求 ざりき是 は行 によりて追求 めんとせし故 なりと〔羅馬 九章三十節三十一節〕これ前 の譬 とこの譬 との分 あることを知 るべし ここにいふ(商人 )は家 を出 て遠 く生意 を営 め他 国 と交易 する估人 を指 す家 に居 て家 業 を守 るの流 におなじからず好 て道 理 を論 じ人 と交遊 を結 ぶものに比喩 り黙 して安 ずるの輩 にあらず(好 眞珠 を尋 る)とは眞 の道 を求 むるを指 せり商人 はすでに美珠 を求 めんとするときはその心 専 これに属 してこの外 さまざまの錦繍 玉帛 ありともみな望所 にあらず唯 其珠 のよき上 にも尚 よき品 を求 め尋 て決 して苟 にも足 れりとせず眞 の道 を求 むるものは飢 渇 て義 を慕 ひ念々 これを忘 れず世上 の名利 紛華 をば問 に暇 なく日々 進 みてすこしなるに安 ぜざることにたとへり イエスのなくて叶 ふまじきものは乃 一 なりと〔路加 十章末節〕曰 たまへることあり されば眞 の道 を求 めんに世上 のさまざまの教 に眼 を注 ぐべからず世 のさまざまの教 を見 に其中 には善 こともなきにしもあらざれども或 は眞 理 に違 ひ或 は全 からず唯 イエスの道 は眞 にして且 全 き道 なり この一 を得 れば足 ることなり この外 の諸教 はみな深 く究 めざるべし かの珠 を尋 るもののすでに一 の好 眞珠 を得 れば其餘 の珠 はみな軽 んじて望 まざるが如 きなり独 イエスの道 はよく我 霊魂 を慰 め今生 に心中 の安 きを得 来世 に天国 の福 を得 せしめたまへり人 この貴 宝 の珠 なるを知 れども盡 く其 所有 を捨 て必 ず之 を得 んことを願 はざるは誠 に惜 むべきにあらずや ユダヤのとしわかの者 きたりてイエスに永生 を求 めんことを願 へども産業 をすてて救主 に跟 従 ふことあたはざるが如 きなり〔馬太十九章十六節〕 ○この譬 に我 儕 を訓 へたまふ旨 二 あり一 は商人 の所有 をすてて好 眞珠 を得 ることを学 べきを示 せり イエスの曰 たまひけることに人 もし全地 を獲 るとも其 生命 を失 はば何 の益 あらんや人 まさに何 を以 て其 生命 に易 へんやと〔馬太十六章二十六節〕しからば我 儕 ポーロの世 の念慮 をすてて主 の功 をなすを学 べし此 のユダヤのとしわかのものを学 べからず恐 らくは我 儕 世 の務 を離 るることあたはずして終 に主 の前 を離 るることあらん一 は商人 の所有 を捨 ることの速 なるを学 べきことを示 せり イエスもとより世 に希 なる宝 にして時 もまた得 がたきの宝 なり緩々 として異時 を俟 て信 ぜんとせばその生命 おほからず死 するの期 近 よらんとす この機会 を失 はば悔 るも及 がたし聖書 に今 即 恩恵 の時 なり今 乃 救 の日 なりとありし〔哥林多 後書六章二節〕このことばは誠 に信 ずべきにあらずや